小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ロンドン交響楽団(9/26)

2024-09-28 15:10:35 | クラシック音楽
6月に英国ロイヤル・オペラ芸術監督として任期最後の公演を日本で行ったアントニオ・パッパーノが、今度はロンドン交響楽団のシェフとして3か月ぶりの来日を果たした。パッパーノの熱烈なファンである自分にとって嬉しいことこの上ない。ROHは22年間シェフを務め、終身芸術監督になるかとも思われたが、見事な幕引きを見せて新しいキャリアを迎えた。この公演では「超一流とは何か」ということを深く考えてしまった。
パッパーノは関わるオーケストラや合唱、ゲストを夢中にさせる。サンタ・チェチーリアの来日公演のときも走って指揮台にぴょんと登り、オケ全員を一瞬で集中モードに持って行った(アルプス交響曲)。オケとの日常が素晴らしいのだ。パッパーノはどの団体とも信頼関係が固く、おかしなスキャンダルを聞いたこともない。芸術性と人間性は別だ、なんて自分は信じない。そういう意見自体が前時代的だ。パッパーノには二度インタビューしたが、自分の洞察力を総動員して彼を観察し、本当に凄い人だと認識した。指揮者は顔が命だとも思うが、パッパーノは完璧で、本当にハンサムで素敵な顔をしていると思う。

クラシックの言説において感情を表現すると「プロっぽくない」とパージされる経験をしてきたが、感情の埒外にある表現をどう断じたらいいのか分からない。客観性? 誰か偉い人がそう言ったから? 一流はそれでよくても、超一流はそうはいかない。子供だって超一流を聴いたら直観でそれが何であるか分かってしまう。パッパーノの音楽は確実に情動に触れ、その感覚が真実のものであり、感情が二流のものではないと実感させてくれる。ロンドン交響楽団のメンバーはベテランが多いが、ベルリオーズ序曲『ローマの謝肉祭』から膠を剝ぎ取ったような若々しい響きを聴かせた。躍動感があり、音の粒子が細かく、入念に作りこまれているが勿体ぶったところがない。英国のオケといえば一流のブラス隊が名物だが、ロンドン響の金管は鳴らしすぎず注意深く響きを調整していた。

ユジャ・ワン登場。11センチくらいのハイヒールに、黄緑とピンクのグラデーションのスパンコールの超ミニドレスで、期待を裏切らないセンス。カラフルなアルマジロのようで、あのファッションで一音でもトチったら彼女の評価は乱降下してしまう。ナイフの上で爪先立ちをしているような賭けを毎回やっているのだ。バカンスはどこで過ごしたのか、すごい日焼けをしている。ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第1番』はユジャが弾くと人気の2番のコンチェルトよりモダンな意匠に富んだ曲に感じられ、ピアニシモは深い内観を表し、オケとのクラッシュするような掛け合いには作曲家の最後のピアノ・コンチェルトである4番に似たモダニティが感じられる。
パッパーノがオケから引き出すラフマニノフは胸を切り裂くように甘美で、情動が突き動かされ、ずっとパッパーノのラフマニノフを聴きたかったのだと砂が水を吸い込むように音楽を貪ってしまった。コンサートマスターが奏でる美音が、クライスラーの録音のようなセピア色の風情を醸し出す。ソロの超絶技巧は奇跡的で、鍵盤の上を飛魚のように跳ねるユジャの両手がマジックか何かを見ているようだった。

パッパーノは元々指揮者を目指していた人ではなく、コレペティとしてあまりにオペラ解釈に優れているので歌手たちが背中を押して、求められる形で指揮台に立った。バレンボイムはオペラの伴奏をするパッパーノのピアノを聴いて「弾いているのは誰だ?」と血相を変えたという。バレンボイムが放っておけない伴奏とはどのようなものだったのか。パッパーノの父親は声楽教師で、子供の頃から伴奏の手伝いをして歌手たちを見てきた。そのエピソードが好きで、9年前の取材で「あなたの人生を映画にしたら『ビリー・エリオット』のような名作になりますよ」と本人に伝えたら笑っていた。

伴奏ピアニストから指揮者になったことで、別人になって急に威張り始めたりしなかったのは、すぐにしかるべき一流のポジションについて「物の分かったオケ」相手に強制的な指示を出す必要がなかったからだろう。人間の世界とは、そのように出来ている。威圧を与えることで芸術が「成る」という伝説は、もう化石だ(一部ではまだ生きているのかも知れないけど)。パッパーノは祝福された人で、彼の生来の優しさや寛大さを損なわずに他者を尊重することで奇跡的な何かを生み続けてきた。

一方でパッパーノは「頑張る人」でもあり、果てしない努力や音楽家としての精進が芸術の高みに上る唯一の道であると信じている。ロンドン交響楽団では19世紀後半のレパートリーを充実させていくことが当面の目標であるとインタビュー映像で語っていたが、後半のサン=サーンス『交響曲第3番《オルガン付き》』では、細部にわたって吟味された音のデザインが、慎重なプランに沿って演奏されていた。オルガンをリチャード・ゴーワースが演奏し、精妙な音を鳴らす後ろ姿に天使の羽が見えたような錯覚を覚えた。
ラトル時代にもある種の完璧さを見せていたと思うが、パッパーノは音楽の根深い部分を聴かせ、それは聴き手の直観を強く刺激する演奏だった。サン=サーンスもオペラを書いたが、今までにROHの来日公演で聴いた他のフランスオペラ(『マノン』『ウェルテル』)を連想させる独特の色彩感があり、サン=サーンスが旅を愛し女性を愛し、愛することに大いに傷ついていた人であったことも思い出させた。そういう感情を引き出されることが自分にとって何より重要なのである。

不調和を招かないリーダーシップとは何かということも考えさせられた。他者へのリスペクトを基本にしながら、いざというときには船の帆を張って進むべき場所へと一気に進ませる。パッパーノはどんな時間も無駄にしない合理的な人であるとも思った。アンコールにフォーレの『パヴァーヌ』。ロンドン響の黄金の糸で編まれた布のようなサウンドに恍惚とした。最初から最高のパートナーシップを感じさせる、ロマンティックで鮮烈な演奏会だった。





全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』(9/23)

2024-09-25 15:37:49 | オペラ
2024年度全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』を東京芸術劇場で鑑賞。このシリーズの名作『フィガロの結婚』(野田版)でも指揮をされていた井上道義さんが甘美で壮大なプッチーニを振った。今年いっぱいで指揮者を引退される道義先生の最後のオペラで、オーケストラは読響。大好きなボエームが、改めて「超」名作であることに驚き、先日からムーティ『アッティラ』ミョンフン『マクベス』とヴェルディの偉大さに触れる機会が続いていただけに、それとはまったく別のプッチーニの崇高さというものに圧倒された。

1幕のボヘミアンたちの屋根裏での大騒ぎは楽しく、ロドルフォ工藤和真さん、マルチェッロ池内響さん、コッリーネ・スタニスラフ・ヴォロビョフさん、ショナール高橋洋介さんが1830年代のパリの若者たちを演じ、池内マルチェッロは画家の藤田嗣治と同じ風貌をしている。ヘアメイクの効果とはいえ写真のフジタとそっくり過ぎて、ついつい目で追ってしまう。家賃を取り立てに来る大家ベノアは晴雅彦さんで、大きなワイン瓶のオブジェとともに若い衆と喧々諤々やる様子が楽しい。オーケストラは次から次へとやってくるシークエンスを畳み込むように積み重ね、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』を思い出した。プッチーニはストラヴィンスキーより24歳年上だからその感覚は奇妙なのだが、オーケストラは明らかにイタリアオペラの枠をはみ出して、ワーグナーやチャイコフスキーに比肩する壮大さを表している。二階のかなり後ろの席だったのでピットのすべてが見えたが、詰め詰めに並んだ管楽器が壮観だった。

ミミのルザン・マンタシャンはアルメニア出身で、今年に入って英国ロイヤルオペラやウィーン国立歌劇場でデビューを飾った新星ソプラノ。はっとしたのは、ロドルフォから蠟燭の火をもらって部屋を出て行こうとし、踵を返してくるときのミミがとても上品だったことで、オーケストラも「優しくて繊細なミミ」をサポートしていた。ここで妙に「ケモノっぽくなるミミ」を何人も見てきて、「鍵をなくした」というのも口実なので確かにうそをついているのだが、過剰にメスっぽくなっては観る側も興ざめになる。
ミミはプッチーニのオペラの中で最も美しい女性で、それは作曲家のノスタルジーの中にいるヒロインで、遠い憧れであり喪失であり、ダンテのベアトリーチェのような理想化された存在なのではないか。プッチーニはミラノ音楽院で学んでいた貧乏学生だった頃の自分を思い出してボエームを書いたという。ミミは寒い部屋の中にともる蠟燭の灯のような女性で、守ってあげたくても守ってあげられない風前の灯火のような儚い存在なのだ。

ロドルフォの「冷たい手を」は引き延ばされたようなスローテンポで、先程まで男同士の馬鹿騒ぎをしていた若者が別人みたいになり、心はすっかり夢の世界に入り込んでいる。歌手にとってはハードなテンポかと思われたが、工藤和真さんは勇敢に歌い切り、ハイCも見事だった。続く「私の名はミミ」もソプラノはゆっくりゆっくり歌う。道義先生にとってこのシーンはこうなのか…と胸が熱くなった。愛の思い出のすべてがオーケストラの夢幻のサウンドになり、二人が静かに袖に消えていく二重唱は、眠りの中へと溶け込んでいくような感じがした。

全国共同制作オペラは毎回アウトローな(?)演出家を起用する伝統があり「奇抜なことをやってこそ」という懐の深さがかなりスリリングな域にまで達していたプロダクションも観せてもらったが、2018年の『ドン・ジョヴァンニ』の演出も手掛けた森山開次さんは、ダンサーや道化を使いながらも逸脱的なことはやらず、結果的に指揮者がリードするプッチーニとなった。ストーリー作りは完全に指揮者が行い、登場人物の性格も指揮者が作っていた。一幕の屋根裏部屋から二幕のカフェモミュスへの場面転換は道化が面白おかしいジェスチャーをし、その背後でカフェの舞台が作られていくというもので、意図的なのかも知れないが、かなり長く感じられた。セッティングが終わると、クリスマスの楽しいシーンが始まる。
今回道義先生は字幕も担当しているが「ムゼッタのワルツ」はかなりぶっ飛んでいて、大笑い。その後も「えっ?」というような字幕がたくさん出てきた。イローナ・レヴォルスカヤが妖艶でコケティッシュなムゼッタを好演。ムゼッタと藤田似のマルチェッロは妙に絵になるカップルで、藤田がパリではモテモテでモデルの西洋女性の柔肌をオリジナルの顔料で表現し、作品が高く売れていたことなども思い出した。世田谷ジュニア合唱団は全員黒猫のコスチュームを着て、元気いっぱい。まだ小さい方もいて、カーテンコールでマリンバのように背丈の順に並ぶ様子も可愛らしかった。

3幕の音楽の美しさは衝撃的だった。ほとんど宗教音楽の美で、隠者のような装束の女声コーラスがレクイエムのような歌を歌い、オーケストラも聖なる響きを奏で、ここではマスカーニを思い出した。マスカーニはプッチーニより少しだけ早く出世したが、音楽が一番素晴らしいのは『カヴァレリア・ルスティカーナ』で、ボエームの3幕はカヴァレリア…を彷彿とさせる。貧しさゆえに別れを決意し、それでも春までは一緒にいようと歌うカップルの重唱が、ミサ曲のようなのだ。ムゼッタのけたたましい声とマルチェッロの罵声がその静けさを切り裂くが、そうでもしないとオペラにならないのだろう。3幕の最初と最後の「ズッ、チャッ」という二音も異化効果っぽい。

ミミが息絶える4幕は伏線となっていたライトモティーフが溢れ出し、客席の涙腺も大いに緩むが、「プッチーニは泣かせるから通俗的」なのではなく、音楽的には3幕の聖なる余韻が4幕につながっている。小さな恋愛物語のようで、「海よりも深くて果てしない(ミミ)」宇宙的な愛のオペラで、ミミは完璧な聖女となって天に召されていく。原作のミミは狡猾なところもあるというが、プッチーニの音楽には描かれていない。現代的な意識をもつ歌手の中には「ミミは死ぬから好きじゃない」という人もいて、それはそれで納得がいく。極度に理想化された女性を女自身はどう歌ったらいいのか、ということなのだろう。死相が現れている女性に「朝焼けのようにきれいだ」と言うのは、愛を美化しているからで、現実ではない。そんなことを問うのはナンセンスだ。指揮者とオーケストラがプッチーニの憧れと郷愁を炙り出し、女性という至上の存在を浮き上がらせた。「道義先生にとって、女性とは女神のような存在だったのだ」と同時に納得し、ここまでオペラで女神を表せるマエストロは凄い、と腰が抜けた。読響も本当に素晴らしい。世界中のどの歌劇場オーケストラより凄いと確信した。

ボエームはセピア色の恋で、過ぎ去りし日の一枚の写真のような恋。若い頃の記憶は最近の出来事より鮮明なのは何故だろうといつも不思議に思う。20年前や30年前のことが、昨日のように思い出される。そうした時間感覚の不思議を味わわせてくれるプッチーニという人についても考えてしまった。時間をつかさどるクロノス神は山羊座の守護神で、プッチーニも道義先生もそういえば山羊座…オペラの幕引きを迎えたマエストロの背中を見て「それじゃあもう本当に、終わりなんだね」とというロドルフォの歌詞が重なった。
全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』はこの後全国6か所を回る。



モーリス・ベジャール・バレエ団『バレエ・フォー・ライフ』(9/21)

2024-09-22 00:31:36 | バレエ
3年ぶりのBBLの来日公演は、「新芸術監督」ジュリアン・ファヴローが主役のフレディを演じる『バレエ・フォー・ライフ』から始まった。ベジャール亡き後17年間にわたって芸術監督を務めてきたジル・ロマンとのリーダー交代劇はカンパニーもバレエ界全体をも驚かせたが(誰よりジュリアン自身も)、バカンスを終えて戻ってきたダンサー達は、新シーズン最初のツアー先となった日本で最高のパフォーマンスを繰り広げた。
このバレエは何回観たか数えきれない。ジュリアンがフレディが踊る姿を初めて観たのは22年前の2002年。眩しい金髪で均整の取れた美しい長身、時々女性のようにも見える妖艶さ、ライトの下で特別な光を放つ目の色など、美しいベジャールダンサーの中でも特に美しく、オーラまで完全に神々しかった。2002年の『ダンス・マガジン』では評論家の渡邊守章先生も彼の美しさを賛美していて、その文章が好きでバックナンバーを保存している。2004年にはジュリアンのフレディを求めてイタリアのトリノのレージョ劇場で三日間このバレエを観た。

2024年でダンサーとしてのキャリアを終え、監督の仕事に専念するジュリアンの「日本で最後のフレディ」はこれまでと同じように素晴らしく、あらゆるシーンが力強く微塵の衰えも感じさせなかった。「これがラストなのだ」と思うと感傷的にもなるが、正式に芸術監督となった彼の統率力も見られる大切な「始まり」の公演でもあり、ダンサー全員がそれぞれの演技を今までのように成功させないと監督の落ち度ということになる。
そうなると、すべてのダンスの細部が目に入って来る。今のカンパニーには魅力的なダンサーがたくさんいて、Bプロで『ボレロ』を踊る大橋真理さんが「ブライトン・ロック」「コジ・ファン・トゥッテ四重唱」「ゲット・ダウン×メイク・ラヴ」「テイク・マイ・ブレス・アウェイ」「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」でドキドキするような目覚ましい姿を見せた。ベジャール・ダンサーが素晴らしいのは、「彼女(彼)はこういうダンサーなのだ」というはっきりとした個性を感じさせる点で、それが一番の魅力になる。インタビューしたエリザベット・ロスが「ベジャールはその人の日常の様子を観察して振りをつけるから、他のダンサーに振り付けられたものをみて『そういう姿も振付にしてしまうのね』とヒヤリとしたことがある」と語っていた。面白いのは、昔いたダンサーの面影を宿す新しいダンサーたちもいて、思わず血縁なのかと思ってしまうほどで、要は魂の形が似ている。BBLに集まってくる若者たちは確かに「引き寄せられてくる」のだと確信した。

ジル・ロマンが演じていた狂言回し(?)の役を、2022年にカンパニーに復帰したオスカー・シャコンが踊ったが、今回はさらに悪魔的なカリスマ性を増強し、ところどころジルを見ているような気がした。オスカー自身「BBLで再び踊れるようになったのは、モーリスの天の采配」と語って、それを許可したジル・ロマンに感謝していたが、役者としての技量も求められるこの特殊な役を高いクオリティで演じられるダンサーは少ない。「フリーメイソンのための葬送音楽」は今やオスカーのためのダンスだった。
前回の来日で「モーツァルトピアノ協奏曲第21番」を踊ったアントワーヌ・ル・モアルが今回も同じパートを踊り、小悪魔的な魅力を増していて、見たことのないような細かい即興も入れて楽しませてくれた。相手役のキャサリーン・ティエルヘルムはベテランの域にいるダンサーで、華やかさと安定感があり見ていて心が涼しくなる。アントワーヌは若き日のパトリック・デュポンを彷彿させ、今後が楽しみ。「シーサイド・ランデヴー」ではテクニシャンのソレーヌ・ビュレルが可愛い水着姿で陽気に踊り、日本人ダンサーの武岡昴之介さん(非常に目を引く美しいダンサー)も海辺の若者の一人を踊った。ソレーヌはベジャール・バレエに魅了され、カンパニーに入れるまで他で修業を積んできた信念の人で、Bプロの『コンセルト・アン・レ』でも美しいソロを踊る。

このバレエは好きなところがありすぎて、1時間50分があっという間に過ぎてしまう。かつて小林十市さんが踊った『ウィンターズ・テイル』を大貫真幹さんが踊り、何か目頭が熱くなった。12月のローザンヌ取材では30代のほとんどを怪我の痛みとももに踊り続けてきたと語ってくれた。ジュリアンとの「レディオ・ガ・ガ」を踊ったのは、東京バレエ団から移籍した岸本秀雄さんで、ベジャールがある時期の日本人ダンサーに求めていた永遠の少年性を見事に表していたのに感動した。ジュリアンと掛け合いで踊る姿は「火の鳥」を見ているようだった。

一人一人のダンサーを隅々まで見て、彼らの個性がどう発展していくかを想像している自分は、もしかしたら「ジュリアンと同じ視点で見ているのかな」とうぬぼれた気持ちになった。しかしそれはベジャールがダンサーを見ていたときの視点で、「私のところにいるダンサーたちはなんて素敵なんだ!」という思いで作ったのが「バレエ・フォー・ライフ」なのではないかと思いついた。夭折したジョルジュ・ドンとフレディ・マーキュリーとモーツァルトに捧げるバレエだが、同時にベジャールの目の前にいた輝かしいダンサーのために振り付けたのが、全員が過激なほど魅力的になるこの作品だと感じた。次々と新しい命がやってきて、ベジャールの精神を伝えようと励む姿は「わが子のように可愛い!」に違いなかった。ベジャールがダンサー全員を抱擁で迎える「ショー・マスト・ゴー・オン」は、今回特別演出でベジャールの生前の写真が舞台中央に置かれた。ちゃんと滑車がついていて、ダンサーと一緒に前に出られるようになっている。今日の公演ではジュリアンがかつてのベジャールの役割をやるのかも知れないと思うと、計り知れない気持ちになる。

ジュリアンは個人的に最も魅了されたダンサーで、ベジャールの巨大な哲学を翻訳してくれただけではなく、彼が同化している芸術の世界に届きたいという渇望感から、自分はバレエを始めオペラやオーケストラを取材するようになった。それ以前はポップスのライターで、芸能ライターや三面記事の追跡ライターのような仕事ばかりやっていた時期があり、その後も何かを成し遂げたわけではないが、芸術の多くを学ぼうとする方向へ変えてくれたのは、ジュリアンその人なのだった。
フレディは女装したりバナナの被り物を被ったり、大声で叫んだり笑ったり、よくも毎回あんなに思い切りやれるものだなと思うが、ジュリアンの代表作で、私が観たすべての上演で一ミリも手を抜かなかった。精神力の効果か、不調だった姿を見たこともない。「こんなに呆気なく終わってしまうのか」と呆然としたが、彼がどんなに素晴らしかったか知っている今のBBLのダンサーは、全員ますます急成長するのではないかと思う。カンパニーに長くとどまる人も増えるような気がする。
「ベジャールはあなたを尊敬していたと思う」と伝えたとき「振付でもよく意見を求められた。君はどうしたらいいと思う?と」ベジャールとジュリアンの対話はまだ続いているのだ。


(2023年12月17日 ローザンヌのBBLにて)


東京二期会『コジ・ファン・トゥッテ』(9/5)

2024-09-07 06:46:54 | オペラ
9/5に初日が開けた二期会の『コジ・ファン・トゥッテ』がすごい人気。シャンゼリゼ劇場、カーン劇場、パシフィック・オペラ・ヴィクトリアとの共同制作で、既にシャンゼリゼ劇場では初演が行われ、世界で最も忙しい演出家のひとりであるロラン・ペリーが8月から二期会の歌手たちに稽古をつけていた。フィオルディリージとドラベッラ、グリエルモとフェランドは現実の歌手として登場し、実際に1950年代にベルリンに存在したというレコーディング・スタジオを模したというセットで劇が始まった。

ロラン・ペリーという演出家は簡単にヒューマニズムなどと言わないクールな策士で、薄氷を踏みながら次々と新しいアイデアを創り出している演劇人というイメージ。今回は最高過ぎた。レコーディングスタジオの舞台は完璧で(チームを組んでいるシャンタル・トマが今回も冴えた装置デザイン)、そこにレトロな色彩感のブルーとグリーンの服を着たフィオルディリージ(種谷典子さん)とドラベッラ(藤井麻美さん)がソファに座りながら何やら発声練習や顔の筋肉ほぐしをしている。歌手の日常を観察している演出家の面白い芝居づけ。グリエルモ(宮下嘉彦さん)とフェランド(糸賀修平さん)も歌手という設定。50代くらいの男性として描かれるドン・アルフォンソ(河野鉄平さん)は百戦錬磨の音楽プロデューサーといった雰囲気。

あらすじでは、グリエルモとフェランドは女性たちの変わらぬ愛を試すために戦場へと出向くが、この現代劇の設定では一体どういうことになるのかとドキドキしていたら、男たちは普通に荷物をまとめてスタジオを出ていき、変装して戻って来る。演出のアイデアとしては力業というか、大変人を食っているが、「アルバニアの貴族」に変装した二人は白塗り化粧に黒装束の宮廷服で、モーツァルトの時代の御大臣みたいな姿なのだ。音楽も彼らの自己紹介の件は、時代を逆行したような古めかしいムードになる。こんな奇妙な男たちを女性たちは愛するとは思えないが、ペリーの魔法で劇はどんどん妖しい方向へ向かっていく。

若いキャストが集まった初日ははじけるような声の応戦で、ドラベッラ藤井さんの実力は既に知っていたが、フィオルディリージ種谷さんは正直ノーマークだったので、こんな凄い若手が二期会にいたのかと驚いた。高音が輝かしく、透明感があり、どんなに芝居が激昂しても声の上品さが失われない。誘惑に負けんとする長女が歌う14番のアリアでは、歌う場所を変えるたびに上からマイクが垂れ下がってくるという面白い仕掛けがあったが、歌手の真剣な表現は、この年頃の女性にとって「愛するということ」が生物学的にどれほど重要で自分の命を左右するということかを伝えてきた。後半でも長丁場のロンドでフィオルディリージは嵐のような心の動揺を歌うが、舞台上ではあらゆるドアに鍵がかかっていて、物理的にも感情的にも逃げ場がないという設定だった。

こうした追い詰められた女性の悲劇的相貌は、演出のもうひとつの視点からいうと「歌手の芸の肥やし」であり、絶体絶命のデズデモーナやトスカのように歌い手にリアリティを与えるのだが、女の心理から言うと「男たちの悪戯のために女をこんな状態に追い込むなんて!」と怒りも湧いてくる。一方で、男の視点からこのフィオルディリージの熱唱を聴くと、どんな濡れ場よりも妖艶で官能的なのだ。種谷さんは本気で自分を追い詰めた演技をしており、稽古場でのインタビューでも「フィオルディリージと私は頑固なところが似ている」と語っていたが、一種の憑依的ともいえる境地に達していた。

ドラベッラ藤井麻美さんはコントラスト的に「陽気な次女」としてコメディエンヌとしての魅力を発揮しまくり、チャーミングな演技と無限に湧き出る泉のような美声で1幕11番のアリアなど聴かせどころを歌った。ものすごく芯のある方で、声も豊かで安定感があるが、演劇的な柔軟性も素晴らしく、役によって全く違う顔を見せてくれる。種谷さんとの姉妹役は新境地で、スズキのような渋い役だけでなくきゃぴきゃぴした藤井さんもとても可愛くてセクシーだと思った。

演技は非常に細かく作られており、日本キャストとの再演で新たにたくさんのアイデアが生まれたという。ロラン・ペリーが鬼才なのは、「自分がどのような者か」ということを知り尽くしていて、オリジナルの統辞法を絶対に譲らないから。デセイやミンコフスキと組んでたくさん上演したオッフェンバックのオペレッタは、ボックスセットを持っているがフランス語の台詞がメインなのでなかなか全部見れていない。彼の根っこにあるのはフランス的なユーモアと美意識と人間観で、二日目キャストのドン・アルフォンソ黒田博さんが過去に主役を演じた『ファルスタッフ』でもそのポリシーを貫いていた。オペラは書かれた時代精神に支配されながらも、ダブルミーニングとして「普遍的人間性」を表現する。フランスには「自分はゲイでカトリック信者である」ということを演出上のアイデンティティにしているオリヴィエ・ピィのような人もいるが、ペリーもそれくらい自分自身の文体を貫くということに命をかけている。

日本のキャストとの長い稽古で、演出家の中にも新しい切り札がたくさん生まれたのではないだろうか。ドン・アルフォンソ河野鉄平さんは身のこなしが軽やかで、まるで自分の国の言葉を話すかのようにイタリア語のレチタティーヴォをこなす。デスピーナ九嶋香奈枝さんにはよくある可愛いデスピーナを演じさせず、労働階級のスタジオの清掃係のような姿で登場する。この二人は、他のオペラには絶対に似た者がいないモーツァルトとダ・ポンテの創造物で、あらゆる奇妙さを引き受けつつ、現代的なリアリティを表現していた。ゲネプロでは二日目のキャストも見学したが、七澤結さんのデスピーナはゾンビのようなメイクで、演技もさらに振り切れていてびっくりした。

恋人たちを試そうとするグリエルモとフェルランドの悪辣さと、裏切られたと知ったときの激昂の表現は、ほとんどヴェリズモ・オペラのような激しさで、声楽的にはモーツァルトの端正さを保ちつつも、感情表現は破壊的といっていいほどだった。宮下さんと糸賀さんは変装メイクをすると双子の兄弟のようで、死んだふりの演技も面白い。張り詰めた独唱も、このオペラの最大の美質である重唱も真摯に歌われていた。

オーケストラは新日本フィルとクリスティアン・アルミンクで、粋なリユニオン・プロジェクトになったわけだが、ゲネ初日ではピットの音に生気がなくて焦った。本番は全く違う活き活きとした音楽で、テンポはハーモニーを味わうようにゆったりとして、声楽家たちを包み込むような優しい風のようなアンサンブルも快かった。日を重ねて充実していっていると思う。合唱は二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部の合同で、二期会を新国で聴くのもフレッシュだったが、合唱の響きにも瑞々しい若さが感じられた。

コジはモーツァルトの最晩年のオペラだが、こんな凄いものを書き続けていたから早死にしてしまったのだろう。あまりに優れているし、膨大な細部が美しく、歌もオーケストラも次から次へと奇跡が起こる。このオペラでしか出会えない美しい旋律やハーモニーがありすぎて、巨大な才能を現実化するために身体をどれだけ酷使していたのだろうかと寒い気持ちにもなった。使いまわしなどなく、ほんの一瞬出会っては消えていくいくつもの美しい旋律が心に残る。そしてそれはすべてモーツァルトの宇宙で、太陽系のすべての天体が音楽家の中にあるのだと伝えてきた。歌手と演出の素晴らしさと、作品の真価を知ることの出来る稀に見る名演。