突然の初夏の陽気となった週末、1か月に渡る催しの後半に入った東京・春・音楽祭の マーラー『交響曲第3番』を東京文化会館大ホールで聴いた。都響を指揮するのは、英国出身の1982年生まれの指揮者、アレクサンダー・ソディ。音楽祭の記者発表のときに配布された全出演者のプロフィールが掲載された冊子を前もって読まないまま出かけたので、初めて聴く指揮者については驚くことばかりだった。コンサートマスターは山本友重さん。
ステージの端から端まで楽器で埋め尽くされ、下手には二台のハープ。フル編成のオケが待つ中、アレクサンダー・ソディは若々しい雰囲気で登場し、指揮台にひょいと上って長大な1楽章を振り始めた。個人的にマーラーの交響曲は3の倍数番が大変気に入っていて(!)、ノイマイヤーのバレエにもなった3番には格別の愛着を抱いている。第1楽章は、始まった瞬間唐突にストラヴィンスキーを思い出した。マラ3と春の祭典の初演には17年の年月の開きがあるが、「夏が行進してくる」と作曲中のマーラーが標題をつけた1楽章には、『春の祭典』に似た獰猛な自然界の摂理や、大地の蠕動が感じられた。
ストラヴィンスキーは春祭の導入部で「おどおどと下手に演奏するように」と管楽器奏者に指示したという。ソディがマラ3で都響から引き出した音にも、意図的なほつれが感じられた。ノイズ交じりのような「粗く削った」音が重なり、フレージングは独特の含意を感じさせ、それらはひどく聴き手の無意識を搔き乱すのだった。マーラーの神経質な性格が顕著に表れた楽章なのだが、ソディは晴れたり雹が降ったり雷の後に虹が出たりする分裂症的な音楽を、我が心に起こったことのように引き受け、マーラーを翻弄した巨大な霊感を読み取っていた。子供が見るこわい夢のような世界で、作曲家は何かに「襲われて」、音楽の特異な美を抽出していたと思う。
1楽章では既に、指揮者がホールのアコースティックの特性を生かした率直な響きをあらゆる箇所で引き出していたことが分かった。リハーサルには1週間かけられたという。ゲスト指揮者と初対面のオケにとって贅沢な時間だが、その中で指揮者は自分の理想を驚くほどの水準でオーケストラが叶えてくれることを知り、貪欲にイメージを拡大し、ホールでの最終リハーサルでさらに面白いアイデアが浮かんだのではないかと想像した。どの楽器も、少しずつ音のキャラクターを歪め、エキセントリックな響きを出している。魚拓を取るようにはっきりと指揮者の意図を映し出す文化会館のドライな音響が有難かった。
2楽章の「テンポ・ディ・メヌエット」には、マーラーの中の乙女心のようなものを毎回感じる。オーボエの朗らかな旋律に託されているのは、純粋で女性的なるものへの憧れではないか。「野の花々が私に語ること」という標題が付けられていた章を振るとき、ソディの指揮棒は信じがたいほど柔らかく、棒の先にひらめく蝶がついているように見えた。「指揮をする棒」がこんなに優し気に感じられたことはない。シルフィードたちの舞いや、アールヌーヴォーの図案化された花々が連想された。
それぞれの世代がもつ「当たり前」の感性には注意深くならなければならないし、音楽という共通言語を持っていても、ほんの僅か年齢が違うだけで、色々なことのデリカシーが異なっていることがある。39歳のアレクサンダー・ソディを迎え入れ、指揮者の本質的な美質に共鳴して真剣な音楽を作り上げた都響に感心した。ソディの美質とは、完全に現実の呪縛から解き放たれた「別次元」のパノラマスコープを作る想像力だと思う。指揮者なら誰でも持っているようで、現実の「穴」がしょっちゅう透けて見える音楽もある。「迷いなく」新しい次元を作すためには、空想というレベルを超えた強い念動力が必要なのだ。指揮棒のふんわり感と真逆の、オケ全体を一瞬で遠くまで引き連れていく腕力(?)に驚かされた。
3楽章は、そのまま「ばらの騎士」の三重唱が始まってしまうのではないかと思われるホルンの美しい演奏に陶然となった。4楽章では、ニーチェのテキストを歌う清水華澄さんのソロに聴き入る。数年前、清水さんに取材したとき「声楽家はオーケストラのプレイヤーほど真剣に音楽に取り組んでいないのではないか」という問題意識を語ってくれたが、実際清水さんは何年間も途轍もない孤独感を感じながら自分の表現を磨いてきた。ご自身が歌わないときも、オーケストラの音の渦の中で深い瞑想を行っている様子が伺えた。ニーチェの一節一節を、オケに感謝を捧げながら歌っている姿を目に焼き付けた。
5楽章では東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱隊が輝く歌声を聴かせた。4楽章では苦痛に勝つ永遠の快楽が讃えられ、5楽章では十戒を破った者が信仰によって救済される。6楽章の永遠に通じる神秘的なオーケストラのサウンドからは、「愛が私に語るもの」という、マーラーが破棄してしまった標題がどうしても思い出されてしまう。愛とは太陽意識のようなもので、創造の根幹をなす熱のことではないかと最後の楽章を聴きながら思った。この世界で起こりつつある悲劇や矛盾のことは、なぜか連想しなかった。首尾一貫した、完全に音楽的な次元の表現の中では、現実のしかじかのことは、介入しようもなかった。それぞれの聴き手によって、印象はさまざまだろうと思う。
マーラーの3番が「とても長い」ということをすっかり忘れていた。少しも長くはなかったし、違う時間軸の出来事のようにも感じられ、指揮者が連れ去ってくれた世界の濃密さに浸っていた。都響のマーラーは歴代の音楽監督や客演指揮者たちの歴史的名演によって証明済みだが、今回若手指揮者との出会いを作ってくれた音楽祭には心から感謝したいと思う。
※後日改めてアレクサンダー・ソディ(Alexander Soddy)のプロフィールを確認。
オックスフォード生まれ。故郷マグダレン・カレッジで合唱団員として活動し、合唱指揮とピアノを学んだ後、王立音楽院とケンブリッジ大学に進み、2004年にロンドンのナショナル・オペラ・スタジオでコレペティトゥール兼指揮者として従事。2010年から2012年までハンブルク国立歌劇場でカペルマイスターとして活動し、2013-2016年にクラーゲンフルト市立劇場の首席指揮者を務めた後、2016/2017年シーズンからマンハイム国立劇場の音楽総監督を務めている。
ステージの端から端まで楽器で埋め尽くされ、下手には二台のハープ。フル編成のオケが待つ中、アレクサンダー・ソディは若々しい雰囲気で登場し、指揮台にひょいと上って長大な1楽章を振り始めた。個人的にマーラーの交響曲は3の倍数番が大変気に入っていて(!)、ノイマイヤーのバレエにもなった3番には格別の愛着を抱いている。第1楽章は、始まった瞬間唐突にストラヴィンスキーを思い出した。マラ3と春の祭典の初演には17年の年月の開きがあるが、「夏が行進してくる」と作曲中のマーラーが標題をつけた1楽章には、『春の祭典』に似た獰猛な自然界の摂理や、大地の蠕動が感じられた。
ストラヴィンスキーは春祭の導入部で「おどおどと下手に演奏するように」と管楽器奏者に指示したという。ソディがマラ3で都響から引き出した音にも、意図的なほつれが感じられた。ノイズ交じりのような「粗く削った」音が重なり、フレージングは独特の含意を感じさせ、それらはひどく聴き手の無意識を搔き乱すのだった。マーラーの神経質な性格が顕著に表れた楽章なのだが、ソディは晴れたり雹が降ったり雷の後に虹が出たりする分裂症的な音楽を、我が心に起こったことのように引き受け、マーラーを翻弄した巨大な霊感を読み取っていた。子供が見るこわい夢のような世界で、作曲家は何かに「襲われて」、音楽の特異な美を抽出していたと思う。
1楽章では既に、指揮者がホールのアコースティックの特性を生かした率直な響きをあらゆる箇所で引き出していたことが分かった。リハーサルには1週間かけられたという。ゲスト指揮者と初対面のオケにとって贅沢な時間だが、その中で指揮者は自分の理想を驚くほどの水準でオーケストラが叶えてくれることを知り、貪欲にイメージを拡大し、ホールでの最終リハーサルでさらに面白いアイデアが浮かんだのではないかと想像した。どの楽器も、少しずつ音のキャラクターを歪め、エキセントリックな響きを出している。魚拓を取るようにはっきりと指揮者の意図を映し出す文化会館のドライな音響が有難かった。
2楽章の「テンポ・ディ・メヌエット」には、マーラーの中の乙女心のようなものを毎回感じる。オーボエの朗らかな旋律に託されているのは、純粋で女性的なるものへの憧れではないか。「野の花々が私に語ること」という標題が付けられていた章を振るとき、ソディの指揮棒は信じがたいほど柔らかく、棒の先にひらめく蝶がついているように見えた。「指揮をする棒」がこんなに優し気に感じられたことはない。シルフィードたちの舞いや、アールヌーヴォーの図案化された花々が連想された。
それぞれの世代がもつ「当たり前」の感性には注意深くならなければならないし、音楽という共通言語を持っていても、ほんの僅か年齢が違うだけで、色々なことのデリカシーが異なっていることがある。39歳のアレクサンダー・ソディを迎え入れ、指揮者の本質的な美質に共鳴して真剣な音楽を作り上げた都響に感心した。ソディの美質とは、完全に現実の呪縛から解き放たれた「別次元」のパノラマスコープを作る想像力だと思う。指揮者なら誰でも持っているようで、現実の「穴」がしょっちゅう透けて見える音楽もある。「迷いなく」新しい次元を作すためには、空想というレベルを超えた強い念動力が必要なのだ。指揮棒のふんわり感と真逆の、オケ全体を一瞬で遠くまで引き連れていく腕力(?)に驚かされた。
3楽章は、そのまま「ばらの騎士」の三重唱が始まってしまうのではないかと思われるホルンの美しい演奏に陶然となった。4楽章では、ニーチェのテキストを歌う清水華澄さんのソロに聴き入る。数年前、清水さんに取材したとき「声楽家はオーケストラのプレイヤーほど真剣に音楽に取り組んでいないのではないか」という問題意識を語ってくれたが、実際清水さんは何年間も途轍もない孤独感を感じながら自分の表現を磨いてきた。ご自身が歌わないときも、オーケストラの音の渦の中で深い瞑想を行っている様子が伺えた。ニーチェの一節一節を、オケに感謝を捧げながら歌っている姿を目に焼き付けた。
5楽章では東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱隊が輝く歌声を聴かせた。4楽章では苦痛に勝つ永遠の快楽が讃えられ、5楽章では十戒を破った者が信仰によって救済される。6楽章の永遠に通じる神秘的なオーケストラのサウンドからは、「愛が私に語るもの」という、マーラーが破棄してしまった標題がどうしても思い出されてしまう。愛とは太陽意識のようなもので、創造の根幹をなす熱のことではないかと最後の楽章を聴きながら思った。この世界で起こりつつある悲劇や矛盾のことは、なぜか連想しなかった。首尾一貫した、完全に音楽的な次元の表現の中では、現実のしかじかのことは、介入しようもなかった。それぞれの聴き手によって、印象はさまざまだろうと思う。
マーラーの3番が「とても長い」ということをすっかり忘れていた。少しも長くはなかったし、違う時間軸の出来事のようにも感じられ、指揮者が連れ去ってくれた世界の濃密さに浸っていた。都響のマーラーは歴代の音楽監督や客演指揮者たちの歴史的名演によって証明済みだが、今回若手指揮者との出会いを作ってくれた音楽祭には心から感謝したいと思う。
※後日改めてアレクサンダー・ソディ(Alexander Soddy)のプロフィールを確認。
オックスフォード生まれ。故郷マグダレン・カレッジで合唱団員として活動し、合唱指揮とピアノを学んだ後、王立音楽院とケンブリッジ大学に進み、2004年にロンドンのナショナル・オペラ・スタジオでコレペティトゥール兼指揮者として従事。2010年から2012年までハンブルク国立歌劇場でカペルマイスターとして活動し、2013-2016年にクラーゲンフルト市立劇場の首席指揮者を務めた後、2016/2017年シーズンからマンハイム国立劇場の音楽総監督を務めている。