ポツダム宣言受諾を打電(2/2)
~終戦決定時の東京中央電報局
20年7月26日、ついに米・英・華3か国は、日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。
ポツダム宣言は、日本の主権、武装解除、戦争犯罪人の処罰などの条件をあげ、最後に無条件降伏か壊滅か、次のように即時決定を迫った。
「吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且 . . . 本文を読む
わが国は、昭和20年8月10日にボツダム宣言の受諾を決定、8月15日、やっと終戦の日を迎えた。国の困難なこの時期、電信事業の中枢的存在だった東京中央電信局の電信マンは、どのように過したのだろうか。当時の緊迫した様子を下記の記録により紹介します。
出典;続東京中央電報局沿革史 (編集東京中央電報局 昭和45年発行)
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以下は、電電退職者の座談会で語られた原爆投下時の長崎電信局の模様です。
出典は、末尾参照。
原爆が、落ちたときには、電報局にいました。
当時は、まだ電信局といっていましたが、仮庁舎の蛍茶屋※にいた訳です。丁度あの頃は、通信回線もろくろく動かないし、さぼっていたのか、休憩時間だったのか知らないが、2階の畳の部屋に上がっていて横になっていた。
すると「ピカーッ!」とするもんだから、これは . . . 本文を読む
以下の原爆の証言は、◆長崎の証言刊行委員会/編 あゆみ出版社1970年(昭和45)に収録されている谷口稜曄(すみてる)氏の証言です。氏の証言としては、最も初期のころのものと思われる。証言した当時の時代背景は、現在と異なるが、核兵器廃絶を願う氏の証言は、今も国と世界を叱咤する声として色あせるどころか、重みを増しているように思える。
谷口氏は、以下の証言の冒頭に書いているように、長崎市内の郵便局に電報配達員として採用され、2年目、郵便配達中に被爆し、生死の間をさまよった末、生き残られた。この証言には被爆時の勤務先は書いてないが、奇しくも先々月の6月30日の本ブログ「元逓信書記補の原爆詠」(中村達見氏寄稿)の歌人前川明人氏が勤務していたのと同じ長崎本博多郵便局に勤務していた。
その後、逓信省が、郵政省と逓信省に分離した24年に長崎電信局員となり、以来電報配達の業務に従事した。在職中の30年頃から原爆被害者援護、世界の核兵器廃絶運動に献身されている〈末尾参照)。
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◆5、広島電信局の復旧
(1)広島電信局の1次応急復旧~中局へ
復旧に当たり最も困ったことは、復旧に必要な工事関係要員が、有線工事局長以下、ほとんど亡くなったことだった。このため工事は、急遽広島へ来た応援者によってなされざるを得なかった。また、緊急用としてかねてより措置局としていた福屋の通信施設は、火災後、水道管破裂により水浸しとなり使用できず、放棄せざるを得なかった。
それでも、生き残った . . . 本文を読む
◆3、広島電信局被爆の状況
(1)職場の被害状況
広島電信局は、爆心から約400メートルの近距離であったので、昭和25年(1945)8月6日午前8時15分、原爆炸裂の一瞬、閃光と一大爆音と共に強烈な爆風により、局舎内の設備一切はこっぱ微塵に破壊され尽し、その数秒前まで活発に活動をつづけていた職場は、死の沈黙と暗黒に急転した。窓とおぼしきあたりから、わずかにローソクの光ほどの光線がほのかに闇に射 . . . 本文を読む
今春、広島在住の何人かの友人に原爆関係資料を依頼した。日を置かずに部厚い大型封筒が佐々木弘三氏から送付されてきた。中に、小島逸雄氏(元広島県会議員)作成の資料が同封されていた。小島氏は、原爆投下時、広島電信局に勤務していた方で、当日の朝、非番だったため生き残られた方である。
資料には、原爆投下前後の広島電信局の状況とかろうじて生きた延びた当時の電信局員の原爆体験記9編が収録されており、A3版見開きの「追悼」と題する貴重なもの(複写)だった。
その後、この資料により存在を知った広島原爆誌(中国電気通信局編)をあわせ読むことができ、広島電信局で通信に携わっていた人たちの原爆投下時の詳細を知ることができた。佐々木弘三氏に、心から厚くお礼申しあげます。
以下は、これらの資料による広島電信局の原爆投下前後の記録です。 . . . 本文を読む
先日の「原爆予告をきいた」のアップ後、かねて近くの図書館に頼んでいた広島原爆誌が広島の図書館から届き、読んだ。この原爆誌は、後でも利用させていただくが、これに、原爆投下時に被爆した方の6編の原爆体験記が収録されいるのを知った。
その中に奇しくも、「原爆予告をきいた」の宮本広三氏の当時の係長だった方の手記があったので、ご紹介する。 . . . 本文を読む