◆戦中、戦後の銚子無線
出典 銚子無線70年のあゆみ
1.太平洋戦争のころ
銚子市は関東のもっとも東端、利根川の川口に位置しているため、米空軍が東京空襲するときの上陸目標地点となっていた。そのため米軍機が東京への往き返りのついでに空襲することが多く、前後16回にも及んだ。そのうちもっとも被害の大きかったのは昭和20年3月9日午後9時ごろからの空襲と、同年7月20日午前0時30分からの空襲であった。
銚子市史によれば、この一連の空襲で焼失家屋は5,142戸にも達した。これは全市の35.4%にあたり、死者は332人、負傷者は849人にのぼり、千葉県下では千葉市に次ぐ大きな被害であった。
銚子無線局は、灯台とともにアンテナが恰好の攻撃目標となったため、幾度か機銃掃射や焼夷弾の投下を受けたが、局舎が市街からはなれた郊外であったため致命的な被害を受けなかったことは幸いであった。
一方無線通信業務は、太平洋戦争の直前から電波の発射はきびしい管制下におかれていた。長波通信の呼出応答波は132KCであった。取り扱う通信はもっぱら聴取に限られ潜水艦情報、警報が入り次第即刻500KCと132KCの同時発射で放送を行った。船舶が敵潜水艦等の攻撃を受けたときは「SOS」ともいうべき「ソラ」の緊急符号を付して救助を求める情報を送ることになっていた。しかしその取り扱いはきわめて稀で、現実的には船舶側ではほとんど発信する余裕はなかったようである。
中波通信の呼出応答波500KCで、通信波は銚子無線側418KC、船舶側は425KCであった。取り扱いの内容は長波と同じであり、また長中波については、各海岸局とも敵機の方向探知器に利用されないよう配慮したため、同一周波数を使用していた。
短波通信の場合は呼出、応答通信とも8280KC1波で、CQスリップ(注)はかけず、船舶からだけの電波を受けるべく待機していた。東京が初めて空襲された時、敵機の編隊を小笠原付近で発見した見張りの漁船が、8280kCで銚子無線局へ打電してきたことがあったが、この漁船はそのあとすぐに爆沈された。当時はこのように移動無線局も戦時体制におかれ、漁船本来の仕事よりも船舶、敵機の見張りの任務に大きなウエィトをもっていたのである。
また太平洋戦争ぼっ発直前の昭和16年8月14日には、内国無線電報検閲局に指定され、それからは横須賀海軍鎮守府から検閲将校が派遣され常駐することになった。電報は1通1通きびしく検閲されたが、1日の取り扱い通数は極端に少なく、横須賀海軍鎮守府から発信される潜水艦情報等が2~3通程度で、船舶から発信される公衆電報は、電波管制がしかれていたためほとんど皆無であった。
◇戦時中の無線通信士の受難
太平洋戦争の、もっとも激しかった昭和18年のはじめごろ、大坂商船高千穂丸に無線局長として従事していたK.T氏(第15代銚子無線局長、昭和22年~30年)は、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した高千穂丸から脱出して九死に一生を得た後の報告に、当時の模様を次のように記している。
2.終戦を迎えた銚子無線
4年間の長期にわたった太平洋戦争は、文字どおり国の総力をあげて戦い、そして潰滅的な打撃を受けて敗戦した。このため国内の通信網は寸断され不通続出の状態であった。当時銚子無線局からの有線回線は、東京回線1回線、気象回線1回線であったが、この回線も20年6月1日から障害となったままで、まったく使用できなく、東京非常無線を使用してそ通されていた。
一方海運界も潰滅的な打撃を受けており、1日平均在圏船舶数は数隻で、10隻を超える日はごく稀であった。従って船舶発着無線電報も20年9月は月間26通、10月187通と僅少なものであった。それは戦時中から船舶に発着する無線電報は、東京船舶運営会社の所属以外、無線電報取扱規程第13条や閣令第72号(21.12.28)により規制されていたことにもよる。
東京と国内各地へ発着する電報は、前述のように回線の不通や障害がちとなっていたため、銚子無線で臨時中継を行い、長崎をはじめ新潟、潮岬、焼津、落石等の海岸局を経由してそ通を行ったので、海岸局本来の業務よりも臨時中継の方が忙しくなり、固定局の業務がその大部分を占めていた。
東京との交信は、1日4回(0900,1130,1300,1530)交信することになっていたが、そ通は決して円滑ではなく、郵送を余儀なくされたこともしばしばであった。それは東京側の要員確保が困難であったことが主な原因で、当局の連呼が30分、60分にも及ぶこともあった。また多少の混信でも打ち切られたり苦慮の日々であった。
有線回線は20年11月16日復旧したものの、老朽回線のため障害が多く,もっぱら無線によるそ通が翌21年3月末まで続いた。その後復旧整備が進むにつれ、東京非常無線によるそ通は特にふくそうしたとき以外は使用されなくなったが、結局21年6月からの臨時中継は廃止された。
<<終戦直後の電報通数>>
年 月 ・合 計(内船舶発着)
22年09月・ 5,293 (26)
10月・19,197(187)
11月・25,382(157
12月・28,017(343)
23年01月・18,273 (339)
<<参考>>20年10月要員 無線通信士 25名 有線通信士3名
主な運用波 5250KC 3600KC 8500C
戦争中の無線通信士は、聴取作業が主な業務で、電波を出すことは、逆に敵側に傍受されることになるので、電波を出すことはきびしく規制されていた。いわば制約に閉じ込められた無線通信士であったが、終戦後は、海外からの引き揚げ者の輸送船や、食糧物資の荷物船が漸増するにつれ、無線通信士本来の作業にもどりつつあった。苦悩の淵からはい上がり、希望の曙光を見だした無線通信士は、蘇生の心地で喜んだ。その喜びは昭和20年9月の無線電信月報に次のように記されていることからもうかがえる。
終戦を迎えた銚子無線では、終戦翌月の9月の無線電信月報<現物写真略>には、兵役を解除となり刻々と無線通信士が復員してきた様子が記録されている。
船舶の通信概況が次のように記録されている(20.11無線電信月報)。
3.南氷洋捕鯨船団との通信
南氷洋捕鯨通信は、もともと戦前の昭和14年12月から始められたものであるが、第2次世界大戦のぼっ発により中断され、戦後になって昭和21年12月から再開された。
戦後の食料難時代、国民の蛋白源を大量に確保するため国策として出漁した捕鯨船団の活躍と貢献は、はかりしれないものであった。最盛期の昭和35~39年ごろには7船団(1船団は母船、キャッチャー12、仲積み冷凍船6隻)にも達し、捕鯨船事業は世界のトップにのしあがっていた。
これら捕鯨船団との通信は、毎年船団が赤道を通過して南氷洋の漁場付近に到着する12月はじめから、操業の終了する翌年の3月ごろまでの期間、特別に割当てられた周波数(JCS2~JCS5)によって行う協定通信で、毎日午後4時ごろから午後10時まで船団ごとに定められたスケジュールにもとづいて行われた。わが国の海岸局では、銚子無線と長崎無線が通信連絡をひきうけていたのであるが、母船との通信がその大半を占めていた。
捕鯨が活況をおびていた当時、銚子無線局の通信取扱数は、事業信、私信を含めると大変なもので、1日当たり平均200通にものぼった。そのほか年末年始には年賀電報が多発され、遠距離通信独特のハンデもあって海岸局側の通信士は質量ともにいろいろと苦心を重ねたものであった。
一方、船団側でも対内地通信の外に捕鯨船、仲積船等船団内の通信も行う関係で母船にはベテランの通信士を配置していたようであり、捕鯨船団と銚子無線局側の双方の無線士の間には、専門技術者としてのよきライバル意識や友情が生まれたのは当然のことである。海岸局の通信士にとっては、この捕鯨通信席にかけてもらうことが一人前になった証拠であって、それに達するまではかなりの努力が必要であったようである。(中略)
捕鯨国日本に対する世界的な批判のなかで、母船をはじめ名声をはせた船が次々にスクラップ化され、昭和52年からの出漁は、わずかに1船団、日本水産、大洋漁業、極洋捕鯨各社の寄合いで設立された日本共同捕鯨のみになったが、その最盛期を知るものにとってはなんともさびしいものである。これより一時代を通じて果たしてきた銚子無線の捕鯨協定通信も51年3月31日をもって終了し、船橋の中央漁業無局にすべて引継いだのである。 おわり
◆出典
銚子無線70年のあゆみ
銚子無線電報局編集(昭和53.10.23)
(株)川口印刷工房印刷
出典 銚子無線70年のあゆみ
1.太平洋戦争のころ
銚子市は関東のもっとも東端、利根川の川口に位置しているため、米空軍が東京空襲するときの上陸目標地点となっていた。そのため米軍機が東京への往き返りのついでに空襲することが多く、前後16回にも及んだ。そのうちもっとも被害の大きかったのは昭和20年3月9日午後9時ごろからの空襲と、同年7月20日午前0時30分からの空襲であった。
銚子市史によれば、この一連の空襲で焼失家屋は5,142戸にも達した。これは全市の35.4%にあたり、死者は332人、負傷者は849人にのぼり、千葉県下では千葉市に次ぐ大きな被害であった。
銚子無線局は、灯台とともにアンテナが恰好の攻撃目標となったため、幾度か機銃掃射や焼夷弾の投下を受けたが、局舎が市街からはなれた郊外であったため致命的な被害を受けなかったことは幸いであった。
一方無線通信業務は、太平洋戦争の直前から電波の発射はきびしい管制下におかれていた。長波通信の呼出応答波は132KCであった。取り扱う通信はもっぱら聴取に限られ潜水艦情報、警報が入り次第即刻500KCと132KCの同時発射で放送を行った。船舶が敵潜水艦等の攻撃を受けたときは「SOS」ともいうべき「ソラ」の緊急符号を付して救助を求める情報を送ることになっていた。しかしその取り扱いはきわめて稀で、現実的には船舶側ではほとんど発信する余裕はなかったようである。
中波通信の呼出応答波500KCで、通信波は銚子無線側418KC、船舶側は425KCであった。取り扱いの内容は長波と同じであり、また長中波については、各海岸局とも敵機の方向探知器に利用されないよう配慮したため、同一周波数を使用していた。
短波通信の場合は呼出、応答通信とも8280KC1波で、CQスリップ(注)はかけず、船舶からだけの電波を受けるべく待機していた。東京が初めて空襲された時、敵機の編隊を小笠原付近で発見した見張りの漁船が、8280kCで銚子無線局へ打電してきたことがあったが、この漁船はそのあとすぐに爆沈された。当時はこのように移動無線局も戦時体制におかれ、漁船本来の仕事よりも船舶、敵機の見張りの任務に大きなウエィトをもっていたのである。
(注)平和な時代には、短波帯で通信をしていない場合、海岸局側から常に、CQ CQ CQ DE JCS JCS JCS <CQ(各局)DE(こちらは) JCS(銚子無線)>とモールス符号を繰り返し送信し、どこの船舶でも呼んでください、と知らせていた。この符号を電鍵で手送りするのは大変な作業につき、一連の符号を紙テープにさん孔し、テープをリング状につなぎ、送信機にセットし自動的に符号を船舶側に送信した。リング状にしたテープがスリップと呼ばれた。その後この方法はテープから円盤使用へ、さらに電子化と改良されていったようです(増田注記)。
また太平洋戦争ぼっ発直前の昭和16年8月14日には、内国無線電報検閲局に指定され、それからは横須賀海軍鎮守府から検閲将校が派遣され常駐することになった。電報は1通1通きびしく検閲されたが、1日の取り扱い通数は極端に少なく、横須賀海軍鎮守府から発信される潜水艦情報等が2~3通程度で、船舶から発信される公衆電報は、電波管制がしかれていたためほとんど皆無であった。
◇戦時中の無線通信士の受難
太平洋戦争の、もっとも激しかった昭和18年のはじめごろ、大坂商船高千穂丸に無線局長として従事していたK.T氏(第15代銚子無線局長、昭和22年~30年)は、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した高千穂丸から脱出して九死に一生を得た後の報告に、当時の模様を次のように記している。
「高千穂丸沈没ニ関シ取敢ズ以下其概略を電報報告ス」
本船ハ3月17日正午門司発基隆ニ向ヒ航行中3月19日午前9時35分北緯26度05分東経122度30分ノ点ニ於テ敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ相次デニ本船尾及4番艙ニ命中約4分間ニシテ船体ハ右舷ニ60度位ノ急傾斜ヲナシ船首ヲ空中ニ向ケ船尾ヨリ殆ンド垂直ニナリ午前9時45分頃全ク沈没セリ、仍テ本船無線局長ハ船長ノ命ニ依リ午前9時37分全局全員協力応急処置ノ上海軍省所定暗号ヲ発信セルモ其半ニ至ラズシテ電源途絶シ発信不能トナレリ、受信機ハ魚雷命中ノ衝撃ニ依リ故障トナレリ、保管中ノ全暗号書類、機密書類ハ兼ネテ準備中ノ沈下袋及備付金庫に収納完全ニ沈下ス。
同40分頃傾斜愈々甚敷ク歩行困難トナリタルニ付船長ニ連絡ノ上局員二名ト共ニ傾斜露出セル船腹上ヲ傳ワリ海中ニ入レリ。
其後局長通信書記K.Tハ21日午前5時事務員T.Mハ同日午后5時夫々疲労甚敷キモ無傷ニテ救助サレ基隆遭難者収容所ニ収容サレタリ、次席通信書記T.Kハ現在ニ至ルモ其消息ヲ得ズ遺憾乍ラ方不明トナリシモノト認メラレル
高千穂丸無線局長 通信書記 K.T
本船ハ3月17日正午門司発基隆ニ向ヒ航行中3月19日午前9時35分北緯26度05分東経122度30分ノ点ニ於テ敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ相次デニ本船尾及4番艙ニ命中約4分間ニシテ船体ハ右舷ニ60度位ノ急傾斜ヲナシ船首ヲ空中ニ向ケ船尾ヨリ殆ンド垂直ニナリ午前9時45分頃全ク沈没セリ、仍テ本船無線局長ハ船長ノ命ニ依リ午前9時37分全局全員協力応急処置ノ上海軍省所定暗号ヲ発信セルモ其半ニ至ラズシテ電源途絶シ発信不能トナレリ、受信機ハ魚雷命中ノ衝撃ニ依リ故障トナレリ、保管中ノ全暗号書類、機密書類ハ兼ネテ準備中ノ沈下袋及備付金庫に収納完全ニ沈下ス。
同40分頃傾斜愈々甚敷ク歩行困難トナリタルニ付船長ニ連絡ノ上局員二名ト共ニ傾斜露出セル船腹上ヲ傳ワリ海中ニ入レリ。
其後局長通信書記K.Tハ21日午前5時事務員T.Mハ同日午后5時夫々疲労甚敷キモ無傷ニテ救助サレ基隆遭難者収容所ニ収容サレタリ、次席通信書記T.Kハ現在ニ至ルモ其消息ヲ得ズ遺憾乍ラ方不明トナリシモノト認メラレル
高千穂丸無線局長 通信書記 K.T
2.終戦を迎えた銚子無線
4年間の長期にわたった太平洋戦争は、文字どおり国の総力をあげて戦い、そして潰滅的な打撃を受けて敗戦した。このため国内の通信網は寸断され不通続出の状態であった。当時銚子無線局からの有線回線は、東京回線1回線、気象回線1回線であったが、この回線も20年6月1日から障害となったままで、まったく使用できなく、東京非常無線を使用してそ通されていた。
一方海運界も潰滅的な打撃を受けており、1日平均在圏船舶数は数隻で、10隻を超える日はごく稀であった。従って船舶発着無線電報も20年9月は月間26通、10月187通と僅少なものであった。それは戦時中から船舶に発着する無線電報は、東京船舶運営会社の所属以外、無線電報取扱規程第13条や閣令第72号(21.12.28)により規制されていたことにもよる。
東京と国内各地へ発着する電報は、前述のように回線の不通や障害がちとなっていたため、銚子無線で臨時中継を行い、長崎をはじめ新潟、潮岬、焼津、落石等の海岸局を経由してそ通を行ったので、海岸局本来の業務よりも臨時中継の方が忙しくなり、固定局の業務がその大部分を占めていた。
東京との交信は、1日4回(0900,1130,1300,1530)交信することになっていたが、そ通は決して円滑ではなく、郵送を余儀なくされたこともしばしばであった。それは東京側の要員確保が困難であったことが主な原因で、当局の連呼が30分、60分にも及ぶこともあった。また多少の混信でも打ち切られたり苦慮の日々であった。
有線回線は20年11月16日復旧したものの、老朽回線のため障害が多く,もっぱら無線によるそ通が翌21年3月末まで続いた。その後復旧整備が進むにつれ、東京非常無線によるそ通は特にふくそうしたとき以外は使用されなくなったが、結局21年6月からの臨時中継は廃止された。
<<終戦直後の電報通数>>
年 月 ・合 計(内船舶発着)
22年09月・ 5,293 (26)
10月・19,197(187)
11月・25,382(157
12月・28,017(343)
23年01月・18,273 (339)
<<参考>>20年10月要員 無線通信士 25名 有線通信士3名
主な運用波 5250KC 3600KC 8500C
戦争中の無線通信士は、聴取作業が主な業務で、電波を出すことは、逆に敵側に傍受されることになるので、電波を出すことはきびしく規制されていた。いわば制約に閉じ込められた無線通信士であったが、終戦後は、海外からの引き揚げ者の輸送船や、食糧物資の荷物船が漸増するにつれ、無線通信士本来の作業にもどりつつあった。苦悩の淵からはい上がり、希望の曙光を見だした無線通信士は、蘇生の心地で喜んだ。その喜びは昭和20年9月の無線電信月報に次のように記されていることからもうかがえる。
海岸局ノ機能、日一日ト面目ヲ新タニスルモノアリト、吾々無線人ハ歓喜ノ声ヲ上ゲツツアリ。従ッテ今後ニ於ケル海岸局ノ動静ハ大イニ注目スベキモノアリト思考セラル。
例ヘバ、海上ニ於ケル人命財産ノ保全ヲ期ス無線通信本来ノ使命ハ、一段ト重要性ヲ強調セラルベキデアリ、吾々ハ此ノ使命完遂を再認識シ、万全ノ態勢ヲ整ヘ無線通信ヲ通ジテ、新日本建設ノ実現ニ邁進シ、精魂ヲ傾ケ世界ノ進運ニ遅レザランコトヲ期スベキナリトス。
例ヘバ、海上ニ於ケル人命財産ノ保全ヲ期ス無線通信本来ノ使命ハ、一段ト重要性ヲ強調セラルベキデアリ、吾々ハ此ノ使命完遂を再認識シ、万全ノ態勢ヲ整ヘ無線通信ヲ通ジテ、新日本建設ノ実現ニ邁進シ、精魂ヲ傾ケ世界ノ進運ニ遅レザランコトヲ期スベキナリトス。
終戦を迎えた銚子無線では、終戦翌月の9月の無線電信月報<現物写真略>には、兵役を解除となり刻々と無線通信士が復員してきた様子が記録されている。
船舶の通信概況が次のように記録されている(20.11無線電信月報)。
終戦後3ケ月余ヲ経過セル今日ニ於テハ復員其ノ他ノ重要物資輸送ノタメ日本船舶ノ航行スルモノ次第ニ数ヲ増シ、11月中ニ於テ当局ニ在圏セル船舶実数ハ38隻(10月以降累計58隻)、交信船舶延数170隻、1日平均在圏船舶数7隻ヲ数ウル活況ヲ呈シ従ッテ当局トノ無線連絡モ益々活発トナリツツアリ本月中ノ無線電報取リ扱数124通ニ達シ交信モ概ネ円滑ニシテ短波ニ出現スル船舶モアリテ吾々無線人ノ大ニ意ヲ強クシ歓喜ニ堪へザル処ナリ、幸ヒ現在迄当局在圏船舶ニシテ遭難、緊急通信ヲ発信スルモノナク吾々一同此等日本船舶ノ航行安全ヲ祈念スルコト切ナルモノアリ
3.南氷洋捕鯨船団との通信
南氷洋捕鯨通信は、もともと戦前の昭和14年12月から始められたものであるが、第2次世界大戦のぼっ発により中断され、戦後になって昭和21年12月から再開された。
戦後の食料難時代、国民の蛋白源を大量に確保するため国策として出漁した捕鯨船団の活躍と貢献は、はかりしれないものであった。最盛期の昭和35~39年ごろには7船団(1船団は母船、キャッチャー12、仲積み冷凍船6隻)にも達し、捕鯨船事業は世界のトップにのしあがっていた。
これら捕鯨船団との通信は、毎年船団が赤道を通過して南氷洋の漁場付近に到着する12月はじめから、操業の終了する翌年の3月ごろまでの期間、特別に割当てられた周波数(JCS2~JCS5)によって行う協定通信で、毎日午後4時ごろから午後10時まで船団ごとに定められたスケジュールにもとづいて行われた。わが国の海岸局では、銚子無線と長崎無線が通信連絡をひきうけていたのであるが、母船との通信がその大半を占めていた。
捕鯨が活況をおびていた当時、銚子無線局の通信取扱数は、事業信、私信を含めると大変なもので、1日当たり平均200通にものぼった。そのほか年末年始には年賀電報が多発され、遠距離通信独特のハンデもあって海岸局側の通信士は質量ともにいろいろと苦心を重ねたものであった。
一方、船団側でも対内地通信の外に捕鯨船、仲積船等船団内の通信も行う関係で母船にはベテランの通信士を配置していたようであり、捕鯨船団と銚子無線局側の双方の無線士の間には、専門技術者としてのよきライバル意識や友情が生まれたのは当然のことである。海岸局の通信士にとっては、この捕鯨通信席にかけてもらうことが一人前になった証拠であって、それに達するまではかなりの努力が必要であったようである。(中略)
捕鯨国日本に対する世界的な批判のなかで、母船をはじめ名声をはせた船が次々にスクラップ化され、昭和52年からの出漁は、わずかに1船団、日本水産、大洋漁業、極洋捕鯨各社の寄合いで設立された日本共同捕鯨のみになったが、その最盛期を知るものにとってはなんともさびしいものである。これより一時代を通じて果たしてきた銚子無線の捕鯨協定通信も51年3月31日をもって終了し、船橋の中央漁業無局にすべて引継いだのである。 おわり
◆出典
銚子無線70年のあゆみ
銚子無線電報局編集(昭和53.10.23)
(株)川口印刷工房印刷
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