◆原爆予告を聞いた(2/2)
広島 宮本 広三 氏
玄関前の広場は、負傷者でいっぱいだった。
「痛い、痛い」と
叫ぶ者もいる。うめき声をあげている者もある。目が飛び出て下にたれている人、焼けどと爆風で全身の皮膚がボロぎれのように垂れ下がった人、オバケのように両手を上げた人~手を降ろすと、焼けどで赤身が飛び出たところがこすれて、痛いからである。歩ける者は道路へ出て逃げだしていく。
あちこちから . . . 本文を読む
◆原爆予告を聞いた(1/2)
広島 宮本広三氏
私の背中には、原爆をあびたとき飛びこんだガラスのはへんがある。ほお、額、あご、右手、背中と合計10回にわたって手術をしてもらったがまだ残っている。
あの日私は爆心地から東北1.2キロメートルの広島市内白鳥町の広島逓信局の監督課無線係に勤務していた。
広島逓信局は、中国地方5県の郵便局、電信局、電話局、船舶の無線検査、放送局などを監督しており、 . . . 本文を読む
太平洋戦争が終わった昭和20年の夏8月6日に広島、同9日長崎に原子爆弾が投下された。人類がかつて経験したことのない熱線、放射線、爆風により街は壊滅し、多くの人が死に、傷つき、その後も後遺症と原爆症に苦しめられた。
あの日、モールス通信や電報配達などに従事していた人々は、原爆とどう向い合い、一体どのように過ごしたのだろう。
これまで、同じ通信の仕事に従事しながら、そのような人達のことは殆ど何も知らなかったし、知ろうともしないで過ごしてきた。
本ブログを開設したときから、広島、長崎の先輩、友人に教えてもらったり、図書館などで調べたりしてきた。知り得たことは多くはないが、これから終戦の日までの2カ月間、それを何回かに分けて書いてみたい。
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