小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ミシェル・プラッソン 日本ラストコンサート(8/15)

2024-08-18 22:31:46 | クラシック音楽
オペラシティで二日間行われたミシェル・プラッソンの日本ラストコンサートの最終日を聴く。客層がいつもと違っていて、夏休みの親子連れが多かったが、子供無料で保護者半額というチケットの料金設定だったらしく、ジャーナリストには案内が少なかったのか、当日券を購入して入った。「東京二期会プレミアムコンサート2024」としての上演で、過去に共演したマエストロのさよなら公演を二期会のソリストと合唱が協力して行うというのは心温まる。

1933年10月生まれのプラッソン氏は90歳。白いジャケットを着たマエストロはにこやかに微笑んで指揮台に上がった。椅子が用意されていたが、ラヴェル『マ・メール・ロワ』の最初の二曲は立って指揮をしていた。「眠れる森の美女のパヴァーヌ」はゆっくり、ゆっくりと進む。オペラシティの一階席はステージを見上げるような姿勢で聴くことになるが、奥にいる東フィルの管楽器が見えないのが残念だった。視界に入る弦楽器のプレイヤーは凄い集中力でマエストロの心に寄り添っていて、「眠れる森…」は何かをまくしたてるのと反対の、澱みながら思い出しながら大切な何かを語るようなフレージングだった。ひとつひとつの音が貴重な糸のようで、丁寧に編み込まれていく絹のサウンドに感じられる。「親指小僧」では木管が「そのとき偶然に鳴った鳥の声」のような音を出す。自分が下手なピアノで弾くときはうっかり「これは音譜です」みたいな無骨な音を出してしまうが、オーケストラには無味乾燥な音などひとつもなく、全体が自然界の相似形で、深海か深い森の中にいるような心地になってくる。
東洋風の「パゴダの女王レドロネット」は、お香のようないい香りがするような音楽で、エキゾティックなバレエの一幕や、プッチーニの『トゥーランドット』の紫禁城のようなヴィジョンが見えてくる。最後の「美女と野獣の対話」では、巨大な日没のパノラマが拡がり、オーケストラが表す色彩やら香りやら記憶やら「すべての懐かしいこと」に溺れる感覚があり、なぜか涙で喉が詰まってしまった。

ラヴェル『ダフニスとクロエ』第2組曲は、第1曲「夜明け」から痺れるような宇宙的な響き。フランス音楽にはこの世界に存在する美しいものすべてが詰まっていると思わずにはいられない。二期会合唱団の神秘的な歌声が複雑で豊かな音のうねりを創り出す。この曲でも東フィルの表情が本当に素晴らしく、全身全霊でマエストロの精神をくみ取ろうとしているのがわかる。
マエストロの優しさや「有終の美」のようなイメージが吹き飛んだのは第3曲『全員の踊り』で、獰猛なほど激しいfffがラヴェルの狂気を炙り出してきた。古代という時間への憧憬、人間が今よりももっと原始的な力に溢れていた頃の野生が、驚くような生々しい音楽となってホールに吹き荒れた。年を重ねたから何かが穏やかになったとか、強靭さが失われたということでは全くないのだ。プラッソンの中の炎がオケに飛び火して、火傷しそうなほどホットなダフニスだった。

フランス音楽の真髄といえば、先日デュトワと新日本フィルの見事な共演を聴いたばかり。読響とカンブルランの10年間にもフランス音楽の豊饒さに驚き続けたし、ライヴで聴いた回数は少ないが日本の矢崎彦太郎先生の指揮には本物のフランス音楽のエッセンスが渦巻いていると感じる。その中でも90歳のプラッソンの「フランスの美学」は巨塔のようだ。この日『マ・メール・ロワ』を初めて聴いた子供たちにとっては楽しい音楽。同時に自分にとっては今まで聴いたこともない、この先も聴くことができないかも知れない『マ・メール・ロワ』だった。

オーケストラを聴くのに、無駄にささくれ立った心になっていた自分にとって、素晴らしい癒しの時間でもあった。フォーレの『レクイエム』を8/15の日本で聴くというのは特別な感覚をともなう。一曲ずつ、光の扉が開いていく鎮魂歌で、フォーレは母の死を悼みながら「きっと魂はよきところへ行く」と信じて作曲したのだと思った。昔リヨンの教会で観た見事な彫刻を思い出す。プラッソンの『レクエイム』はマリアやイエスや天使たちの塑像が、触覚的に感じられる音で、イタリアのリアルなバロック彫刻とも違う優美さをともなっている。二期会合唱団は「ダフニスとクロエ」とは全く別の質感の声を出していて、その引き出しの多さにも感心した。「オッフェルトリウム」「リベラ・メ」では小森輝彦さんが、「ピエ・イエズ」では大村博美さんがソロを歌われ、先日蝶々さんを歌われたばかりの大村さんが、透明で形而上学的なフォーレを聴かせたのは見事だった。

アンコールはフォーレの『ラシーヌ讃歌』で、こんなにも貴重な贈り物を得た後は、聴衆もなかなかマエストロを帰そうとしない。一度さわやかに舞台を去ったプラッソン氏は、長い長い喝采に引き戻されて再びステージの中央に現れた。心からの笑顔と、胸にハートを抱くようなポーズで聴衆に感謝の念を示す。そのときはもう、フランスとか日本とか、そんなことはどうでもよくなった。魂と魂は近づくためにある。天界のようなフェアウェルコンサート。マエストロにとってこの酷暑の2024年の東京が、よき思い出になってくれたことを願うばかり。















都響×ダニエル・ハーディング(8/9)

2024-08-10 19:14:35 | クラシック音楽
都響とハーディングの待ち望まれた初共演は二日間とも完売。満員のサントリーホールでベルク『7つの初期の歌』とマーラー『交響曲第1番《巨人》』を聴く。何から語ったらいいのか。ハーディングは音楽ライターとしての自分に、永遠の夏休みを与えてくれたという意味で、神のような指揮者である。本人とは話したことはないが、2016年のパリ管来日公演でハーディングが指揮したマーラー5番に「恐怖を感じる」という感想を書き、炎上した。そこから8年の日々。ハーディングが振るマーラーは、私の運命を変えたと思う。
都響の感想の前に、そのあらましを書いてみたい。

2016年秋、パリ管のシェフに就任したばかりのハーディングがオケを率いて振ったマラ5は、直観的に自分に被害者(!)の意識を感じさせるもので、当時もうまく言葉に出来なかったと思うが、内容としては印刷された楽譜を完璧に、迫力をもって再現していた。2016年当時、今よりは多忙な音楽ライターだった自分は、記者懇親会で同席する評論家やSNS上のクラシックファンから「頭の悪いお前にクラシックは語らせまい」というお叱りを立て続けに受け、元々頭脳派でもないので自分なりの批評の軸を必死に探していた。
ハーディングの超理路整然とした指揮と、そこで一致団結したパリのエリートたちの演奏は、「やはり自分には相容れない世界なのか」と打ちのめしてくる音楽で、最終楽章は「ワーテルローの戦い」のような戦争画を想像した。

その同じ年には、新日本フィルとの最後の共演があった。それもマーラーだった。指揮者なら光栄であるはずの《千人》のリハーサルにハーディングが現れず、声楽ソリストの一人から「ハーディングから色々学ぶのを楽しみにしていたが、本人がいない。23歳のアシスタントでは何とも頼りない」とメールが来た。ウィーン・フィルでのガッティの代役を優先したハーディングの気持ちも分かる。傷ついたのは、サントリーホールの公演でほとんどリハをしていないハーディングが、本番で見事な手旗信号をこなしたことだった。すみだの2回の本番は実質ゲネプロで、最後のサントリーだけが本番、という声もあった。
「それなのに完璧に振っているように見える」ことが自分にはショックだった。
本物のエリートで、本物の天才だと思った。

パリ管の来日は件の《千人》の後で、マーラーはBプログラム。Aプログラムでは感じなかった激しい拒絶感がマラ5に走った。マーラーのボヘミア性や男性としての脆弱性を完全に抜き去った「推進力」に満ちたヒロイックな指揮に、世界で最も優秀なオケのひとつであるパリ管が一致団結して応えている。その様子に、違和感がこみ上げた。咄嗟に思い出したのは2015年に起こったシャルリー・エブド襲撃テロだった。イスラム教徒と指導者を戯画化する大衆誌シャルリー・エブドの編集部が襲撃され、多くの死者が出、パリ中が震えた。エキゾチックなものや異教的なもの、マイナーな他者に対して理解を遮断すると、どういうことになるのかということを考えさせる事件だった。

混乱した頭で、しかし自分なりにある程度の節度をもって「パリ管のようなエリート集団にこのような演奏をさせるのは危険だ」という感想を書いた。「軍隊的で白人優位的で、ハーディングの音楽からはマーラーの精神が感じられぬ」とも書いた。このマーラーからはパリのテロのような、異質なもの・少数派の立場にいる者への不寛容からくる暴力事件の萌芽を感じたのだ。それを読んだパリ在住の読者から「パリに住んでいる者としてそのような感想はわれわれの恐怖を煽る。取り消せ」と怒りのメッセージが届き、慌てて謝罪すると、当時のパリ管のセカンド・トップの千々岩さんから「感じたままをお書きになったらいいと思いますよ」と、皮肉とも励ましともつかぬリプライをいただいた。

炎上の後、音楽ライターとしては踏んだり蹴ったりで、新日フィル時代からのハーディングのファンからは唾を吐かれるような態度を取られ、仲良くしていた「オーケストラファン」とも次第に険悪になり、当たり前のように受けていたライナーノーツやインタビューの仕事も激減していった。ハーディングの音楽から感じた恐怖を綴っただけのつもりだったが…永遠の夏休みのような仕事の少ない時間は、「これが今の自分の評論への世界からの答えなのだ」と感じさせるに十分だった。他にも色々書き手として不備な点はあったと思うが、すべては2016年のあの炎上から始まった。

「好きでないのなら、聴きにいかなければいい」と先輩の評論家から諭された。しかし、この仕事をしていてパリ管や都響を聴きたくないわけがない。今年に入ってから、都響は雲の上にいるような凄い演奏を立て続けに聴かせてくれた。アダムズ、インバル、フルシャ、ギルバート…ギルバートの感動的なコンサートからわずかな日しか経っていない。アラン・ギルバートは桁外れの指揮者で、オーケストラのサウンドの「粒子」まで変えてしまう。同時期に聴いたノットが色褪せた。ノットは情熱的でカリスマティックだが、平面的で活劇的な音楽を鳴らしていると感じることがある。

前半のベルクは世紀末の退廃感漂う妖艶な曲で、エメラルド色のドレスを着て登場したソプラノのニカ・ゴリッチは美しく、美声。最初は少し伸びやかさが足りないと感じたが、2曲目から羽根の生えたようなめざましい高音で魅了してきた。R・シュトラウスの「4つの最後の歌」を連想したが、ベルクのこの曲は耳に新鮮で、これなら後半も大丈夫だと思った。

マーラーの1番は魔法のような音楽だと思う。きらびやかで面白く、金管の立奏はいかにもエンターテイメント的だ。
始まって間もなくして、「クリスマスツリーのようなマーラーだ」と思った。強弱やソロの抑揚にこだわり抜いた指揮は、それらの部品が全体としての塊にならないまま、次々と虚空へ消えていく。都響のプレイヤーは見事なのだ。毎秒毎秒行われていることは素晴らしい。しかし、表面を飾り立てられたサウンドは「マーラーは何者か」ということも「指揮者がマーラーをどういう人物としてとらえているか」も伝えてこない。自分は過去に色々ありすぎて、ハーディングの音楽に偏見があるのではないか? と新しい耳で聴こうと努力する。都響は精緻でデラックスな音を出していたと思う。

なぜか突然、2013年のスカラ座来日公演でハーディングがヴェルディの『ファルスタッフ』を振ったときのことを思い出した。もうひとつの演目は『リゴレット』で、こちらはなぜかドゥダメルが指揮をした。『ファルスタッフ』はある意味、ドリブル、パス、シュート、的な運動神経が求められるオペラだから(もちろんそれだけではないが)、ハーディングによく合っていた。目の前の指揮者のきびきびした動きに、電気信号的なものを感じる。「指揮」と「操縦」はどこか似ている。ハーディングが指揮者をやめてエールフランスに就職した「パイロット」であることは、もうなかったことになっているのだろうか。

指揮者に誠実さを見せつつ、2016年のパリ管のように「一致団結して燃え上がる」ことを最後までしなかった都響に、何か信頼感みたいなものを感じた。オーケストラと指揮者との間にあるデリケートなものがあるのだ。ある奏者は「見事な指揮だ」と思い、別の奏者は「そうでもない」と思ったのかも知れない。インバルやギルバートのときと、何が違うのか理屈で説明してみろ、と言われたら「オケの心からひとつになるか否か」と答えたいが、これは「科学的に説明」できない。

個人的に、英国の指揮者に苦手な人が多いのかも知れない。ラトルもさっぱり理解できなかった。どんなにフレンドリーでも、階級社会のエリートとしての限界が見える。才能があれば、社会的に「指揮者」という玉座が、当たり前のように用意されている。我が国指揮者の秋山さん、小泉さん、尾高さんは侍の精神で心を研ぎ澄まして指揮者になった人々で、そういう方たちの音楽には当然、凄味がある。
オーケストラを聴き続けてきて、喜びも多かったが「あまりにも苦しめられたわ!」と果物ナイフを振り上げるトスカのような気持ちになることもある。音楽も人の生き方も、表面を飾っただけの代物は信じられない。



「ワーテルローの戦い」