落石無線局あれこれ
◆寄稿者 中西 研二
(1) 落石開局時の赴任、生活環境
1908年、落石無線局開局時の田頭徳男局長は本州から海路による赴任であったが、どのような経路で赴任したのか定かでない。鉄道がなかった時代(根室まで鉄道が開通したのは1920年)、海路で根室へ到着した後、25kmを歩いてきたのか、あるいは海路で厚岸へ到着した後、40kmあまりを駅逓馬で数日かけて赴任したのか。
日常生活は困難を極めたようだ。無線局は、100戸ほどの村の中心から2kmも離れていた。季節の野菜はなく、魚は村人たちが蓄えている塩魚のみで、肉は根室までいかないと調達できなかったという。病院どころか診療所もなく救急用品を備えておいた。
局舎と宿舎は別棟で、渡り廊下がなかったため、吹雪の日に一旦局舎を出ると、玄関の敷居が凍結するため、再度入局するときは、熱湯を敷居に注いで、氷結が解けた瞬間に局舎に飛び込んだそうである。
(2)送信所の火災
1925年8月16日午前10時、送信所で火災が発生した。職員の懸命な防火活動にもかかわらず水利の便が悪かったため、潰滅的被害となった。原因は、瞬滅火花送信機の冷却装置(コンプレッサー)の小さな電動機から発するごく微小な火花が床上に垂れていた油に引火したためだった。最初の出火に気づかなかったのは、送信所内の騒音がひどかったためだった。送信機室は、受信所で操作する瞬滅火花間隙から絶え間なく高い音が鳴り響いている。発電室から50馬力の石油発動機の轟音が伝わってくる。石油の臭いが廊下や各室に流れ込んでくるなどで、勤務者が多い時間帯であるにも関わらず、延焼するまで気が付かなかった。
復旧後、送信設備は一新され、当時としては真空管による最新の送信設備設置による送信となった。
設置した送信設備の出力:3kW(長波)、2.5kW(中波)、1kW(長中波)、1kW(短波)
(3)通信量の増加
開局後15年も経過するころには、船舶に設置される無線局も次第にその数を増し、また千島列島との固定通信業務を兼ねる落石無線局の業務は繁忙となり、設備も行き詰まり状態になった。そこで送信所と受信所を分離する二重通信を実施することになり、受信所を20km離れた根室町桂木に移設し、受信機も結晶体鉱石検波受信機に代わって真空管受信機が設置されるなど、設備の近代化が図られ、疎通能力は拡大強化された。
1920年頃は日本から米国への移民が多く、日本と米国と往復する人たちも多かったため、通信量が多かった。天洋丸、地洋丸、円復丸、安芸丸などから発信される電報は、一隻あたり3,4~5,6百通あった。
(4)真空管の寿命
真空管が出始めた1917,18年(大正6,7年)当時、真空管の寿命は極めて短く、10分から15分くらいしか持たず、30分使用できれば幸運であった。真空管は、ベースやソケットがなく、真空管の管底から4本のリード線が露出したままで、リード線はそれぞれ4組の端子へねじ止めする原始的なもので、その取り替えには大変な手間がかかったので、通信で忙しいときには非常に困った。(大貫勇氏;1921~1941年:落石無線局勤務)
(5)短波通信導入当初の通信品質
短波通信導入当初は、送信機も受信機も性能が十分ではなかったので、通信品質は極めて悪く、1通の電報を受け取るのに10数回~数十回交信を反復しなければ、電報文を正確に受信することができなかった。その上、交信時間が長引くと、電離層の関係から通信可能時間帯から外れ、以後通信できなくなるのが常であった。当時落石無線局で通信士として勤務した、大貫勇氏は次のように回顧している。「『ジャリ道にバケツを引っ張るような音』と形容される音に加え、絶えず変化する音調、聞こえては沈み、沈んでは聞こえ、そして消えていくシグナルを電報に作り上げていかなければならなかった」。
短波を利用することで小さな電力で遠距離通信が可能となる(つまり小規模な設備でも世界と通信できる)ことを発見したのは、アマチュア無線家たちだった。それまで遠距離通信は長波を使っていたが、長波は大電力を必要とした。
◆寄稿者等紹介
・中西 研二 【すずらんの丘―落石(おっちし)無線局の想い出(1/2)・・・2018/6/30日】参照
・出典『落石無線電報局沿革史』
編集発行 落石無線電報局 根室無線中継所
1966年11月1日(p60)
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