◆原爆予告を聞いた(1/2)
広島 宮本広三氏
私の背中には、原爆をあびたとき飛びこんだガラスのはへんがある。ほお、額、あご、右手、背中と合計10回にわたって手術をしてもらったがまだ残っている。
あの日私は爆心地から東北1.2キロメートルの広島市内白鳥町の広島逓信局の監督課無線係に勤務していた。
広島逓信局は、中国地方5県の郵便局、電信局、電話局、船舶の無線検査、放送局などを監督しており、庁舎は4階建て,昭和8年(1933)に竣工し、黄白色の現代的な建物だった。無線室は、3階の南の隅にあった。建物は東側も西側も総ガラスで、すぐ西にある広島城の天守閣がよく見えた。逓信局の東南隣りには、2階建ての逓信病院があった。
監督課無線係は、放送の監督や船舶の無線検査などを行っていた。ラジオも許可がないと聞けなかった時代だから許可証を発行したり、放送内容の検閲もしていた。
船舶の無線機検査は、無線係にいる書記と技手(判任官)が出かけで行った。私だけが無線係では例外の技手で、無線機の保守を、2人の若い書記(工務員)と交代でやっていた。空襲で有線が切れても、緊急電報だけは無線機で主要都市の間は通信ができるようになっていた。約2キロ南にある袋町の広島電信局までケーブルを引いて、そこで無線を送受信していた。
無線通信には6.1メガヘルツを使っていたが、夜勤のとき、調整のため受信機を少し回すと、敵の放送が聞えてくる。これを私たちはデマ放送といった。この放送は、サイパン島が占領されると普通のラジオで聞こえる周波数でサイパンから放送していたが、日本の放送局(NHK)は、それと同じ周波数でレコードを逆さに回した妨害電波をかぶせて、民間には聞き取れないようにしていた。放送は、「こちらはアメリカの声です」といい、「ボイス・オブ・アメリカ」と英語もつけ加えていた。聞いてみるとニュースや空襲の予告だった。
空襲の予告と日本の新聞ニュースをつき合わせてみると、全く予告どおりといってよいほどだったので、デマではなく本当ではないかと私は思った。
8月1日、この「ボイス・オブ・アメリカ」が、「8月5日に特殊爆弾で広島を攻撃するから、非戦闘員は広島から逃げなさい」という放送を数回繰り返した。
「バカなことをいうな。第一、適性放送を聞くとはなにごとだ。お前は耳がダメ(モールス有技者ではない)じゃないか」と叱られた。
「いや、日本語の音声で確かにそう放送したのです」
「デマを漏らしてはいけんから、お前は家へ帰さん」
と足止めをくってしまった。2回ほど家に帰ったが、5日まで当直が多く、母が毎日のように3度の弁当を2キロメートル南方にあった比治山下の自宅から運んでくれた。
予告当日の8月5日は、警戒警報と空襲警報が繰り返し発令された。しかし、爆弾は落とされず、無事に暮れた。すると、
「宮本が徹夜をやれ」
ということになり、1人だけ残され、みんなは帰宅した。
8月6日の朝はよい天気だった。7時過ぎに警報が出たが、まもなく解除となった。出勤してきた係長は、
「宮本、ちょっと来い」
と私を呼びつけた。
事務室は、階の中央に長い廊下があり、簡単な仕切りで、東側はタイプ室、西側は無線係の部屋だった。
お城の天守閣を背に、係長は窓際にどっかり座っている。私はその前に立った。
「宮本、やっぱり何もなかったではないか。デマに惑わされるとはなにごとか」
「しかし、私ははっきり聞いたんです。間違いなく聞いたとおり報告したんです」
言い終って、ひょいと目を上げると、飛行雲がある。北から南へ向かっている。何か白いものが、飛行機から離れた。これだ、とひらめいたので、
「みんな伏せるんだ」
と大声で叫んだ。
そう叫んだつもりだったが、みんなにはどう聞こえたか分からない。
私は、昭和14年(1934)に現役で兵隊にとられ、重機関銃手として3年間、南支、仏領インドシナなどで戦争をし、ドンダン(ベトナムと中国国境)では、地雷により吹き飛ばされて脊(せき)部圧迫骨折をしたり、戦場の経験があるから、素早く伏せたつもりだが、ピカッと光ったのは覚えていても、ドーンという音は覚えがない。プシューンという不気味な響きと、あの爆風の何ともいいようのない重圧感~私は東北へ頭を向けて床へつっ伏していたが、爆風を体で感じた瞬間、何も分からなくなった。気がつくと、庁内にも外の道路にも、わいてくるような悲鳴やうめき声がいっぱいだった。
やっとの思いで、窓際へ這って行って、窓枠に手をかけて外を見た。あっ、と驚いた。見なれていた5層の広島城の天守閣がない。(これはえらいことになった)と頭に手をやるとぬるりとする。手を見ると、べっとり血のりがついている。東北に向いて伏せたため、西側のガラスがかけらになって飛んできて、左半分の頭に針ネズミのように突きささっている。右手で目に流れこむ血をぬぐって、よく見ると腰に革バンドが1本残っているだけで、ズボンもシャツもない。ようやく体全体が痛みだした。
それでも、退避のときには持ちだすことになっている重要書類を持ちださなくてはという気になり、自分の机はどうなったかと見回すと、粉々になった机やイスが、中央の廊下にうず高く吹きよせられている。それも西側からだけでなく、東側からも吹きこんだ爆風に飛ばされてきて、中央に山を作っている。人影はない。(みんなもう逃げたんだな)と思ったとき、ぼうっとして、またわからなくなった。
気がついて、とにかく外へ逃げねばと、少し歩いては倒れ、また気がついて歩くということを繰り返して、やっと玄関へはいだした。
≪本稿、次回2/2へ続く≫
【付記】
この体験記は、下記出典に収録されているものを、出版社に電話した上で、ほぼ原文どおり紹介させていただいた。電話に出られた方は、この図書が出版された当時、勤務をされていたそうで、体験記を公募した当時のことをよく記憶されており話してくれた。
各体験記の末尾に、氏名、住所、年齢63歳と作者紹介がある。これで、作者の宮本氏とご遺族に連絡を試みたが、ダメだった。前回の岡山市の桑島一男氏と、今回の宮本氏については、ご遺族の消息でもなんとか知ることができないか、と思案している。ご存知の方があれば是非ご一報をお願いします。
◆出典;宮本広三氏の下記図書に収録されている「原爆予告をきいた」<図書のタイトル名と同じ>
・続ー語り継ぐ戦争体験ー1「原爆予告 をきいた」
日本児童文学者協会・日本子供を守る会/編 1983年発行 ㈱草土文化
広島 宮本広三氏
私の背中には、原爆をあびたとき飛びこんだガラスのはへんがある。ほお、額、あご、右手、背中と合計10回にわたって手術をしてもらったがまだ残っている。
あの日私は爆心地から東北1.2キロメートルの広島市内白鳥町の広島逓信局の監督課無線係に勤務していた。
広島逓信局は、中国地方5県の郵便局、電信局、電話局、船舶の無線検査、放送局などを監督しており、庁舎は4階建て,昭和8年(1933)に竣工し、黄白色の現代的な建物だった。無線室は、3階の南の隅にあった。建物は東側も西側も総ガラスで、すぐ西にある広島城の天守閣がよく見えた。逓信局の東南隣りには、2階建ての逓信病院があった。
監督課無線係は、放送の監督や船舶の無線検査などを行っていた。ラジオも許可がないと聞けなかった時代だから許可証を発行したり、放送内容の検閲もしていた。
船舶の無線機検査は、無線係にいる書記と技手(判任官)が出かけで行った。私だけが無線係では例外の技手で、無線機の保守を、2人の若い書記(工務員)と交代でやっていた。空襲で有線が切れても、緊急電報だけは無線機で主要都市の間は通信ができるようになっていた。約2キロ南にある袋町の広島電信局までケーブルを引いて、そこで無線を送受信していた。
(前回紹介した岡山郵便局の非常無線の相手だった広島電信局は、逓信局に立てたアンテナで電波を送受し、逓信局は、それを広島電信局無線係までケーブルを引き、モールス符号を流していたと思われる。増田)
無線通信には6.1メガヘルツを使っていたが、夜勤のとき、調整のため受信機を少し回すと、敵の放送が聞えてくる。これを私たちはデマ放送といった。この放送は、サイパン島が占領されると普通のラジオで聞こえる周波数でサイパンから放送していたが、日本の放送局(NHK)は、それと同じ周波数でレコードを逆さに回した妨害電波をかぶせて、民間には聞き取れないようにしていた。放送は、「こちらはアメリカの声です」といい、「ボイス・オブ・アメリカ」と英語もつけ加えていた。聞いてみるとニュースや空襲の予告だった。
空襲の予告と日本の新聞ニュースをつき合わせてみると、全く予告どおりといってよいほどだったので、デマではなく本当ではないかと私は思った。
8月1日、この「ボイス・オブ・アメリカ」が、「8月5日に特殊爆弾で広島を攻撃するから、非戦闘員は広島から逃げなさい」という放送を数回繰り返した。
(ここでは、放送は6日でなく5日と予告している。5日としたのは、米国の日付だったから1日ずれたという解釈を読んだことがあるが、その真偽は確かめていない。増田)
これは大変なことになった。予告は正確だ。どうしようと思ったが、他に漏らすことはできないので、係長だけには報告した。係長は、「バカなことをいうな。第一、適性放送を聞くとはなにごとだ。お前は耳がダメ(モールス有技者ではない)じゃないか」と叱られた。
「いや、日本語の音声で確かにそう放送したのです」
「デマを漏らしてはいけんから、お前は家へ帰さん」
と足止めをくってしまった。2回ほど家に帰ったが、5日まで当直が多く、母が毎日のように3度の弁当を2キロメートル南方にあった比治山下の自宅から運んでくれた。
予告当日の8月5日は、警戒警報と空襲警報が繰り返し発令された。しかし、爆弾は落とされず、無事に暮れた。すると、
「宮本が徹夜をやれ」
ということになり、1人だけ残され、みんなは帰宅した。
8月6日の朝はよい天気だった。7時過ぎに警報が出たが、まもなく解除となった。出勤してきた係長は、
「宮本、ちょっと来い」
と私を呼びつけた。
事務室は、階の中央に長い廊下があり、簡単な仕切りで、東側はタイプ室、西側は無線係の部屋だった。
お城の天守閣を背に、係長は窓際にどっかり座っている。私はその前に立った。
「宮本、やっぱり何もなかったではないか。デマに惑わされるとはなにごとか」
「しかし、私ははっきり聞いたんです。間違いなく聞いたとおり報告したんです」
言い終って、ひょいと目を上げると、飛行雲がある。北から南へ向かっている。何か白いものが、飛行機から離れた。これだ、とひらめいたので、
「みんな伏せるんだ」
と大声で叫んだ。
そう叫んだつもりだったが、みんなにはどう聞こえたか分からない。
私は、昭和14年(1934)に現役で兵隊にとられ、重機関銃手として3年間、南支、仏領インドシナなどで戦争をし、ドンダン(ベトナムと中国国境)では、地雷により吹き飛ばされて脊(せき)部圧迫骨折をしたり、戦場の経験があるから、素早く伏せたつもりだが、ピカッと光ったのは覚えていても、ドーンという音は覚えがない。プシューンという不気味な響きと、あの爆風の何ともいいようのない重圧感~私は東北へ頭を向けて床へつっ伏していたが、爆風を体で感じた瞬間、何も分からなくなった。気がつくと、庁内にも外の道路にも、わいてくるような悲鳴やうめき声がいっぱいだった。
やっとの思いで、窓際へ這って行って、窓枠に手をかけて外を見た。あっ、と驚いた。見なれていた5層の広島城の天守閣がない。(これはえらいことになった)と頭に手をやるとぬるりとする。手を見ると、べっとり血のりがついている。東北に向いて伏せたため、西側のガラスがかけらになって飛んできて、左半分の頭に針ネズミのように突きささっている。右手で目に流れこむ血をぬぐって、よく見ると腰に革バンドが1本残っているだけで、ズボンもシャツもない。ようやく体全体が痛みだした。
それでも、退避のときには持ちだすことになっている重要書類を持ちださなくてはという気になり、自分の机はどうなったかと見回すと、粉々になった机やイスが、中央の廊下にうず高く吹きよせられている。それも西側からだけでなく、東側からも吹きこんだ爆風に飛ばされてきて、中央に山を作っている。人影はない。(みんなもう逃げたんだな)と思ったとき、ぼうっとして、またわからなくなった。
気がついて、とにかく外へ逃げねばと、少し歩いては倒れ、また気がついて歩くということを繰り返して、やっと玄関へはいだした。
≪本稿、次回2/2へ続く≫
【付記】
この体験記は、下記出典に収録されているものを、出版社に電話した上で、ほぼ原文どおり紹介させていただいた。電話に出られた方は、この図書が出版された当時、勤務をされていたそうで、体験記を公募した当時のことをよく記憶されており話してくれた。
各体験記の末尾に、氏名、住所、年齢63歳と作者紹介がある。これで、作者の宮本氏とご遺族に連絡を試みたが、ダメだった。前回の岡山市の桑島一男氏と、今回の宮本氏については、ご遺族の消息でもなんとか知ることができないか、と思案している。ご存知の方があれば是非ご一報をお願いします。
◆出典;宮本広三氏の下記図書に収録されている「原爆予告をきいた」<図書のタイトル名と同じ>
・続ー語り継ぐ戦争体験ー1「原爆予告 をきいた」
日本児童文学者協会・日本子供を守る会/編 1983年発行 ㈱草土文化
コメント感謝します。
このブログは、モ―ルス音響通信に従事した人たちへのオマージュとして個人的に全国の彼らが残した記録を収集したものです。ブログ管理者の私も電報局で通信を担当した者です。モールス符号を一字ずつ送信し、電報として宛先に配達した時代が現在の一人一台の通信機器を持つ時代の前にあったことを若い人たちにも知っていたいという想いもありました。原爆投下により広島と長埼の通信士たちも多くの市民とともに命を落としました。その悲劇を後世に伝え、繰りかえしてはならないと無念に思いながら彼らの記録を一文字ずつ転写しました。今それが貴兄に読んでいただけたようで、嬉しく思っています。。