すずらんの丘ー落石(おっちし)無線局の想い出(2/3)
◆中西 研二
(3) 国境の町
根室は国境の町である。当時は東西冷戦時代で、夜7時過ぎになると、国後方面から強烈なサーチライトで照らされることもあった。無線局の近くに米軍のレーダー基地があり、そこに勤務している若い米兵が無線局へ来て、欧文電報の発信を依頼されることもあった。彼らの中には、文章を書けない者もいて、私が英文で代書を依頼されることもあった。
根室と国後の間に横たわる根室海峡は長さ約130km、一番狭いところでは約15kmである。1945年9月マッカサーラインが引かれた。この辺りは豊かな漁場で、日本の漁船も出漁することが多いが、ソ連の監視船によく拿捕され、国後まで曳航されていった。領海内で操業していても拿捕されることが多かった、すなわち、1946年6月に拿捕第1号が発生してから、1983年2月までにこの海域での拿捕数は93隻、556人にのぼった(羅臼町史)。
無線局(海岸局、船舶局)は国際条約で、毎時15分からと45分から、それぞれ3分間、沈黙時間(silent period)として、一切の送受信を行わず、中波500kHzのワッチ(watch:聴取)を義務付けられていた。私がその時間帯、ワッチをしていると、ソ連の無線局が国際条約に違反して電鍵を叩いていることもあった。彼らの電鍵は、押さえていると短点が自動的に出力される横型の電鍵で、短点の間隔が早いからすぐに分かる。自動的に短点が出力されるので、余分に短点が出力されることも多かった。
(4)すずらんの丘
北国の春は遅い。6月になると、原野の花が一斉に開く。局の近くに通称すずらん山と呼ばれる丘があり、数百メートルも近づくとすずらんのかぐわしい香りを感じた。一輪取って、宿舎に持ち帰り、コップに水をいれて挿しておくと、何日も部屋中にすずらんの甘い香りが漂っていた。
暖かくなったり、また寒くなったりと天候が一進一退する中で、道路は舗装されていないから常にぬかるんでいる。履くものはいつも長靴だ。冬は雪で当然長靴だから、一年のほとんどは長靴で過ごすことになる。
町の中心から桂木の無線局へ行く道には、道端に「ひば」のような針葉樹が、防風と道路の目印のために植えられていた。そのどれもが幹の途中から直角に近いくらい、東の方角に激しく曲げられて伸びていた。真冬の何日も続く猛吹雪がいかに激しいかをそれが物語っていた。
(5)弁天島
港を囲むように弁天島があった。ここは1792年ロシア皇帝エカテリーナ2世の命を受けた初の遣日使節アダム・ラクスマンが根室を訪れたとき、乗組員42名と8カ月を過ごした場所で、彼らは上陸後、家を建てて住んだといわれている。ラクスマンは大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)ら三人の漂流民の送還と通商交渉のため根室へ来て、幕府からの回答を待っていた。
光太夫は、伊勢白子の船頭。1783年1月、仲間16人とともに千石船「神昌丸」で、江戸へ向かう途中、遠州灘で遭難し、8カ月漂流の後、アリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着。その後、カムチャッカ半島を横断して、シベリアの港町オホーツクを経由して、約1,000キロ離れたヤクーツクへ着いた。そこで光太夫は博物学者キリル・ラクスマンに会い、その協力を得て首都ペテルブルグまで行って、エカテリーナ2世から日本への帰国許可を得た。ペテルブルグから逆ルートで日本へ向かい、根室経由で江戸へ着いたとき、残っていた仲間は光太夫と磯吉の二人だけだった。それは遭難してから10年後の1793年9月。地球を一周するほどの往復約4万キロにのぼる苦難に満ちた旅であった。光太夫は、キリルと別れるとき、地面にひれ伏してキリルの足を抱き、涙してその深い恩に感謝したという。アダム・ラクスマンはキリルの次男である。
アダム・ラクスマンと大黒屋光太夫が来航したとき、当時の根室はアイヌと少数の和人が暮らすだけだった。急報を受けた松前藩と幕府から派遣された役人も根室へ来て、日本人は数十人となり、半年あまり友好的に暮らした。日本初のロシア語辞書は根室で得られた知識を基に編纂された。ラクスマンは日本の役人たちに紅茶をふるまい、結氷した根室湾でスケートを披露した。ともに日本初とされる。(『ロシア極東 秘境を歩く』相原秀起:北海道大学出版会)。
大黒屋光太夫とラクスマン来航については、旭川出身の井上靖『おろしや国粋夢譚』、吉村昭『大黒屋光太夫』で描かれている。(『北海道歴史散歩』山川出版社)。
無線局の夏のレクリエーションで弁天島へ行った。往復とも手漕ぎボートだったが、帰りのボートが弁天島を離れてすぐ、横波を受けて、ボートが傾いた。ボートには、私とM先輩とM先輩の高校生の妹の三人が乗っていたが、「キャー」といって高校生が立ち上がったため、ボートは大きく傾き、ひっくり返ってしまった。三人ともあっという間に海に投げ出された。服を着ているから体の自由が利かず、水の中でもがいていたら、そのうち何とか元の岸に戻ることができた。水の中で、これまでの人生の映像が次々と脳裏に浮かんできた。死ぬのではないかと思った。
(6)濃霧(ガス)の夏
根室を含む道東の夏は、本州と異なり濃霧の夏である。オホーツク海流と黒潮が沖合でぶつかるため、濃霧が発生する。濃霧が発生すると、日照時間が少なくなり寒くなる。雪が解けて春だと喜んでいると、もう霧の季節になる。納沙布岬沖合で発生した濃霧は「キリ」と呼ばれず、「ガス(海霧)」と呼ばれ、さらに霧が濃くなると「ジリ」という方言で表現されるように、冷たくべとべとした霧雨である。
夏でも宿直の夜はストーブが欠かせない。受信所にテニスコートが設けられていたが、濃霧の中で打ち合うと、軽い軟式の球だから、打球は霧の水滴でカーブしながら飛んでくる。霧がほんとうに濃いときには、相手方がよく見えないくらいのときがある。
テニスは2代目鈴木甚太郎局長(1910年~1920年)の時代に、人里離れた落石岬で仕事をしている局員が他に何の楽しみもないために、手作りで整地してつくったのが始まりだった。コートが手作りのため、球のバウンドが不規則に跳ね、受けた打球をうまく返せないことも多かったという。以後、根室市に受信所を開設したときにも、落石送信所と同様、テニスコートが設けられた。
(7)温根沼(おんねとう)
メーデー(5月1日)に、温根沼へカジカ釣りにいった。温根沼は周囲15km、野付半島の付け根に位置し、西隣にある風連湖と同じく汽水湖(きすいこ)で、根室湾に面している。地元でカジカと呼ばれるアンコウのような魚だが、共食いをするので、最初に釣り上げたカジカを刻んで餌にすると、いくらでも釣れた。帰ってきて収穫を自慢していたら、労働組合の分会長のM先輩から「メーデーの日にデモに行かずに、なぜ釣りに行ったのだ」と大目玉をくらった。
釣ってきたカジカで寮母のSさんに三平汁をつくってもらった。三平汁は北海道の郷土料理で、松前藩賄方、斎藤三平の創案で、本来は、鮭やニシンを野菜と一緒に塩で味付けした煮込料理のようだ。しかし実際には地元でとれた魚はどんな種類でもよいらしい。Sさんの三平汁にはいつもジャガイモが入っていて、とても美味しかった。Sさんは国後島では漁場で働いていたようで、魚料理が得意だった。
8月サンマ漁が解禁になったので、港へ行って、サンマが漁船から巨大な網で吊り上げられるところを見ていた。サンマは、近くの缶詰工場へ運ぶためのトラックへ野積みされていたが、網からこぼれたサンマがトラックの荷台の周りにばらばらとこぼれた。作業をしている漁師さんが私に「好きなだけ持っていけ」というので、持ちきれないくらいのサンマを持って独身寮へ帰り、Sさんに料理してもらった。何日もとろ火で煮込まれたサンマは、骨まで柔らかかった。
私には経験がなかったが、局の裏の海岸に、氷下魚(こまい)という鱈科の小魚が海辺に打ち上げられることがあり、外に干しておくと、食べごろになり、それをストーブで焼いて食べるのだという先輩の話を聞いたことがある。根室地方では海面の氷に穴を空け釣るため、その名がついたといわれる。(つづく)
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