小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『蝶々夫人』(10/9)

2017-10-09 21:15:55 | オペラ
プッチーニの『蝶々夫人』は大好きなオペラだ。6日から東京文化会館で上演されていた二期会の名作オペラ祭は4日間全部観たかったが、色々重なって最終日だけを観た。歌だけでなくオーケストラや合唱すべてがよく出来ている作品なので、これが舞台で上演されるだけでも嬉しい。指揮はあいちトリエンナーレの『魔笛』も振っていた1978年生まれの若手指揮者ガエターノ・デスピノーサ。
冒頭部分、指揮者によってはすさまじい風圧(?)で低弦を鳴らすところを、コントラバスの音がほとんど聞こえなかった(一階席前方)。ピットは深め。一幕を通じて、指揮者はプッチーニを「薄めに」作っていた印象だった。テンポはかなり速く、東響は素晴らしく忠実についていったが、スズキの山下牧子さんの歌い出しがあんなにアクロバティックに感じられたことはなかった。ただでさえ早口言葉のようなスズキの最初のフレーズが、つむじ風のようだった。コンマ一秒もズレずにグッド・タイミングで決めたのは流石スズキのエキスパートの山下さんだ。

ピンカートンの宮里直樹さんはこれが二期会デビューで、若々しく瑞々しいピンカートン。前半は緊張気味だったが、それでも高音の持っていき方に度胸があり、声量もある。ピンカートンは軽率な男だが、嫌味があるかないかは歌手のキャラクターによって決まる。二期会の舞台を初めて踏む宮里さんは、ピンカートンにとって日本のすべてが初めてで、恋をするのも初めて…といった「初めてづくし」の演技に見えた。昔はやきもきしながらこの役を睨んでいたが、最近では危なっかしい自分の息子のように思えてしまうことがある。
蝶々さんに夢中で、せかせかと落ち着きない恋心を歌うピンカートンを諭すように「実は昨日、領事館に彼女がきたのだよ」と歌うシャープレスのメロディはとても美しい。デスピノーサはようやくここでテンポを落としてくれたが、もっともっとゆっくりでもよかった。シャープレスは今井俊輔さんが歌われた。

蝶々さんは森谷真理さん。このキャスティングを聞いたとき、ドイツもののイメージが強い森谷さんがドラマティックなイタリアものを歌うことが意外だったが、よく準備をされていて、音程にも隙がなかった。蝶々さん登場のシーンは、オペラの中でも好きな旋律のひとつ。森谷さんは完璧主義者なのだろう。音程やディクションへの細やかな努力が伝わってきたが、演技の面ではラブストーリーには見えなかった。
これは演出に起因しているのかも知れないが、ピンカートンと蝶々さんは愛の二重唱を歌っているときもずっと離れていて、蝶々さんはピンカートンから距離を置き続けているのである。避けているようにも見える。前回の上演もこうであったか…記憶が曖昧なのだが、二人の間に恋が生まれているようには見えず、声楽的に「歌っている」印象しか残らなかった。

この齟齬感は何なのか…ひとつは指揮にもあった。
前半はテンポが速すぎたし、ドラマ作りへの関心も希薄であるように思えた。歌劇場のコンマスの劇場経験もあるデスピノーサだが、「蝶々夫人」に対してはあまり物語に関心がないのか、みんなを怖がらせる叔父ボンゾの登場も、本気で驚かせようとはしておらず「譜面の通りやってる」感じだった。折角のボンゾなのに迫力が半減だったのだ。
もしかしたら、蝶々さんに過剰な愛情を抱いているのは私だけで、指揮者もけったいな物語だと思っているのかも知れない…などという不安が頭をよぎる。

蝶々さんは本当に、異国文化を誤解したオペラで、その罪を誰に問おうとしても詮なきことだが、同時に真実の物語でもある。文化の摩擦や政治的葛藤より大切なのは、男女のラブストーリーであるということだ。物事にはダブルの意味があるが、アメリカと日本の主従関係は、恋物語であるほどには重要ではないと思う。エキゾティシズムという要素は大きい。
男女の間にはつねに誤解が存在するが、この「エキゾティックな誤解」は、宗教的な罪悪感が多くを占めている。ピンカートンはキリスト教徒で、蝶々さんも夫にならって一人で改宗を行うが、ピンカートンから見れば蝶々さんは自分の宗教の埒外にいる存在で、それゆえに性的な罪悪感を感じずに済む快楽の対象なのだ。
若さと勢いで他人の痛みをかえりみず、自分勝手な結婚をするピンカートンだが、基本的にだいたい、男は女を誤解しているし、若い頃は相手のことなどロクに考えないものだ。
ピンカートンは凡庸な男なのだ。それゆえラストの三重唱では懺悔のような歌を歌う。

日本の『蝶々夫人』は、プッチーニの書いたエキゾティシズムに対して防御的であり続けてきたと思う。「本当の日本はこんなふうに正しく着物を着て、こんなふうにおしとやかな所作で…」という「オウム返し」なリアクションで、どのオペラ団体でもそれをやる。二期会の栗山演出が不朽の名作であることを認めつつ、そろそろ変わってもいいのではないかと思う。世界中の歌劇場で蝶々さんは上演され、はみ出した演出はブーイングを浴びているが、そもそも「誤解」がベースにあるオペラなのだから、演出が多少逸脱的であっても、逆に正解なのではないかと思う。
「どうですか。これが正解なのです」という純和風の蝶々さんは、藤原、新国でも上演されているが、未来永劫これが続くことは、オペラ的によいことだとは思えない。日本で蝶々さんを初演した藤原は「お家芸」だからいいとして二期会、新国はそろそろ新しい冒険をしてもいいのではないか。
西洋という「他者」からの視線が結実しているオペラに、冴えた返答を行う…それは「蝶々夫人」という機会しかないのだ(『イリス』や『ミカド』も名作と言えば名作だが、蝶々さんは桁外れな名作だ)。

後半、オーケストラはだいぶ呼吸感が寛いできたが、デスピノーサはドラマティックなヴェリズモ・オペラとしてではなく、淡い語り口の劇付随音楽としてサウンドを作っていたという印象。「ある晴れた日に」は森谷さんの絶唱に会場が湧き、見せ所を完璧に決める歌手のメンタルの強さに驚いた。演劇的には、やはりスズキの山下さんが一人だけずば抜けていて、この役のことも深く愛していた。蝶々さんでは、もっと歌手たちに自分の役を愛して欲しいのだ。狂おしくてたまらないほど役を愛して愛して愛し抜いてほしい…と思うのは、プッチーニのオペラのファンの勝手な言い分だろうか。
蝶々さんの死を予見したかのようなスズキ、ピンカートン、シャープレスの三重唱は、プッチーニがヒロインのために書いた「先取りされたレクイエム」のような曲。ここで、シャープレスは居丈高に直立したままなのが腑に落ちなかった。これはもっといい役で、譜面にもそのことが書かれているのである。