モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

◆海上公衆通信50周年(昭和33年)を迎えて(座談会)(その2) 

2018年12月19日 | 寄稿・モールス無線通信
◆海上公衆通信50周年(昭和33年)を迎えて(座談会)(その2)                                                                                          
出典 長崎無線91年のあゆみ  

5.住所不定は ダメヨ

司会:無線電報が受け付けられてから、船に届くまでの過程を教えてください。

亀山:熊本で打った電報が、例えばロンドンのテムズ川あたりを航行している船舶に宛てるという場合は、熊本から機械中継を通って長崎無線に来ます。

私の方では、船にコールサインがありますから、コールサインを付けて流す。(注)それで2時間間毎に一括呼出時間がありますから、それでもって船を呼出すわけです。
(注)「流す」の意味はコールサインの付いた電報をコールサイン順に保管する通称「電車」と言われた保管塔の保管担当者に渡すことです。この電車は通信席間に設置されたレール上を移動でき、通信士が自席に取り寄せることが出来ます。・・・この(注)は、渡部雅秀氏(前編(その1)-3にご紹介の方)に教えていただいたので、参考に書かせていただいた。<増田>

司会:その通信方法は・・・

亀山:船はそれを聞いて、自分宛のものがあると、向こうから応答する。

司会:それはトン・ツーですか。

亀山:そう、トン・ツーのモールス符号です。

高山:モールス符号が残っているのは、海岸局が最後ですね。

司会:長崎無線局は、大体どのくらいの通信量ですか。

亀山:1日、約千2百通ぐらいですね。発着信で。そのうち短波通信が一番多いです。

高岡:船で無線を持っているのは4千隻ぐらいでしょう。

司会:長崎で、短波が多いというのは、遠距離通信が多いということですね。

亀山:近距離は、1日平均70隻か80隻くらいのもの、それ以外は全部短波通信です。

亀山:船は80隻くらいが1昼夜に、大分無線局の通信圏を通るわけです。船の方は、通ってゆくときに大分無線に「どこからどこにゆく」という通知を出さななきゃならない。

司会:そうしますと、通信圏が各局にあるわけですね。

高山:短波にはないが、沿岸には全国で海岸局が12局ある。全国少しの隙間もなく、カバーするようにある程度ダブって配置されています。

高山:ということは、船が一つの通信圏に入れば、只今、どういう船はあなたの通信圏に入ったという連絡を、その所轄の無線電報局へ連絡するわけですか。

高山:電報が自分の船宛てに来ているかも分らないから、必ず連絡してきます。

私の通信圏を離れる前に、あと神戸に行くということを神戸無線局に連絡するわけです。それでどこかの海岸局に消息が分かる。入る時も、出るときも通信する。

司会:ハハア、それで船舶の所在がはっきりするわけですね。長崎は世界中ですね。

亀山:短波の在圏は350隻がら400隻ぐらいでしょうね。

6.SOS逃せば局長もクビ

司会:無線電報局の仕事というのは、一般の公衆通信を扱う以外に、例えば、遭難通信、「SOS」ですが、ああいうものは、絶対的にやらなければならぬものですか。

高山:無線局は、最初は大体,公衆通信よりも遭難通信を主として設置されたものですがね。遭難通信は第1義として海上保安庁がやることになっていますが、我々の先輩は「SOS」・・・遭難無線を第1義としていた。それを受け継いでおるから、公衆電報に劣らず重視しておる。

亀山:国際条約上、どうしてもやらなきゃならぬと義務づけられているのです。

終戦後では、その他に航空業務・・・航空通信と羅針業務とやっていた。

司会:「SOS」・・・・・遭難通信はしょっちゅうあるものなのですか。

亀山:しょっちゅうありゃ困るんですが、私も遭難通信を経験したことがあるが、あれほど怖ろしいものはない。

高山:「S」を聞いただけでドキッとくる。

西村:私は大正13年に大瀬崎に赴任して暫くは単独ワッチはゆるされなかった。たまたま食事の時間になったものだから専任の担当が官舎まで食事に行った。学校を出てから約2週間にもなったから向こうも大丈夫だろうというんで頼んで行ったが、30分経っても1時間たっても帰ってこない。

ちょうど時間は夕方の7時頃と思いましたが、そのうち局長が見えた。局長は新米の私がワッチしとるから、すぐ自分が座席に座ってワッチに掛かられた。掛かったとたんに非常に慌ててモーターはスタートするし、送信機の準備をして、送信準備をされておった。

ものの30分もして応答が済んだ。何ごとかと思って聞いたら、遭難通信があるじゃないかという訳で、私は新米だから「SOS」を」聞きとれん。運がよかったね。

その時の担当者を、局長は涙をふるってクビにされた。そのように、局員が「SOS」を逃したら責任問題で、場合によっては局長もクビになるというような大きなものですよ。船でも、無線の局長が取り逃がしたら、船長がクビになった例もある。

司会:{SOS」が入ったら、どうするんですか。

西村:すぐ、船の状況を聞いて、救助船を差し向けなければいかん。すぐ、船会社に一報を入れる。電報で「おまえの所の船が遭難した。しかも、どういう状況だ」というようなことをね。付近に船舶がおれば、それを呼び出して「こういうところに、どういう船が遭難しているかから救助してくれ」と、そういう手配をする。

また、海岸局では、担当者が「SOS」を聞いたら、課長も局長もすぐ出局してくるよう手配する。担当者の一人での状況判断というものは、なかなか困難です。どの船を差し向けたらいいかを決めなければいかん。だから私どもは、言いよったんですが、こういうことは高等官のやる仕事だと。どの船が行って救助してくれだとか、港におる船に救助船を頼んで、お前は出ていってくれ、というようなことをやるわけですから。

司会:よほどのベテランでないと判断が難しいわけですね。

西村:船舶勤務の経験が必要です、船に乗った者でないと分らない。損失の箇所でも、専門用語を使う、ナンバー8だとか。それでどこが破損したかを判断しなきゃいかんわけです。無線局員はどうしても船舶に乗った経験が、特に遭難通信の場合、必要だと考えますね。

7.災害に強い無線通信
 
司会:諫早の水害のときは、長崎無線も相当活躍したのではないですか。

亀山:そうですね。大体私の方が水害を知ったのは、26日(照32年7月)午前零時20分頃でした。水防団長が来局し、どっちに行っても電報を打って救助を求めるところがないというわけで、最後に私のところに辿りついてきたのですが、団長以下5,6人来ました。来ましたけれども慌てていて一言も物を言える人がいない。落ち着いてもらって、状況を聞いたが、その物凄さに唖然とし、早速手配をしたのですがね。

司会:長崎無線局は諫早市内から離れているのですね。

亀山:山の中にある。市内から約4キロある。それから水害第一報を出すため、大分を呼んだが出なかった。

高山:大分を呼んできましたから応答したが、応答しているのが分っていないんですね。ということが後で分ったんです。

亀山:それでは、下関の警察無線を利用しようと考えていて、早速下関を呼んだ。30分後に応答があり、下関から東京方面にずっと知らせた。下関の警察通信を利用してやったということです。

司会:そうしますと、そういう非常事態が起きることを予測しなければならないし、起きれば勤務時間も、拘束時間もないことになりますね。

高山:24時間無休でやります。

亀山:それには人が足りないから、とりあえず真っ先に起こすのが局長、それに課長、通信課長はもちろんのことですが・・・・

司会:職員の宿舎は、同じ構内にあるのですか。

亀山:40戸くらいあって、200人くらいいる。

司会:宿舎も構内にあるのですね。

亀山:あれは義務宿舎で、入らねばならぬ宿舎です。

亀山:とにかく、本当にどういう処置をしてよいか分からんくらいだった。第1報は出したのですが、何しろ、うちのコントロール線(注)が18対(チャンネル)全部やられたから臨時に超短波を使ってやったが超短波も4対くらいしかなかった。これを使ってやったが、なかなか大変だった。
注)愛野無線送信所と諌早無線受信所間は10数キロ離れており、この間は有線回線(コントロール線)により接続されています。長崎無線電報局(諌早受信所)の通信席にある電鍵を操作することにより船舶宛電報のモールス符号は愛野送信所の送信機から送信されます。

高岡:それから熊本に入ってきたんです。この報告が1時20分頃にきた。

亀山:それで、26日の午前9時には、東京と臨時公衆圏をつくちゃった(注)。
(注)本稿出典の「長崎無線91年のあゆみ」の「年代史」、昭和32年7月26日に、「諫早大水害、当局回線障碍で電波停止、銚子無線代行す」とあります。
亀山氏のこの日の発言の内容は、文面には書かれていませんが、<急遽、東京方面へ臨時に有線の専用回線を開設し、長崎無線に滞留する船舶宛電報を銚子無線に転送し、送信を代行してもらって、急場を切り抜けた>、と理解してよいように思えます。

8.僻地の楽しみ”風呂”

司会:無線電報局は山上勤務という格好になるわけですが、いろいろ不便だったと思うんですけれども。

亀山:一番困るのは、医者,産婆さん、それで、どこの海岸局でも奥さん達が取り上げてやる。諫早なんか完全にやった。産婆さんが来ても、する仕事がない。これが新聞記事になる。(笑い)

僻地はいいところもある。隣近所が一体になって、他人同士だけれども、兄弟よりも親しい。病気なんかのときは、みんな駆けつけてくるし、子供が生まれた、不幸があったときは棺桶までかついでくれる。そういうところは、一般の管内の局員にはないと思う。

西村:ああいう僻地では風呂は慰安だな。海岸局は一度に沢山入る風呂はない。私ども時は、やはり五右衛門風呂で、局長とか次席とか、皆家族のある人は、その番が来たら家族込みで入る。

子供とか、ばあさんとか、いっぺんに数人ずつ済ましてゆく。遅くなって一人者がビリの方に入る。(笑い)

そこで僕が交替を提案した。今日は局長が入るなら、次はビりからと案がその当時通った。そういうのが、無線人は官僚的ではない。それで独身者は快哉を叫んだことがある。(笑い)

風呂水は水道はなく、天水の水で、 カメに1日1杯、入っても入らんでもカメ1杯。それを使ったら、隣にも貰いに行かなければならんから、いくら使ってもいいという訳にはいかん。洗濯の水も風呂水を使う。天水のタンクがあって、桶で取っていたが、水がなければ何日も風呂はたてない。

司会:最後に、要望など何かあればお願いします。

9.「無線年賀ハガキ」制度は未だない

亀山:面白い話があります。職員の書いた「PRの行きすぎ」という題の一文ですが、中に、「・・・長崎無線経由の船舶宛の年賀ハガキが舞い込んできており、年々多くなる傾向だ。一昨年でしたか、小包郵便まできた。大衆は常に先端を行く。われわれの夢想だにしないことを平気でやってのける。船舶海岸局の通信は旧態依然モールス手送り通信法方式だから、今どき何をモサモサしているんだと叱られているような気がしてならない・・・」、というようなことが書かれている。ここに書かれたように、とにかく年賀ハガキなんかが、無線で送ってもらえると思ってか長崎無線局に郵送されてきている。

高岡:そんなことは、初めて聞いた。

亀山:昔はなかった。この頃、多くなっている。電送写真でも出来ると思っているのかな。しかも電話番号までついている。電報の返事をやる「OK電報」というのをやるようになったでしょう。あのPRが効きすぎている。

司会:では、この辺で座談会を終わりたいと思います。(おわり)
【付記】座談会出席者名は、前編(その1)の末尾にご紹介したとおりです。


◆出典 長崎無線91年のあゆみ
 
発行日 平成11年1月16日
 
発 行 NTT長崎無線電報サービスセンタ

編 集 NTT長崎無線電報サービスセンタ編集委員会

印 刷 (株)昭和堂印刷

                                                                    







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