モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

長崎電信局と原爆

2016年08月12日 | 原爆
以下は、電電退職者の座談会で語られた原爆投下時の長崎電信局の模様です。 出典は、末尾参照。   原爆が、落ちたときには、電報局にいました。 当時は、まだ電信局といっていましたが、仮庁舎の蛍茶屋※にいた訳です。丁度あの頃は、通信回線もろくろく動かないし、さぼっていたのか、休憩時間だったのか知らないが、2階の畳の部屋に上がっていて横になっていた。 すると「ピカーッ!」とするもんだから、これは . . . 本文を読む

谷口稜曄~二十五年目の回想と証言(1/2)

2016年08月09日 | 原爆
以下の原爆の証言は、◆長崎の証言刊行委員会/編 あゆみ出版社1970年(昭和45)に収録されている谷口稜曄(すみてる)氏の証言です。氏の証言としては、最も初期のころのものと思われる。証言した当時の時代背景は、現在と異なるが、核兵器廃絶を願う氏の証言は、今も国と世界を叱咤する声として色あせるどころか、重みを増しているように思える。 谷口氏は、以下の証言の冒頭に書いているように、長崎市内の郵便局に電報配達員として採用され、2年目、郵便配達中に被爆し、生死の間をさまよった末、生き残られた。この証言には被爆時の勤務先は書いてないが、奇しくも先々月の6月30日の本ブログ「元逓信書記補の原爆詠」(中村達見氏寄稿)の歌人前川明人氏が勤務していたのと同じ長崎本博多郵便局に勤務していた。 その後、逓信省が、郵政省と逓信省に分離した24年に長崎電信局員となり、以来電報配達の業務に従事した。在職中の30年頃から原爆被害者援護、世界の核兵器廃絶運動に献身されている〈末尾参照)。 。 . . . 本文を読む

広島電信局と原爆(3/3)

2016年08月07日 | 原爆
◆5、広島電信局の復旧 (1)広島電信局の1次応急復旧~中局へ 復旧に当たり最も困ったことは、復旧に必要な工事関係要員が、有線工事局長以下、ほとんど亡くなったことだった。このため工事は、急遽広島へ来た応援者によってなされざるを得なかった。また、緊急用としてかねてより措置局としていた福屋の通信施設は、火災後、水道管破裂により水浸しとなり使用できず、放棄せざるを得なかった。 それでも、生き残った . . . 本文を読む

広島電信局と原爆(2/3)

2016年08月06日 | 原爆
◆3、広島電信局被爆の状況 (1)職場の被害状況 広島電信局は、爆心から約400メートルの近距離であったので、昭和25年(1945)8月6日午前8時15分、原爆炸裂の一瞬、閃光と一大爆音と共に強烈な爆風により、局舎内の設備一切はこっぱ微塵に破壊され尽し、その数秒前まで活発に活動をつづけていた職場は、死の沈黙と暗黒に急転した。窓とおぼしきあたりから、わずかにローソクの光ほどの光線がほのかに闇に射 . . . 本文を読む

広島電信局と原爆(1/3)

2016年08月05日 | 原爆
今春、広島在住の何人かの友人に原爆関係資料を依頼した。日を置かずに部厚い大型封筒が佐々木弘三氏から送付されてきた。中に、小島逸雄氏(元広島県会議員)作成の資料が同封されていた。小島氏は、原爆投下時、広島電信局に勤務していた方で、当日の朝、非番だったため生き残られた方である。 資料には、原爆投下前後の広島電信局の状況とかろうじて生きた延びた当時の電信局員の原爆体験記9編が収録されており、A3版見開きの「追悼」と題する貴重なもの(複写)だった。 その後、この資料により存在を知った広島原爆誌(中国電気通信局編)をあわせ読むことができ、広島電信局で通信に携わっていた人たちの原爆投下時の詳細を知ることができた。佐々木弘三氏に、心から厚くお礼申しあげます。 以下は、これらの資料による広島電信局の原爆投下前後の記録です。 . . . 本文を読む

<<精根つきて>> 田頭嘉雄氏の体験記

2016年08月01日 | 原爆
先日の「原爆予告をきいた」のアップ後、かねて近くの図書館に頼んでいた広島原爆誌が広島の図書館から届き、読んだ。この原爆誌は、後でも利用させていただくが、これに、原爆投下時に被爆した方の6編の原爆体験記が収録されいるのを知った。 その中に奇しくも、「原爆予告をきいた」の宮本広三氏の当時の係長だった方の手記があったので、ご紹介する。 . . . 本文を読む

原爆予告を聞いた(2/2)

2016年07月23日 | 原爆
◆原爆予告を聞いた(2/2) 広島 宮本 広三 氏 玄関前の広場は、負傷者でいっぱいだった。 「痛い、痛い」と 叫ぶ者もいる。うめき声をあげている者もある。目が飛び出て下にたれている人、焼けどと爆風で全身の皮膚がボロぎれのように垂れ下がった人、オバケのように両手を上げた人~手を降ろすと、焼けどで赤身が飛び出たところがこすれて、痛いからである。歩ける者は道路へ出て逃げだしていく。 あちこちから . . . 本文を読む

原爆予告を聞いた(1/2)

2016年07月16日 | 原爆
◆原爆予告を聞いた(1/2) 広島 宮本広三氏 私の背中には、原爆をあびたとき飛びこんだガラスのはへんがある。ほお、額、あご、右手、背中と合計10回にわたって手術をしてもらったがまだ残っている。 あの日私は爆心地から東北1.2キロメートルの広島市内白鳥町の広島逓信局の監督課無線係に勤務していた。 広島逓信局は、中国地方5県の郵便局、電信局、電話局、船舶の無線検査、放送局などを監督しており、 . . . 本文を読む

あの一瞬

2016年07月09日 | 原爆
太平洋戦争が終わった昭和20年の夏8月6日に広島、同9日長崎に原子爆弾が投下された。人類がかつて経験したことのない熱線、放射線、爆風により街は壊滅し、多くの人が死に、傷つき、その後も後遺症と原爆症に苦しめられた。 あの日、モールス通信や電報配達などに従事していた人々は、原爆とどう向い合い、一体どのように過ごしたのだろう。 これまで、同じ通信の仕事に従事しながら、そのような人達のことは殆ど何も知らなかったし、知ろうともしないで過ごしてきた。 本ブログを開設したときから、広島、長崎の先輩、友人に教えてもらったり、図書館などで調べたりしてきた。知り得たことは多くはないが、これから終戦の日までの2カ月間、それを何回かに分けて書いてみたい。 . . . 本文を読む