すずらんの丘ー落石(おっちし)無線電報局の想い出(3/3)
◆中西 研二
(8)根室を離れる
その年(1955)6月、中央電気通信学園高等部の試験があった。この年から受験資格が改められ、私のように無線通信科卒業後、半年間でも受験できるようになった。私は赴任前とは異なり、北海道の雄大で、豊かな自然やそこに住む人たちに魅力を感じていたから、特に受験したいという気持ちもなかったが、友人たちが受けようというので、自主性のない私は同調してしまった。友人たち8人と受験、私と無線通信科同期のTが合格し、根室での短かかった生活を終わることになった。
自主性がないといえば、無線通信科受験のときもそうだった。当時、私は鈴鹿電気通信学園普通電信科を卒業し名古屋中央電報局でモールス音響通信(有線)に携わっていたが、友人が無線通信科の募集要項を持ってきて、「受験しないか」というので、直ちに同意し、受験したのだった。鈴鹿電気通信学園普通電信科を受験したときも、当時間借りしていた東海電気通信局周知宣伝課に勤務していた家主が、募集要項をくれ受験しないかといわれたからだった。人生では目に見えない運命の糸で手繰られていることがあるものだ。
赴任前、私とTは納沙布岬を訪れた。そのころは、根室市内から歯舞村役場前まで、無蓋の気動車(内燃ガソリン車)が走っていた。乗客が乗る場所は無蓋貨車の荷台そのものだった。「根室拓殖鉄道」と呼ばれ、総延長15.1km、1929年の営業開始当初は蒸気機関車で、単線、軌間は762㎜、1959年(昭和34年)廃止された。納沙布岬で、望遠鏡で覗くと3.7キロ先にソ連占領下にある歯舞群島の貝殻島が見えた。ちょっと歩けばすぐ着くくらいの距離だが、果てしなく遠かった。
貝殻島周辺はコンブの好漁場で、戦後は旧ソ連に拿捕される漁業者が相次いだ。このため、1963年にソ連側に採取料を払って漁をする民間協定が結ばれた。
(9)落石、根室、根室と北方領土、1945年の日米ソの主な動き
① 落石
本稿を書くため、地元図書館へ行って、『落石無線電報局沿革史』を借用する手続きをしていたら、係の人が落石のことを「らくせき」と読んでいた。落石は古くは、ヲッチシ・オッチイシ・オツイシなどといわれ、アイヌ語からの当て字である。東北地方以北では、漢字地名はアイヌ語からの当て字が多い。落石は、アイヌ語のオクチシ(山の鞍部の意)に由来する。『角川 日本地名大辞典 北海道(上)』
ヲッチシは江戸期から見える地名。1890年(明治23年)落石岬に灯台設置。1895年には戸数37戸、166人を数え、岩手県、秋田県からの移住者が半数を占め、昆布を主とした漁業を営んでいた。
② 根室
古くは、ネモロという。地名の由来には諸説がある。アイヌ語のニイモヲロ(静かで樹木のあるの意)により、港内は波静かで、海岸部には樹木が生繁っていることにちなむ説と、ニノヲロ(ウニがあるの意)により、弁天島にウニがあることにちなむ説があげられている。その他諸説がある。『角川 日本地名大辞典 北海道(上)』
江戸期には、ネモロと呼ばれた。珸瑶瑁(ごようまい)水道を回ってネモロ側まで和船が入ってくるのは江戸中期以降である。1799年(寛政11年)幕府直轄となった。
1869年(明治2年)、国郡制設定により、北海道11か国のひとつとして、根室国(ねむろのくに)が設定され、開拓使の管轄となる。西は釧路国、北見国に接する。同年1882年(明治15年)開拓使が廃止され、根室県設置、1886年(明治19年)根室県廃止、北海道庁設置。
1910年(明治33年)、開港場に指定される。根室港は冬は氷結のため船が入らないが、歯舞群島、千島方面の出漁の根拠地、海産物の積出港であり、海上交通の中心として大きな役割をもっていた。1921年(大正10年)国鉄根室本線根室駅が開業した。
1945年(昭和20年)7月14日空襲により市街の80%が焼失した。
敗戦時、ソ連軍の参戦によりクリル諸島、国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島はソビエト連邦領有権主張領となり、戦後の島からの引揚者は推定で3,083所帯、1万6,500人であった。
③ 根室と北方領土(『ロシア極東 秘境を歩く』)
北海道東部の国後島や歯舞群島からロシア・カムチャッカ半島をつなぐ全長約1200キロの千島列島。大小30の島々と数々の岩礁からなり、総面積は約1万平方キロメートル。北千島はカムチャッカ半島南端のロパトカ岬と向かい合う占守(しむしゅ)島、千島列島二番目の大きさの幌(ほろ)筵(むしろ)島、阿頼度(あらいど)島、志(し)林(りん)規(き)島の四つの島からなる。中部千島は、磨勘留(まかんる)島から得撫(うるっぷ)島までの島々である。択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)、色(しこ)丹(たん)、歯(はぼ)舞(まい)群島のいわゆる北方領土は戦前の南千島にあたる。
千島列島北端の占守島とカムチャッカ半島との間に横たわるのは、占守海峡で幅12キロしかない。
千島列島についての日本とロシアとの間の国境線は、つぎのような変遷がある。
1855年の日魯通好条約に基づく国境線:択捉島から南が日本。
1875年の樺太千島交換条約に基づく国境線:占守島から南が日本。
④ 1945年の日米ソの主な動き
2月11日:米英ソによるヤルタ会談。ドイツ降伏後にソ連は対日参戦し、その見返りとして南樺太、千島を獲得するとの密約を交わす。
8月9日:ソ連が満州、11日から南樺太に本格侵攻を始める。
8月15日;日本がポツダム宣言受諾を発表(連合国への通知は14日)。ソ連のスターリンが北千島の占領作戦を命令。
8月16日:スターリンがトルーマン米大統領に対し、北海道の留萌―釧路以北の分割占領を認めるように要求。
8月17日:トルーマンがスターリンに対し、北海道半分の分割占領を認めないと通告。深夜にソ連軍が占守島北端に上陸を開始し、日本軍が反撃。
8月22日:北千島・幌筵島沖で日ソ両軍が停戦に調印。同日、スターリンが北海道上陸作戦を断念。南千島上陸作戦に転換。
8月28日:ソ連軍が択捉島に上陸。
9月1日:ソ連軍が国後島、色丹島、歯舞群島の占領に着手(5日までに完了)
9月2日:日本が降伏文書に調印。
(終わり)
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