モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

『日本にようこそ、日本にようこそ、リンドバーグ大佐殿』

2018年08月03日 | 寄稿・モールス無線通信

    日本にようこそ、日本にようこそ、リンドバーグ大佐殿」

◆中西 研二

1931年7月27日、チャールズ・リンドバーグとアン夫人は、北太平洋航路調査のため、単発一枚翼二人座席の水上飛行機「シリウス」号で、ニューヨークを飛び立った。彼らは、ニューヨークからカナダ、アラスカを経て、日本経由で中国の南京まで飛行した。リンドバーグにとってこれは「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名になった大西洋横断無着陸飛行に続く画期的な飛行であった。

「日本にようこそ、日本にようこそ、リンドバーグ大佐殿」”Wel-come---to---Japan---wel-come---Colonel---Lindbergh---” というトンツーによる呼びかけは、シリウス号が、シベリア上空から東京へ着くまで絶え間なく、発信され続けた。このメッセージの発信者は、落石無線局の小間清次郎通信士である。このメッセージは、二人だけの孤独な飛行を続けている彼らの心に、大きな支えとなったことだろう。

シリウス号は、8月19日カムチャッカ半島ペトロパブロフスクを離陸して、根室を目指したが、深い霧と悪天候のため、根室までの飛行は難航した。途中、千島列島のケトイ島に不時着した後、択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島を経由して、8月25日ようやく根室港に着水した。その間、小間清次郎通信士は常にリンドバーグたちに、トンツーで呼びかけ続けた。特に、ケトイ島に不時着したときは、小間通信士は、船(シンシル丸)を根室港から出港させて何か支援をしたいという申し出まで行っている。リンドバーグたちは一応断ったようだが、翌朝早くも、シリウス号の不時着海域へシンシル丸が現れてリンドバーグ夫妻を驚かせ、朝食(トーストとコーヒー)の他、昼食(魚のフライ、スクランブルエッグ、ハムなど)まで提供した。飛行中、温かな食事をとっていなかったリンドバーグ夫妻に、それらはどれほど贅沢な食事だったことだろう。シンシル丸に乗船した落石無線局の小間通信士は、英語で彼らに話したが、coffee”を”cohee”、“ship”を”sheep”と発音するなど日本人らしい発音だが、リンドバーグたちに対する温かい心がうれしい。その後、一旦同機は千島列島ブロウトナ湾に曳航され、エンジン、無線機、碇の修理を行ってから根室への飛行を続けた。

リンドバーグ機が無事に根室に到着できた背景には、このように小間清次郎通信士の助力が大きい。同氏は、ツェッペリン号との交信で得た経験・知識や落石無線局が蓄積していた千島列島の気象情報(幌筵<ほろむしろ>無線局との勤務交代などで)を元に、的確な判断情報を随時リンドバーグ機に与えていたからである。アン・リンドバーグは、その飛行直前にようやくトンツーを覚えたばかりで、その受信能力や電鍵の打鍵技術なども決して高かったといえないだろう。同氏は彼女を巧みに誘導した。千島列島上空で、悪天候の中、リンドバーグ機は航路を見失っていた。逓信省航空局から派遣された航空官は、飛行位置から、ブロトン湾へ着水するのがよいだろうと提案し、小間清次郎通信士はこれを同機に伝えた。結果的にはブロトン湾には着水できず、ケトイ島に不時着したのだったが。

リンドバーグ夫妻は、この落石無線局の対応に感謝するため、根室到着後、同局を訪れ、局員と記念撮影をし、その写真が現在まで残されている。

当時、日本は中国への侵略、国際連盟からの脱退など、世界中から厳しい批判を浴びていて、米国では「黄禍」として排日運動もあったにも関わらず、アンはこの『翼よ、北へ』の中で、日本と日本人について驚くほど好意的に描いている。その一因は、この落石無線局の局員たちの対応を評価したからだろう。

落石無線局が開局されてから20年あまり経ち、かつそれまでにツェッペリン号との初めての航空機通信の経験があったにしても、シリウス号との交信をした小間通信士は、一定の基礎的な能力を持った人だった。というのは、航空機との交信にはそれなりの技術的な課題があったはずであるし、また国際通信上の規約を理解し、基礎的な語学力が必要だからである。英語がまだ一般化していなかった昭和初期に、アン・リンドバーグと欧文による通信を行った同氏は、東京郵便電信学校か逓信官吏練習所の出身者だろうと私は予想した。果たして逓信同窓会名簿を調べてみたら見つかった。1921年(大正10年)の(専修科)第10回無線電信通信科卒業生の中に小間清次郎の名前を。私は1955年に中央電気通信学園無線通信科を卒業したから、30年前の大先輩である。中央電気通信学園は戦前の官吏練習所を、1953年に復活したものである。

明治時代から政府は、通信技術者の養成に力を注いでおり、工部省電信寮(=電信課)内に電信修技学校を開設したのを皮切りに、その後、東京電信学校、東京郵便電信学校、逓信官吏練習所(以下、官練という)を設けてきた。なお、幸田露伴は東京郵便電信学校の卒業生である。

官練は芝増上寺の近くにあったが、太平洋戦争の空襲で建物を焼失した。私は偶然にも、空襲前の官練の近くに住んでいた。「芝で生まれ神田で育つ」と言われ、新門辰五郎で有名な芝大神宮の境内に近く、人情の厚い下町だった。私たちは、官練を「電信学校」と呼んでいた。後に、私は中央電気通信学園に入学することになったが、運命の不思議さを感じる。

リンドバーグ機やツェッペリン伯号との交信で落石無線局は、“GREAT JOC”(JOCは落石無線局のコールサイン)として、一躍世界にその名をはせたが、それ以外にも、以下の落石無線局の沿革でも述べるように、日本の無線通信史上、数々の画期的な業績を残した。落石無線局の担当者たちは、十分な機器もなく、通信に必要な機器を手作りしたこともあったそうである(元落石無線送受信所長:鴇田東助介氏談:『落石無線電報局沿革史』)。

日本の公衆無線通信事業の草創期を調べてみると、先人たちは交信相手と通信接続するだけでも、知恵を絞り大変な努力を重ねていたようである。現代に生きる我々がケータイやスマホで、世界中の人たちといとも簡単に交信できるようになった背景には、このような先人たちの大きな苦労があった。

『にっぽん無線通信史』によれば、1908年(明治41年)頃の無線通信の研究状況について、「丸毛登は(電気試験所の様子について)『…無線事業の将来に対し悲観的な見解を持する人もあり冷ややかな雰囲気も漂っていたことは見逃せない事実であった。…非常な努力を払っても(海上の)通信距離は僅かに80浬しか到達しない。…無線の研究も余り効果が上がらないからその中、廃止されることになっているとまことしやかに話す人もいた。…』と表現されているほどであり、周囲の冷たい目の中で、先駆者たちが大変な努力をしていたようである。

(中西注)丸毛登氏(1890~1971年)は、東京物理学校(東京理科大学の前身)の卒業生。逓信省電気試験所で、鳥潟右一博士などと、鉱石検波器の開発に従事した他、NHKなどで無線技術者として活躍した。私も東京理科大学の卒業生だから、丸毛登氏は私の大先輩になる。

このようなことは、当時の日本の産業のあらゆるところで行われていたに違いない。例えば、朝ドラの「マッサン」で有名になった、初めて国産のウイスキーを開発した、ニッカウヰスキーの竹鶴政孝、またいささか手前味噌ではあるが、日本のケーブルカー建設期に、東信貴、高野山、六甲と三つのケーブルカーの建設に従事した、私の父中西龍吉など。六甲ケーブルは、世界で唯一の四両つるべ式ケーブルカーであった。残念ながら、1938年の阪神大水害で壊滅的被害を受けたため、二両つるべ式に変更されたが。

明治・大正・昭和にかけて、先人たちは、日本の近代化のために大変な努力をしたことだろう。彼らの努力の蓄積が現代のわれわれに大きな恩恵を与えてくれていることを考えると、彼らに対して、深い感謝をしなければならない。

 

◆寄稿者等紹介 

 ・中西 研二 すずらんの丘―落石(おっちし)無線局の想い出(1/2)・・・2018/6/30日】参照

 ・出典① 『落石無線電報局沿革史』  

     編集発行 落石無線電報局 根室無線中継所

               1966年11月1日(p60)

     ②『にっぽん無線通信史』 福島 雄一 朱鳥社発行 2002年12月1日 (P191)

             ③North to the OrientAnne Morrow Lindbergh: Harcourt, Inc.』(P147)

          ( Copyright 1935 by  Anne Morrow Lindbergh  )        

          ④『翼よ、北に』アン・モロー・リンドバーグ:中村妙子訳:みすず書房発行 2002年8月(P272)

  

   




 

 

 


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