モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

音響通信の想いで

2023年06月22日 | 寄稿・戦時のモールス通信
私の電電勤務は昭和26年、熊本電気通信学園が振りだしです。学園ではモールス音響通信(トンツー)通信の訓練を受けた。初めて聞くトンツーは、無線通信と違いカチカチという金属音の雑音としか聞こえなかった…以下書き加える。                     &nbs . . . 本文を読む

◆長崎無線局(JOS)閉局20 周年を迎えて

2019年02月11日 | 寄稿・モールス無線通信
長崎無線電報局(JOS)は、91年のモールス通信の歴史を終え、平成 11年(1999年)1月 31日閉局した。 それから20年経過した今、無線電報局の痕跡を示すのは、旧敷地内の一角に建つ「JOS ありき」の記念碑のみです。 以下の記録は、JOS勤務経験者により無線電報局の閉局20周年を迎えて書かれた、在勤当時の想い出です。 . . . 本文を読む

戦中、戦後の銚子無線

2019年01月29日 | 寄稿・モールス無線通信
◆戦中、戦後の銚子無線 出典 銚子無線70年のあゆみ 1.太平洋戦争のころ 銚子市は関東のもっとも東端、利根川の川口に位置しているため、米空軍が東京空襲するときの上陸目標地点となっていた。そのため米軍機が東京への往き返りのついでに空襲することが多く、前後16回にも及んだ。そのうちもっとも被害の大きかったのは昭和20年3月9日午後9時ごろからの空襲と、同年7月20日午前0時30分からの空襲であった . . . 本文を読む

海の安全を守る~無線通信

2019年01月12日 | 寄稿・モールス無線通信
◆海の安全を守る無線通信 出典 長崎無線91年のあゆみ 公衆通信の疎通を主たる目的としたNTT海岸局といえども、遭難や緊急、医療通信等に対しては最優先して全力で任に当たるのは当然である、特に遭難船の位置に間違いがあれば助かる命も救うことあたわず、真剣そのもの手に汗して任務遂行に努めたものである。 海上保安の海岸局が整備されるに従い、当局(長崎無線局)の役割は傍受や情報収集が主となる。しかし、 . . . 本文を読む

有田電信時代の思い出

2018年12月24日 | 寄稿・モールス音響通信
◆有田電信時代の思い出  ・吉木 安之1.役場から電信応答注意宿直室の窓がドンドンドンと叩かれる音に目が覚めました。「吉木さん佐賀電報から応答注意ですよ」と起こしてくださったのは有田町役場の当直の方です。この方の妹さんと私は小学校の同級生だったので、たまたまですが以前から存じ上げていました。お礼を言って仮眠室のドアを開け、電信室に入ると --・ ・・・・(GH=有田) --・ ・・・・ ・・--・ . . . 本文を読む

◆海上公衆通信50周年(昭和33年)を迎えて(座談会)(その2) 

2018年12月19日 | 寄稿・モールス無線通信
◆海上公衆通信50周年(昭和33年)を迎えて(座談会)(その2)                                                                                           出典 長崎無線91年のあゆみ   5.住所不定は ダメヨ 司会:無線電報が受け付けられてから、船に届くまでの過程を教えてください。 亀山:熊本で . . . 本文を読む

海上公衆通信50周年(昭和33年)を迎えて(その1)

2018年12月07日 | 寄稿・モールス無線通信
わが国の海上公衆通信と呼ばれた無線による船舶と陸地間の電報の発着が始まったのは、明治41年(1908)5月に銚子無線局が開局してからのことです。 その1か月後には、長崎の五島列島にも大瀬埼無線局(後の長崎無線局)が開局したことは、すでに本ブログでもご紹介したとおりです。 「長崎無線91年のあゆみ」には、大瀬崎局の50周年を記念して開いた九州電電社内誌の座談会記事を収録されている。 今回は、その座談会記事により、明治の大瀬崎無線局の開局から昭和中期までのエピソードなど貴重な座談をご紹介します。 . . . 本文を読む

長崎無線局~最盛期に日々(その3)

2018年11月16日 | 寄稿・モールス無線通信
長崎無線局~最盛期の日々(その3) 【有線通信の風景】 (はじめに) 長崎無線電報局には、無線通信室のほか、有線通信を担当する有線通信室が設置されていた。 この有線通信室は、国内各地から有線により、長崎電報局を経由して送信されてくる船舶宛の電報を受信し、これを無線通信室に渡し、船舶に無線で送信する。一方、無線通信室で受信した船舶からの無線電報は、有線通信室が受取り、中継局の長崎電報局に有線 . . . 本文を読む

長崎無線局~最盛期の日々(その2)

2018年11月10日 | 寄稿・モールス無線通信
長崎無線局最盛期の無線室風景 6.船の生命線 天気図 船にとって気象情報は絶対不可欠である。今日のように衛星が上空から雲や前線の動きを見ながら判断する時代ではなく、各ポイントの情報を基に天気図を作っていた。船は台風だけではなく低気圧や前線の突風に巻き込まれると大変である。特にデッキまでラワン材を満載した船などは突然現れる“台湾坊主”と呼ばれる小さな低気圧でも恐れた。 船の通信士にとって気象 . . . 本文を読む

長崎無線局~最盛期の日々(その1)

2018年11月02日 | 寄稿・モールス無線通信
長崎無線局最盛期の通信室風景 <はじめに> 「長崎無線91年のあゆみ」によれば、概略次のような経過をたどった海上公衆通信と船舶の安全を守った海岸局・長崎無線局の歴史が詳細に綴られている。 すでにご紹介した(本ブログ2018/2/20日、2/24日)ように、長崎無線局の前身は、銚子無線局の開局から1カ月半後の明治41年(1908)7月1日に開局した五島列島の大瀬崎無線電信局(JOS)である。こ . . . 本文を読む

諫早大水害と長崎無線(JOS)回想 (2/2)

2018年10月12日 | 寄稿・モールス無線通信
◆諫早大水害と長崎無線(JOS)回想(2/2) 渡部 雅秀 3.アマチュア無線の活躍 あとで知りましたが、日本アマチュア無線連盟の長崎クラブの機関紙によると、長崎県下の電信電話回線はずたずたに切断され、長崎、諫早、大村、島原などは蚊帳の外に追いやられていた、と記載されていました。以下はその機関紙の記事抜粋です。 25日当夜、午後 11 時半頃 NHK 長崎放送局から、クラブ会員の . . . 本文を読む

諫早大水害と長崎無線(JOS)回想(1/2)

2018年10月05日 | 寄稿・モールス無線通信
本寄稿は、長崎無線局JOS-OB会ネットに投稿されたもので、60年前の諫早大水害時の無線通信のことが生々しく記録された貴重な回想録です。筆者はこの前文に、「昭和 32 年 7 月 25 日、諫早大水害が発生してから今年(平成 29 年)で丁度 60 年に なります。 水害を経験した長崎無線局 OBの皆さんも少なくなり、その記憶も風化しかかっていると思いますので、60 周年を期に、当時を回想してみました。」と書かれています。 . . . 本文を読む

落石無線局の概要と沿革

2018年09月08日 | 寄稿・モールス無線通信
        落石無線局の概要と沿革 ◆中西 研二 1.落石無線局の概要(出典『落石無線電報局沿革史』) (1)落石無線局の必要性及び開局時の設備など わが国が海岸局を開局した当時(1908年)、日本からアメリカへの船舶は、航行距離を最短にするため大圏航路を通り、落石岬突端から90kmの沖合を航行していた。当時無線の通信距離は120海里(約230km)程度だったので、横浜出港後銚子局の通 . . . 本文を読む

わが国の無線通信・海岸局業務の歴史

2018年08月21日 | 寄稿・戦時のモールス通信
国の無線通信・海岸局業務の歴史  ◆中西 研二  (1) 海岸局の発祥及び全国展開  日本の無線通信は最初、1902年ごろ、当時風雲急を告げつつあった、ロシアとの衝突を予想した陸海軍、特に海軍の技術開発から始まったが、それにやや遅れて、公衆通信業務でも技術開発が始まった。 日露戦争直後の1906年(明治39年)、ベルリンで第1回国際無線電信会議が開催され、日本を含む29 . . . 本文を読む

『日本にようこそ、日本にようこそ、リンドバーグ大佐殿』

2018年08月03日 | 寄稿・モールス無線通信
    日本にようこそ、日本にようこそ、リンドバーグ大佐殿」 ◆中西 研二 1931年7月27日、チャールズ・リンドバーグとアン夫人は、北太平洋航路調査のため、単発一枚翼二人座席の水上飛行機「シリウス」号で、ニューヨークを飛び立った。彼らは、ニューヨークからカナダ、アラスカを経て、日本経由で中国の南京まで飛行した。リンドバーグにとってこれは「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名に . . . 本文を読む