◆小島 逸雄
追憶・まえがき
トン・ツー・トン・トン 音響器から流れるモールス符号、それは決して騒動しい金属音の響きではなく、人々が織りなす様々の感情がそのまま伝わる見事なコントラストを綾なしている。戦時体制下での軍の情報、発令されるたびごとに警報の伝達、そして一般の連絡を伝える通信が、その日も黙々と行われていた。
「8月6日午前8時15分」何の前ぶれもなく、突然全ての通信手段は一瞬にして途絶えた。一大閃光と大轟音は一つの都市をまるごと廃墟にし、瓦礫の山を築いた。誰人も想像し得なかった未曽有の非人道的な大惨事が引きおこされたのであった。一転して修羅場と化した職場はこの世とも思えない形相を呈した。
袋町の富国ビルにあった広島電信局は、被災の状況がひどく復旧のメドが立たず,小町の広島電話局を仮局舎とした。私は被爆1週間後に富国ビル3階の通信室を訪れた。勿論そこに辿りつくには容易ではなかった。爆心地から380メートルの至近距離にあった富国ビルも例外ではなく、燃えるものはことごとく焼けつくされて瓦礫の山であった。私は余りにも変わり果てた現実にただ茫然と立ちすくんでしまった。
被災前の通信室が走馬灯の如く脳裏をかすめた。私は前日の5日、夜勤終了後警戒警報に伴い臨時警備を命じられ、その富国ビルに宿泊したのであった。運命の6日は11時出勤のため早朝帰宅して直接被爆を免れた。一緒に勤務したN氏は7時出勤で犠牲者の一人とな-った。生死を二分した運命の分かれ目に表現する言葉は無かった。
鉄骨だけとなって横転している通信台にぶら下がていた音響器をそーとはずし、電鍵、タイプライターの部品、番号器など折り込めて丁寧に拾い上げ持ち帰った。新局舎ができたとき、硝子のケースに収め局長室に置いた。その後何代か局長が替わり、その被爆の生き証人はケースごと倉庫に眠ることが繰り返された。喪失を虞れ、私はその一式を原爆資料館に持参した。
あれから半世紀が過ぎ、間もなく被爆60周年を迎えようとしている。忘れようとして忘れ去ることのできない20世紀最大の悲劇、二度と再び、このような残酷な生き地獄を繰り返させてはならない。これまでの資料を可能な限り補足して時代に引き継ぎたい思いにかられてここにまとめる。※
※2002年(平成14)10月1日・追憶作成日
◆ 付記・小島逸雄氏について:
小島氏の履歴は正確には把握できなかったが、広島逓信講習の普通部電信科の卒業生で、原爆投下の年かその少し前、広島郵便局電信課に配属された方である。原爆投下時の氏の年齢は15、6歳だったと推定される。
氏は、全電通労組広島被爆者連絡協議会委員長、広島県会議員などを歴任され、平成21年ころ80歳で逝去されている。広島在住の友人佐々木広三氏によれば、広島では信望の大変厚い立派な方だったようだ。
ネット検索をすると原爆資料館の資料の中に、小島氏寄贈として、上記追憶に書かれている電信器具、タイプライターが保存されている。また、広島電信局業務日誌が、故小島逸雄氏の遺族から寄贈(2009年)されたとあり、この日誌には「白光現出スル中瞬時ニシテ一大爆発音響起リ機械機具類室内ニ飛散シ一瞬ニシテ修羅場ヲ現出ス」と、原爆投下直後の惨状が綴られていると紹介されている。
小生、先行きは長くはないが、いつの日にか原爆資料館を訪ね、これらの資料と対面できることを願っています。
なお、今回の「追悼・まえがき」は、8月にブログアップを予定していましたが、筆者の履歴、ご遺族などを把握した上で紹介したいと考え、あちこち照会するうちに、遅くなってしまった。小島逸雄氏ご本人またはご遺族をご存知の方がおられましたら、ぜひ、ご一報いただきたいと願っています(増田)。
ただただ感謝です。
この度機会あって、
たまたま祖父の名前検索をかけたところ、
こちらへ辿り着きました。
きっと、祖父も
喜んでいる事と思います。
今 私たちの先輩である あなたのおじい様が 書き遺された「追悼」をあらためて読み その切々とした熱いおもいに 心を打たれています。
これが 多くの若い方々に読み継がれることを願っています。
ありがとうございました。