すずらんの丘―落石(おっちし)無線局の想い出(1/2)
◆中西 研二
はじめに
投稿原稿を書きはじめると枚数がどんどん増えてしまいました。無線通信は、無線技術の発展との関わりが深いこと、勤務した落石無線局は、根室という国境の町にあり、どうしても特有の地理的事情とか、根室をめぐる歴史的背景を書かないと、当時のことをご理解いただけないとあれこれ書き加えるうちに原稿量が多くなってしまいました。冗長と思われる部分は適宜飛ばして読んでいただきくお願いたします。
さて、私は北海道根室の落石無線局に、1955年2月から8月末まで半年間勤務しました。私が過ごしたのは、きわめて短い期間でしたが、広大で原始に近い自然が残っていた道東で過ごしたことは、戦争中、親元から離れ、虱に悩まされて送った集団疎開の生活と同じく、私の生涯でも忘れえぬもののひとつであり、未だに私の脳裏に鮮明な記憶として深く刻まれています。
本稿を執筆するにあたり、『落石無線電報局沿革史』を北海道道立図書館から借用しましたが、時間を忘れて読みふけってしまいました。開局時、人家の全くない岬の突端で、いつ来るかわからない船舶との交信に備え、必死になって雑音ばかりの鉱石受信機にかじりついている落石無線局の人たちを想像しました。開局時の職員は、局長、通信士、用務員の三人だけでした。私も経験しましたが、厳冬の道東では、家の外へ出られないような猛吹雪が何日も続きます。このような中で職務に励んでいた当時の人たちの姿が見えてきます。
『落石無線電報局沿革史』の在職者名簿に私の名前を発見し、懐かしく、一挙に六十数年前の自分と対面することになりました。書いているうちにあたかもあの頃の自分に戻って、根室の町を歩いているような気持になったこともありました。
本ブログに、今回このような原稿を発表する機会を与えていただいたことに、深く感謝します。
なお、本稿では落石無線電信局、落石無線電報局をすべて、落石無線局と表します。
本稿の掲載は、おおむね以下の目次(掲載順序は前後する)を予定している。
目次
1.すずらんの丘-落石(おっちし)無線局の想い出
2.-1落石無線局の沿革
3.-2落石無線局の概要
4.-3落石無線局あれこれ
5.「日本にようこそ、日本にようこそ、リンドバーグ大佐殿」
6.海岸局業務
1.落石(おっちし)無線局の想い出
(1)上野駅から落石無線局へ
私は、1951年4月に鈴鹿電気通信学園普通電信科に入学、11月に卒業し名古屋電報局に配属されモールス音響通信士として勤務した。1954年2月には中央電気通信学園無線通信科へ入学、第1級無線通信士の国家試験に合格し、翌年2月同科を卒業して、落石無線局(注)へ赴任するため北海道根室へ向かった。
(注)落石無線局は船舶との公衆電報の送受を行う陸上無線局のひとつ。
上野19時発特急「はつかり」に私と同乗したのは、同期のA、I、Kだった。私たちは、青森から青函連絡船に5時間乗り、続いて函館から札幌経由、根室に着いたのは、上野駅を出た翌々日の午後4時すぎだった。札幌は翌日夜9時ごろだったような気がする。札幌を出て、列車はあえぎながら狩勝峠を上った。昼間なら日本三大鉄道風景のひとつといわれた雄大な風景が見られたであろうが、夜中だったから、石炭と水の補給のため停車しただけだった。現在の狩勝峠は線路が付け替えられ、往年のものとは異なる場所にある。
途中きちんとした宿泊施設に泊まらず、乗り物に44時間乗りづめだったため、腰がすっかり痛くなった。途中座り直してみたり、座席に体を横たえてみたりとか、いろいろやってみたが、最後は何をやっても腰の痛みが和らがなかった。まだ20歳直前で若かったからできたような鉄道旅だった。
到着した根室駅の駅名表示板には、根室から先の駅名の表示がなく空白だった。つまり終着駅だということだ。とうとう日本の最果ての地まできてしまったというのが、根室へ着いての第一印象だった。
上野駅では、私の家族つまり、父、妹、二人の弟の四人がホームで、こちらの姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。当時、東北本線はまだ電化されておらず、客車はデッキから身を乗り出すことができた。私もいつまでも彼らの姿を追っていた。六十数年経ち、私を見送ってくれた家族のうち、残っているのは次弟のみとなった。
そのころ、私の家族の生活は、その日暮らしの最貧の生活だった。住居は間借りで、家賃が払えないため、追い出されるように転々と引っ越ししていた。幼い妹・弟たちは、米を買うカネがないため、いつも「すいとん」を食べていた。父は、そのころのことを後に、生活が苦しく一家心中しようと考えたこともあったと話してくれた。母は戦争中の無理が祟って、戦後間もなく亡くなった。兄も二十二歳の若さで亡くなった。一方、私は中学卒業後、すぐに働き出し、その後鈴鹿電気通信学園普通電信科に入学してからは、ずっと寮生活だったため、家族たちとは別居していていた。
無線通信科を卒業後、根室への赴任前、東京に住む家族を訪れて、初めて家族の困窮状態を知った。部屋代をしばらく滞納していたらしく、私が根室へ向け家を出ようとしていたとき、家主(K女)が襖越しに、「息子さんが赴任するのだったら、赴任手当があるはずだから、滞納している家賃を払ってくれ」と父に言っているのが聞こえた。父は、隣の家主の部屋へ行って、「これは息子の赴任に必要な費用だから家賃を払うことができない」と断っていた。
上野駅を出るとき、このような家族の生活状況に対し自分が何もできない無力感を感じ、今度いつ会えるかわからないと予想して、寂寥感が募っていたから、いつまでも家族に手を振っていたのだろう。
(2)Sさんのこと
厳冬の時期に赴任したから、根室港は結氷していて、港の中を馬橇が荷物を運んでいた。海が凍るなど想像もしていなかったので、やはり北国に来たのだということを実感した。春になると、氷が溶けて流氷となり海へ流れ出すが、子どもがそれに乗って遊んでいるうちに沖に流されてしまうこともあったらしい。
局舎と宿舎は渡り廊下が作られ、屋根があるから、吹雪のときでも、数十歩歩けば出勤できる。しかし宿舎は木造で内地仕様だから、北海道の細かなパウダースノーには勝てない。朝起きてみると、ガラス戸の隙間から粉雪が入り廊下に粉雪がこんもりと積もっていたこともあった。雪は押入れの中にも入り込むから、日中暖かになってきて、雪が溶け、布団がびしょびしょになったこともあった。それでも私は若かったからだろう、朝起きたとき、ストーブのない零下の部屋で、寝間着を全部脱いで着替えをした。石炭手当が独身であっても、1トン分、確か当時7千円だったと思うが支給されたが、もちろん石炭など買わずに、そのカネはどこかへ消えてしまった。したがって、自室の暖房は一切ない。私は専ら、寮母さんのいる部屋か友人の部屋、あるいは家族寮に潜り込んで暖をとっていた。
寮母さんはSさんといい、1945年8月15日のポツダム宣言の受諾放送後、突如ソ連軍が攻めてきて、追われるようにして国後からボートで逃げて来たそうだ。当時根室には北方四島から引き揚げてきた人たちが多かった。用務員をやっていたBさんもそうだった。
私はSさんをよく手伝った。上水道はなく、風呂の脇にある井戸から、ポンプを押して汲み上げ、手桶で運んできて、室内の水桶にいれるのだが、この水運びは殆ど私が担当した。Sさんは、国後のことをよく話してくれた。国後は自然が豊かで鮭の遡上などは壮観で、川の表がみえないほど遡上するのだといっていた。
Sさんの夫は、根室漁協の仕事をしていて、一男三女の子持ちだった。一番下のY子さんは高校を卒業したばかりで、ほかの子供たちはみな結婚して独立していた。私は母親を数年前亡くしていたから、Sさんを母親のような気持ちで接していたのかもしれない。Sさんとは私が落石無線局を離れたずっと後も、文通をしていた。Sさんは、その時期になると、鮭や鱒を一本丸ごと送ってくれた。中央電気通信学園高等部を卒業後しばらくしてから、Sさんは夫を連れて東京まで来たことがあり、私は東京の宿を手配し、「はとバス」で昼と夜の東京案内をした。
Sさんの二女C子さんは無線局と町との中間の市営住宅に住んでいて、局から近かったから、Sさんはよく私を連れて訪れた。市営住宅は北海道仕様のブロックを積んだ本格的な耐寒建築で、いつもストーブが赤々と燃えていて居心地がよかった。C子さんは、エキノコックスという寄生虫に侵され、それが元で若くして亡くなった。エキノコックスは北海道に多い寄生虫で、キタキツネが中間媒体だというが、肝臓を食い荒らし、寄生虫が発見されたときは遅いことが多い。
独身寮のトイレは共同であったが、だれも掃除をしないため、かなり汚れていた。「大」は離れて落ちていってすぐに凍結する。それが段々と高くなって聳えてきて、先端が尖ってくるから、危ない。私は掃除係を買って出て、よく掃除をした。先端がつららを逆さまにしたようになっているので、それを棒のようなもので突き崩すのだ。
風呂は独身寮と家族寮の間にあった。風呂から上がると、そこは外気とあまり変わらない気温なので、洗ったばかりの髪初めてすぐに凍る。櫛を入れると、氷がパラパラと落ちてくる。
(3) 国境の町
根室は国境の町である。当時は東西冷戦時代で、夜7時過ぎになると、国後方面から強烈なサーチライトで照らされることもあった。無線局の近くに米軍のレーダー基地があり、そこに勤務している若い米兵が無線局へ来て、欧文電報の発信を依頼されることもあった。彼らの中には、文章を書けない者もいて、私が英文で代書を依頼されることもあった。
根室と国後の間に横たわる根室海峡は長さ約130km、一番狭いところでは約15kmである。1945年9月マッカサーラインが引かれた。この辺りは豊かな漁場で、日本の漁船も出漁することが多いが、ソ連の監視船によく拿捕され、国後まで曳航されていった。領海内で操業していても拿捕されることが多かった、すなわち、1946年6月に拿捕第1号が発生してから、1983年2月までにこの海域での拿捕数は93隻、556人にのぼった(羅臼町史)。
無線局(海岸局、船舶局)は国際条約で、毎時15分からと45分から、それぞれ3分間、沈黙時間(silent period)として、一切の送受信を行わず、中波500kHzのワッチ(watch:聴取)を義務付けられていた。私がその時間帯、ワッチをしていると、ソ連の無線局が国際条約に違反して電鍵を叩いていることもあった。彼らの電鍵は、押さえていると短点が自動的に出力される横型の電鍵で、短点の間隔が早いからすぐに分かる。自動的に短点が出力されるので、余分に短点が出力されることも多かった。(つづく)
◆寄稿者紹介
中西 研二 1935(照10)生れ 千葉県
鈴鹿電気通信学園普通電信科卒 1951年11月
【付記】
中西氏は、NTTを退職後、地域の安全・発展のための地域活動を現在もなお元気に継続されている。地元に住む外国人対象の日本語教室や中国・韓国語教室の指導者なども務めた経歴の持ち主。同年配のわれわれには刺激的すぎるライフスタイルです。
下記は氏の出版著書です。
①『ケーブルカー:信貴山・高野山・六甲山』(2004<平16>5月:東京文献センター)
大正から昭和にかけてのケーブルカー建設ラッシュ時代、関西の3つのケールカーの建設に中心的に携わった父君の遺品写真に解説を加えたケーブルカーの貴重な技術史
②『コンピューター石器時代』(2002<平14>6月:本の風景社)
わが国の大型コンピュータ導入初期からの30年間、大型コンピューターシステム開発に携わった氏自身の経験をつぶさに記録したもの
③ 『六十一歳の北京留学』(1998<平10>6月:朝日新聞東京本社出版サービス
六十歳から新しい外国語をマスターできるのかに挑戦し北京での語学留学記録
昭和56年の晩秋、パリ、ローマ、フィレンツェ、ミラノ等への旅の記録
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