モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

すずらんの丘ー落石(おっちし)無線電報局の想い出(3/3)

2018年07月26日 | 寄稿・モールス無線通信
すずらんの丘ー落石(おっちし)無線電報局の想い出(3/3) ◆中西 研二   (8)根室を離れる その年(1955)6月、中央電気通信学園高等部の試験があった。この年から受験資格が改められ、私のように無線通信科卒業後、半年間でも受験できるようになった。私は赴任前とは異なり、北海道の雄大で、豊かな自然やそこに住む人たちに魅力を感じていたから、特に受験したいという気持ちもなかったが、 . . . 本文を読む

落石無線局あれこれ

2018年07月17日 | 寄稿・モールス無線通信
   落石無線局あれこれ ◆寄稿者 中西 研二   (1) 落石開局時の赴任、生活環境 1908年、落石無線局開局時の田頭徳男局長は本州から海路による赴任であったが、どのような経路で赴任したのか定かでない。鉄道がなかった時代(根室まで鉄道が開通したのは1920年)、海路で根室へ到着した後、25kmを歩いてきたのか、あるいは海路で厚岸へ到着した後、40kmあまりを駅逓馬 . . . 本文を読む

すずらんの丘ー落石(おっちし)無線局の想い出(2/3)

2018年07月07日 | 寄稿・モールス無線通信
すずらんの丘ー落石(おっちし)無線局の想い出(2/3) ◆中西 研二 (3) 国境の町 根室は国境の町である。当時は東西冷戦時代で、夜7時過ぎになると、国後方面から強烈なサーチライトで照らされることもあった。無線局の近くに米軍のレーダー基地があり、そこに勤務している若い米兵が無線局へ来て、欧文電報の発信を依頼されることもあった。彼らの中には、文章を書けない者もいて、私が英文で代書を依頼される . . . 本文を読む

すずらんの丘―落石(おっちし)無線局の想い出(1/3)

2018年06月30日 | 寄稿・モールス無線通信
本稿は、私の落石無線局の想い出と海岸局を含む日本の公衆無線通信についての記録です。モールス音響通信には有線と無線が存在したのに、無線通信に関する投稿が少ないと、ブログ管理人(増田氏)から私にお鉢が回ってきたようです。しかし私の無線の経験年数は極めて短いものでしたので、豊富な経験をお持ちの全国の海岸局で無線通信に従事された方々にお読みいただき、内容の誤り等をご指摘いただければ幸いです。併せて、無線通信に関する皆さまの投稿も期待し、楽しみにしております。 . . . 本文を読む

松田裕之著『モールス電信士のアメリカ史-IT時代を拓いた技術者たち』紹介(2/2)

2018年06月17日 | モールス通信
◆松田裕之著『モールス電信士のアメリカ史-IT時代を拓いた技術者たち』紹介(2/2) ・片倉日龍雄 2.影武者がいたモールス ところで、私が従事していた電信の仕事は、モールス音響通信(モールス符号をトン・ツーの音で送受する方式)であったが、この方式が定着するまでにはいくつかの前史があった。第1章では裏面史を含めその経過が述べられている。 実用電信機の開発は、まずヨーロッパの指字式通信機から . . . 本文を読む

松田裕之著『モールス電信士のアメリカ史-IT時代を拓いた技術者たち』紹介(1/2)

2018年06月04日 | モールス通信
◆松田裕之著『モールス電信士のアメリカ史-IT時代を拓いた技術者たち』紹介(1/2)      ・片倉日龍雄 本書(日本経済評論社・2011.4・P264)の著者、松田裕之氏については、すでに本ブログ(音響通信~目で見る通信から耳で聞く通信へ:2017.11)に紹介されている方であり、現在、神戸学院大学経営学部教授で、多数の著書を出版されている(経歴等末尾参照)。 私は、本ブログ管理者の増 . . . 本文を読む

◆終戦直後、逓信省で電信事業の復興を目指す(その3)

2018年05月28日 | 寄稿・戦時のモールス通信
◆電信事業の合理化 33年8月には再び本社の電信課業務係長として勤務。そこでの役職は変わったが7年間、電信事業の企画事務に携わった。その間に取り組んだ最大の仕事は、電信事業の合理化問題であった。 35年1月、合理化の中心課題である電報中継機械化に対処するため、運用局に中林正夫調査役をトップとする対策チームが編成され、私もその一員となっとなった。多くの困難を乗り越え、全面的な完了は昭和40年11 . . . 本文を読む

終戦直後、逓信省で電信事業の復興を目指す(その2)

2018年05月17日 | 寄稿・戦時のモールス通信
◆逓信省電務課に勤務して(その2) 赤羽 弘道 当時(昭和23年)、総務局統計課ではGHQの指令で、逓信事業の事業別収支分計を行っていた。電信事業についても収支が計算されていたが、私はこの資料を分析して、電報の原価計算をすることを思い立ち、係長の了承を得て作業に取りかかった。参考にしたものは、市販の図書の他、物価統制令に基づく製造工業原価計算要綱、かつて満州電信電話会社が行った原価計算報告書等 . . . 本文を読む

終戦直後、逓信省で電信事業の復興を目指す(その1)

2018年05月02日 | 寄稿・戦時のモールス通信
戦災により全国の電信局の52%と電信回線75%を失い、壊滅状態であった電信事業の復興は、日本復興のために喫緊の急務であった。この時期、逓信省電務局に勤務した著者の記録です。 . . . 本文を読む

戦争末期の速成モールス通信訓練とその後(その2)

2018年04月06日 | 寄稿・戦時のモールス通信
◆大戦末期の速成モールス通信訓練とその後(その2) 宇野 準一 電信課の中からもどんどん兵隊へ兵隊へと召集され、わずか半年程でなにしおう福岡二重回線につくことになる。恐れていた福岡回線は常に状態が悪く、音かすれたり時には記号が消えたり、それでもかすかな音を聞き分けてこなしていかなければ「このヘボやろう」とブルの洗礼だ。 新米の時からこの二重回線には憧れと恐れをもって眺めていた。隣に座る先輩殿 . . . 本文を読む

戦争末期の速成モールス通信訓練とその後(その1)

2018年03月30日 | 寄稿・戦時のモールス通信
◆戦争末期の速成モールス通信訓練とその後(その1) ◆宇野 準一 昭和19年2月に熊本逓信講習所(大分分室)を受験し、合格した。 4月初めに講習所のあった大分電報局に行った。電報局の通用門を通って幅90センチの階段を上がると突き当りの左側が電信宿直室、畳20帖程の部屋が熊本逓信講習所大分分室である。生徒数20名男女共学、先生は電信課の事務職の方々で構成されていて、担任は飯倉先生だった。 入所 . . . 本文を読む

熊本学園普通電信科の思いで

2018年03月16日 | モールス通信
◆熊本学園普通電信科の思いで  實吉 正生 私達が入学した昭和26年というのは、どのような時代だったかということだが、一口でいえば戦後の混乱はややおさまりかけていたが、まだ相当にインフレと食糧難の時代だった。 昭和24年6月に逓信省が分割され、郵政省と電気通信省が発足したのは周知のことだが、これに伴って、熊本逓信講習所も電気通信職員訓練所熊本学園と改称され、校門にもこの看板と、英語でテレコミ . . . 本文を読む

無線電信局の開局(その2)

2018年02月24日 | 寄稿・モールス無線通信
◆敵艦見ゆ!から無線電信実用化へ 日露戦争終結後の明治39年11月、ベルリンにおいて第1回国際無線電信会議が開催された。この会議には、わが国からも全権委員として逓信省電気試験所長浅野応輔博士ほか4名が参加、国際無線電信条約に調印した。かくして41年5月16日、銚子無線電信局と天洋丸無線局が誕生し、無線電信による公衆通信の取扱創始とともに、わが国の無線電信もいよいよ実用化への第一歩をふみだした。 . . . 本文を読む

無線電信局の開局(その1)

2018年02月20日 | 寄稿・モールス無線通信
◆1)九州の無線電信局開局 わが国最初の無線電信局海岸局は銚子無線局で、明治41年5月16日であった。 それより1か月半遅れの明治41年7月、九州の大瀬崎無線電信局が開局した。大瀬崎無線電信局は長崎から96キロメートル、五島列島中の福江島の最南端、海抜272メートルの断崖の上にあった海軍望楼無線電信所が逓信省に移管されて開局されたもので、長崎県南浦郡玉之浦郷字大瀬崎に所在した、局長は通信属石村 . . . 本文を読む

わが心の故郷(ふるさと)“JOS”

2018年01月17日 | 寄稿・モールス無線通信
わが心の故郷(ふるさと)“JOS” ◆村上健太郎 日本本土の主要都市のほとんどが空襲や被害のためにその機能が失われ、そして戦局は終えんへの方向を模索していた頃、昭和20年3月末長崎無線電信局勤務の辞令を受けた私は、東京から郷里の熊本を経由して、長崎無線局所在地の諫早市へ向った。 諫早駅に降りると、小高い丘に無線のシンボルの鉄塔や木柱が天高く多数そびえて見えた。新任務に . . . 本文を読む