◆海上公衆通信50周年(昭和33年)を迎えて(座談会)
・「九州電電」4,5月号に掲載された座談会記事。<座談会出席者名、末尾に記載>
・出典 長崎無線91年のあゆみ(その1)
1.お山の文化生活
西村:私は、大正13年(1924)に逓信官吏練習所の無線科を出て、6ヵ月後に大瀬崎電信局に赴任しました。当時は短波無線もラジオもなかった時代です。
無線局は、大瀬崎の海抜8百尺(242m)、町から徒歩1時間ほどかかる山のてっぺんに局舎があり、山の8合目どころに官舎が数十軒建っていた。
司会:大瀬崎というのは、五島列島の・・・
西村:離島なんです。長崎から長福丸という船に乗り、7時間くらいかかった。
山の上で一番感じたのは、無線人には自由な人間が多かったということです。
なぜかというと、局長はじめ局員の大部分が長い間、船舶勤務をやって、郵船、東洋汽船、大阪商船など、欧州航路、アメリカ航路あるいは豪州航路のような外国航路の経験者が多かった。しかもあの山の上で、局の事務机の上には外国の雑誌が山積みしている・・・今でいえばライフであるとか、アメリカ、英国あたりの雑誌がある。局で取っていたのではなく個人が買っておった。皆勉強しているなというのが第1印象でした。
当時はまだ真空管はなかった。送信機はクエンチド、スパーク式のもので、受信機は鉱石を使っていた。マルコーニが無線通信に成功してから30年くらいの頃ですから、あまり新式な機械はなかったですよ。生活は山の上でしたが、非常に文化生活をやっているつもりでした。
高岡:大瀬崎の開局当時の人員は、局長のほか、書記1名、技工1名、工手1名、小使1名の5名程度だったと記録にはあるますが・・・
西村:私がいたときは書記(無線通信係り)が7名おりました。それから書記補・・これが有線通信係りです。長崎と大瀬崎の間に海底ケーブルの係りが2名、それに技手が1名、工務員1名、職工3名、それに線路工員が1名、小使が3名いた。小使3名は多いのですが、飲料水がないですから、山の麓から担ぎ上げるためです。
高岡:山の上には大瀬崎局だけしかなかったのですか。
西村:無線局から降り立ったところに今でもある大瀬崎灯台があった。山の8合目に官舎があり、生活は大変でした。
ただ当時は給与が非常によかった。私は無線局で一番ビりの書記でしたが、俸給50円、僻地手当23円、無線有技者手当7円、計80円ももらっていた。
当時、玉之浦(現在の五島市玉之浦町)の小学校長が75円でしたから、校長よりも高給だった。
司会:何に使っていたのですか(笑)
西村:それはもう・・・(笑)玉之浦には当時料理屋が30数軒あった。なぜそんなに多いかというと、あそこは徳島からの漁師が出漁してくる。その根拠地だったせいで、彼ら相手の料理屋があって、非常に賑やかだった。
2.太平洋戦争中の思い出
高岡:大瀬崎はへんぴな交通不便なところで、業務上の設備その他の関係から昭和7年に、現在の諫早に無線局を移したわけですが、高山さんは、移転後の長崎無線に勤務されていますので、当時の模様をお話しください。
高山:私の長崎無線勤務は、太平洋戦争が始まった直後からで、非常に印象に残る思い出があります。
それは長崎無線の両側に、長崎市と大村市の海軍の飛行場があって、爆撃するのに、いつも長崎無線の上を飛行機が往復飛んで行った。他の局、例えば潮岬とか函館は爆撃を受けているのに、長崎無線は銃撃一つ受けなかったし、不思議に爆撃もされなかった。
今考えれば、ラジオ・ビーコンの電波に乗ってくるとか、そんな関係もあったろうと思いますが、これは終戦の連絡の手がかりに残したのではないか。
それで、8月15日終戦の詔書が発表されたら、すぐKPUという米国の無線局から呼び出してきた。その当時、僕が掛かっていたんですが、それに応答するか、しないか。判断に苦しんだものですから、上司の決裁を求めた。そのときは、応答するな、責任は持つ、ということでした。
その後、進駐軍は長崎無線にも再々やってきた来た。応答しなかったことでは、別になんということもなかったですけれども、あのとき応答しておれば、終戦連絡の命令などは長崎無線を経由していって、非常に重要なことになったろうと思いますがね。
3.海岸局は海・陸両用
司会:無線電報局の仕事内容は、わからない方も多いと思います。そのへんをひとつ・・・
西村:明治45年( 1912)5月16日に銚子無線局がわが国に初めて開設されて、その年に北の落石、紀州の潮岬、山口県の角島、それから五島大瀬崎と5つの海岸局ができた。船はどういう船に無線設備をつけたかというと、当時の北米航路の丹後丸・郵船、伊予丸、香港丸、いずれも香港からサンフランシスコ行きの航路につけた。
ところが明治45年6月、長崎と台湾間の海底ケーブルが切れたのです。そのとき、大瀬崎無線と基隆無線局(台湾最北端に設置した富貴角無線局をその後基隆市に移転、基隆無線局となる)が連絡しております。それが固定連絡のはじめで、大正元年6月と記録されている。われわれが大正11年に大瀬崎にいたときは、年に2回くらいケーブルが断線し、直ちに基隆とのケーブルの代用として、大瀬崎無線が大活躍をしている。
高山:その当時の設備では雑音が強かったようですね。
西村:長波です。短波がないから。長波というのは空電(かみなりの放電によって生ずる電磁波)に非常に弱い。
高山:鹿児島(海岸局)で無線の仕事をしていた頃、長崎が通信を始めると、あらゆる周波数を使っても妨害【注】して鹿児島は通信できなかったんです。だから、電報を打つのを止めってもらったこともある。妙な話ですが。
【注】この高山氏の発言の趣旨は、長崎無線の中波の電波があまりにも強力であったため時間帯によっては鹿児島海岸局では船舶からの電報受信ができないことがあり、長崎無線に一時送信ストップを依頼したこともあった、ということです。
当時、船舶側は468KHz、432KHz、425KHzの3波を持っていましたが、どの周波数に変更してもらっても長崎無線の強力な483KHzの電波により鹿児島海岸局の受信機がブロックされ受信不能になることがあったようです。(本(注)は、「妨害」の意味を、長崎無線を経験された渡部雅秀氏に教えていただいたので、参考に記入しました。<増田>)
当時、台湾線が切れると忙しかったが、台湾政府からいくらか報酬が出たので、嬉しい面もあった(笑い)。
4.通信圏 今昔
司会:一般の人が船に電報を打つ場合は、どういう風にしていたのですか。
西村:熊本で例えば天洋丸の乗客に電報を受付けると、船は香港、サンフランシスコ間の定期航路ですから、香港を出港すると、その船のスケジュールが前もって、船会社から通知されていた。通知が5枚も6枚も新聞紙のように送られてくるわけです。
そうすると、無線局では、スケジュールを見て、やがて自分の通信圏内に船が入ってくるのを待機する。すでに自分の通信圏を去ったと思えば、瀬戸内を行く船なら角島無線局に、土佐沖へ行く船なら潮岬無線に連絡する。そんな風にしていました。当時は通信できる範囲が非常に狭かった。
銚子無線局が天洋丸と初めて交信した時は、東京湾では連絡できず、東京湾を出て、その晩に30海里(5万5千km)沖で通信ができている。
その後、双方訓練されてもやっと百海里までしかしか通信できない時代が続いた。アメリカ航路の天洋丸の場合、横浜を出港して百海里まで通信をして、何も聞こえないまま、ホノルルの近く百海里になるとホノルル無線局と通信ができた。
ホノルルを出港して百海里が過ぎるとまた、サンフランシスコに近づくまでは、船の無線士は仕事がないという時代でした。
今(昭和30年当時)は、無線通信が普及しているから、例えばロンドンのテムズ川に船がいても長崎無線と連絡できる。
高岡:長崎無線局長さん、現在の短波によっている通信圏について、説明をお願いします。
亀山:まず、日本の海岸局で短波装置をはじめて使ったのは、昭和2年10月の落石無線です。昭和5年8月に銚子、長崎無線は昭和7年11月からで、いずれも5百ワットです。
現在は、一番遠方と通信できるのはブラジルの海岸です。それとロンドンのドーバー海峡です。テムズ、アフリカのケープタウン、ニューヨークは今のとこりできないが、ジブラタル海峡からニューヨークの途中までができる。相手に装置があれば、ほとんど全部できると言ってもいいくらいです。(その2につづく)
【座談会出席者名<肩書は座談会時の役職>】
西村 茂雄 第17代長崎無線局長(福岡中央電報局長)
亀山 恒音 第19代 同 上 (長崎無線電報局長)
高山 長 第20代 同 上 (大分無線電報局長)
司会 九州電電編集部
◆出典 長崎無線91年のあゆみ
発行日 平成11年1月16日
発 行 NTT長崎無線電報サービスセンタ
編 集 NTT長崎無線電報サービスセンタ編集委員会
印 刷 (株)昭和堂印刷
(付記)文中のカッコ書きは、出典にはないが、参考に用語の意味等を簡記しました(増田)。
・「九州電電」4,5月号に掲載された座談会記事。<座談会出席者名、末尾に記載>
・出典 長崎無線91年のあゆみ(その1)
1.お山の文化生活
西村:私は、大正13年(1924)に逓信官吏練習所の無線科を出て、6ヵ月後に大瀬崎電信局に赴任しました。当時は短波無線もラジオもなかった時代です。
無線局は、大瀬崎の海抜8百尺(242m)、町から徒歩1時間ほどかかる山のてっぺんに局舎があり、山の8合目どころに官舎が数十軒建っていた。
司会:大瀬崎というのは、五島列島の・・・
西村:離島なんです。長崎から長福丸という船に乗り、7時間くらいかかった。
山の上で一番感じたのは、無線人には自由な人間が多かったということです。
なぜかというと、局長はじめ局員の大部分が長い間、船舶勤務をやって、郵船、東洋汽船、大阪商船など、欧州航路、アメリカ航路あるいは豪州航路のような外国航路の経験者が多かった。しかもあの山の上で、局の事務机の上には外国の雑誌が山積みしている・・・今でいえばライフであるとか、アメリカ、英国あたりの雑誌がある。局で取っていたのではなく個人が買っておった。皆勉強しているなというのが第1印象でした。
当時はまだ真空管はなかった。送信機はクエンチド、スパーク式のもので、受信機は鉱石を使っていた。マルコーニが無線通信に成功してから30年くらいの頃ですから、あまり新式な機械はなかったですよ。生活は山の上でしたが、非常に文化生活をやっているつもりでした。
高岡:大瀬崎の開局当時の人員は、局長のほか、書記1名、技工1名、工手1名、小使1名の5名程度だったと記録にはあるますが・・・
西村:私がいたときは書記(無線通信係り)が7名おりました。それから書記補・・これが有線通信係りです。長崎と大瀬崎の間に海底ケーブルの係りが2名、それに技手が1名、工務員1名、職工3名、それに線路工員が1名、小使が3名いた。小使3名は多いのですが、飲料水がないですから、山の麓から担ぎ上げるためです。
高岡:山の上には大瀬崎局だけしかなかったのですか。
西村:無線局から降り立ったところに今でもある大瀬崎灯台があった。山の8合目に官舎があり、生活は大変でした。
ただ当時は給与が非常によかった。私は無線局で一番ビりの書記でしたが、俸給50円、僻地手当23円、無線有技者手当7円、計80円ももらっていた。
当時、玉之浦(現在の五島市玉之浦町)の小学校長が75円でしたから、校長よりも高給だった。
司会:何に使っていたのですか(笑)
西村:それはもう・・・(笑)玉之浦には当時料理屋が30数軒あった。なぜそんなに多いかというと、あそこは徳島からの漁師が出漁してくる。その根拠地だったせいで、彼ら相手の料理屋があって、非常に賑やかだった。
2.太平洋戦争中の思い出
高岡:大瀬崎はへんぴな交通不便なところで、業務上の設備その他の関係から昭和7年に、現在の諫早に無線局を移したわけですが、高山さんは、移転後の長崎無線に勤務されていますので、当時の模様をお話しください。
高山:私の長崎無線勤務は、太平洋戦争が始まった直後からで、非常に印象に残る思い出があります。
それは長崎無線の両側に、長崎市と大村市の海軍の飛行場があって、爆撃するのに、いつも長崎無線の上を飛行機が往復飛んで行った。他の局、例えば潮岬とか函館は爆撃を受けているのに、長崎無線は銃撃一つ受けなかったし、不思議に爆撃もされなかった。
今考えれば、ラジオ・ビーコンの電波に乗ってくるとか、そんな関係もあったろうと思いますが、これは終戦の連絡の手がかりに残したのではないか。
それで、8月15日終戦の詔書が発表されたら、すぐKPUという米国の無線局から呼び出してきた。その当時、僕が掛かっていたんですが、それに応答するか、しないか。判断に苦しんだものですから、上司の決裁を求めた。そのときは、応答するな、責任は持つ、ということでした。
その後、進駐軍は長崎無線にも再々やってきた来た。応答しなかったことでは、別になんということもなかったですけれども、あのとき応答しておれば、終戦連絡の命令などは長崎無線を経由していって、非常に重要なことになったろうと思いますがね。
3.海岸局は海・陸両用
司会:無線電報局の仕事内容は、わからない方も多いと思います。そのへんをひとつ・・・
西村:明治45年( 1912)5月16日に銚子無線局がわが国に初めて開設されて、その年に北の落石、紀州の潮岬、山口県の角島、それから五島大瀬崎と5つの海岸局ができた。船はどういう船に無線設備をつけたかというと、当時の北米航路の丹後丸・郵船、伊予丸、香港丸、いずれも香港からサンフランシスコ行きの航路につけた。
ところが明治45年6月、長崎と台湾間の海底ケーブルが切れたのです。そのとき、大瀬崎無線と基隆無線局(台湾最北端に設置した富貴角無線局をその後基隆市に移転、基隆無線局となる)が連絡しております。それが固定連絡のはじめで、大正元年6月と記録されている。われわれが大正11年に大瀬崎にいたときは、年に2回くらいケーブルが断線し、直ちに基隆とのケーブルの代用として、大瀬崎無線が大活躍をしている。
高山:その当時の設備では雑音が強かったようですね。
西村:長波です。短波がないから。長波というのは空電(かみなりの放電によって生ずる電磁波)に非常に弱い。
高山:鹿児島(海岸局)で無線の仕事をしていた頃、長崎が通信を始めると、あらゆる周波数を使っても妨害【注】して鹿児島は通信できなかったんです。だから、電報を打つのを止めってもらったこともある。妙な話ですが。
【注】この高山氏の発言の趣旨は、長崎無線の中波の電波があまりにも強力であったため時間帯によっては鹿児島海岸局では船舶からの電報受信ができないことがあり、長崎無線に一時送信ストップを依頼したこともあった、ということです。
当時、船舶側は468KHz、432KHz、425KHzの3波を持っていましたが、どの周波数に変更してもらっても長崎無線の強力な483KHzの電波により鹿児島海岸局の受信機がブロックされ受信不能になることがあったようです。(本(注)は、「妨害」の意味を、長崎無線を経験された渡部雅秀氏に教えていただいたので、参考に記入しました。<増田>)
当時、台湾線が切れると忙しかったが、台湾政府からいくらか報酬が出たので、嬉しい面もあった(笑い)。
4.通信圏 今昔
司会:一般の人が船に電報を打つ場合は、どういう風にしていたのですか。
西村:熊本で例えば天洋丸の乗客に電報を受付けると、船は香港、サンフランシスコ間の定期航路ですから、香港を出港すると、その船のスケジュールが前もって、船会社から通知されていた。通知が5枚も6枚も新聞紙のように送られてくるわけです。
そうすると、無線局では、スケジュールを見て、やがて自分の通信圏内に船が入ってくるのを待機する。すでに自分の通信圏を去ったと思えば、瀬戸内を行く船なら角島無線局に、土佐沖へ行く船なら潮岬無線に連絡する。そんな風にしていました。当時は通信できる範囲が非常に狭かった。
銚子無線局が天洋丸と初めて交信した時は、東京湾では連絡できず、東京湾を出て、その晩に30海里(5万5千km)沖で通信ができている。
その後、双方訓練されてもやっと百海里までしかしか通信できない時代が続いた。アメリカ航路の天洋丸の場合、横浜を出港して百海里まで通信をして、何も聞こえないまま、ホノルルの近く百海里になるとホノルル無線局と通信ができた。
ホノルルを出港して百海里が過ぎるとまた、サンフランシスコに近づくまでは、船の無線士は仕事がないという時代でした。
今(昭和30年当時)は、無線通信が普及しているから、例えばロンドンのテムズ川に船がいても長崎無線と連絡できる。
高岡:長崎無線局長さん、現在の短波によっている通信圏について、説明をお願いします。
亀山:まず、日本の海岸局で短波装置をはじめて使ったのは、昭和2年10月の落石無線です。昭和5年8月に銚子、長崎無線は昭和7年11月からで、いずれも5百ワットです。
現在は、一番遠方と通信できるのはブラジルの海岸です。それとロンドンのドーバー海峡です。テムズ、アフリカのケープタウン、ニューヨークは今のとこりできないが、ジブラタル海峡からニューヨークの途中までができる。相手に装置があれば、ほとんど全部できると言ってもいいくらいです。(その2につづく)
【座談会出席者名<肩書は座談会時の役職>】
西村 茂雄 第17代長崎無線局長(福岡中央電報局長)
亀山 恒音 第19代 同 上 (長崎無線電報局長)
高山 長 第20代 同 上 (大分無線電報局長)
司会 九州電電編集部
◆出典 長崎無線91年のあゆみ
発行日 平成11年1月16日
発 行 NTT長崎無線電報サービスセンタ
編 集 NTT長崎無線電報サービスセンタ編集委員会
印 刷 (株)昭和堂印刷
(付記)文中のカッコ書きは、出典にはないが、参考に用語の意味等を簡記しました(増田)。
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