小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル(1/11)

2023-01-15 00:11:32 | クラシック音楽
読響とのラフマニノフ2番の3日後にサントリーホールで行われたポゴレリッチのオール・ショパン・リサイタル。この夜もそうだったが、数年前からポゴレリッチのサントリー公演は二階席までほぼ満席になっている。アーティストの根強いファンに加えて、若い年代の聴衆も多い。わざわざ「ポゴレリッチは苦手だから聴かない」という評論家がいるのかいないのか分からないが、21世紀も20年目に入ってポゴレリッチを拒絶するのは、ピカソやマリア・カラスやゴダールを否定するのと同じではないかと思うことがある。それぞれの趣味があるのは仕方ないが、精神の力で自分の芸術性を貫いてきたピアニストに対して、リサイタルも聴かずに懐疑的になるのはつまらないことだ。

「ホールは耐震構造になっており…」の英語のアナウンスをポゴレリッチ自身がやっていた。「エンジョイ・コンサート」の優しい声が、聴衆を迎えるピアニストの粋な心映えを表している。一曲目の「幻想ポロネーズ」は、ポゴレリッチの大きな手が普通は聴こえないようなバス音を鳴らしているのにはっとした。オーケストラのチェロとコントラバスが充実している。相変わらず節回しが独特だが、ショパンの後期作品に特徴的な未来的な和声が強調されて聴こえてくる。作曲家がいかに時代の先端を行っていたか、オペラや交響曲を包括した音楽をピアノ独奏で完成していたかが伝わってきた。ポゴレリッチは、ショパンと一体化して、作曲時の霊感と筆跡を再現しているようでもあった。

ロ短調のピアノ・ソナタ第3番は、想像以上に粘り強いテンポで演奏された。落第生の焼印を押された1980年のショパン・コンクールで弾いたのは葬送ソナタで、グラモフォンからのデビューアルバムに収録されていたのも2番のほうだったが、その後まもなく発表された3番も充分に個性的だった。ラルゴ楽章は瞑想の境地に誘われたが、フィナーレはそれほどエキセントリックではなく、どのアングルから見てもこのピアニストはテクニシャンなのだと唸らずにはいられなかった。

休憩時間のカフェは長蛇の列で、アジアの別の言語も聞こえてくる。ポゴレリッチのファンが遠征してきているのだ。こうした現象はむしろ自然で、アーティストが魅力的だから客はやってくる。ポゴレリッチのピアニズムと一体化した実人生のエピソードは強烈だ。20代前半で40代の教師と結婚し、妻アリスの息子はポゴレリッチと年が近かった。愛妻を失った後のスランプ、精神的危機、そこからの回復には時間もかかり、今でも2005年の異様なリサイタルは忘れられない。そうしたことの全体が、聴衆にとっては学びなのだ。ありきたりではないテンポや強弱についても、それが暗示する無限大の意味について考えずにはいられない。

後半は「幻想曲」「子守歌」「舟歌」と続き、変ニ長調の子守歌から嬰ヘ長調の舟歌へのつなぎ(?)が夢のようだった。子守歌で奏でられた優しい旋律が、舟歌で大きく成長しているという印象を得た。多くのピアニストがショパンの中でも最愛の曲として挙げる「舟歌」は、ポゴレリッチの手にかかるとユニークな裏色が見えてくる。アクセントのつけ方のせいか、打鍵のダイナミズムのせいか、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を思い出す瞬間もあり、これは他のピアニストでは一度も感じたことがない経験だった。
アンコールの嬰ハ短調のプレリュードは、24の前奏曲からはみ出した独自の不安定な転調が続く曲で、トリスタン和音のようなものが気配として感じられた。ある不安に満ちた和音がまず作曲家の脳裏に浮かび、それを次々と転回させていくと、あんな万華鏡のような曲が出来るのではないか。アシュケナージがいつか語ってくれたエピソードを思い出した。『タンホイザー』のパリ初演に当たって、ショパンは「スコアを見たが、和声的には自分の方が先を言っているから聴きにいく必要はない」と語ったという。

ラストのアンコールはノクターン18番で、ポゴレリッチのノクターンといえば16番という頭があったが、彼はこの18番も何度も素晴らしく弾いていたのだった。このノクターンでもワーグナーを思い出すふしがあった。

「子守歌」「舟歌」からのポゴレリッチは、オペラグラスで見るとずっと目を瞑って苦吟するような表情をしていて、聴衆に大きなものを与えようとしている「念」を感じずにはいられなかった。世に名前が出た頃から数々の誤解を受け、狭量な批評も浴びせられてきたポゴレリッチが、不屈の精神で伝えようとしてきたのは、聴衆への変わらぬ愛ではなかったか。アンコールのノクターンで星空のようになったサントリーホールが、温かいもので満たされた。この宇宙は学校で、リサイタルは貴重な授業なのだ。アナウンスでのポゴレリッチの声を思い出し、ピアニストがずっと聴衆とともに生きようとしてきたことを実感した。「我々はここまで来たのだ」と何か嬉しくなった。






























読響×山田和樹×イーヴォ・ポゴレリッチ

2023-01-09 01:59:06 | クラシック音楽
1月に3プログラムを予定されている読響×ヤマカズのロシア・プロの二日目。袖から元気に飛び出してきた山田さんは、客席に向かって新年のあいさつをすると、颯爽とチャイコフスキー「眠りの森の美女」から「ワルツ」を振り始めた。バレエ取材でも何度もピットから流れてくるのを聴いているこの曲が、素晴らしくユニークな音色で聴こえてくるのに驚く。オーケストラが高揚して「うっかり出してしまう裏声」のような明度の高い音だけで作られていて、歓喜の悲鳴のような音の持続がゴージャスなバレエ音楽になっていた。グロッケンシュピールのキラキラした音がスワロフスキークリスタルのように輝く。こんな音楽とともに踊れたら、ダンサーも幸せなのではないか。『眠りの森の美女』はヤンソンスがよくアンコールでやっていたこともしんみりと思い出した。約5分。

楽しみにしていたポゴレリッチとのラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』は想定外の名演だった。20代の頃からポゴレリッチは指揮者泣かせのピアニストで、さまざまな指揮者の自伝で彼の風変りなソロが共演者たちの悩みの種であった様子が書かれている。譜めくりをともなって現れたポゴレリッチは、落ち着いた雰囲気で厳かに冒頭の8つの鐘の音を弾いたが、大きな手で弾く鐘の音は分散和音ではなく、余裕の「全部和音鳴らし」。8つの音が単純にクレシェンドしていくのではなく、ある音ではいったん落ち込み、次の音では強打になるという彼らしい導入部だった。

その後の低音のアルペジオはほぼオーケストラの轟音にかき消されて、オケが「伴奏」としてやろうとしていないことが分かった。ある部分はオケが激しく主張し、ピアノなんか存在しない交響曲のような存在感をあらわす。ポゴレリッチはいつものように、フレーズをいびつに分解して音楽にこびりついた文学性を解体するのだが、その「異化」が厳密な理念によるものなのか、即興的なものなのかは分からない。もちろん理念に裏づいている。が、聴き手には衝動的で気まぐれにも聞こえるときもある。山田さんはポゴレリッチの「奇想」を先読みするかのように、オケからも奇抜な仕草を引き出す。テンポは不整脈のようになり、突然音が大きくなったり沈静化したりする。一楽章の第一主題をオケが引き継いだffのマエストーソの箇所は、野生動物が突然顔を表したような異形のラフマニノフで、今までこの旋律をこんなふうに聴いたことはなかった。長らく細い輪郭線で見ていた絵画が、急に太くはっきりとした輪郭で描かれた「変形」のようだった。

こうした反撃とも相撲ともいえるようなオケのレスポンスは、ポゴレリッチにとっても意表をつくものだっただろう。自分が「理念である」と主張してきた文体を、背景たるオケが即興のように擬態してきたのだから、ソリストとしてはきまりが悪かったはずだし、コンチェルト全体が自分自身になってしまった。指揮者が勝ちでピアニストが負けという話ではないが、こんな奇想天外な賭けに出て、見事に一期一会の名演を完成させてしまう山田さんは「鬼才にもほどがある」と思った。ポゴレリッチをやり込めたのではなく「ポゴレリッチと同じ存在になる」ことで、妥協でも折衷案でもない、コンチェルトの新しい価値を作り出した。3楽章の異様にゆっくりとした始まりも、別の曲のようで、録音で聴いても確実に異様だと思うが、これは世界中の人が聴くべき名演だと確信した。山田さんがポゴレリッチに「なれる」というのも、山田さんの個性のひとつである。

後半のチャイコフスキー『マンフレッド交響曲』(スヴェトラーノフ編)は圧巻で、すべての音がfffで鳴っていたような印象、筆圧が強く、破滅ぎりぎりのロマンティックな表現で、ぴーんと張った緊張感が破滅的カタルシスへと向かっていく。台本となったバイロンの劇詩はゲーテの「ファウスト」に似ていて、チャイコフスキーはオペラのように標題シンフォニーを書き進めていくのだが、悔恨や苦悩をテーマにした音楽には、作曲家自身の罪悪感や無常観も投影されているようで、聴いていると皮膚に色々なものが刺さりこんでくる。
山田さんの指揮には官僚的なところが全くないのだ。21世紀にチャイコフスキーをモダンに振る、軽やかな新解釈で聴かせるなんていうダサいことはしない。全細胞から血が噴き出しているような強烈なチャイコフスキーで、これを書いていたときに作曲家は8年後の無念の死を既に予想していたかのようだ。運命的なものがどんどん迫ってくる。移ろいと幻の1楽章後半は優美で、弦楽セレナーデを彷彿させるが、同時に死や諦観といったものを連想させる。
ラフマニノフは「死の舞踏」の主題に魅了されていたが、チャイコフスキーにも似た痕跡が散見された。想像界を深堀りしていけば、生の領域などみじめなほど小さく、亡霊たちの世界がいかに活き活きとしたものかが実感できる。

フルパワーで全パートから濃厚なサウンドを引き出した最終楽章の途中で、山田さんが指揮台から降りてコンマスの小森谷巧さんのほうへ近づいていったことが、あまりに自然な振舞いに見えて、この瞬間を忘れずにいようと心に決めた。日常で使う小さな心は、巨大な出来事の前では何度も壊れそうになってしまう。自分の心の器が小さいので溢れ出してしまい、結果語彙を探す前に涙や鼻水が出てしまう。チャイコフスキーは人生と創造にあまりに多くの魅惑を求め、それをやすやすと掴んでしまったためにこの世界では長く生きられなかった。
天才的な創造者は皆不整脈を抱えていて、危険を承知で自分に与えられた時間を生きる。
攻め攻めで、一歩も引かない強靭な指揮から、山田さんにトスカニーニの霊が乗り移っているようにも見えた。もちろんリハーサルではトスカニーニとは正反対だった思う。
「世界のヤマカズ」とはこういうことか…と感慨を新たにした今年最初の読響との共演。
真実を掘るには「裏の裏まで読む」ことと「もっとその先の延長線を視界に入れる」ことが大事なのだった。名曲の正体とは、才能をもって生まれてしまった者が付与された巨大な精神不安なのだと認識した。














東京都交響楽団×エリアフ・インバル『第九』(12/25)

2023-01-04 13:23:54 | クラシック音楽
2022年の12月は読響(鈴木優人指揮)、東響(秋山和慶指揮)、東フィル(尾高忠明指揮)の第九を鑑賞。同じ第九でここまで指揮者は異なる世界観を顕せるのかと改めて感動したが、都響とインバルの上野での演奏会には特に強烈な印象を受けた。12月の都響&インバルはブルックナー4番、フランクのニ短調と名演が続いていたが、通底している感情というか衝動というか、指揮者の見ている景色が一貫していることに驚愕した。インバルはこの3つのプログラムでひとつのことを言っているように思えてならなかったのだ。

演奏会は客観的な事象であり、速さ、音量、バランス、編成、クリティカルエディション等々について緻密に論証・計測するのが鑑賞者の絶対義務だとは考えていない。そうした立場は貴重で、むしろ多数派になっている感もあるけれど、鑑賞する位置や鑑賞者の様々な条件はバラバラで、絶対零度の演奏会の真実というのは測るのが困難だと思う。つねに実存に訴えてくるのがクラシック音楽だという確信が自分自身にはあり、インバルはその期待に毎回見事に応えてくれる。「お前が望んでいたのはこういうことだろう」という回答を、オーケストラを通じてぶつけてきてくれる。こういう感触は関係妄想的で狂気すれすれなのかも知れないが、自分にとって答えはひとつしかない。外には正解はなく、自分の中にしかない。

インバルの音楽はすべて言語に感じられる。2022年12月の演奏会は過去にもましてそうだった。ブルックナーの4番は、作曲家の年代記作者の言葉をすべて裏返すような世界で、ブルックナーは信心深い神の僕ではなく、いつでも自分が神になれると信じている万能者として立ち現われた。ラスト近くの奇想天外と思われる打楽器の強打から「今生きて、望んでいる者の強さ」が伝わってきた。神と人とを対等に結ぶインバルの魔法が爆発。クラシック音楽は学問であり、テキストの背景を虱潰しに丸暗記せよ、という強制感に、哄笑を浴びせかけるような、野太く揺るぎなく、自由闊達な意志の顕れだった。

フランクの交響曲は洞察的で、演奏によっては陳腐になりかねない熱血漢なシンフォニーから、情動を超えた「芯」を引き出していた。インバルという飄々とした雰囲気のマエストロが内面に秘めた渇望感、挫折感、寂寥感といったものも裏色に見えた。速さや音量に奇抜な印象は全くないが、フレーズとフレーズの、楽器間のダイアローグが笑ってしまうほど鮮烈で、驚くほど言語的だった。フランクは率直なほど、ベートーヴェンの弁証法的な動機の止揚に倣っており、そこには諧謔やもってまわった洒脱や小細工はない。「神はいるか?」とある小節は問いかける。「いるとも」と次の小節が返す。「本当にか?」「本当だ」「何度でも答える」「君の直観は正しい」ニ長調のフィナーレ楽章は、眩しいほどの祝祭感に溢れ、神的なものを疑わずにはいられない人間の弱さが肯定され、神の意志がそれを包み込み勇気づける対話が描かれた。リハーサルでそんなことは語られていたはずもない。本番の音の衝撃から、神と人との対話が自分に入り込んできた。

クリスマスの第九は、超満員の上野で聴いた。翌日のサントリーも聴きたかったが、完売。短い序曲を前半に置くこともなく、休憩なしの第九が始まった。インバルの背中はますます元気いっぱい。逆にオーケストラが吸い取られているのかも知れない。音楽の始まりは毎回自然体で、日常との地続きのよう。インバルが「ただ生きている」時間から膨大な直観を得ているからだと思う。指揮者はすべての時間を愛している。
インバルの知性は、例えばムーティとは正反対で、ムーティが偉大なる自我から意志的な音楽を発しているのに対し、インバルは自分を囲みこむ世界のすべてから音楽のモティベーションを吸い取っている。地下茎的で放射状の知性で、ジャーナリスティックという言葉では足りない。歴史の中で今がどういう時間なのか、人間は退化と進化のどの方向に進んでいるのか、第六感的なインスピレーションから取材し、直観で正解を導き出していて、もしかするとコンサートでは毎回違うことが行われているのかも知れない。

インバルの時間感覚は円環的で、もしかしたら魂の中に旧約聖書のような記憶を持っているのではないか。
あまりに美しい3楽章には都響の素晴らしさに感謝が止まらなかった。3プログラムともコンサートマスターは矢部達哉さん。スケルツォ楽章から、ブルックナー、フランクと同じ対話が溢れ出した。人間的な迷いに対して、神の側から「望むなら力を与える!」と親愛の情をぶつけてくる。「本当に生きたいのなら、神の一部になっていい」というはっきりとした言語が伝わってきて、それは難聴が進んでいた作曲家が五線譜に向かっているときに聞いた言葉ではないかと思った。遺書を破り捨てて生きようと思った一人の人間の実存が、すべての響きに刻印されていた。バリトンソロの妻屋さんの最初の声が響き渡ったときは、心臓が止まるかと思った。
 ブルックナーもフランクもベートーヴェンも率直な音楽であり、神的なものと人間的なものがイコールで結ばれ、自由で未来的で、生きるための新鮮なパワーが溢れ出していた。いずれの公演もマエストロのソロカーテンコールがあり、ブルックナーのときは照れ臭そうに出てきたインバルは、第九の日には「すべてに感謝する」という、神のような人間のような表情だった。作曲家が地上に落とそうとしていた雷を、インバルというアンテナが受け取った。見事な12月の都響だった。