◆諫早大水害と長崎無線(JOS)回想
渡部 雅 秀
<はじめに>
昭和 32 年 7 月 25 日、諫早大水害が発生してから今年(平成 29 年)で丁度 60 年に なります。 水害を経験した長崎無線局 OBの皆さんも少なくなり、その記憶も風化しかかっていると思いますので、60 周年を期に、当時を回想してみました。
1.赴任早々の大水害
私は昭和26年4月、仙台電気通信学園普通電信科へ入学。12月に卒業し、福島電報局通信課に配属され、モールス通信による電報の送受信を担当しました。 4年あまり勤務したのちの昭和31年4月、中央電気通信学園無線通信科に入学。第1級無線通信士の国家試験に合格、長崎無線電報局へ赴任したのが22歳の時、昭和32年 5月20日で、諌早大水害の2か月前でした。
着任から1か月半が経過した7月中旬、長崎県南部は連日雨の日が続きました。7月25日夜は、外には出られないような大雨で、闇夜を稲妻が真昼のように明るくし、雷鳴が轟いていました。
翌26日早朝、独身寮で寝ていた私は、社宅の奥さんたちのざわめきの声で目が覚めました。外を覗いてみると1軒しかない野菜や食料品を売る小売店の前に集って、買い物をしている様子です。
寮生も起き出して、何か異変が起きているらしいと話し合っていました。そのうち 寮生の数人が前夜、町に下りて行ったきり戻っていないことが分かりました。
次第に情報が集まった結果、諫早市内は水害で壊滅状態、一夜で700mmの猛烈な雨量のため、市内を流れる小さな本明川に架かる石橋の眼鏡橋に大量の流木が引っ掛かり、濁流が市中心部を襲い、家屋の倒壊・流失で足の踏み場もない大水害になっているとのこと。また 上流に架かっていた長崎から鹿島方面への国道 207 号線の四面橋は、西側の道路の土が流失し,通行不能になっているとのことでした。 本明川の水位は 10 分間で 2m上昇したそうです。 この大水害により電気、水道、電話、バス、鉄道(国鉄長崎本線、島原鉄道諌早島原間)などのインフラはすべて使用不能となりました。
私はいつも通り職場に出勤してみると中波席、短波席とも全席通信不能となっていました。愛野送信所(注)と長崎無線局間のコントロールケーブルが浸水し不通となっていたためでした。中波 500KHz は VHF 回線を使用して回復しましたが、短波用まではチャンネルが取れませんでした。
地元消防団団長、団員が当日午前、当局を訪ねてきて、被害状況を関係方面に一報したいとの要請があり、中波で下関海岸局(JCG)を呼び、通報をしたとのことでした。あとは警察無線ル ートを利用し伝送したそうです。
船舶あての無線電報はすべて銚子無線へ転送し、長崎無線局の代行をしてもらいました。 中波席の運用以外、何もすることが無くなった私たちオペレータは、局内でうろうろする ばかりでした。 無線設備の電源は愛野送信所、諫早受信所とも自家発電機で当面賄えましたが、デイーゼ ルエンジンの燃料不足を心配し、送受信所は熊本から船で運搬することを検討していました。
2.有線通信(モールス音響通信)の応援
市内の諫早電報電話局も浸水し、局内設備は勿論、市内、市外回線も全滅状態で、電報も電話もストップしました。 未曾有の大水害にもかかわらず、被害状況の報告や救助要請の連絡がとれない状況でした。
無線局内のオペレーターの仕事が、水害でできなくなって暫くすると通信課長に呼ばれました。諫早市内にある電報電話局は浸水の水は引いたが印刷通信回線が復旧してなく電報通信が止まっている。急遽、電報疎通のため長崎~諫早間に臨時の音単回線(音響単信回線)を架設したが、モールス音響通信ができる人手が足りない。ついては有線通信 の経験がある私に応援に行ってほしい、とのことでした。
早速、大急ぎで坂道を徒歩で下って約4Km先の電報電話局に向かいました。市内に入ると泥が足に絡み、生臭い臭いが充満していました。諫早市に着任してまだ間がない私は地理不案内で、道行く人に局の場所を尋ねながら、やっとたどり着くことができました。
電報電話局は、1階が電報通信室、2階が電話交換室でした。1階の電報通信室は、浸水した泥水のあとが乾かないまま壁に残っおり、床は濡れたままです。室内は電報配達応援要員などで混雑しており、どなたかに挨拶をすると通信席に案内されました。電鍵、タイプライター、集音箱に入った音響器など懐かしい音響電信機一式がセットされた席に座りました。
すぐに音響器からツートツーツートツートと長崎電報局のオペレーターから受信を督促する符号が鳴り出す。こちらも、急ぎタイプライターに受信紙をセットし、ツーツートと応答し、受信を開始した。
送信されてくるモールス音響通信の符号は、短波無線とは異なり、雑音も混信もフェーデイングもない最高の回線品質です。久しぶりに音響器が発する歯切れのよいカチカチ音に集中し、受信していきます。電報のあて名の地名と場所は全く知りませんが、長崎から送信されてくるままに、受信し、タイプしていきました。
昼食は、炊き出しのおにぎりでしたが、遠慮して 1 食1個ですませました。夜、帰寮し、翌日も朝から出かけました。
3日目になり長崎~諌早間の印刷通信回線が復旧し、長崎無線局の短波席も使用できるようになったので、自局での勤務に復帰しました。
災害復旧のため、自衛隊が長崎無線局より北の場所に野営しており、使用している無線機は中短波帯(2MHz 帯)のため、ラジオ放送にモールス無線通信の符号がバリバリ入っていました。 つづく。
◆寄稿者紹介
・渡部雅秀〈わたなべまさひで) 昭和10年生れ 長崎県
・仙台電気通信学園普通部電信科 昭和26年12月卒
【付記・増田】
本寄稿記事は、ブログ冒頭に記したとおり長崎無線JOS-OB会ネットに掲載(平成29.6.10)されたものです。
寄稿者は、OB会関係者にブログへの掲載承諾の労を取って下さいました。また、有線のモールス通信しか経験のない私に、有線、無線通信の両方に通暁する氏は、これまで漠然と抱いてきた私の無線通信に関する知識・認識を格段と深めてくれました。OB会関係者の皆さまと渡部氏に厚くお礼を申し上げます。
なお、字数等の関係で、原文の一部を省略、要約したほか、見出しと注書き(注)を追加したことをお断わりします。
渡部 雅 秀
<はじめに>
昭和 32 年 7 月 25 日、諫早大水害が発生してから今年(平成 29 年)で丁度 60 年に なります。 水害を経験した長崎無線局 OBの皆さんも少なくなり、その記憶も風化しかかっていると思いますので、60 周年を期に、当時を回想してみました。
1.赴任早々の大水害
私は昭和26年4月、仙台電気通信学園普通電信科へ入学。12月に卒業し、福島電報局通信課に配属され、モールス通信による電報の送受信を担当しました。 4年あまり勤務したのちの昭和31年4月、中央電気通信学園無線通信科に入学。第1級無線通信士の国家試験に合格、長崎無線電報局へ赴任したのが22歳の時、昭和32年 5月20日で、諌早大水害の2か月前でした。
(注)長崎無線局は、諫早市(いさはやし)の中心部から約3Km北側の丘陵地に設置されていた。諫早市は長崎県の中央部にあり、長崎市、佐世保市に次く県第3位の人口(136千人・平30.1月現在)を有する都市。
着任から1か月半が経過した7月中旬、長崎県南部は連日雨の日が続きました。7月25日夜は、外には出られないような大雨で、闇夜を稲妻が真昼のように明るくし、雷鳴が轟いていました。
翌26日早朝、独身寮で寝ていた私は、社宅の奥さんたちのざわめきの声で目が覚めました。外を覗いてみると1軒しかない野菜や食料品を売る小売店の前に集って、買い物をしている様子です。
寮生も起き出して、何か異変が起きているらしいと話し合っていました。そのうち 寮生の数人が前夜、町に下りて行ったきり戻っていないことが分かりました。
次第に情報が集まった結果、諫早市内は水害で壊滅状態、一夜で700mmの猛烈な雨量のため、市内を流れる小さな本明川に架かる石橋の眼鏡橋に大量の流木が引っ掛かり、濁流が市中心部を襲い、家屋の倒壊・流失で足の踏み場もない大水害になっているとのこと。また 上流に架かっていた長崎から鹿島方面への国道 207 号線の四面橋は、西側の道路の土が流失し,通行不能になっているとのことでした。 本明川の水位は 10 分間で 2m上昇したそうです。 この大水害により電気、水道、電話、バス、鉄道(国鉄長崎本線、島原鉄道諌早島原間)などのインフラはすべて使用不能となりました。
私はいつも通り職場に出勤してみると中波席、短波席とも全席通信不能となっていました。愛野送信所(注)と長崎無線局間のコントロールケーブルが浸水し不通となっていたためでした。中波 500KHz は VHF 回線を使用して回復しましたが、短波用まではチャンネルが取れませんでした。
(注)諫早市の長崎無線局から北方10数キロ離れた雲仙市愛野町に設置されていた送信所。
地元消防団団長、団員が当日午前、当局を訪ねてきて、被害状況を関係方面に一報したいとの要請があり、中波で下関海岸局(JCG)を呼び、通報をしたとのことでした。あとは警察無線ル ートを利用し伝送したそうです。
船舶あての無線電報はすべて銚子無線へ転送し、長崎無線局の代行をしてもらいました。 中波席の運用以外、何もすることが無くなった私たちオペレータは、局内でうろうろする ばかりでした。 無線設備の電源は愛野送信所、諫早受信所とも自家発電機で当面賄えましたが、デイーゼ ルエンジンの燃料不足を心配し、送受信所は熊本から船で運搬することを検討していました。
2.有線通信(モールス音響通信)の応援
市内の諫早電報電話局も浸水し、局内設備は勿論、市内、市外回線も全滅状態で、電報も電話もストップしました。 未曾有の大水害にもかかわらず、被害状況の報告や救助要請の連絡がとれない状況でした。
無線局内のオペレーターの仕事が、水害でできなくなって暫くすると通信課長に呼ばれました。諫早市内にある電報電話局は浸水の水は引いたが印刷通信回線が復旧してなく電報通信が止まっている。急遽、電報疎通のため長崎~諫早間に臨時の音単回線(音響単信回線)を架設したが、モールス音響通信ができる人手が足りない。ついては有線通信 の経験がある私に応援に行ってほしい、とのことでした。
早速、大急ぎで坂道を徒歩で下って約4Km先の電報電話局に向かいました。市内に入ると泥が足に絡み、生臭い臭いが充満していました。諫早市に着任してまだ間がない私は地理不案内で、道行く人に局の場所を尋ねながら、やっとたどり着くことができました。
電報電話局は、1階が電報通信室、2階が電話交換室でした。1階の電報通信室は、浸水した泥水のあとが乾かないまま壁に残っおり、床は濡れたままです。室内は電報配達応援要員などで混雑しており、どなたかに挨拶をすると通信席に案内されました。電鍵、タイプライター、集音箱に入った音響器など懐かしい音響電信機一式がセットされた席に座りました。
すぐに音響器からツートツーツートツートと長崎電報局のオペレーターから受信を督促する符号が鳴り出す。こちらも、急ぎタイプライターに受信紙をセットし、ツーツートと応答し、受信を開始した。
送信されてくるモールス音響通信の符号は、短波無線とは異なり、雑音も混信もフェーデイングもない最高の回線品質です。久しぶりに音響器が発する歯切れのよいカチカチ音に集中し、受信していきます。電報のあて名の地名と場所は全く知りませんが、長崎から送信されてくるままに、受信し、タイプしていきました。
昼食は、炊き出しのおにぎりでしたが、遠慮して 1 食1個ですませました。夜、帰寮し、翌日も朝から出かけました。
3日目になり長崎~諌早間の印刷通信回線が復旧し、長崎無線局の短波席も使用できるようになったので、自局での勤務に復帰しました。
災害復旧のため、自衛隊が長崎無線局より北の場所に野営しており、使用している無線機は中短波帯(2MHz 帯)のため、ラジオ放送にモールス無線通信の符号がバリバリ入っていました。 つづく。
◆寄稿者紹介
・渡部雅秀〈わたなべまさひで) 昭和10年生れ 長崎県
・仙台電気通信学園普通部電信科 昭和26年12月卒
【付記・増田】
本寄稿記事は、ブログ冒頭に記したとおり長崎無線JOS-OB会ネットに掲載(平成29.6.10)されたものです。
寄稿者は、OB会関係者にブログへの掲載承諾の労を取って下さいました。また、有線のモールス通信しか経験のない私に、有線、無線通信の両方に通暁する氏は、これまで漠然と抱いてきた私の無線通信に関する知識・認識を格段と深めてくれました。OB会関係者の皆さまと渡部氏に厚くお礼を申し上げます。
なお、字数等の関係で、原文の一部を省略、要約したほか、見出しと注書き(注)を追加したことをお断わりします。
その他、熊本大水害など、何度も大水害を経験しました。その記録ではありませんが、わたしのブログ「毎日が日曜日・でも多忙です!」の"いやな梅雨”(2013.6.15)に、駄文を投稿しています。
貴兄のブログの、なにか参考になるのではと思います。再度、読み返していただければ幸いです。
天災の多いわが国では、災害の都度電信疎通に苦闘した通信オペレータが、全国のあちこちにいたことを、想起します。雨風で倒れ、切断した電信柱と電線、単純な通信装置による通信は、マンパワーが支えてきた100年の歴史を経て、現在の夢のような情報社会となった。互いに祝杯をあげましょう。