小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ミュージカル『エビータ』(7/6)

2018-07-07 02:26:30 | ミュージカル
7/4に初日を迎えたミュージカル『エビータ』。7/6のマチネ公演を渋谷の東急シアターオーブで観た。アンドリュー・ロイド=ウェバーとティム・ライスの黄金コンビが放ったこのミュージカルは、1979年の初演の翌年にはトニー賞7部門に輝いている。ハロルド・プリンスによるオリジナル演出版はこれが日本初上陸となる。極貧の出ながらモデルや女優を経て、アルゼンチンのファースト・レディにまで上り詰めるも、33歳で夭折した国民的ヒロイン、エヴァ・ペロンの生涯が描かれたストーリーだ。

このツアーメンバーによるシンガポールでの舞台を3月に観ていた。メインキャストはチェ(・ゲバラ)以外全く同じ。エビータ役のエマ・キングストンが目の覚めるような歌唱力を披露したが、上演を重ねるごとに役が深まっていったのだろう。日本での公演ではさらに演技が研ぎ澄まされ、本物のエビータが舞台にいるようだった。まだ20代中頃の英国人の歌手で、クラシックのトレーニングを徹底的に受けてきたという。南アフリカで行われたオーディションでは30代後半から40代前半までのベテラン歌手たちがオーディションのため集められたが、この難役を歌える実力の持ち主はおらず、急遽ロンドンでもキャスティングが行われ、まだ若いキングストンが抜擢された。ロイド=ウェバー、ティム・ライス、ハロルド・プリンス全員のお墨付きで決まったという。
彼女が歌う主役のパートは最も難しく、音程を取るのもフレージングも発声もすべて高度な技術を要し、その上ミュージカルなので激しいダンスも加わる。11歳でプロになると決意し、学生時代は一日14時間もレッスンをしていたという。舞台では圧倒的な存在感があり、この道にかけてきた覚悟を感じさせた。生まれながら桁外れの才能を持っている人が、覚悟を決めて道を究めたときに現れる境地のようなものを見た。途中から理由などなくなるのだろう。成就しなければ「ならない」。それが、貧困から抜け出そうとして男を渡り歩き、髪型やファッションをどんどん派手にし、親子ほど年の離れたペロン大佐と結婚するエビータの姿と重なった。ぎりぎりまで張り詰めた弓のような剛さがある。

マドンナが主演した映画版『エビータ』でアントニオ・バンデラスが演じたチェ・ゲバラはラミン・カリムルーが演じた。シンガポールでは南アフリカの大スターという歌手が歌い彼もなかなかよかったのだが、ラミンも好演していた。狂言回しのように舞台に登場し、エビータのシャドウのような言葉を語る。大筋のストーリーに対する異化効果としてほとんど舞台に出づっぱりなのだが、このパートもとても難しい。初役だというが、ミュージカル歌手にとっては喉から手が出るほど歌いたい役だろう。エビータとの不思議な「絡み」も魅力的だった。
エヴァに翻弄され、野心に火をつけられるホアン・ペロンは南アフリカ出身のロバート・フィンレイソンが歌い、おっとりとした外貌がリアルなペロン大佐を想像させた。当惑したような表情が自然で、歌にも清潔感があってよかった。

音楽の巧みさ、魅力的なライトモティーフ、次から次へとトランプを展開するように現れる豊かな旋律やハーモニーはすさまじかった。アンドリュー・ロイド=ウェバーの巨大な創造性を証明していて、先日見たばかりのブッチーニの『トスカ』を思い出した。強烈な心理効果のある音楽で、これはエンターテイメントというにはあまりにシリアスな凄みに溢れていると感じた。ティム・ライスの歌詞も凄い。シンガポールでは字幕なしだったので、今回の公演で字幕を見て追いつけなかったところを補完したが、言葉にも力があるのだ。実際のエビータの映像や、1940年代のプロパガンダ・アートをふんだんに使ったハロルド・プリンスの演出も冴え冴えとしている。才能が集まるというのは、こういうことなのか。一流の知性が作り出す世界観には、一種異様なほどの高揚があり、そこにエマのような天才的な歌手がトッピングされることで奇跡的な時間が生まれる。すべては才能なのだ…。

映像で過去の上演を見ると色々なエヴァ・ペロンがいて、中にはあまり好ましくない歌手もいた。ヘアメイクや照明や演出が悪いのか…ただ野心的で下品なエビータも見つかった。エマ・キングストンは本気でこの役に取り組み、実在した人物の矛盾した生き方をなぞり、最終的に魂の本質に到達していた。エビータの本質とは、誇り高く聖なる女である。それを見つけるために、汚い生き方もしたが、最後は聖女として死んだのだ。観客には最後まで「悪人か、善人か」という疑惑を投げかける役だが、歌手の中では答えが出ているのだと思った。それゆえに、最も気品があり美しいエビータが舞台に現れた。

マドンナの映画で有名になった「ドント・クライ・フォー・ミー・アルゼンチーナ」は名曲中の名曲で、不協和音の続くシークエンスで歌われるのでなお一層美しさが際立つ。トスカの「愛に生き歌に生き」と登場の仕方が似ている。この曲をはじめ、さまざまなところにタンゴのリズムが息づいている。聖歌の中にもタンゴがあるのだ。それが民衆のパワーとつながっていたエビータの個性を浮き彫りにする。シンガポールで二回ほど見て、4か月ぶりにこの音楽と「再会」したのだが、知らぬ間にエビータのミュージカルに恋していた自分を発見した。狂おしいほど、すべての音楽が快く、嬉しかった。麻薬的な魅力があり、また聴きたくなる。

ミュージカルではカーテンコールでもオケピから指揮者が出てくることはないが、このプロダクションにはとても優秀なコンダクターがいて、彼=ルイ・ザーナーマーは複雑なリズムを正確に操り、音楽から素晴らしいニュアンスを引き出す。シンガポールでのインタビューでは「私の青春はシューベルト、シューマン、ブラームスだったんですよ」と笑顔で語ってくれた。ピアニストとして活動しながらオペラ指揮者の修行を積み、ロンドンで身体をこわしてケープタウンに帰ったとき、ミュージカルの仕事と出会った。ティム・ライスのテキストがいかに音楽にとって素晴らしいものかも説明してくれ、「和声にストラヴィンスキーのオイディプス王みたいなくだりがあるよね」というと「本当にアヴァンギャルドなんだ!」と目をキラキラさせていた。

女性の中を駆け抜けていく嵐の正体は何だろう。オペラではカルメンもトスカもマノン・レスコーも、自分の身体より大きなものにとりつかれて、自分でもわけが分からないまま息果てていく。エビータもまさにそうだった。
エマ・キングストンの奇跡の演技に会場は湧き、一階席ではスタンディングで喝采する観客も多くいた。『エビータ』は7/29まで上演が続く。
























ミュージカル『ビリー・エリオット』(9/30) 

2017-10-01 11:57:52 | ミュージカル

間もなく東京公演が千秋楽を迎えるミュージカル『ビリー・エリオット』の9/30の夜公演を赤坂ACTシアターで観た。7/20にプレビュー公演を観て、主役の子供たちの凄い演技と振り切ったエネルギー、大人たちの本気と音楽と物語の良さにすっかり骨抜きになってしまったが、二か月以上の公演を走り切ったキャストたちがどういう進化を遂げているか再度観てみたかった。
9/30のビリーは前田晴翔くん。プレビュー公演で観たのは加藤航世くんで、おばあちゃんの根岸季衣さん以外はほとんど別キャスト。役者が違うと物語の意味合いも少しずつ変わってくるので新鮮な刺激を得た。会場は超満員、立ち見のお客さんも大勢いて、ACTシアターの二階席から人が落っこちてきそうなほどの人、人、人であった。

ミュージカルはイギリスの戦後復興からサッチャー政権までを報道するモノクロのニュース映像から始まる。壁一面に映し出された殺伐とした映像をちょこんと見ているのはとても小さな「スモールボーイ」だ。『ビリー…』が夢物語ではなく、閉山に追い込まれた炭鉱の町を舞台にしたリアルな話であることを改めて思った。そこにいる大人の男たちは、皆重々しい怒りを抱えている。労働者としての誇りを奪われ、かつてのように生きられなくなった憤り…怒りの表現は恐ろしいほどの迫力で、今から遠くない過去にこんな「現実」があったことに心震えた。
音楽でも舞台でも、卓越したものを目の前にすると、その作品がこの世に誕生した意味というものを考えたくなる。古い時代が終わって、新しい時代がやってくる…『ビリー…』の作者はその変化の狭間にいる象徴的な少年を描いた。力強く荒々しい父親世代、妻として耐えるしかなかった母親世代とは全く別の可能性をもつ存在がビリー・エリオットだった。

30日は前から二列目の下手側ぎりぎりで観た。役者さんたちが走って通り過ぎ、その都度びっくりするような突風が飛んできた。一番驚いたのは、大人たちがみんな煙草を吸っているので、煙の香りがずっと漂ってきたこと。懐かしい香りだった。少し前まで、大人はみんな煙草を吸っていたのだ。抱えきれないほど重い現実につぶされないよう、大人は煙草で気を紛らわす必要があった。炭鉱の町の人々は、男も女も皆ワイルドで、今日を生きるために煙草と酒で憂鬱を吹き飛ばすのだ。
「今度生まれ変わったら誰かの奥さんなんかになるもんか」と歌うおばあちゃんはほとんどボケかけていて、カビの生えたミートパイを隠して一人で食べるのを楽しみにしている。灰色の閉塞感がキャンバスに絵具を重ねるように塗り描かれていく。
舞台の転換は鮮やかで、やはり私が好きなのはウィルキンソン先生のバレエ教室にボクサー姿のビリーが迷い込むシーンなのだ。柚希礼音さんのウィルキンソン先生はド派手でサディスティックで最高にスピーディで、レトロな70年代ファッションも素敵に着こなしている。バレエガールズたちはバーレッスンをやっていたかと思うと、タップダンスをはじめ、早変わりで衣装を変えると、白い羽をもって宝塚のレビューのような踊りもする。「食いしん坊トレイシー」の並木月渚ちゃんをもう一度観たくてこの公演に来たが、プレビューよりさらに動きがシャープになっており、脇役だと思っていたのに結構センターでの活躍が多かった。バレエガールズは全員素晴らしく、ジュリー役の近貞月乃ちゃん、スーザン役の女の子(久保田まい子さん?)もキレキレの演技。デビーの佐々木琴花ちゃんはすごい勢いで、ビリーとの掛け合いにもリズムがあり目が離せなかった。

この舞台はとても濃密に作られている…と実感した。600日にも及ぶ準備期間、オーディション、様々な挑戦を子供たちにクリアさせる忍耐強いプロセスにも驚くばかりだし、それを可能にした大きな心の力に計り知れないものを感じた。ビリー役には1346名が殺到し、450名、10名、7名、4名に絞られ後から1名が追加されたが、志半ばの少年を選別して落とす方も辛かっただろう。その中で勝ち残ったビリーにとっては、生涯でも特別な夏になったと思う。
前田晴翔君のビリーはダンスに爆発的なエネルギーがあり、歌は純粋で、芝居にユニークな説得力があった。前田ビリーは東京最後の日だったので、彼にも心に満ちるものがあったのだろう。ところどころ、アドリブ的な「溜め」もあったように思う。
ビリーはたくさんの登場人物と濃い絆をもつ。お父ちゃん、ウィルキンソン先生、おばあちゃん、親友のマイケル、死んだお母さん…それぞれと、全力で反発したり一体化していく演技が求められ、大人でもこんな難しい役は滅多にないと思う。
晴翔君には天才的なアンサンブル能力と、ソロで爆発する潜在力が両方そなわっていて、すべての場面を価値あるものにしていた。格別に美しいのは、未来のビリー~オールダー・ビリーとの踊りで、少年と大人の男性とのパ・ド・ドゥは恐らく世界でただひとつのものだ。栗山廉さんが美しい未来のビリーを踊り、二人のシルエットを追っていると夢の世界へ心が運ばれていくようだった。宙づりのシーンも見事だったが、オールダー・ビリーがビリーをリフトするとき、ビリーが相手役に余計な負担をかけないよう体重の配分を気遣っていたのに驚いた。これも練習で身につけた技術なのだろうか。

ロイヤルバレエスクールのオーディションに行かせてもらえず「母ちゃんなら行かせてくれた!」と叫んで踊るビリーのソロのシーンは絶句するほどの出来栄えで、気を抜くと大怪我をしてしまうような難しい振付を「危険なんかどこにもない」とばかりに踊った。八方ふさがりの現実を前に、魂がぺしゃんこになりそうなとき、自分もこんなふうに叫びをあげていたのだ…晴翔くんの勇敢さを前に、ぼろぼろと涙が出て仕方なかった。

このミュージカルを長らく「男性性と女性性の闘い」の物語だと思っていたが、この日の上演はもっと深いところまで見せてくれたような気がする。マッチョな炭鉱夫から、フェミニンな美意識をもつビリーが突如現れ、新しい世界へ羽ばたく…という解釈でもよかったのだが、舞台に現れる粗野で武骨な大人たちは、最初から本当に優しくて愛に溢れていた。変化したくない、生活を変えたくない…と闘う彼らは、絶滅種の鈍感人間ではないのだ。
「最初から心の中には愛があった。それを表わす方法を知らなかったのだ」というマッチョな男の心の内側を見せてくれたのは、お父さんを演じた吉田鋼太郎さんだった。舞台下手側の席で、吉田さんの得も言われぬ父の背中を見て、「ビリー…」に描かれている愛の本質が見えた。この席を与えてくれたのはミュージカルの神様だ…と子供のように思ってしまった。

大勢の子どもと大人の忍耐強い心、準備のための膨大な時間、作品への愛…日本版『ビリー・エリオット』は稀有の上演だった。英国の痛みを日本人が真剣に演じたことにも大きな価値がある…イタリア人のベルトルッチが『ラスト・エンペラー』を撮ったのと同じで、人間の心の痛みには境界はないのだ。街全体が辛い現実を抱えたまま、男たちがズボンの上からチュチュを履いて登場するラストシーンには「ミュージカルの勝利」を感じた。「泣くのは嫌だ、笑っちゃお!」というポジティヴな反撃、この魔法のような超越性と楽観こそが、ミュージカルの本質だ。冷たい風が吹きすさぶようなストーリーとまぶしい舞台のコントラストに、この作品が生まれた意味を改めて噛み締めた。