小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『金閣寺』(2/23)

2019-02-24 09:48:21 | オペラ
二期会の『金閣寺』の二日目を上野の東京文化会館で観る。ゲネプロではABキャストを前半(Bキャスト)後半(Aキャスト)と見学し、歌手たち全員の出来栄えの高さと、マキシム・パスカルが指揮する東響の繊細で機知に富んだサウンドに関心した。本公演は与那城敬さん主役で観たが、あの美男子の与那城さんが道化のようなメイクでヴァルネラヴィリティの塊である溝口を演じ切っていることに改めて驚いた。柏木役の山本耕平さんも、邪悪で第六感の発達した奇妙な青年の役を見事にこなし、ドイツ語の現代オペラを高いレベルで上演できる今の二期会の実力は素晴らしいと思った。
歌手たちの完成度と、オペラ全体の感想とは分けて考えなければならない。一緒に考えるのが自然なのだが、今回はそうはいかなかった。『金閣寺』は演出がものをいうオペラだと重ねて思ったからだ。三島由紀夫の原作を、黛敏郎さんがベルリン・ドイツ・オペラの委嘱(1976)で作曲した。クラウス・H・ヘンネベルクの台本では、吃音の溝口が「手の不自由な青年」に変更されている。オペラは歌わなければならないので吃音ではダメだということなのだが、それは演出家にとっての大きな課題となる。特に三島の観念小説をよく知る日本人にとっては、デリケートな問題だ。

宮本亜門さんは過去に演劇で『金閣寺』のとんでもない傑作を作った。柳楽優弥さんが溝口を演じたACTシアターでの再演は二回観に行った。ここでは亜門さんの奔放なマジックが全開だった。ホーミーを歌う美しいダンサーが金閣寺である…という手品のような解釈は、他の演出家には真似できない。紛れもない天才の仕事だった。オペラ版を観て、亜門さんはドイツ語で書かれたこの台本に相当苦痛を感じられたか、あるいは最初から「自分のものではない」と突き放したのではないかと思われた。端正で美しい舞台ではあったが、熱が感じられなかった。溝口の分身である、「ヤング溝口」を木下湧仁さんが体当たりで好演したが、演じ手に感謝しながらも、その部分的なナイーヴさに口実じみたものを感じてしまった。

今回の『金閣寺』では稽古を見学するチャンスがなかったが、指揮者稽古が始まったばかりの頃、偶然にも副指揮者の沖澤のどかさんに取材することがあった。指揮者コンクールで優勝された沖澤さんの、コンクールでの心境などを取材する場だったが、そこで偶然これから二期会のお稽古に行かれるという話になった。パリ・オペラ座バレエ団の『ダフニスとクロエ』で指揮者のマキシム・パスカル氏のファンになっていた私は、思わず「パスカルさんってどういう人ですか?」と沖澤さんにたずねた。「とても知的な方で、三島のこともオペラ作品のこともよく知ってらっしゃるので、今回のヴァージョンについては『斧で切ったようなカットだね』と仰ってました」という答え。沖澤さんは2015年の神奈川県民ホールでの『金閣寺』ではプロンプターを務められていたというお話だったが、それ以降は金閣寺についてお聞きすることも、沖澤さんとお話することもなかった。「マキシムさんの『斧で切ったように』というフランス語が面白くて」という沖澤さんに「ふーん。そんなものなのか」と思っていた。この金閣寺はフランス国立ラン歌劇場との共同制作だが、フランスでの上演時は別の指揮者が振っている。

どうして斧で切ったようなカットになってしまったのか…戦後のある時期に書かれたオペラに現代的な意味がなくなった、と判断したのか、作品そのものの難解さをフレンドリーにするためか、それとも「手が不自由な溝口」という台本に価値がないと思われたのか…亜門さんは、つねに「勝つ」演出家だったので、この『金閣寺』は意外だった。亜門さんにも、ぶっ飛んだ『魔笛』もあれば、比較的常識的な『フィガロの結婚』や『コジ・ファン・トゥッテ』もあり、両面性を感じてきたが(それはとても人間的なことだ)「勝つ」ことだけは諦めていない方だと思った。装置・衣裳・照明・映像スタッフは海外のアーティストだが、彼らのスタイリッシュな感性と、映像の衝撃性は確かに演劇的な効果を上げていた。多くの観客が満足する内容のヴィジュアルが、表面的には作られていたと思う。

こう思ってしまうのも、2015年に上演された田尾下哲さん演出の神奈川県民ホールの『金閣寺』の印象があまりに強く、それに比肩する演劇的な「力」が今回のプロダクションには感じられなかったからだ。三島の狂気に近い論理性と作品の美学が田尾下演出には波打っていて、公演を観た後に県民ホール近くの可愛いパンケーキ・ショップでパンケーキを頼んだ自分は、ホイップクリームだらけのケーキを少しだけしか食べられなかった。五感がすべて麻痺してしまうほどの演劇的な衝撃があった。三島の亡霊や、日本の戦死した兵士たちの怨霊、演劇人と演奏家の苦悩が、舞台上に物理的に出現した大きな金閣寺とともに私の精神に食い込んだのだ。「認識か行為か」という『金閣寺』の命題は、そのまま三島の具体的な死へとつながっていくが、あの舞台上の巨大な金閣寺は決闘の申し込みのような凄みがあったのだ。

2015年の『金閣寺』のことを語り出しても詮無きことかも知れない。人は4年前に観たオペラのことをちょうどいい具合に忘れているし、目の前に現れた新しい『金閣寺』にぼうっとなってしまうこともある。いくつかの場面は2015年の金閣寺とだぶったが、演出家が偶然同じイメージを抱くこともあるだろう。
そう思って何も書かずに眠ろうとしたら、夜明けに死ぬような悪夢を見た。誰の声とも分からぬ怨霊のような声で「お前は一度見たものを忘れられるのか?」「見てしまったものから逃れられるのか?」という、感覚とも響きともつかないものが、真綿のように首にからみついてきたのだ。私はこのまま狂って死んでしまうのか…その声はどういう意味があるのか。狂わないために今、この文章を書いている。

悩ましいのは、この二期会の『金閣寺』が決定的な失敗作ではなく、むしろ多くの観客を魅了し、私自身もここで描かれた女性の恐ろしさと溝口のみじめさに再び共感し納得してしまえたことなのだ。もっと悩ましいのは、宮本亜門さんの芝居の『金閣寺』を愛し、亜門さんを信頼している自分が、このオペラで演出家を疑っていることだ。ラストシーンは奇妙だった。突然現れた銀色の大きな坂のような板に向かって溝口が走ってよじのぼり、そこからトスカのように身を投げる。亜門さんのお芝居では、放心した溝口は客席の最前列の席に座り、三島の原作の通り「生きよ…」と言うのだった。生きるべき溝口が、自決のような振舞いをする。ここに秘められたアイロニーを感じ取らないわけにはいかなかった。

































ユリアンナ・アヴデーエワ ピアノ・リサイタル

2019-02-21 09:28:07 | クラシック音楽
現在日本ツアー中のユリアンナ・アヴデーエワのリサイタルをオペラシティコンサートホールで聴く。プログラムはショパン、シューマン、シューベルト。タイトなパンツスタイル(しかしカジュアルではなくどこかゴージャス)で登場したユリアンナは、聴衆に微笑みかけてからショパンの「マズルカ イ短調op.59-1」を弾き始めた。
このマズルカが大変幻惑的な音だった。極限までレガートでピアニッシモを究め、懐かしくて新鮮なタッチで、叩いた後に減衰していくピアノの物理学とは別の法則を知って奏でているような印象がある。ハープのようでもあり、テルミンのようでもあり、念動力(テレキネシス)のようなもので鳴らす新しい楽器のようでもあった。ガラス窓にぷちぷちと落ちてきた雨の雫が次々と不思議な形を作り、瞬間ごとに模様を変えていくのを見ているような心地になる。ショパンはピアノの詩人と呼ばれるが、捕えがたい宇宙の歪みの中に蠱惑的な妖精の姿を見て、その踊りを音符にする天才だと思った。
面影のうつろいが次々とピアノから投影されていく。ショパンは見るものを対象化するというより、危険なまでに同化してしまう脳の持ち主だったのではないか? 花を見ても自然を見ても、自分自身になってしまう。油断をすると他人も自分になってしまう。それはある種の狂気なのだ。

作品59の3つのマズルカのあとに、ピアノ・ソナタ第3番が演奏されたが、この曲にも森羅万象との一体化の感覚があった。ラルゴ楽章は振付家のノイマイヤーが『椿姫』で見事な使い方をした部分で、その連想でノイマイヤーの『ニジンスキー』を思い出した。狂気の中で死んだバレエダンサー、ニジンスキーの妻ロモラが、河合隼雄さんのカウンセリングを受けたことがあるというエピソードを、最近編集者との会話で知ったのだ。
「狂気とはある種の豊かな精神の状態であること」と河合さんは語ったという(文章はうろ覚え)。ロ短調のピアノ・ソナタの美はブラックホールの美しさで、ふんだんな霊感が息継ぎをする間もなく次々と湧き上がっている。こんな曲を書けた人は、現世というものに対して尊大な態度をとってしまうのではないか? ショパンと別れた後、ジョルジュ・サンドはショパンの葬式にも来なかった。
ユリアンナの演奏はシンフォニックで低音に厚みがあり、自由な歌心に溢れていて、張り詰めた美しさが一瞬も途切れることはなかった。張り詰めているが、寛いでいる。厳しいのに優しい。言葉で表そうとすると、どうしても不完全になってしまう。演奏には少しの矛盾もない。ピアニストの大きな心を通過して、喜びに溢れて命を得る作曲家の魂を聴いた。

後半のシューマン『幻想小曲集op.12』は、ショパンと地続きの世界だった。二人の作曲家のコントラストは微妙なものだ。ユリアンナはこれを、外側から分断して「ジャッジする」ような解釈はしない。シューマンの愛好家は時々ショパンを嫌悪するが、音楽はつねに内側から作られている…それを音楽ファンはしょっちゅう忘れるし、演奏家だって時々忘れてしまうのかも知れない。シューマンのロマンティックな詩情と幻想性は、ショパンの感性と双子のようなところがある。小さな歌曲のようにつながっていく9つの小さな曲は、曲が進むにつれショパンとは異なる精神のなりゆきを表現した。ショパンが黄泉の国から地上を見ていたとすれば、シューマンは地上から天上界に憧れを抱いていた。ショパンが詩人なら、シューマンには哲学者のような性質があり、獰猛で混沌としたこの世界をどこまでも明晰に見ようとする若々しさがある。しかしその知性は極端で、きっぱり分節化しようとする意志と、無秩序で無限のインスピレーションの矛盾が狂気を巻き起こすのだ。苦悩を抱えながら終曲に向かって勇敢に踏み出そうとするシューマンの精神に、えもいわれぬものを感じた。

芸術は悪魔的な世界だ。ショパンもシューマンも狂気に捉われていた。危険な乗り物に乗せられてスピードを出し、彼らは前人未到の境地にまで飛ぶことができたが、代償は大きかった。何か保険をかけて生きられる術はなかったのかと思うが、才能とはそういうことを許さないものなのだろう。
ピアニストはこれとどのように向き合うか。禅問答のようなこの命題に、ユリアンナは明晰な答えを出していた。彼女は作曲家の狂気を愛する。どのように愛するかと言うと、家族のように、母親が息子を愛するように愛する。ナイフを振り回しても大声で喚き散らしても、抱きしめようとするのだ。ピアノでありながらピアノとは別の音にも聴こえる特別な音は、極限まで覚悟を決めたシンパシーの表現で、現世での生きづらさと引き換えに特別な冒険を許された「息子たち」を愛する決意を証していた。
ショパンの精神もシューマンの精神も安息の地を求めていた。そんな当たり前のことを、「すごい」だけの演奏では忘れてしまう。アンコール前の最後の曲はシューベルトの「幻想曲ハ長調D760『さすらい人』」で、ユリアンナがこのリサイタルで伝えようとしたことが一気に押し寄せてきたような気がしたのだ。作曲家はみんな、心が帰る場所を求めていた。灯りのついた家に戻って「おかえり」と迎えられ、「おやすみ」と言われたかったのだ。

ユリアンナは志の高いピアニストで、リサイタルで再会するたびに必ず大きくなっている。リストの技巧的なオペラ・トランスクリプションを前半に二曲もってきたため、後半がやや弱くなってしまった演奏会も過去にはあったが、そういうことももうなくなった。アンコールを一曲弾き終えるたび「素晴らしいのは、あなたたちです」というように両手を客席に差し出してくれる…「私が在る」ということと「あなたが在る」ということが、強い共感によってつながる。ユリアンナ・アヴデーエワのリサイタルではそれが可能になるのだ。寛大で勇敢で、信じがたいほどの愛に包まれた時間だった。



魂の唯物論主義を超えて テオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナ

2019-02-11 19:29:52 | クラシック音楽
欧州で話題沸騰の指揮者、テオドール・クルレンツィスと彼のオーケストラであるムジカエテルナ初来日公演。超満員で立見席まで出たオーチャードホールでの初日(2/10)を聴いた。ステージに登場したオケの楽員は皆個性的な風貌で、なぜかピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団のダンサーたちを思い出した。みんなが何かしらの魂の事情を抱えてこの集団に参加しているといった雰囲気で、「アンシエント・ソウル」とか「オールド・ソウル」という言葉が頭をかすめる。プレイヤーが醸し出すこの独特のムードは、新しいことが起こる期待感だけでなく、古くて懐かしい何かと再会するような嬉しさを含んでいた。

チャイコフスキー・プロの一曲目はヴァイオリン協奏曲ニ長調で、ソリストのパトリツィア・コパチンスカヤが登場。クルレンツィスはゆうに190cmはありそうな長身の男で、指揮台なしで全身を折り曲げてダンサーのように指揮をする。指揮者とヴァイオリニストはアイコンタクトというより、格闘技の取り組みのように向き合って「気」を飛ばし合い、目と目で真正面から通じ合い、二匹のオオカミのように野生のコミュニケーションを行っていた。それは同時に、ドキドキするような愛の行為にも見えた。

冒頭から驚いたのは、ソリストもオーストラもぎりぎりまで弱音の冒険を突き詰めていて、いつも「表の音」として聴こえてくるメロディアスな旋律が、ウィスパーヴォイスのような「裏の音」に聴こえたり、楽器が森の生物の鳴き声を擬態しているような不思議な音を響かせるのだ。都会的なサンクトペテルブルクの音楽ではなく、このオーケストラが生まれたノボシビルスクの村の素朴な音楽のように感じられた。コパチンスカヤはスーパー・ヴァイオリニストとしての必殺テクニックを駆使して、無茶ぶりに近い高速フレーズも「咀嚼された」サウンドで表現する。オーガニックで人懐こく、温かいサウンドだ。とにかく、新しいことが次々と起こる。命懸けのコール&レスポンスが展開された。オケの精度は素晴らしく、いくつもの「答え」を準備していたが、ありきたりの「趣味のいい」演奏ではない。文化を上層と下層に分ける、西洋的なヒエラルキーを破壊するような面白味とパンク精神に溢れていた。コパチンスカヤはクラリネット奏者、コンマスとそれぞれアンコールを1曲ずつ披露し、最後は自分のために書かれた肉声とヴァイオリンが愉快にミックスされた曲を弾いた。

ギリシアのアテネで生まれたテオドール・クルレンツィスは、22歳のときサンクトペテルブルク音楽院でイリヤ・ムーシンに指揮法を学び、テミルカーノフのサンクトペテルブルク・フィルではアシスタントを務め、ノボシビルスク国立歌劇場の音楽監督に就任すると、この地で自分のオーケストラを作った。中央集権的なオーケストラの在り方に疑問を持ち、「反抗するパワーを省略するために」辺境で自分のオケを興した。彼がひっくり返したかったものは、この世界に暗黙のこととして存在する「勝者」の論理ではなかったか。試写で見たばかりのフランス映画『天国でまた会おう』を思い出した。戦死した無数のものたちは歴史の中で「顔のない存在」であり、英雄として思い出されることもなく忘却の闇に埋もれていく。クルレンツィスはクラシックの商業主義や、ある種の弱肉強食の論理に対して、人類の歴史のアナロジーを見ていたのではないか。

後半のチャイコフスキー『悲愴』は、ティンパニとチェロ、管楽器の一部を除いて全員が立奏した。9人のコントラバス奏者も全員立っている。演奏効果は歴然としており、うねるような動きで絞り出される弦の響きは、真剣で素朴な善意に溢れていた。管楽器もとても純粋な音だった、何が善意で何が悪意か、その音から物理的な確証を得ることは難しい。科学的に証明しろと言われても難しい。しかし、声楽家は悲劇のヒロインを演じるとき、その実存的な無念を伝えるために心から純粋な存在になるのではないか? ヴァイオリンもヴィオラもチェロもバスも、疑いようもなく無辜の音を出していた。木管はこの曲でも信じられないほどの弱音を奏でる。
三楽章のアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェのマーチは、多くのオーケストラが戦争音楽のように演奏する。アイロニーにしても、その後に続く最終楽章へのコントラストにしても、この楽章が「全身全霊で心をこめて」演奏されたのは聴いたことがあまりない。三楽章は、庶民の収穫祭を彷彿させる生命力の音楽で、搾取する権力者たちのマーチではなかった。どうしたらこんな合奏になるのか。明快なポリシーがなければ、チャイコの6番の三楽章はこんなふうには演奏されない。恐らくこの「平民の側からの純朴なマーチ」を創り上げるために、オケはたくさんの試行錯誤を重ねただろう。

四楽章のアダージョ・ラメント―ソ~アンダンテの後には、最近では珍しいほどのシリアスな長い沈黙があった。ああいう沈黙は誰かが強要して生まれるものではない。皆が言葉を失い、息を呑み、沈黙した。音楽を聴いていると同時に、見えない演劇を見ていたような時間で、そのクライマックスがあまりに真に迫っていたので、聴衆は茫然自失するしかなかったという感じだ。交響曲6番は『椿姫』のようでもあった。膨大な台詞が音楽に埋め込まれ、犠牲者として死んでいく悲しいヒロインの最後が、ラストの音に重なった。しかし本当のところは、椿姫よりも悲しい顔のない無名の存在の物語で、その記憶は誰の中にも残っていない。裏切られた運命の主に向けられた花のような沈黙だった。

こんなに時間をかけて曲を磨き上げることは、通常のオーケストラでは物理的に無理だ。だからクルレンツィスは辺境の地に「それを可能にする」楽団をひっそりと作った。そんな特殊なオーケストラが聴衆を連れていくのは、ここではない果てしないどこかである。この一回のムジカエテルナの公演で、すっかり彼らの虜になった。クルレンツィスは音楽が完全に自由であるために、いくつもの局面を乗り越えてきた男だ。彼は自分が音楽をやることについて「ミッションだ」と言う。気障でもなんでもない。私はアテネに生まれたクルレンツィスの古い魂について考える。あらゆる不幸や不公平が生まれる前の、バベルの塔以前の世界を思う。鳥の言葉を聞けたアッシジの聖フランチェスコ、魚のために説教したパドヴァの聖アントニウス、彼らの聖なる素朴さ、永遠の慈愛と祈り…といったものがムジカエテルナの音楽には通底していた。
「もしかしたら彼は、イルカの生まれ変わりなのかな…」と素っ頓狂なことも考えた。天才指揮者は音波で感じ、音波で考える。彼の広大無辺で無垢な音楽には、健康な聴き手ならだれでも反応する。オーチャードに響いたチャイコフスキーは21世紀に唐突に現れたユートピア音楽で、その音楽の中にはタフな実践がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。こんなふうにオーケストラが鳴る日を、多分誰も予想していなかった。クルレンツィスはたったひとりで世界をひっくり返そうとしている…分断される前の世界を、魂の記憶で知っているからだ。
東京ではあと一回、13日にサントリーホールで公演が行われる。