◆熊本学園普通電信科の思いで
實吉 正生
私達が入学した昭和26年というのは、どのような時代だったかということだが、一口でいえば戦後の混乱はややおさまりかけていたが、まだ相当にインフレと食糧難の時代だった。
昭和24年6月に逓信省が分割され、郵政省と電気通信省が発足したのは周知のことだが、これに伴って、熊本逓信講習所も電気通信職員訓練所熊本学園と改称され、校門にもこの看板と、英語でテレコミュニケーションズ・トレーニングスクールの表示があったように思う。
通信の方式としては、印刷電信への転換がはじまったとはいえ、まだモールス通信が主導権を握っていた時代だから、採用人員も比較的多く、私達(昭和26年4月入学)だけで178名、25年度2期生(26年3月入学)を合わせると267名となり、寮などかなりきゅうくつな状態だった。
普通電信科生の採用が多かったのは、翌27年までで、その後激減しており、いわばモールス通信というローソクが燃えつきる前の炎の時代といえるのではなかろうか。
同期生178名のうち26名(15%)が女性だったことも一つの特徴であろう。3寮2階の彼女達の部屋は、我々男性が近づき難い独特の雰囲気を持っていた。
卒業後、15~18才の若さで、職場の花となった彼女達を、独身の先輩電信マンがほっておくはずがなく、数年のうちにはほとんどが職場結婚してしまったが、年令的な関係からか、同期生同士の結婚は1件もなかったようである。
前述の如く、食料難とインフレの時代で、初任給が3,000円、寮費(1,500~2,000円位だったと思う)を払うと、10円のコッペパンを買うのにも不自由した。現在の初任給や寮費と比較してみると、隔世の感がある。
育ち盛りの頃だから、寮の食事だけで足りるわけがない。日曜日など、朝食時に昼用を含めてコッペパン2個が支給されることがあったが、これが昼までもたず、結局昼食は抜きにするか、外食にせざるを得なかった。
そのほか、週番長の某さんが、消灯後の巡回中に3寮と2寮の間にある防水用水槽へ落ちたこと、日曜日に清水町の米軍キャンプ〈キャンプ・ウッド)まで散歩し、米人の子供をつかまえて、佐藤先生直伝?の英語が通じるか試してみたこと、土曜日に外出して帰寮が遅れ、点呼時間に間に合わず、舎監の鎌田先生に油をしぼられたことなどが特に印象に残っている。
入学前のことになるが、合格通知とともにモールス符号のカードが送付され、「入学までに覚えてくること」と書いてあった。これは大変と必死になって覚え、入学してから聞いてみると、ほとんどの人は、それどころではなかったので覚えていないという。
また、合格を知って、近所の特定局の電信係の人(母の知人)が局へ遊びに来なさいというので、行ってみた。当然のことながらそこには音響通信の装置があり、その人は実際に電鍵をたたいて「これがトンで、これがツーだ」と教えてくれた。
そのようなことから、入学後、私は通信術に比較的苦労することなくとけこむことができた。もちろん、担任の吉村先生の熱心な指導によるところが大きいのだが。
◆寄稿者紹介
・實吉 正生 福岡県 昭和10年生れ
・熊本学園普通電信科 昭和26年12月卒
◆出典
九州逓友同窓会誌「相親」1976(年)7月号
筆のリレーは
【付記】「相親」は、九州の逓信講習所・電気通信学園卒業生の同窓会誌。会誌の巻頭には、毎号「筆のリレー」として、会員の近況、思い出などが掲載されていた。本寄稿は、そのうちの学園時代の回想部分を寄稿者の承諾を得てそのまま掲載させていただきました。
實吉さんは、私の熊本学園の同期生でクラスは違ったが、寮では同じ8人部屋で、9ヵ月間寝起きを共にした仲です。今も電話で当時のことを話し始めると話は尽きない。
實吉 正生
私達が入学した昭和26年というのは、どのような時代だったかということだが、一口でいえば戦後の混乱はややおさまりかけていたが、まだ相当にインフレと食糧難の時代だった。
昭和24年6月に逓信省が分割され、郵政省と電気通信省が発足したのは周知のことだが、これに伴って、熊本逓信講習所も電気通信職員訓練所熊本学園と改称され、校門にもこの看板と、英語でテレコミュニケーションズ・トレーニングスクールの表示があったように思う。
通信の方式としては、印刷電信への転換がはじまったとはいえ、まだモールス通信が主導権を握っていた時代だから、採用人員も比較的多く、私達(昭和26年4月入学)だけで178名、25年度2期生(26年3月入学)を合わせると267名となり、寮などかなりきゅうくつな状態だった。
普通電信科生の採用が多かったのは、翌27年までで、その後激減しており、いわばモールス通信というローソクが燃えつきる前の炎の時代といえるのではなかろうか。
同期生178名のうち26名(15%)が女性だったことも一つの特徴であろう。3寮2階の彼女達の部屋は、我々男性が近づき難い独特の雰囲気を持っていた。
卒業後、15~18才の若さで、職場の花となった彼女達を、独身の先輩電信マンがほっておくはずがなく、数年のうちにはほとんどが職場結婚してしまったが、年令的な関係からか、同期生同士の結婚は1件もなかったようである。
前述の如く、食料難とインフレの時代で、初任給が3,000円、寮費(1,500~2,000円位だったと思う)を払うと、10円のコッペパンを買うのにも不自由した。現在の初任給や寮費と比較してみると、隔世の感がある。
育ち盛りの頃だから、寮の食事だけで足りるわけがない。日曜日など、朝食時に昼用を含めてコッペパン2個が支給されることがあったが、これが昼までもたず、結局昼食は抜きにするか、外食にせざるを得なかった。
そのほか、週番長の某さんが、消灯後の巡回中に3寮と2寮の間にある防水用水槽へ落ちたこと、日曜日に清水町の米軍キャンプ〈キャンプ・ウッド)まで散歩し、米人の子供をつかまえて、佐藤先生直伝?の英語が通じるか試してみたこと、土曜日に外出して帰寮が遅れ、点呼時間に間に合わず、舎監の鎌田先生に油をしぼられたことなどが特に印象に残っている。
入学前のことになるが、合格通知とともにモールス符号のカードが送付され、「入学までに覚えてくること」と書いてあった。これは大変と必死になって覚え、入学してから聞いてみると、ほとんどの人は、それどころではなかったので覚えていないという。
また、合格を知って、近所の特定局の電信係の人(母の知人)が局へ遊びに来なさいというので、行ってみた。当然のことながらそこには音響通信の装置があり、その人は実際に電鍵をたたいて「これがトンで、これがツーだ」と教えてくれた。
そのようなことから、入学後、私は通信術に比較的苦労することなくとけこむことができた。もちろん、担任の吉村先生の熱心な指導によるところが大きいのだが。
◆寄稿者紹介
・實吉 正生 福岡県 昭和10年生れ
・熊本学園普通電信科 昭和26年12月卒
◆出典
九州逓友同窓会誌「相親」1976(年)7月号
筆のリレーは
【付記】「相親」は、九州の逓信講習所・電気通信学園卒業生の同窓会誌。会誌の巻頭には、毎号「筆のリレー」として、会員の近況、思い出などが掲載されていた。本寄稿は、そのうちの学園時代の回想部分を寄稿者の承諾を得てそのまま掲載させていただきました。
實吉さんは、私の熊本学園の同期生でクラスは違ったが、寮では同じ8人部屋で、9ヵ月間寝起きを共にした仲です。今も電話で当時のことを話し始めると話は尽きない。
よろしければ お暇なときに・・・
http://ilovejesus.minibird.jp/jesus.htm