◆松田裕之著『モールス電信士のアメリカ史-IT時代を拓いた技術者たち』紹介(2/2)
・片倉日龍雄
2.影武者がいたモールス
ところで、私が従事していた電信の仕事は、モールス音響通信(モールス符号をトン・ツーの音で送受する方式)であったが、この方式が定着するまでにはいくつかの前史があった。第1章では裏面史を含めその経過が述べられている。
実用電信機の開発は、まずヨーロッパの指字式通信機から . . . 本文を読む
◆松田裕之著『モールス電信士のアメリカ史-IT時代を拓いた技術者たち』紹介(1/2) ・片倉日龍雄 本書(日本経済評論社・2011.4・P264)の著者、松田裕之氏については、すでに本ブログ(音響通信~目で見る通信から耳で聞く通信へ:2017.11)に紹介されている方であり、現在、神戸学院大学経営学部教授で、多数の著書を出版されている(経歴等末尾参照)。 私は、本ブログ管理者の増 . . . 本文を読む
◆熊本学園普通電信科の思いで
實吉 正生
私達が入学した昭和26年というのは、どのような時代だったかということだが、一口でいえば戦後の混乱はややおさまりかけていたが、まだ相当にインフレと食糧難の時代だった。
昭和24年6月に逓信省が分割され、郵政省と電気通信省が発足したのは周知のことだが、これに伴って、熊本逓信講習所も電気通信職員訓練所熊本学園と改称され、校門にもこの看板と、英語でテレコミ . . . 本文を読む
◆タイプライタ登場(その2)
電信用カナタイプライタの開発~黒澤貞次郎
大正6年(1917)6月21日は電信界にとって永く記念すべき日と存じます。この日、大阪中央電信局に於て和文タイプライターを2台、現業受信に初めて用いたものであります。
和文タイプライターの施設に関する大正5年度大阪中央電信局電信事業記録によれば、「機械の作製に就いては、東京黒澤貞次郎をして考究せしめるために、別紙同人よ . . . 本文を読む
◆タイプライタ登場(その1)
わが国で通信の実務にタイプライタを使用するようになったのは大正3年に大阪中央電信局で欧文通信、大正6年に和文通信に使用したのが初めである。この時はいずれもモールス印字通信のほん書(翻書)用として使用されたものである。音響通信に対する直接受信用としては、大正11年、全国主要局ではほぼ時をおなじくして開始された。
当局(東京中電)においても同様、早くからタイプライタ受 . . . 本文を読む
◆ 電報配達は自転車に乗って
下記は明治3~4年ころの電報配達員の模様を伝える記述である。創業当時は電報配達員を駆使と呼んでいたが、明治20年5月6日、「集配人使役心得」が制定されてから、駆使は集配人と呼ばれるようになった。
局と局との間の電報使送に、馬を使ったという記録はあるが、電報配達はすべて駆け足で行なわれていた。配達人の風体は縞の羽織に脚絆、尻はしょりの体にて電報配達なりとて、何町何分 . . . 本文を読む
◆音響通信の採用
1.目で見る通信から耳で聞く通信へ
電信の通信方式は、創業から100年の間には、数々の変遷をたどってきた。その中で、最初の変革といえば、目で見る印字機通信から、耳で聞く音響通信への切替えである。
創業と同時に東京―横浜間に使用された電信機は、フランス人が発明したブレゲー指字電信機であった。その後明治4年、わが国ではイギリスからシーメンス・モールス電信機を購入、これに関する技 . . . 本文を読む
◆女子職員の電信事業採用
電信電話事業に女子職員の採用が制度的に確立されたのは、明治24年9月、「電話交換手採用規程」の制定が最初である。これはわが国の電話事業創業(明治23年12月16日)によるものである。一方、電信事業にも採用する方針がきまったのは、ずっと遅れて明治33年7月、「女子職員採用規程」の制定によってである。
同規程の第2条によれば、応募資格は①年齢満13年以上にして家事の繋累な . . . 本文を読む
◆電信競技会(その2)
戦後は一般の混乱とともに技両の面でも著しい低下を示したが、電信再建は利用者の信用獲得にあるとの見地から、この方策の一端として競技会による技両向上が強く望まれ、あわせてこれにより沈滞した職員の士気の高揚を図ることとなった。
このため昭和22年には当局に参加選手部内122名、運輸、内務両省、各新聞通信社から13名を迎えて早くも第1回全国競技会が行われた。このときの選手年齢層 . . . 本文を読む
◆電信競技会(その1)
競技会についてはかなり古い記録があるが、当局(東京中電)で行われたのは明治35年6月のものが初めであった。
明治29年の競技会はわが国で最初の競技会とされるものであって、この開催にあたっては通信局2名、当局(東京中電)3名の5名(氏名略)が委員となり、競技会規程(8条)を設けて競技種目をモールス印字機による和欧文送受信、音響機による和欧文の受信の6種類とし、これについて . . . 本文を読む
◆終戦直後の東京中央電信局
廃墟となった東京で灯火管制がとかれたのは昭和20年(1945)8月20日だった。
戦火により電信電話事業がうけた被害は驚くべきものがあった。当局の電信回線をみてもその過半数が不通となっていた。昭和20年12月現在の記録では、稼働回線は382回線で、戦時中最高であった昭和16年末962回線の40パーセントにとどまっていた。電報通数も前年の半分に減少していた。
しかしな . . . 本文を読む
◆沖縄戦に備えた通信対策
那覇郊外にあった真和志送信所および首里受信所は被害がすくなかったため、無線連絡の再開は早かった。那覇郵便局において行われた無線通信は、真和志送信所と那覇市郊外城岳の壕内で運用された。また同盟通信(報道通信)は首里受信所でおこなわれた。いっぽう島内の有線電信業務および電話交換業務は、牧志町に設けられた措置局内でおこなわれた。この通信運用計画は、非常体制の一環として10・1 . . . 本文を読む
◆沖縄戦下の沖縄
大本営は、1943年(昭和18年)12月末日、南洋諸島および台湾の防備強化を決定した。この決定によって翌年3月中旬、大本営は南西諸島および台湾へ視察班を派遣した。そして那覇においてその統帥を発動することになった。
南洋の島々がつぎつぎと玉砕したので、大本営は南西諸島のもっとも重要な沖縄本島および宮古島島がほとんど無防備に近い状態であるとして、急遽兵力の増強を開始した。満州から . . . 本文を読む
◆沖縄の電信~明治から太平洋戦争まで
沖縄県の電信は、前回ご紹介したように1896年(明治29)10月、本土の電信開始から27年目にしてようやく実現した。
海底線敷設によって、はじめて直接県外通信が可能となり、やがて島内通信整備が始められるようになった。大正末期までには、次の主要町村に電信線が延びた(開設順)。
名護、糸満、読谷山、羽地、本部、恩納、今帰仁、宜野湾、金武、西原。
海外連絡とし . . . 本文を読む
◆沖縄の電信事業のはじまり
モールス通信のブログを始める前から、沖縄の第2次世界大戦前の通信事情はどのようなものだったのか、ぜひ知りたいことの一つでした。ブログを始めた一昨年、電電同友会沖縄地方本部にも照会してみましたが、戦前のことを知る人はいず、史料も会にはないとのことでした。このたび、「九州の電信電話百年史」を読み、明治時代の沖縄の電信のことが少し分かりましたので、ご紹介します。通信士の養成 . . . 本文を読む