落石無線局の概要と沿革
◆中西 研二
1.落石無線局の概要(出典『落石無線電報局沿革史』)
(1)落石無線局の必要性及び開局時の設備など
わが国が海岸局を開局した当時(1908年)、日本からアメリカへの船舶は、航行距離を最短にするため大圏航路を通り、落石岬突端から90kmの沖合を航行していた。当時無線の通信距離は120海里(約230km)程度だったので、横浜出港後銚子局の通信到達圏は三陸沖までであり、以降アメリカまで10数日間連絡のとれないままの航海となっていた。またアメリカから日本へ向かう船舶も、できるだけ早く日本国内の相手と連絡をとる必要があったが、連絡手段がないため、落石付近に無線局を開設することが関係方面から強く要望されていた。
落石無線局の開局(1908年12月26日)時の職員は、局長と通信属(通信士)1名、小使1名のみであった。通信可能距離をできるだけ確保するため、岬の突端に無線局を設置したので、付近に人家もなく、生活環境は極めて悪く、日常生活に不便をかこった。
落石無線局の立地条件は、大圏航路を航行する船舶にはまことに好位置にあったが、勤務する人にとっては過酷な環境であった。後に落石無線局で勤務した大貫勇氏の言によれば、次のようである。「吹雪ともなれば崖ぶちに立ち並んでいる無線局の建物を海へ突き落さんとするばかりに荒れ狂う。裏の崖下からは打ち寄せた大波が絶壁に砕ける音が絶えず響いてくるが、それも時化の日には荒々しい轟音と化すのである」。
[開局時設備]
送信装置 スパーク式(4kW)<中西注>
受信装置 鉱石受信機
アンテナ 垂直アンテナ
電柱 木柱60m余
電波長 300m
敷地 28,450㎡
購入価格 8.02円:3.3㎡当たり1厘で北海道庁から購入
(中西注)スパーク式とは、火花(スパーク)送信機の火花放電により電波を発射する無線方式。送信機の電鍵を押すことによって流れる電流は、インダクション・コイルの2次側で高圧となり、両側に接続された金属球(小)とやや離れた金属球(大)との間に誘導電流を発生、大球への充電分が両球の間に満たしたパラピン油を通し、電気振動(電波)として空間に発射される。
1908年、電気試験所が行った実験では、出力を精一杯に上げたため、送信時の火花はまるで雷のような音を伴い、電鍵を叩くごとに、アンテナはコロナ放電を起こして光輝いた。さらにアンテナの先端からは、高電圧のため碍子を飛び越えて火花が散る壮観さ。また昼間に準備試験を行うと電話線に高周波電流が乗り、送話器からは通話者の鼻の先からスパークが飛ぶ有様である。(『にっぽん無線通信史』)
落石無線局開局後、最初の船舶との通信は、1909年1月7日、日本郵船安芸丸であった。当時、海岸局は5局、船舶局も官設無線局が9局のみで、通信量は極めて少なく数日間、通信ゼロということが少なくなく、落石無線局も安芸丸との交信は開局13日後であった。
(2)送信所
① 送信周波数:長波、中波、短波
② アンテナ:当初60m余の木柱、その後90mの鉄塔5基建設
種別 高さ 水平部長さ 引込み部長さ 送信波長
5kW大アンテナ 90m 300m 135m 5225,4100m
3kW中アンテナ 90m 100m 125m 3350,2400,1800,600m
1kW小アンテナ 60m 15m 70m 800,600,300m
③ 送信機器:
開局時は普通火花式4kW。1923年に瞬滅火花式が開発され、同年2月逓信省火花式送信機(30kW)と予備機(7kW)が設置された。1924年送信所火災後、1927年には、3kW真空管式送信機(長波)、2.5kW真空管式送信機(中波)、1kW真空管式送信機(中長波)、1kW真空管式送信機(短波)設置。
(3)受信所
① 受信周波数:長波、中波、短波
② アンテナ:30m鉄塔2基、20m木柱1基
③ 受信機器
開局時、鉱石受信機。1924年、長中波オートダイン受信機。1927,8年頃、工務主任だった竹内氏は自費で真空管を購入し受信機を組み立て、試験を行ったという。
1927年、スーパーヘテロダイン受信機にかわり1941年まで使用され、同年RJ703型に、1945年にはRM401型に取り替えられている。
④ 通信席
私が在籍していたときは、短波と中波の2席であった。すなわちそれぞれの通信席に通信士が座り、担当している通信帯の送受を行っていた。札幌との有線席は、常駐担当者がいなかった。必要なときに対応すればよいからである。
(4)電力設備
商用電源が受電できたのは1948年であり、それまで自家発電で電力供給した。
(5)長波、短波の積極的な利用
落石無線局では、中波では到達距離に制約があるので、遠距離を航行する船舶との通信量を増やすため、最初は長波、その後、短波の積極的な利用を進めた。例えば、長波及び短波の常時ワッチ体制など。
2.落石無線局の沿革
1908年12月26日 北海道根室郡和田村大字落石村落石大岬に落石無線局開局、出力 4kW。銚子無線局は出力1kW(1908年5月16日開局)
1915年6月15日 カムチャッカ半島南端ペトロパブロフスク局と日本初の国際無線通信業務を開始。有線通信では、1871年(明治4年)政府は、デンマークの大北great Northern電信会社に我が国初の許可を与え、長崎―上海、ウラジオストク間の海底ケーブルによって、海外の民間通信会社に依存した形で、我が国初の国際無線通信が海底線電信で開始された。
1916年1月10日 30kW送信機と鉱石受信機により、3,100海里離れたハワイのカフカ局と試験通信に成功
1920年9月12日 千島列島の北端、幌筵無線局開局に伴い固定無線通信開始。北洋漁業の開発が次第に進んで、鮭、鱒、カニなどの沖取り操業が盛んになり、また占守島、幌筵島など北千島沿岸の鱈漁も開拓されるに従い、漁船はもとより漁業関係船舶の往来が激しくなってきたので、この方面の中心に通信基地を建設する必要が生じてきたため。
1923年9月1日 関東大震災が発生
1923年12月21日 通信量が増加したため送信所と受信所を分離(国内初)。受信所は根室市桂木に移転。アンテナが送受・別になるため、送信と受信が同時並行に行える。新送信所は、岬の突端から2キロほど村に近い場所に新設された。
1925年7月12日 北樺太の油田地帯にあるオハ局と国際無線通信開始
1925年8月16日 送信所火災。瞬滅火花送信機の冷却装置電動機から発する火花が床 上の油に引火して火災となり、送信所庁舎の大半を焼失。
1927年8月 火災後の復旧工事完了。日本初の短波業務開始
1929年8月17日 世界一周のドイツツェッペリン伯号と波長36mで日本初の航空機通信に成功。同号はシベリア上空ヤクーツク西方にあり、落石無線局との距離は約3500kmであった。同局の他に東京無線電信局、樺太大泊局、銚子局も交信を試みたが、落石無線局の小間清次郎通信士のみが接触に成功した。その後も同号がアメリカ、レークハウスト飛行場到着まで連絡を取り続け、ツェッペリン号の通信士から“GREAT JOC”と謝辞が贈られた。
1930年11月1日 千島列島、択捉島沙那と通信開始
1931年8月19日 アメリカ、リンドバーグ大佐のシリウス号との通信に成功
1932年2月1日 南米沿岸航行中の大阪商船モンテビデオ丸との短波長距離通信に成功。この距離は1万カイリであり、地球半周に当たる。双方とも小電力の自動送信機と3球オートダイン受信機であった。
1932年9月24日 第3報知日米号の太平洋横断飛行の際、青森県淋代~択捉島付近まで同機の無線連絡を確保。その後同機の遭難事故捜索に活躍
1933年8月 北方四島、色丹島との通信開始
1939年8月31日 東大航空研究所の太平洋横断機日本号の青森県淋代~アンカレジ間飛行中、無線確保に活躍
1945年7月14日 送信所施設は米軍機の爆撃により焼失
1945年8月6日 送信所施設、応急復旧
1945年8月15日 昭和天皇のポツダム宣言受諾放送
1945年9月 敗戦により千島列島、ソ連との通信中止
1945年5月5日 通信業務開始
1946年9月1日 短波業務中止
1952年3月4日 十勝沖地震に際し厚岸郡浜中村霧多布被災救助のため、同集落の通信確保に活躍
1952年5月1日 短波業務再開
1958年6月21日 短波業務を銚子無線局へ移管
1959年6月13日 送信所施設を落石岬から根室市桂木の受信所と同一敷地内へ移設。長波施設を撤去
1966年11月1日 落石無線局廃局となり札幌中央電報局に統合される<おわり>
◆寄稿者紹介
・中西 研二 1935(昭10)生れ 千葉県
鈴鹿電気通信学園普通電信科卒 1951年11月
<寄稿者については、『すずらんの丘―落石)無線局の想い出(1/2)』 2018/6/30日の寄稿者紹介【付記】をご参照ください。 >
・出典① 『落石無線電報局沿革史』
編集発行 落石無線電報局 根室無線中継所
1966年11月1日(p60)
②『にっぽん無線通信史』 福島 雄一
朱鳥社発行 2002年12月1日(P191)
【付記ー増田】まだ肌寒い新春のころ、無線経験者である中西研二氏に、本ブログへの寄稿をお願いしました。快く北海道の落石(おっちし)無線局での若き日の氏自身の無線通信従事の体験を中心とする無線通信関連記事を書いていただきました。音響通信に偏っていた本ブログに無線通信の記事を掲載することができ、嬉しいかぎりです。
記事作成にあたり、氏は北海道県立図書館や市販図書から多数の無線関係の文献を渉猟され、「落石無線の想い出1/2(6/30日ブログ記事)」から今回の「落石無線局の概要と沿革」までの長文の記事をまとめてくださいました。多くの著書を出版されている氏にとって、楽しい作業だったと述懐されていますが、ご多忙のなか厚くお礼申し上げます。
氏のご健勝を心から祈念すると共に、永年の地域貢献活動にも、無理のない程度にご活躍くださいますようお願いします。
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