小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

二期会『ルル』

2021-08-30 14:01:55 | オペラ

3幕版の日本初演から18年ぶりの上演となった二期会『ルル』。カロリーネ・グルーバー演出による新制作では2幕版が採用され、日本で「最初から意図された形で」2幕版が上演されるのはこれが初めてのことになるという。2020年上演の予定が、2021年8月に延期となり、会場も上野の東京文化会館から新宿文化センターに変わった。

8月の残暑の厳しい3日間、8/27のBキャストのゲネプロ、8/28のAキャストによる初日、8/29のBキャストによる中日を鑑賞した。感染症対策として、ジャーナリストはゲネプロのみの招待であったが、カロリーネ・グルーバーとマキシム・パスカルというホットな芸術家ふたりが東京にいることに興奮し、本公演は当日券で入場した。ふだんジャーナリストが並ぶ2階席前方はまばらで、初日はS席(2階前方)、二日目はC席(2階席後方)で鑑賞したが、どちらもオーケストラピットの様子がよく見え、指揮台のマキシム・パスカル、指揮台のすぐ前に置かれたハープ、ハープから少し下手寄りに置かれたアップライトピアノ、右半分にずらりと並ぶ管楽器、左半分に並ぶ弦楽器、張り出した舞台下手に設置された打楽器群が壮観だった。オペラのピットであんなに管楽器が多いのは初めて見.るような気がする。オーケストラは東京フィル。

『ルル』は「ルル名手」のマルリース・ペーターセンが主演したMETのロシアアヴァンギャルド風の演出(W・ケントリッジ)が記憶に残っているが、ライヴで観るのは初めてだった。あの愛らしいパトリシア・プティボンが『ルル』のためにヘアヌードになったというニュースには興味があったが、それも観ていない。日本での上演が少ないのは、モラル的に刺激が多すぎる(!)ことと、膨大なドイツ語の台詞も含め体力面でも歌手にとって苛酷だからなのかも知れない。
 実際『ルル』を途中で降板してしまう歌手は少なくない。稽古の段階で自分に合っていない、と断念したということをインタビューで教えてくださったソプラノ歌手が二人いた。名前は出さないが、聴いているほうもどうなっているか分からないほど難解なスコアを肉体を使って表現するのだから無理もないと思う。

Aキャストの森谷真理さん、Bキャストの冨平安希子さんのルルは、どのように準備されたのか、歌手の個性がのびやかに表現された歌唱と演技で、「高水準」などという偉そうな言葉は使いたくないが、世界のどの都市に出しても恥ずかしくないルルだった。二人のルルがそれぞれ完全に別の個性を持っていたことにも興奮した。カロリーネ・グルーバーのルルは宿命の女でも悪女でもなく、旧態的な世界と男たちの欲望を映し出す鏡であり、彼女の魂は無垢で傷つきやすい。最初にゲネで観たとき、冨平さんの繊細で霊的な拡散力をもつ歌唱は、演出家の「新しいルル」のコンセプト通りだと思った。森谷さんのルルは、芯の強い現代的な女性で、あどけなさは共通しているが、自分の身に起こることすべてを肯定している、輪郭のはっきりとした存在だった。森谷さんの元帥夫人や喋々さんパミーナを思い出し、舞台とは「魂」が出る場所だと認識した。

ベルクは一時期音楽ライター(!)としても活動しており、文才があったのでヴェーデキントの原作をもとに台本も自分で書いた。その台詞回しが、慣れないととても難しい。それぞれの登場人物の人間関係と彼らの物語は予習していかなければ理解不可能だし、「ルル」を、暴力的人物が乱出する「三文オペラじみた退廃的な世界」と大雑把に記憶していた(!)自分は、ルルの庇護者で愛人であるシェーン博士がこれほど大きい役だということを認識していなかった。

ゲネでは正直なところ前衛的な音楽についていくのが精一杯で、公演初日には台詞を結構覚えているので歌手たちの精緻な歌唱に感服し、2日目には…演劇的にこれは、とんでもないプロダクションだと思った。日本人歌手によるドイツ語芝居のクオリティが高すぎるし、二幕版での芝居の多さを「日本人歌手たちはどう乗り越えるか」と事前インタビューで危惧していたカロリーネ・グルーバーの予想を、よい意味で裏切る結果になった。Bキャストは特に一日切りの公演だったが、芝居全体の密度が濃厚で「ドイツ人がこの舞台を観たら一体どう思うだろうか」とずっと考えていた。

マキシム・パスカルはオケを煽るということをせず、鳥の羽のような白い手首を動かして、始終空中を飛んでいるような姿だった。大きな音の渦を創り出しているときも、動作はオケを抑制しているように見える。譜面台の上のスコアは巨大で、それをめくるマキシムの動きも舞踏的だった。12音技法で作られたオペラは、時折マーラーのように芳醇にになったり、唐突に訪れるドラマ的な緊張の瞬間には、サイレンやアラームのようなサウンドが鳴り響く。

ルルは両キャストとも確信をもって、暗譜の不安など感じさせないほど演劇的な次元に入り込んでいた。とはいえ、トスカを暗譜するのとルルを暗譜するのとでは意味が違う。ベルクは歌手を苛めるためにオペラを書いたのではないかと思えたほど。予想外のところで、とんでもない高音が求められる。「もうルルじゃない、私は獣」というヒロインの声は確かに鳥獣のように鋭くなるが、それを歌う歌手には超絶的な技術が求められる。ベルクはルルを好きだったのだろうか? 3幕版ではルルは呆気なく切り裂きジャックに殺される。

そう思ったとき、ベルクの若い頃の写真を見つけ、大変な美男子であることに驚いた。有名な肖像画と目元は同じだが、10代20代の頃はさらに天使のようで、俳優のような風貌をしている。フランツ・リストは、16歳のとき死にゆく父親から「女には気を付けるように」という遺言を伝えられた。17歳のベルクは、別荘で働く女中を妊娠させ、ギムナジウムの卒業試験にも失敗して自殺をはかる。ヘッセの「車輪の下」よりひどい。

しかし、美少年を誘惑したのはもしかしたら女の方だったのではないか? と写真を見て思う。ルルはシェーン博士と婚約者(ルルと一歳違い)の結婚をぶち壊すために、博士に婚約破棄の手紙を強引に書かせるが(この演出ではレースのヴェールのような布に書かされる)、10代のベルクも、子供の父親であることを認める書類を無理矢理書かされた。頭の中がこんぐらかってしまう。ルルのように美しいベルクはシェーン博士と同じ屈辱を味わい、生まれた娘にはアルバンにちなんでアルビーネと名付けられた(が早逝した)。

シェーン博士は12歳の花売りのルルを保護し、やがて快楽の対象とし、二人の夫と結婚させ、夫たちは死に、ルルによって妻を毒殺され、結婚を迫られる。ルルがシェーン博士を「私が愛した唯一の人」と呼ぶのは、いわゆるストックホルム症候群なのではないか、とグルーバーは語る。この点は、まだ人間心理のミステリーが残っていると思う。
Bキャストのシェーン博士役の小森輝彦さんの悪役ぶりが凄まじかった。悪役としての発声で、すべてが憎いし調和していないし、もう何もかも破滅すればいいと思っている。登場シーンから最後まで、憎しみに溢れた声で、演技も破壊的だった。

小森さんのオペラ歌手としての究極の演技のひとつに、R・シュトラウスの『ダナエの愛』のユピテル役がある。終盤近くの、自分を愛さないダナエとの哲学的ともいえる長い対話は、ユピテル役の精神性に負うところが大きかった。「芸」と呼ぶことも憚られるほどの凄い次元を見せられたが、シェーン博士の無力、苛立ち、崩壊、といった姿も、決して忘れることの出来ない衝撃があった。

私生児にアルビーヌと名付けたのは誰か知らないが、シェーン博士の息子であるアルヴァは、まぎれもなくベルクが創造した自分の分身であり、原作では画家であるのを作曲家に変更され、ルルの人生をオペラに仕立てたり「踝はグラツィオーソ…」と歌ったりする。アルヴァは乱暴の限りを尽くすルルの周りの男性の中で、唯一優しく、ルルを心から崇拝する。ロマンティックで思い込みの強いアルヴァは、Bキャストの山本耕平さんが心に残った。Aキャストの前川健生さんと、芝居の面で色々異なるのが興味深い。2幕ラストで「そのソファはあなたのお父様が血を流した…」とルルが語り、アルヴァは自己崩壊を起こして倒れ込むのだが、前川さんはソファで倒れ、山本さんはルルが立つ円卓の乗り上げて倒れた。その後「ルル組曲」の後半がオーケストラのみで演奏される間、アルヴァは一ミリも動かないので、どこで倒れ込むかは結構重要なことだったと思う。円卓の上で生贄のようにうずくまる山本さんは、オーケストラを聴きながら何を思っていただろう。

ゲネプロではオペラグラスを忘れたので、一幕の冒頭からルルの内面として舞台に存在するダンサーの中村蓉さんをしっかり観ることが出来ず(前半は特にライティングが暗い)、本公演ではラストまで中村さんの姿を追った。ルルが男たちと激しいやり取りをしているときも、彼女の内面である中村さんは悲し気にうずくまったり、優しい表情で空気のように動いている。ラストのルル組曲の間、歌手のルルとダンサーのルルがお互いに触れ合うシーンはとても美しく、このプロダクションが、過去の「女性から憎まれ忌まわしく思われるルル」とは違う新しいルルの物語を創り出したということを実感させた。ルルとルルによる言葉のない場面でも、森谷さんと冨平さんは違う表情を見せたのが興味深かった。

舞台には「男たちの求めるルル」の表徴として、舞台にはバストが大きく足がほっそりとしたマネキン人形が並べられ、コスチュームも大変エロティックなので、人形でありながらかなり存在感があった。ショーケースのような小部屋に、それぞれの男たちの願望通りの半裸の「ルル人形」が並べられた場面では、演出家の容赦ない辛辣さに笑いそうになった。ルルが殺人の罪で逮捕されるシーンでは、無声映画が流れるのが慣例だが、ここでは映像作家の上田大樹さんが「ルル人形」を効果的にキャスティングした(!)ハイセンスな映像を作り上げていた。「重い」話にも傾きがちなルルが、お洒落でときに「笑い」まで引き出すモダンなオペラに仕上がっていたのは喜ばしい。脇役に至るまで粒ぞろいの歌手、1秒たりとも集中力が切れないオーケストラ、従来的なルル像に大胆なメスを入れた演出と、凝縮されたプロダクション。8/31に最後の公演が行われる。

 

 

 

 


世界バレエフェスティバルAプロ(8/16)

2021-08-18 02:40:02 | バレエ

8/13に開幕した第16回バレエフェスティバルのAプロの最終日を観た(8/16)。会場は東京文化会館。2021年は困難な状況下での開催となったが、ガラ公演の中止などにも関わらず、例年に比べて一層パワフルに感じられた「祝祭」だった。

カンパニーによっては長期間劇場がクローズしているため、ダンサーにとって久々に日本で踊れることは大きな「生きる喜び」だっただろう。1976年から続くこのフェスティバルでは「超」がつく一流ダンサーが東京に集結するが、その一流ということの意味を改めて考えた回でもあった。

「ゼンツァーノの花祭り」で登場したマチアス・エイマンを見て、とてもシンプルに「彼は本当に心から踊っている」と思い、そのことに「一流とはこういうことか」と思った。技術にもまして心が伝わってくる。個性とは心だ。そう感じさせてくれるダンサーのひとつひとつの動きは、見る者の心にも深く刺さり込む。ほとんど音のしない着地や、気品あるブルノンヴィル・スタイルの下半身に「オペラ座のダンサーは本当に見事だ」と思いつつ、相手役のオニール八菜さんを優しくサポートするマチアスの穏やかな表情に、より感動した。

オリガ・スミルノワとウラジーミル・シクリャローフの「ロミオとジュリエット」一幕のパ・ド・ドゥは、スミルノワのこの世のものではない宝石のような美しさに釘付けになった。スミルノワ(ボリショイ)とシクリャローフ(マリインスキー)の共演というのは、ロシアではよくあるのだろうか? 1940年初演のラヴロフスキー版は厳かな演劇性があり、二人が踊るロミオとジュリエットは神話的な人物に見えた。シクリャローフがスミルノワを心から尊敬して「今日でこの踊りが最後になるのが名残惜しい」と思っているように感じられた。ロミオの跳躍は高く、宝物のようなジュリエットへの愛が、鳥のように軽やかに身体を飛ばせるのだろうと思った。

職業柄、このフェスに登場するダンサーの半数に、過去に様々な形でインタビューしていた。そんなこともあって「彼らは心が素晴らしいから踊りが素晴らしい」と思うのかも知れない。気さくで優しいドロテ・ジルベールが、フリーデマン・フォーゲルと踊った『オネーギン』の第1幕のパ・ド・ドゥは、それぞれオペラ座バレエ団とシュツットガルトバレエ団の来日公演で彼らの踊りを見てきた。別の場所で役を掘り下げてきた二人が、東京で共演している様子は奇跡のようであり、一秒たりとも見逃せなかった。

ダニール・シムキンの『白鳥の湖』の第1幕のソロは、久しぶりに観るシムキンに興奮しているうちにあっという間に終わってしまった。シムキンにも昔取材した。今も幸せな日常を送っているのだろうか。2010年のエトワール・ガラで初めてインタビューしたマチュー・ガニオは、あれからずいぶん大人になった。バランシンの『ジュエルズ』から「ダイヤモンド」を踊ったが、アマンディーヌ・アルビッソンと白と銀の衣裳で並ぶと、オペラ座の最も理想的なカップルに見える。アルビッソンは、バレエの神の世界からの贈り物のようなバレリーナで、あまり長くない脚もふくめて理想的なフィギュアをしている。「アマンディーヌは才能だけで踊っている」と言っていた方がいたが、なるほどそうかも知れない。マチューは、そうでもない。サラブレッドだけど、故障も多く悩んでいた時期も長かった。ただ美しいだけでなく、人間味を感じる。それでも、彼の優しい心が生きているのはやはりバレエの美の世界なのだ。二人が踊る「ダイヤモンド」は、日常とは別の天上界のバレエだった。

あまりに素晴らしいパ・ド・ドゥは、ダンサー同志が本当に恋をしているように見える。ロミジュリやマノンは特にそうだ。ロイヤル・バレエの金子扶生さんとワディム・ムンタギロフの「マノン」は、小悪魔マノンに夢中になるデ・グリューの心理が、見事な演劇性とバレエの技によって表現された。ロイヤルのダンサーが踊るマクミランは、特別なオーラがある。

アレッサンドラ・フェリとマルセロ・ゴメスの「ル・パルク」では、ダンサー同志の根強い信頼関係と、魂の絆を見ているようだった。二つの身体が踊っているというより、二つの魂が踊っていた。永遠の運動だった。このダンスのためのモーツァルトのピアノ協奏曲を、ピアノ(ピアニストの菊池洋子さんがこの曲をはじめ数多くの演目で名演奏)とオーケストラの生演奏で聴けたことで、プレルジョカージュの「コンテンポラリー」も新しいニュアンスをともなって観ることができた。

エカテリーナ・クリサノワとキム・キミンの「海賊」は、可愛らしく可憐なクリサノワの魅力と、若き王将のようなキミンの華麗さが客席を沸かせた。バリエーションからバリエーションに移るとき、キムが「これは、本当に素晴らしい舞台だ」という表情になり、さらに気合を入れた跳躍を見せてくれたのは感動した。ダンサーが感じている感動は、客席にダイレクトに伝わってくる。ダンサーが舞台で幸福であることが、客席にいる自分の感動だ。

ユーゴ・マルシャンがBプロのみの出演になったため、フリーデマンは『オネーギン』の1幕と3幕を別のダンサーと踊ることになった。カンパニーの仲間であるエリサ・バデネスは気心が知れているはずだが、心理的には1幕より3幕のほうが激しい。バデネスのタチヤーナはますます成長していて、フリーデマンも前回の来日公演以上にオネーギンの屈折したパーソナリティに溺れていた。この役を踊ることに深い感謝を感じているのかも知れない。

初日から大きな話題となっていたスヴェトラーナ・ザハロワの『瀕死の白鳥』は、舞台にいるザハロワがもっと若いダンサーに見え、最初は別人かと思った。ロシアバレエの女王は、驚くほどあどけない姿で、命絶えゆく白鳥の最後の数分を見せたのだが、確かに「人間」というより「霊」の表現であった。少し前にルグリとのガラで観たスミルノワの「瀕死」も素晴らしかったが、この二人のカリスマ性は今最もバレエファンを熱狂させるものではないだろうか。

トリを飾ったマリーヤ・アレクサンドロワとヴラディスラフ・ラントラートフの『ライモンダ』は、アレクサンドロワの大御所感が素晴らしく、本人もかなり聡明でユーモアのある人なのだが、舞台に「圧をかける」ような踊りが面白かった。ラントラートフは夏っぽいいつもより短いヘアスタイルで、初めてボリショイで取材した8年前より大人の顔つきになっている。ラントラートフもアレクサンドロワも、才能ある若手から追い上げられて大変なのかも知れない。でも「私たちは私たちなのよ」とラントラートフに発破をかけているのは彼女なのではないだろうか。スターやメジャーや表現者が凄いのは、継続して芸を見せていることに尽きる。彼ら二人のパ・ド・ドゥには、バレエの世界で生きることの様々なドラマが見えてくる。まったく素敵なカップルなのだ。

コンテンポラリーは少な目だったが、自分自身がどんどん古典好きになっているので満足感が大きかった。菅井円加さんとアレクサンドル・トルーシュの「パーシスタント・パースウェイジョン」(ノイマイヤー振付)、ジル・ロマンの『スワン・ソング』(ジョルジォ・マディア振付)はその中でも新鮮なコンテンポラリーの魅力を見せてくれた。

オーケストラは東京フィル。指揮はワレリー・オブジャニコフとロベルタス・セルヴェニカス。「オネーギン」や「マノン」やその他のバレエでも、シンフォニー・オーケストラが奏でるとバレエのドラマが格別になると実感した。オーケストラとマエストロの功績は大きい。
(余談だが、バレエ・フェスの指揮者といえば、バックステージでルグリの取材をした2000年に、ミッシェル・ケヴァル氏がダンサーたちから大人気だったのを思い出す。第一回から第10回まで振られていたが、記者の私にまでニコニコ話かけてくださって、上機嫌で素敵なマエストロだった)

フィナーレでは、オリンピック閉会式に負けない花火が舞台に映し出され、ホール全体にも投影された。花火の音は止まらず、これはまるで火薬事故…と大笑いしてしまったが、次から次へと光を絶やさぬように飛び出す花火に、やがてじんわりしてしまった。「逆境にこそ、祝祭が必要」ということなのだろう。19日からBプログラムもはじまる。

出演ダンサーの幕に彩られた東京文化会館のホワイエ


二期会スペシャル・コンサート ヴェルディ『レクイエム』(8/12)

2021-08-14 08:41:37 | クラシック音楽

オペラシティで8/12と8/13に公演が行われた二期会ヴェルディ『レクイエム』の初日を鑑賞。2020年の振替公演で、予定されていたダニエーレ・ルスティオーニからアンドレア・バッティストーニに指揮者が変更となった。一週間前にフェスタサマーミューザで、東フィルと目からウロコが落ちるようなレスピーギを上演したばかりのバッティストーニが、再び東フィルと強烈な印象を残す名演をした。ソリストはソプラノ木下美穂子さん、アルト中島郁子さん、テノール城宏憲さん、バス妻屋秀和さん。合唱は二期会合唱団。

冒頭の「レクイエムとキリエ」の精妙な弦と木枯らしのような神秘的な合唱から「やはりバッティストーニは短期間に大変な成長を果たしたのだ」と感じた。この時期、多くの音楽家は大きなフラストレーションを感じている。サマーミューザのプレトークでは、ゲストで訪れたシドニーのオペラハウスでリハーサルを行っていたオペラが、結局上演出来なかったことを訥々と語っていた。イタリアはコロナウィルス感染に関しても早期に医療危機が訪れ、海をわたってくる断片的な情報からは終末論的な雰囲気が漂っていた。イタリアの音楽家は、短期間に多くのことを考えたはずだ。

「キリエ」では4人のソリストの鋭い歌唱に身が引き締まった。テノールパートは微塵の弛緩も許されない。城宏憲さんが勇敢で正確な歌唱を聴かせた。ソリスト全員が完璧だった。アルトの悲劇的なキリエ・エレイソンの歌詞が、地を這うような暗さを引きずったままソプラノに引き継がれていく件は、言いようのない豊かな流れがあった。

「怒りの日」では、聴衆全員が度肝を抜かれた。超高速の指示で、オーケストラがどのような分数で鳴っているのか見当がつかない。音量もNAX。東フィルでバッティでオペラシティという空間でなければ、実現しない表現だったと思う。バスドラムは穴が開きそうな爆音で、弦セクションの弓弓は目にも止まらぬ速さで空気を切り裂いていた。

バッティストーニは作曲家としてヴェルディを俯瞰している。バッティストーニ自身もすでに東フィルと自作の曲を発表し、秋の定期でもフルート協奏曲をやるが、コンポーザーの目線から「この曲は(今このとき)どう再現されるべきか」を認識しているのだと思う。バッティストーニは文学や歴史にも詳しく、講演会などでは知識の深さに毎回驚く。ヴェルディのレクイエムが作家マンゾーニの命日に捧げられたものであることをよく知り、研究をしているのだろう。

オペラシティでは何度もコンサートを聴いているが、この日は初めて聴く響きに鼓膜が驚いた。ダンテの「地獄篇」やミケランジェロの『最後の審判』もパラッツォ・デル・テのジュリオ・ロマーノの『巨人の没落』などを連想した。濃密に圧縮された時間と空間の次元で、ひとつのポイントから宇宙全体に発信していくようなエネルギーが渦巻いていた。本来、このような音楽を普通の現実感覚で作ろうとしたら、ただのカオスになってしまうのではないか。バッティストーニは激しい身振りで、完璧にロジカルに音楽を作り上げていた。

ソプラノの木下美穂子さんの歌唱力に改めて驚いた演奏会でもあった。美声と豊かな表現力は勿論、精神力が素晴らしい。胆力というのか、恐れを抱かずに光に向かって飛び込んでいく、光そのもののような声を聴いた。本番に向けてピークを作り上げていく雑念のなさには、高いプロ意識も感じられる。ルスティオーニとの共演が多かったが、バッティストーニも木下さんには大満足だっただろう。

指揮者の系列を、師匠やアシスタントを務めたマエストロから作成していく方法もあるが、バッティストーニは実際の恩師や、デビュー当時頻繁に言われていたトスカニーニよりも、実はバーンスタインに通じる個性をもっているのではないかと思った。二人ともコンポーザーであり、現代的で血の通った音楽を作る。過去のインタビューでも、バッティストーニは「20世紀における最も完璧な音楽家」と語っていた。公平で人間らしく、巨大なスケールをもつバーンスタインの系列に彼はいると思う。

バルコニーの左右の席まで距離をとって並んだ約50名(ずっと数えていたが、女性は24名、男性は見切れて数え切れなかった)の二期会合唱団が霊力を感じさせる声で、この夜の「音の絵」を作り上げていたのは感動的だった。東フィル、ソリスト、合唱が指揮者とともにいた壇上は、ひとつの完璧な小宇宙で、目に見えない透明なスフィアに守られていた。「リベラ・メ」の最後の音が消えてから、指揮者は静止したまま沈黙し、オケも歌手たちも氷の塑像のようになった。どれくらいの時間が経ったのか…ずっと静止したままのコンサート・マスターの姿が忘れられない。あの沈黙の中に、計り知れない「すべて」があった。生涯忘れられない8月の演奏会となった。