◆寄稿 衛藤 利彦
私は熊本逓信講習所を卒業して北九州の八幡郵便局電信課に配属されました。その後、大分郵便局電信課(のちの電電公社大分電報局)に転勤。昭和18年3月、太平洋戦争が始まってから約1年3ヵ月ほど経過したときでした。日本が中国、南方の各地で輝かしい戦果を収めていたころと思います。
職場の大分郵便局は、木造の2階建で、その2階部分の電信課は、西側の旧電車通りと南側の道路に面していたと記 . . . 本文を読む
◆寄稿 戸村 彰義
昭和25年(1950)1月の寒い日の朝、広島学園でモールス音響通信を学んだぼくは、同級生のO君と配属先の音戸郵便局を目指し、本州側の波止場で渡し船に乗った。潮風が肌に冷たい。
音戸町に着くと、幅3メートル程の道があり、その両側に店や家が立ち並んでいた。5分ばかり歩くと、道路の右側に洋館風の建物があり、音戸郵便局の看板がかけられていた。
建物の正面にある石段を上りドアを開く . . . 本文を読む
◆寄稿 樋口 実
アメリカ西部劇映画のDVDの中ではよく見られる情景だが、木材を燃料とする古い蒸気機関車の線路沿いに立つ木柱に張られた銅線を、馬に乗った盗賊団がナイフで切断したり、駅舎の片隅で通信電報を送っている人間もろとも、殺害破壊したりする。
あの場面で、駅員が操作している通信機械が、モールス通信機である。
わが国では、明治維新後に、新橋~横浜間に蒸気機関車の線路が布設された。その時 . . . 本文を読む