小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『コジ・ファン・トゥッテ』(9/5)

2024-09-07 06:46:54 | オペラ
9/5に初日が開けた二期会の『コジ・ファン・トゥッテ』がすごい人気。シャンゼリゼ劇場、カーン劇場、パシフィック・オペラ・ヴィクトリアとの共同制作で、既にシャンゼリゼ劇場では初演が行われ、世界で最も忙しい演出家のひとりであるロラン・ペリーが8月から二期会の歌手たちに稽古をつけていた。フィオルディリージとドラベッラ、グリエルモとフェランドは現実の歌手として登場し、実際に1950年代にベルリンに存在したというレコーディング・スタジオを模したというセットで劇が始まった。

ロラン・ペリーという演出家は簡単にヒューマニズムなどと言わないクールな策士で、薄氷を踏みながら次々と新しいアイデアを創り出している演劇人というイメージ。今回は最高過ぎた。レコーディングスタジオの舞台は完璧で(チームを組んでいるシャンタル・トマが今回も冴えた装置デザイン)、そこにレトロな色彩感のブルーとグリーンの服を着たフィオルディリージ(種谷典子さん)とドラベッラ(藤井麻美さん)がソファに座りながら何やら発声練習や顔の筋肉ほぐしをしている。歌手の日常を観察している演出家の面白い芝居づけ。グリエルモ(宮下嘉彦さん)とフェランド(糸賀修平さん)も歌手という設定。50代くらいの男性として描かれるドン・アルフォンソ(河野鉄平さん)は百戦錬磨の音楽プロデューサーといった雰囲気。

あらすじでは、グリエルモとフェランドは女性たちの変わらぬ愛を試すために戦場へと出向くが、この現代劇の設定では一体どういうことになるのかとドキドキしていたら、男たちは普通に荷物をまとめてスタジオを出ていき、変装して戻って来る。演出のアイデアとしては力業というか、大変人を食っているが、「アルバニアの貴族」に変装した二人は白塗り化粧に黒装束の宮廷服で、モーツァルトの時代の御大臣みたいな姿なのだ。音楽も彼らの自己紹介の件は、時代を逆行したような古めかしいムードになる。こんな奇妙な男たちを女性たちは愛するとは思えないが、ペリーの魔法で劇はどんどん妖しい方向へ向かっていく。

若いキャストが集まった初日ははじけるような声の応戦で、ドラベッラ藤井さんの実力は既に知っていたが、フィオルディリージ種谷さんは正直ノーマークだったので、こんな凄い若手が二期会にいたのかと驚いた。高音が輝かしく、透明感があり、どんなに芝居が激昂しても声の上品さが失われない。誘惑に負けんとする長女が歌う14番のアリアでは、歌う場所を変えるたびに上からマイクが垂れ下がってくるという面白い仕掛けがあったが、歌手の真剣な表現は、この年頃の女性にとって「愛するということ」が生物学的にどれほど重要で自分の命を左右するということかを伝えてきた。後半でも長丁場のロンドでフィオルディリージは嵐のような心の動揺を歌うが、舞台上ではあらゆるドアに鍵がかかっていて、物理的にも感情的にも逃げ場がないという設定だった。

こうした追い詰められた女性の悲劇的相貌は、演出のもうひとつの視点からいうと「歌手の芸の肥やし」であり、絶体絶命のデズデモーナやトスカのように歌い手にリアリティを与えるのだが、女の心理から言うと「男たちの悪戯のために女をこんな状態に追い込むなんて!」と怒りも湧いてくる。一方で、男の視点からこのフィオルディリージの熱唱を聴くと、どんな濡れ場よりも妖艶で官能的なのだ。種谷さんは本気で自分を追い詰めた演技をしており、稽古場でのインタビューでも「フィオルディリージと私は頑固なところが似ている」と語っていたが、一種の憑依的ともいえる境地に達していた。

ドラベッラ藤井麻美さんはコントラスト的に「陽気な次女」としてコメディエンヌとしての魅力を発揮しまくり、チャーミングな演技と無限に湧き出る泉のような美声で1幕11番のアリアなど聴かせどころを歌った。ものすごく芯のある方で、声も豊かで安定感があるが、演劇的な柔軟性も素晴らしく、役によって全く違う顔を見せてくれる。種谷さんとの姉妹役は新境地で、スズキのような渋い役だけでなくきゃぴきゃぴした藤井さんもとても可愛くてセクシーだと思った。

演技は非常に細かく作られており、日本キャストとの再演で新たにたくさんのアイデアが生まれたという。ロラン・ペリーが鬼才なのは、「自分がどのような者か」ということを知り尽くしていて、オリジナルの統辞法を絶対に譲らないから。デセイやミンコフスキと組んでたくさん上演したオッフェンバックのオペレッタは、ボックスセットを持っているがフランス語の台詞がメインなのでなかなか全部見れていない。彼の根っこにあるのはフランス的なユーモアと美意識と人間観で、二日目キャストのドン・アルフォンソ黒田博さんが過去に主役を演じた『ファルスタッフ』でもそのポリシーを貫いていた。オペラは書かれた時代精神に支配されながらも、ダブルミーニングとして「普遍的人間性」を表現する。フランスには「自分はゲイでカトリック信者である」ということを演出上のアイデンティティにしているオリヴィエ・ピィのような人もいるが、ペリーもそれくらい自分自身の文体を貫くということに命をかけている。

日本のキャストとの長い稽古で、演出家の中にも新しい切り札がたくさん生まれたのではないだろうか。ドン・アルフォンソ河野鉄平さんは身のこなしが軽やかで、まるで自分の国の言葉を話すかのようにイタリア語のレチタティーヴォをこなす。デスピーナ九嶋香奈枝さんにはよくある可愛いデスピーナを演じさせず、労働階級のスタジオの清掃係のような姿で登場する。この二人は、他のオペラには絶対に似た者がいないモーツァルトとダ・ポンテの創造物で、あらゆる奇妙さを引き受けつつ、現代的なリアリティを表現していた。ゲネプロでは二日目のキャストも見学したが、七澤結さんのデスピーナはゾンビのようなメイクで、演技もさらに振り切れていてびっくりした。

恋人たちを試そうとするグリエルモとフェルランドの悪辣さと、裏切られたと知ったときの激昂の表現は、ほとんどヴェリズモ・オペラのような激しさで、声楽的にはモーツァルトの端正さを保ちつつも、感情表現は破壊的といっていいほどだった。宮下さんと糸賀さんは変装メイクをすると双子の兄弟のようで、死んだふりの演技も面白い。張り詰めた独唱も、このオペラの最大の美質である重唱も真摯に歌われていた。

オーケストラは新日本フィルとクリスティアン・アルミンクで、粋なリユニオン・プロジェクトになったわけだが、ゲネ初日ではピットの音に生気がなくて焦った。本番は全く違う活き活きとした音楽で、テンポはハーモニーを味わうようにゆったりとして、声楽家たちを包み込むような優しい風のようなアンサンブルも快かった。日を重ねて充実していっていると思う。合唱は二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部の合同で、二期会を新国で聴くのもフレッシュだったが、合唱の響きにも瑞々しい若さが感じられた。

コジはモーツァルトの最晩年のオペラだが、こんな凄いものを書き続けていたから早死にしてしまったのだろう。あまりに優れているし、膨大な細部が美しく、歌もオーケストラも次から次へと奇跡が起こる。このオペラでしか出会えない美しい旋律やハーモニーがありすぎて、巨大な才能を現実化するために身体をどれだけ酷使していたのだろうかと寒い気持ちにもなった。使いまわしなどなく、ほんの一瞬出会っては消えていくいくつもの美しい旋律が心に残る。そしてそれはすべてモーツァルトの宇宙で、太陽系のすべての天体が音楽家の中にあるのだと伝えてきた。歌手と演出の素晴らしさと、作品の真価を知ることの出来る稀に見る名演。