小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京都交響楽団×アラン・ギルバート『アルプス交響曲』

2023-07-22 00:42:07 | クラシック音楽
都響と首席客演指揮者アラン・ギルバートによる7月公演の二つ目のプログラムを上野の東京文化会館で聴く。コンサートマスターは矢部達哉さん。前半のウェーベルン『夏風の中で-大管弦楽のための牧歌』は、作曲家が20歳の時の曲で、前衛的なイメージが強いウェーベルンがこんな甘美な音楽を書いていたとは知らなかった。冒頭の弦の霊妙な響きから、絵画的なイメージが広がる。ふたつの色彩が並列されるマーク・ロスコの前衛絵画を一瞬連想した。夜明けの紫の地平線が見えた気がして、これは後半の『アルプス交響曲』の予兆だと感じた。音の塊の輪郭線が曖昧で、それゆえに無限大に膨張していく感覚がある。
題名にある「夏風」とは夏のどの時期の風だろうか。夏至のあたりの、地球全体が夢を見ている感じの宵の風ではないかと思った。管楽器のいたずらなパッセージが「真夏の夜の夢」の妖精パックのよう。それにしてもこのウェーベルンはR・シュトラウスそっくりでないか。時々脅かすような生真面目な旋律が顕れ、かと思えば気まぐれで優美なメロディが「ばらの騎士」のパッセージのように鬼ごっこしていく。打楽器の厳しい音は雷神ウラヌスの怒りのようで、艶やかなヴァイオリンは金星の守護神ヴィーナスを思わせた。ホルンは木星王ジュピター的。大編成の都響が、ギルバートの指揮でさらに巨大な世界を表していた。

モーツァルト『ホルン協奏曲第4番』では「ホルンの王様」シュテファン・ドールが登場。オケは小さな編成となり、ギルバートは指揮台なしで、ホルン・ソロと頻繁なアイコンタクトをとりながら、モーツァルトの飄々とした協奏曲を奏でていく。ホルンという楽器の特性か、それともシュテファン・ドールという人がそうなのか、ソロはとことん生真面目で、朴訥で温厚な「人格」をホルンに投影したミニ・オペラのような趣があった。テノール歌手のフローリアン=フォークトは元ホルン奏者で「ホルンは本当に正確な音を鳴らさなければならないのです」と語っていた。ギルバートは都響からモダンなモーツァルトを引き出し、3楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェでは、ドールと掛け合い漫才(?)のように気の合ったジェスチャーを見せた。ユーモア満点のアンサンブル。

後半のR・シュトラウス『アルプス交響曲』ではずらりと並んだ管楽器が壮観。1stホルンの席には先程のシュテファン・ドールが座り、都響の楽員とともに登場した瞬間から喝采が起こった。夜~日の出のシークエンスは、子宮の暗がりから産道を通って生まれ落ちる赤子が見る景色のように感じられた(毎回ベートーヴェンの『第九』のイントロを思い出す)。ただただ暗い混沌たる世界から、ある「存在」が爆発的な光の世界へと飛び込んでいく。自然界の「夜明け前が一番暗い」という暗示も音楽には含まれている。登山者の一日を描いた交響曲は、『英雄の生涯』のようにひとつの人生を描いているようだ。冒頭の暗いファゴットとトロンボーンの不吉な響きは「生まれては、後に棺に釘うたれて埋められる宿命にある人間」の序文のように思われた。

19日の演奏会は、ホールの二階席で聴いた。オケのすべてが崇高で、簡単に触れてはいけないような聖なる気配を放っていた。ギルバートの後ろ姿は泰然としていて、宇宙的で暗示に富んだイマジナティヴなサウンドを引き出していく。上野のホールの、謙虚で虚飾のない響きがすべて長所になっていた。フル装備の管楽器と幽玄な弦楽器のバランスが素晴らしい。アルプスの自然描写から、様々なことが思い浮かんだ。精緻でいて情動を揺さぶられる音楽を通じて、作曲家は「太陽」あるいは「太陽神」を表現しようとしているのではないかと感じた。打楽器は、暗闇に潜伏していた(胎児のような)存在が太陽と出会ったジャイアント・インパクトを顕し、きらめく弦とハープは降り注ぐ太陽の光、金管と木管は太陽のもとで生まれたさまざまな生命の個性的な言語を表現している。

牧歌の景色を思わせるカウベルの音が、書斎の中の観念的音楽ではなく、登山者の五感を描写した音楽であることを強く思わせる。素朴な人々の平和、耕された土地の五穀豊穣、尻尾で虫を払う動物たちの呑気な姿が立ち現われた。作曲家はそのような人類の平和を、心底願っていた。驚くような嵐の表現の後には、冒険の褒章のような黄金のサウンドスケープが顕れる。
この音楽の起伏には、明らかにひとつの理念が貫通されている。膨大な楽器、膨大な音の波を毅然と組織する指揮者から、光のような道筋が見えてきた。

今年に入ってから観た『サロメ』や演奏会形式『エレクトラ』が『アルプス…』の裏色として強く思い出された。エレクトラのような強くて激しい女性を、R・シュトラウスは心から愛しており、それは悪妻パウリーネを生涯沿い続けた忍耐強さが裏付けている(『家庭交響曲』や『カプリッチョ』の霊感)。女性のヒステリーは自然界の脅威のようで、登山者を待ち受ける雷雨にも似ている。男性的知性は、女性的自然をどう受け止めるのか。「ありのまま」を是認し、愛し、嵐の上空にある太陽を男性の意志として示すのだ。

『アルプス交響曲』が書き始められたのは1914年だという。第一次世界大戦勃発の年で、1911年に亡くなったマーラーは20世紀の大量殺戮兵器による戦争を見ずに地上から去った。R・シュトラウスは『ダナエの愛』でも『平和の日』でも『アルプス交響曲』でも、(象徴的に)太陽の正義を主張している。太陽エネルギーの模倣者である核の否定と、至高善としての太陽の描写が音楽を貫いている。太陽は理性であり掟であり、平和の王である。アラン・ギルバートと都響は50分かけて、作曲家の基本理念をパーフェクトに音響化した。

ホルンは「忍耐強い男」を表す楽器で(個人的見解だが)、R・シュトラウスにとってはホルン奏者だった父親への愛慕が詰まっている。シュテファン・ドールは都響にすっかり溶け込んで、時折楽器を上に掲げて演奏していた。この夜の演奏はベルリン・フィルにだって全く引けを取らない。オーケストラの響きが美しく、完璧であっただけではなく、無限に近い巨大なインスピレーションを与えてくれた。「男の大きな愛は、素晴らしい」。ホルンをフィーチャーしたこのプログラムで、さまざまなことが波状に押し寄せてきた。平和をテーマにしたコンサートは素晴らしいが、今までに聴いたどの演奏会よりも強い平和への意志が感じられた。
カーテンコールではシュテファン・ドールをともなってマエストロ登場。二人は背格好も同じで、双子のように見えた。20名以上の金管のバンダがずらりと登場したのも圧巻。熱狂的な喝采が止まなかった。

(19日の演奏会の余韻に浸りながら20日の公演も同じ会場で聴いたが、オケに近い前方左側席で聴くと、前日の二階席センターとは異なる、生々しい「ライヴ」を体験できた。上の席で聴きとれる音のプロポーションが、オケに接近した席ではもっと混沌としていて、吹き飛ばされるような凄まじい轟音も聞こえ、それが別の席では完璧に組織された「音楽」に聴こえるのが奇跡に思えた。指揮者とオーケストラは毎回、本当に凄いことをやっている)




新国立劇場『ラ・ボエーム』(6/30)

2023-07-01 06:01:10 | オペラ
新国ボエームの6/30公演を鑑賞。2003年の初演から7回目となる粟國淳さん演出の再演で、新演出ではないが芸術監督の大野さんが振るということで、何かが起こるのではないかと予想していた。これは本当に、奇跡の公演だった。オーケストラは東京フィル。

ロドルフォが登場したとき「テノールには珍しく背が高いこの美声の歌手は誰なんだ」とびっくりしたが、2019年の新国バタフライでピンカートンを歌ったスティーヴン・コステロで、ピンカートンはほとんど印象に残っていない。4年の間に何が起こったのか。歌手として急成長した? ホールの空間の隅々まで行き渡る丁寧な歌唱で、めざましい艶やかさがあり、その裏側には忍耐強さも感じられた。
ミミはイタリア人ソプラノのアレッサンドラ・マリアネッリ。2011年のボローニャ歌劇場の『カルメン』でミカエラを歌う予定だったが叶わず、今回が初来日となった歌手で、一声を聴いた途端大好きになった。上品で優しさがあり、神秘性と、豊かな母性のようなものも感じられる。ミミは登場の瞬間からもう死を感じさせる演技だが、声は「まだまだ生きたい。母にもなってみたい。世界の大きな広がりを感じてみたい」と訴えてくる。

ロドルフォの『冷たい手を』とミミの『私の名はミミ』は、やはりどう考えても重要なアリアで、先日のパレルモ・マッシモ劇場ではゲオルギューのミミが苦しそうだったので最後まで案じてしまったが、歌手はここで聴かせてくれなくては困る。コステロはとても緊張していたが、渾身の力を振り絞って響かせたハイCには胸に突き刺さるものがあった。続くマリアネッリのミミの自己紹介で、二人の歌手の相性の良さを実感した。アパートのドアを開けたら、女神のような女性が立っていた、という物語である。そんな女神を見つけたら、自分ならどう思うだろう? 男女は一目で恋に落ちるが、それは二人がそっくりの魂を持っている似た者同士で、同時にお互いの中に神を見つけてしまったからだ。歌手の性格的な繊細さも似通っていたが、それも「演技」であったら、それはそれで凄い。

二つのアリアを振る大野さんの激しい棒がピットから見えた。ロドルフォと一体化し、ミミと一体化し、完全に歌手と同化している指揮者のエネルギーに驚嘆した。

粟國演出は卓越している。カフェモミュスの賑やかなクリスマスのシーンでは、「飛び出す絵本」のように折りたたまさった街が左右から手品のごとく押し寄せる。オペラでは森が動くこともあるのだから、街が動いても不思議はない。でも、そんなことをやる演出家は粟國さんしかいない。2幕はムゼッタのための幕で、着飾った彼女はアルチンドロとともに豪華なオープンカーで登場する。ロラン・ペリー演出の『連隊の娘』で大きな戦車が登場したときのようにびっくりした。プッチーニといえばオープンカー(スピード狂で大怪我もした)。ヴァレンティーナ・マストランジェロがムゼッタを華やかに歌い、オケの美麗さも極みに達した。マストランジェロは凄い余裕で、高飛車な歌から宝石のようなユーモアセンスが飛び散った。

『ラ・ボエーム』は尺が短いから見やすいオペラ、という紹介のされ方をすることがあるが、短くても退屈をするときは退屈する。『パルジファル』や『マイスタージンガー』も面白いものはあっという間に終わる。このボエームは一秒も退屈しなかった。人物描写が一人一人緻密であることと、オーケストラの響きと呼吸が尋常でないこと、歌手たち自身が舞台にいることに陶酔しているのが素晴らしい。3幕のアンフェール関門の場面では、離れがたいミミとロドルフォの心の寂しさが悲しかった。

4幕でミミ失うロドルフォの演技は本物で、ひととき二人切りになったときのロドルフォが、耳まで赤くして泣き崩れる姿を見て「こんなロドルフォはここにしかいない」と号泣してしまった。ボエームで泣く評論家はズブの素人だが、コステロの心境を思うとたまらなくなった。今回の彼の歌唱の素晴らしさは、歌手自身が自分の奥底に眠る巨大な可能性を見つけてしまった証拠で、そこまで歌手を昂揚させるのは演出と指揮の力に他ならない。

『ラ・ボエーム』はロドルフォ=プッチーニの物語で、ミミは幻影のような少し遠い存在であっていい。そのような確固としたプロポーションのようなものを、演出家は作ることが出来る。新制作でないこの作品を大野さんが振ったのには、やはり理由があった。

カルチェラタンのシーンでは新国立劇場合唱団がいつも以上に素晴らしく、TOKYO FM少年合唱団の少年たちはテーブルを運んだり細かい演技をこなしたり、大活躍だった。大変な準備をして本番に臨んだと思う。芸術家の卵たち、ショナール駒田敏章さん、コッリーネのフランチェスコ・レオーネ、マルチェッロ須藤慎吾さんも頼りがいがあり、ミミの死をロドルフォとともに受け止める須藤さんの凄い演技にくらくらした。稽古場でも、須藤さんは大きなものを引き受けていたのではないかと思う。

良質なプロダクションは歌手たちを急成長させるが、極上の経験の後では、それに満たないプロダクションに取り組まなければならないとき、苦痛も感じるのではないか…と要らぬ心配もしてしまった。あと三回、この凄いボエームを歌手たちに楽しんで欲しいと思う。