6月に英国ロイヤル・オペラ芸術監督として任期最後の公演を日本で行ったアントニオ・パッパーノが、今度はロンドン交響楽団のシェフとして3か月ぶりの来日を果たした。パッパーノの熱烈なファンである自分にとって嬉しいことこの上ない。ROHは22年間シェフを務め、終身芸術監督になるかとも思われたが、見事な幕引きを見せて新しいキャリアを迎えた。この公演では「超一流とは何か」ということを深く考えてしまった。
パッパーノは関わるオーケストラや合唱、ゲストを夢中にさせる。サンタ・チェチーリアの来日公演のときも走って指揮台にぴょんと登り、オケ全員を一瞬で集中モードに持って行った(アルプス交響曲)。オケとの日常が素晴らしいのだ。パッパーノはどの団体とも信頼関係が固く、おかしなスキャンダルを聞いたこともない。芸術性と人間性は別だ、なんて自分は信じない。そういう意見自体が前時代的だ。パッパーノには二度インタビューしたが、自分の洞察力を総動員して彼を観察し、本当に凄い人だと認識した。指揮者は顔が命だとも思うが、パッパーノは完璧で、本当にハンサムで素敵な顔をしていると思う。
クラシックの言説において感情を表現すると「プロっぽくない」とパージされる経験をしてきたが、感情の埒外にある表現をどう断じたらいいのか分からない。客観性? 誰か偉い人がそう言ったから? 一流はそれでよくても、超一流はそうはいかない。子供だって超一流を聴いたら直観でそれが何であるか分かってしまう。パッパーノの音楽は確実に情動に触れ、その感覚が真実のものであり、感情が二流のものではないと実感させてくれる。ロンドン交響楽団のメンバーはベテランが多いが、ベルリオーズ序曲『ローマの謝肉祭』から膠を剝ぎ取ったような若々しい響きを聴かせた。躍動感があり、音の粒子が細かく、入念に作りこまれているが勿体ぶったところがない。英国のオケといえば一流のブラス隊が名物だが、ロンドン響の金管は鳴らしすぎず注意深く響きを調整していた。
ユジャ・ワン登場。11センチくらいのハイヒールに、黄緑とピンクのグラデーションのスパンコールの超ミニドレスで、期待を裏切らないセンス。カラフルなアルマジロのようで、あのファッションで一音でもトチったら彼女の評価は乱降下してしまう。ナイフの上で爪先立ちをしているような賭けを毎回やっているのだ。バカンスはどこで過ごしたのか、すごい日焼けをしている。ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第1番』はユジャが弾くと人気の2番のコンチェルトよりモダンな意匠に富んだ曲に感じられ、ピアニシモは深い内観を表し、オケとのクラッシュするような掛け合いには作曲家の最後のピアノ・コンチェルトである4番に似たモダニティが感じられる。
パッパーノがオケから引き出すラフマニノフは胸を切り裂くように甘美で、情動が突き動かされ、ずっとパッパーノのラフマニノフを聴きたかったのだと砂が水を吸い込むように音楽を貪ってしまった。コンサートマスターが奏でる美音が、クライスラーの録音のようなセピア色の風情を醸し出す。ソロの超絶技巧は奇跡的で、鍵盤の上を飛魚のように跳ねるユジャの両手がマジックか何かを見ているようだった。
パッパーノは元々指揮者を目指していた人ではなく、コレペティとしてあまりにオペラ解釈に優れているので歌手たちが背中を押して、求められる形で指揮台に立った。バレンボイムはオペラの伴奏をするパッパーノのピアノを聴いて「弾いているのは誰だ?」と血相を変えたという。バレンボイムが放っておけない伴奏とはどのようなものだったのか。パッパーノの父親は声楽教師で、子供の頃から伴奏の手伝いをして歌手たちを見てきた。そのエピソードが好きで、9年前の取材で「あなたの人生を映画にしたら『ビリー・エリオット』のような名作になりますよ」と本人に伝えたら笑っていた。
伴奏ピアニストから指揮者になったことで、別人になって急に威張り始めたりしなかったのは、すぐにしかるべき一流のポジションについて「物の分かったオケ」相手に強制的な指示を出す必要がなかったからだろう。人間の世界とは、そのように出来ている。威圧を与えることで芸術が「成る」という伝説は、もう化石だ(一部ではまだ生きているのかも知れないけど)。パッパーノは祝福された人で、彼の生来の優しさや寛大さを損なわずに他者を尊重することで奇跡的な何かを生み続けてきた。
一方でパッパーノは「頑張る人」でもあり、果てしない努力や音楽家としての精進が芸術の高みに上る唯一の道であると信じている。ロンドン交響楽団では19世紀後半のレパートリーを充実させていくことが当面の目標であるとインタビュー映像で語っていたが、後半のサン=サーンス『交響曲第3番《オルガン付き》』では、細部にわたって吟味された音のデザインが、慎重なプランに沿って演奏されていた。オルガンをリチャード・ゴーワースが演奏し、精妙な音を鳴らす後ろ姿に天使の羽が見えたような錯覚を覚えた。
ラトル時代にもある種の完璧さを見せていたと思うが、パッパーノは音楽の根深い部分を聴かせ、それは聴き手の直観を強く刺激する演奏だった。サン=サーンスもオペラを書いたが、今までにROHの来日公演で聴いた他のフランスオペラ(『マノン』『ウェルテル』)を連想させる独特の色彩感があり、サン=サーンスが旅を愛し女性を愛し、愛することに大いに傷ついていた人であったことも思い出させた。そういう感情を引き出されることが自分にとって何より重要なのである。
不調和を招かないリーダーシップとは何かということも考えさせられた。他者へのリスペクトを基本にしながら、いざというときには船の帆を張って進むべき場所へと一気に進ませる。パッパーノはどんな時間も無駄にしない合理的な人であるとも思った。アンコールにフォーレの『パヴァーヌ』。ロンドン響の黄金の糸で編まれた布のようなサウンドに恍惚とした。最初から最高のパートナーシップを感じさせる、ロマンティックで鮮烈な演奏会だった。
パッパーノは関わるオーケストラや合唱、ゲストを夢中にさせる。サンタ・チェチーリアの来日公演のときも走って指揮台にぴょんと登り、オケ全員を一瞬で集中モードに持って行った(アルプス交響曲)。オケとの日常が素晴らしいのだ。パッパーノはどの団体とも信頼関係が固く、おかしなスキャンダルを聞いたこともない。芸術性と人間性は別だ、なんて自分は信じない。そういう意見自体が前時代的だ。パッパーノには二度インタビューしたが、自分の洞察力を総動員して彼を観察し、本当に凄い人だと認識した。指揮者は顔が命だとも思うが、パッパーノは完璧で、本当にハンサムで素敵な顔をしていると思う。
クラシックの言説において感情を表現すると「プロっぽくない」とパージされる経験をしてきたが、感情の埒外にある表現をどう断じたらいいのか分からない。客観性? 誰か偉い人がそう言ったから? 一流はそれでよくても、超一流はそうはいかない。子供だって超一流を聴いたら直観でそれが何であるか分かってしまう。パッパーノの音楽は確実に情動に触れ、その感覚が真実のものであり、感情が二流のものではないと実感させてくれる。ロンドン交響楽団のメンバーはベテランが多いが、ベルリオーズ序曲『ローマの謝肉祭』から膠を剝ぎ取ったような若々しい響きを聴かせた。躍動感があり、音の粒子が細かく、入念に作りこまれているが勿体ぶったところがない。英国のオケといえば一流のブラス隊が名物だが、ロンドン響の金管は鳴らしすぎず注意深く響きを調整していた。
ユジャ・ワン登場。11センチくらいのハイヒールに、黄緑とピンクのグラデーションのスパンコールの超ミニドレスで、期待を裏切らないセンス。カラフルなアルマジロのようで、あのファッションで一音でもトチったら彼女の評価は乱降下してしまう。ナイフの上で爪先立ちをしているような賭けを毎回やっているのだ。バカンスはどこで過ごしたのか、すごい日焼けをしている。ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第1番』はユジャが弾くと人気の2番のコンチェルトよりモダンな意匠に富んだ曲に感じられ、ピアニシモは深い内観を表し、オケとのクラッシュするような掛け合いには作曲家の最後のピアノ・コンチェルトである4番に似たモダニティが感じられる。
パッパーノがオケから引き出すラフマニノフは胸を切り裂くように甘美で、情動が突き動かされ、ずっとパッパーノのラフマニノフを聴きたかったのだと砂が水を吸い込むように音楽を貪ってしまった。コンサートマスターが奏でる美音が、クライスラーの録音のようなセピア色の風情を醸し出す。ソロの超絶技巧は奇跡的で、鍵盤の上を飛魚のように跳ねるユジャの両手がマジックか何かを見ているようだった。
パッパーノは元々指揮者を目指していた人ではなく、コレペティとしてあまりにオペラ解釈に優れているので歌手たちが背中を押して、求められる形で指揮台に立った。バレンボイムはオペラの伴奏をするパッパーノのピアノを聴いて「弾いているのは誰だ?」と血相を変えたという。バレンボイムが放っておけない伴奏とはどのようなものだったのか。パッパーノの父親は声楽教師で、子供の頃から伴奏の手伝いをして歌手たちを見てきた。そのエピソードが好きで、9年前の取材で「あなたの人生を映画にしたら『ビリー・エリオット』のような名作になりますよ」と本人に伝えたら笑っていた。
伴奏ピアニストから指揮者になったことで、別人になって急に威張り始めたりしなかったのは、すぐにしかるべき一流のポジションについて「物の分かったオケ」相手に強制的な指示を出す必要がなかったからだろう。人間の世界とは、そのように出来ている。威圧を与えることで芸術が「成る」という伝説は、もう化石だ(一部ではまだ生きているのかも知れないけど)。パッパーノは祝福された人で、彼の生来の優しさや寛大さを損なわずに他者を尊重することで奇跡的な何かを生み続けてきた。
一方でパッパーノは「頑張る人」でもあり、果てしない努力や音楽家としての精進が芸術の高みに上る唯一の道であると信じている。ロンドン交響楽団では19世紀後半のレパートリーを充実させていくことが当面の目標であるとインタビュー映像で語っていたが、後半のサン=サーンス『交響曲第3番《オルガン付き》』では、細部にわたって吟味された音のデザインが、慎重なプランに沿って演奏されていた。オルガンをリチャード・ゴーワースが演奏し、精妙な音を鳴らす後ろ姿に天使の羽が見えたような錯覚を覚えた。
ラトル時代にもある種の完璧さを見せていたと思うが、パッパーノは音楽の根深い部分を聴かせ、それは聴き手の直観を強く刺激する演奏だった。サン=サーンスもオペラを書いたが、今までにROHの来日公演で聴いた他のフランスオペラ(『マノン』『ウェルテル』)を連想させる独特の色彩感があり、サン=サーンスが旅を愛し女性を愛し、愛することに大いに傷ついていた人であったことも思い出させた。そういう感情を引き出されることが自分にとって何より重要なのである。
不調和を招かないリーダーシップとは何かということも考えさせられた。他者へのリスペクトを基本にしながら、いざというときには船の帆を張って進むべき場所へと一気に進ませる。パッパーノはどんな時間も無駄にしない合理的な人であるとも思った。アンコールにフォーレの『パヴァーヌ』。ロンドン響の黄金の糸で編まれた布のようなサウンドに恍惚とした。最初から最高のパートナーシップを感じさせる、ロマンティックで鮮烈な演奏会だった。