小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

コンヴィチュニーの『影のない女』

2024-10-27 11:41:55 | オペラ
二期会のペーター・コンヴィチュニー演出『影のない女』(ボン歌劇場との共同制作)の上演が連日熱い議論を呼んでいる。事前に「皆さんは死んだオペラを観ている」といったコンヴィチュニーの発言の一部が非難され、カーテンコールの映像では初日から激しいブーイングが飛んだ様子。プロの歌手や批評家からも、主に3幕の大幅カットについて批判が起こり、その他にもしかじかの性的表現や、歌詞や設定への変更が一種のアレルギー的な反応を引き起こしていた。

Bキャストのゲネプロを見たとき、最初は何が語られているのか分からなかった。前回このオペラを観たのは2011年のマリインスキー劇場の来日公演で、指揮はゲルギエフ、演出はジョナサン・ケントで、同じプロダクションを2010年にサンクトペテルブルクの白夜祭でも観ていた。霊界のカップルと地上のカップルが交差する幻想的な物語という印象だったが、コンヴィチュニー版ではバラクはそもそも染物屋でもないし、皇后と乳母は清掃スタッフの恰好をして現実に舞い降りる。皇帝はギャングのボスで、たくさんのシーンでピストルの暴発が起こる。
ゲネプロでは前半の100分がチンプンカンプンで、後半の45分で急に色々なことが覚醒した。皇后の腹から取り出された嬰児が「アナタノ子供ダヨー! ドウカ死ナセテ! モウタクサン!」と語り出す場面で、頭が真っ白になった。観る人によっては由々しい印象を得たかも知れない。この世界に生まれてくることが、子供にとって幸せなのか? ガザ地区やウクライナで殺されたり手足を失ったりしている小さな子供たちを思い出し、何よりいい年をしてこの世に存在している実感が湧かない自分のことを思った。

コンヴィチュニーの精神の内奥には、癒し難い厭世観があると思う。プログラムではドラマトゥルクのべッティーナ・バルツの長大なコンセプトが掲載されているが、そうしたアイデアに反応してしまうコンヴィチュニーは、「生存している」という当たり前のことに暗い気持ちを抱いているからなのではないか。今まで観てきたオペラにもそれを感じた。
R・シュトラウスが『影のない女』を完成させたのは1919年で、最初の世界大戦が始まった5年後で、その後の20世紀は戦争の時代となり、「産めよ増やせよ」の富国強兵のスローガンが欧州にも蔓延した。「女はまるで軍用道路!」と叫ぶ妻。それまで対立していたバラクとその妻が、急に和解する3幕が大幅にカットされたが、劇中最も甘美で豊饒な部分を「抜いた」ことに大きな意味がある。作品を愛する人々にとっては多大なフラストレーションだが、演出家はそこに嘘があると確信し、メスを入れた。

版権が切れているのだから、演出家は自由にカットする権利がある。一方で「オペラはみんなのもの」だから勝手なことはするな、という一般論がある。演出家は劇場と外の世界を交流させ、人間全体の意識を覚醒させたいと思っているが、一部の(多くの?)鑑賞者はそれを「要らない」という。このままではコンヴィチュニーが時代錯誤のエゴイストになってしまう。そんなことはあってはならないと思う。

本公演は26日の初日キャストを10列目で観た。ゲネは一階の最後列で観たので、その景色はずいぶん違っていた。本番3回目で上演として円熟していたということもあったが、間近で見る歌手たちが、愛と生命と性の本質を、暴力ぎりぎりになる局面も含めて真剣に演じていて、困難なはずの歌唱も全くそれを感じさせず、演劇的な迫力だけが横溢していたのが驚異だった。
女性歌手たちが特に凄い。バラクの妻の板波利加さんはコンヴィチュニーの愛弟子といっていいほどの歌手で、皇后の冨平安希子さんは2018年のコンヴィチュニー版『魔弾の射手』で好演し、乳母の藤井麻美さんは今回が初めてのコンヴィチュニー作品となる。その3人が、演出家の巨大な愛を受け取り、無限の可能性を舞台で花開かせ、嘘のない女性像を表現した。皇后はバラクとの性交を暗示させる長いシーンを演じなければならず、露骨ではないが大変な精神力を要すると思われた。個人的には最も素晴らしい場面だと胸打たれた。

最後列で観ていたものをステージ近くで観て印象が変わったことは、オペラ全体に精神的に近づく必然を感じさせた。バックステージツアーにも参加したが、ボンで制作された装置はハイテクで美しく、照明も回転する床も最新の機構が使われている。あの清潔なラボやカウンセリングルーム、夜景レストランの美術について、ほとんど指摘されないのが不思議である。装置の贅沢さには見るべきものがある。
近くに寄らないと見えないものがあるのに、見ようとしないのは何故なのか。性的表現も、自分自身に近づいて考えてみれば、拒絶反応以外の何かが起こるはず。バックステージツアーの後には、コンヴィチュニーによる『コジ・ファン・トゥッテ』のマスタークラスも見学した。2時間の間に若い歌手たちが驚くべき成長を遂げていた。演出家は真の天才であり、そのインスピレーションはエゴを超えた人間全体の洞察から来ていると確信した。

これだけ炎上してしまっては、もはや演出家を賞賛することは盲目的信奉者と同一視されかねないが、視野を広げれば、そもそもこうした刺激的上演を日本で観られるということ自体が凄いのである。あの巨大な装置は今日の夕刻には全部撤収され、ボンに送り返されてしまう(ほとんどの装置はボンで制作されていた)。跡形もなく消え去ってしまうあの世界が、まもなく虹のように感じられる。

アレホ・ペレスと東響の音楽は驚異的で、ペレスは演劇に寄り添った音楽を積極的に作り、ノットとの『サロメ』や『エレクトラ』が素晴らしかった東響も神業的なサウンドを聴かせた。歌手たちは全員エンジンを唸らせて、オーケストラと一心同体になっていた。

人間はショックなことが起こらないと眠ったままでいる、と言ったのはベジャールだった。眠ったままでいいはずがない。揺り起こそうとするコンヴィチュニーに「嫌だ!」とブーイングした観客まで、演出家が予測したアートの一部だったのかも知れない。黙示録的な上演だった。







新国立劇場『夢遊病の女』(10/6)

2024-10-11 20:00:18 | オペラ
3か月前(!)の『トスカ』の大成功で結束感を増したマウリツィオ・ベニーニと東フィルがピットに入った『夢遊病の女』。ベルカントの王子アントニーノ・シラグーザが久々の新国再登場で、主役のアミーナを歌うクラウディア・ムスキオも若手の実力派として頭角を表している新星ソプラノと期待は高まる。ムスキオは2017年デビューとプロフィールにあるから、20代後半か30代前半くらいだろうか? アミーナの恋敵リーザを伊藤晴さんが、リーザに恋するアレッシオを近藤圭さんが、村の領主ロドルフォ伯爵を妻屋秀和さんが演じた。

バルバラ・リュックの演出は10名ほどのダンサーが冒頭から活躍する独特の構成で、音楽が始まる前にも灰色のダンサーたちが不穏なジェスチャーでアミーナを取り囲み、彼女が顕在意識ではコントロールできない「悪霊のようなもの」に囚われている様子を表現した(音楽がなかなか始まらないので少し不安になる)。合唱は中世ヨーロッパの村人のようなコスチュームで、アミーナとエルヴィーノの結婚も、しかじかの出来事も、すべて村人たちの衆人環視のもとで行われる。恋人を取られたリーザは苛立ちながらアミーナへの嫉妬を隠せず、ベルカントの殿堂・藤原歌劇団のプリマドンナ、伊藤晴さんが堂々として華やかなアリア「皆が喜んでいるのに私だけは」を歌った。

ゲネプロと本番を見て、美術と照明がとても美しいことに気づいた。ひなびたポプラのような木に、案山子じみた男女のボロ人形がぶら下がっていて、何か結婚を揶揄しているようでもある。殺風景な村の景色がライティングによってカラーになったりモノクロになったりするのが魔法に見えた。白いドレスのアミーナには灰色ダンサーたちが背後霊のようにつきまとっていて、歌手は始終身体を触られたり密着したりするので拒絶感がないか心配していたが、アミーナ役のムスキオはバレリーナとしての訓練を積んだ人で、この演出には積極的だったという。こういうこともオペラの幸運のひとつである。

妻屋さん演じるロドルフォ伯爵は、野外での入浴姿も披露し(!)ドン・ジョヴァンニかマントヴァかという色男に最初見えたが、話が進むにつれて良識的で博識(夢遊病とはなんぞやということも知っている)な人物であることが明らかになる。ベッリーニのこのオペラを観ること自体久しぶりだったので、物語中で本当の悪役は一人もいないことに後から気づいてはっとした。アミーナを憎く思うリーザでさえ、常識的な羞恥心と罪悪感を持っている。後半で正義感を発揮するアミーナの養母テレーザ(谷口睦美さん)も凛々しいほどに、「善なるもの」を信じていて、リーザを咎めアミーナをかばう場面は素晴らしい存在感だった。

シラグーザのエルヴィーノはどの場面も名人芸で、なんと安々と歌い上げるのだろうと惚れ惚れしたが、アジリタの音譜ひとつ外さない節回しと、神業のような高音には「プロとしてのド根性」を感じずにはいられない。ふだんはスキンヘッドだが、ヘアメイクでは自然なショートヘアで、本当に生えているように見えた。リーザと伯爵の不義を疑って、嫉妬に苦しめられるときの歌唱は迫力がありすぎて「なんという真実味」と驚かされた。

ピットのベニーニは、先日のプッチーニと全く違うことをやっていた。作曲家が違うのだから当然なのだが、余白の中で歌手の歌だけが空間を埋める箇所では、魔法のように舞台の上の登場人物に「息を与えて」いた。歌手たちはベニーニのもとで、どれほど安心して歌えていたことだろう。様式が違うと、棒の使い方も全く変わる。ベルカントには別のテクニックが要るのだ。ベニーニはオペラをどれくらい真剣に学んだ人なんだろう…と、マエストロの背中を見ながら刻苦勉励の青春時代を想像した。物凄く熱心な指揮者の卵だったはず。ベッリーニを振るベニーニの姿がしばらく脳裏に焼き付いたままだった。東フィルとは今作でも完璧な協調体制をキープしていた。

シラグーザのエルヴィーノが恐ろしい嫉妬のベルカントを歌い上げると、その解答のようにムスキオのアミーナは天上的なソプラノで返してきた。あの最後のシーンの、今にも落っこちてきそうな屋根の軒下で歌うアリアは、「ベルカントの高音の美」を即物的に表したものなのだろうか。高さはどれくらいあるのか…高所恐怖症の歌手は歌えない演出。そこでのムスキオは教会の祭壇の上のマリア像のようで、夢遊病という病が聖なる者の証であるかのように、村人たちは彼女を仰ぎ見るのである。

人間が「無意識」の存在を知ることになったのは、黙読できる能力を身に着けてからのことで、昔の人々は音読しか出来なかったため、ヨーロッパの古い図書館には閲覧者たちの「声が聴こえないように」ひとつひとつ厚い仕切りがついていたという。松岡正剛さんの本に書いてあった。この村人たちは恐らく本を読むことも叶わず(ドニゼッティの『愛の妙薬』のアディーナは本を読める特権的な存在)、無意識という領域があることすらも知らない。覚醒した意識とは別のものに操られて高い所にいる娘は、さぞ不思議な存在だっただろう。この演出では、「夢遊病」という不可思議な病が娘の聖性と結びついていて、彼女の純潔は証明されるが、それ以上の尊さを最終的にまとうのである。

色々な共演者とベルカントを歌ってきたシラグーザが、カーテンコールで「君は本当に最高!」とムスキオを抱き上げていたのが印象的だった。ベニーニもいよいよ若返って、フレンドリーな雰囲気で舞台に上がってきた。合唱の村人たちは、しばらくさっきまでアミーナのいた場所を呆然と眺め、合唱指揮者の三澤さんが現れてようやく客席側を向いた。ベルカントオペラの凄味と音楽家たちの奇跡を目の当たりにした公演。あと二回上演されます。



全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』(9/23)

2024-09-25 15:37:49 | オペラ
2024年度全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』を東京芸術劇場で鑑賞。このシリーズの名作『フィガロの結婚』(野田版)でも指揮をされていた井上道義さんが甘美で壮大なプッチーニを振った。今年いっぱいで指揮者を引退される道義先生の最後のオペラで、オーケストラは読響。大好きなボエームが、改めて「超」名作であることに驚き、先日からムーティ『アッティラ』ミョンフン『マクベス』とヴェルディの偉大さに触れる機会が続いていただけに、それとはまったく別のプッチーニの崇高さというものに圧倒された。

1幕のボヘミアンたちの屋根裏での大騒ぎは楽しく、ロドルフォ工藤和真さん、マルチェッロ池内響さん、コッリーネ・スタニスラフ・ヴォロビョフさん、ショナール高橋洋介さんが1830年代のパリの若者たちを演じ、池内マルチェッロは画家の藤田嗣治と同じ風貌をしている。ヘアメイクの効果とはいえ写真のフジタとそっくり過ぎて、ついつい目で追ってしまう。家賃を取り立てに来る大家ベノアは晴雅彦さんで、大きなワイン瓶のオブジェとともに若い衆と喧々諤々やる様子が楽しい。オーケストラは次から次へとやってくるシークエンスを畳み込むように積み重ね、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』を思い出した。プッチーニはストラヴィンスキーより24歳年上だからその感覚は奇妙なのだが、オーケストラは明らかにイタリアオペラの枠をはみ出して、ワーグナーやチャイコフスキーに比肩する壮大さを表している。二階のかなり後ろの席だったのでピットのすべてが見えたが、詰め詰めに並んだ管楽器が壮観だった。

ミミのルザン・マンタシャンはアルメニア出身で、今年に入って英国ロイヤルオペラやウィーン国立歌劇場でデビューを飾った新星ソプラノ。はっとしたのは、ロドルフォから蠟燭の火をもらって部屋を出て行こうとし、踵を返してくるときのミミがとても上品だったことで、オーケストラも「優しくて繊細なミミ」をサポートしていた。ここで妙に「ケモノっぽくなるミミ」を何人も見てきて、「鍵をなくした」というのも口実なので確かにうそをついているのだが、過剰にメスっぽくなっては観る側も興ざめになる。
ミミはプッチーニのオペラの中で最も美しい女性で、それは作曲家のノスタルジーの中にいるヒロインで、遠い憧れであり喪失であり、ダンテのベアトリーチェのような理想化された存在なのではないか。プッチーニはミラノ音楽院で学んでいた貧乏学生だった頃の自分を思い出してボエームを書いたという。ミミは寒い部屋の中にともる蠟燭の灯のような女性で、守ってあげたくても守ってあげられない風前の灯火のような儚い存在なのだ。

ロドルフォの「冷たい手を」は引き延ばされたようなスローテンポで、先程まで男同士の馬鹿騒ぎをしていた若者が別人みたいになり、心はすっかり夢の世界に入り込んでいる。歌手にとってはハードなテンポかと思われたが、工藤和真さんは勇敢に歌い切り、ハイCも見事だった。続く「私の名はミミ」もソプラノはゆっくりゆっくり歌う。道義先生にとってこのシーンはこうなのか…と胸が熱くなった。愛の思い出のすべてがオーケストラの夢幻のサウンドになり、二人が静かに袖に消えていく二重唱は、眠りの中へと溶け込んでいくような感じがした。

全国共同制作オペラは毎回アウトローな(?)演出家を起用する伝統があり「奇抜なことをやってこそ」という懐の深さがかなりスリリングな域にまで達していたプロダクションも観せてもらったが、2018年の『ドン・ジョヴァンニ』の演出も手掛けた森山開次さんは、ダンサーや道化を使いながらも逸脱的なことはやらず、結果的に指揮者がリードするプッチーニとなった。ストーリー作りは完全に指揮者が行い、登場人物の性格も指揮者が作っていた。一幕の屋根裏部屋から二幕のカフェモミュスへの場面転換は道化が面白おかしいジェスチャーをし、その背後でカフェの舞台が作られていくというもので、意図的なのかも知れないが、かなり長く感じられた。セッティングが終わると、クリスマスの楽しいシーンが始まる。
今回道義先生は字幕も担当しているが「ムゼッタのワルツ」はかなりぶっ飛んでいて、大笑い。その後も「えっ?」というような字幕がたくさん出てきた。イローナ・レヴォルスカヤが妖艶でコケティッシュなムゼッタを好演。ムゼッタと藤田似のマルチェッロは妙に絵になるカップルで、藤田がパリではモテモテでモデルの西洋女性の柔肌をオリジナルの顔料で表現し、作品が高く売れていたことなども思い出した。世田谷ジュニア合唱団は全員黒猫のコスチュームを着て、元気いっぱい。まだ小さい方もいて、カーテンコールでマリンバのように背丈の順に並ぶ様子も可愛らしかった。

3幕の音楽の美しさは衝撃的だった。ほとんど宗教音楽の美で、隠者のような装束の女声コーラスがレクイエムのような歌を歌い、オーケストラも聖なる響きを奏で、ここではマスカーニを思い出した。マスカーニはプッチーニより少しだけ早く出世したが、音楽が一番素晴らしいのは『カヴァレリア・ルスティカーナ』で、ボエームの3幕はカヴァレリア…を彷彿とさせる。貧しさゆえに別れを決意し、それでも春までは一緒にいようと歌うカップルの重唱が、ミサ曲のようなのだ。ムゼッタのけたたましい声とマルチェッロの罵声がその静けさを切り裂くが、そうでもしないとオペラにならないのだろう。3幕の最初と最後の「ズッ、チャッ」という二音も異化効果っぽい。

ミミが息絶える4幕は伏線となっていたライトモティーフが溢れ出し、客席の涙腺も大いに緩むが、「プッチーニは泣かせるから通俗的」なのではなく、音楽的には3幕の聖なる余韻が4幕につながっている。小さな恋愛物語のようで、「海よりも深くて果てしない(ミミ)」宇宙的な愛のオペラで、ミミは完璧な聖女となって天に召されていく。原作のミミは狡猾なところもあるというが、プッチーニの音楽には描かれていない。現代的な意識をもつ歌手の中には「ミミは死ぬから好きじゃない」という人もいて、それはそれで納得がいく。極度に理想化された女性を女自身はどう歌ったらいいのか、ということなのだろう。死相が現れている女性に「朝焼けのようにきれいだ」と言うのは、愛を美化しているからで、現実ではない。そんなことを問うのはナンセンスだ。指揮者とオーケストラがプッチーニの憧れと郷愁を炙り出し、女性という至上の存在を浮き上がらせた。「道義先生にとって、女性とは女神のような存在だったのだ」と同時に納得し、ここまでオペラで女神を表せるマエストロは凄い、と腰が抜けた。読響も本当に素晴らしい。世界中のどの歌劇場オーケストラより凄いと確信した。

ボエームはセピア色の恋で、過ぎ去りし日の一枚の写真のような恋。若い頃の記憶は最近の出来事より鮮明なのは何故だろうといつも不思議に思う。20年前や30年前のことが、昨日のように思い出される。そうした時間感覚の不思議を味わわせてくれるプッチーニという人についても考えてしまった。時間をつかさどるクロノス神は山羊座の守護神で、プッチーニも道義先生もそういえば山羊座…オペラの幕引きを迎えたマエストロの背中を見て「それじゃあもう本当に、終わりなんだね」とというロドルフォの歌詞が重なった。
全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』はこの後全国6か所を回る。



東京二期会『コジ・ファン・トゥッテ』(9/5)

2024-09-07 06:46:54 | オペラ
9/5に初日が開けた二期会の『コジ・ファン・トゥッテ』がすごい人気。シャンゼリゼ劇場、カーン劇場、パシフィック・オペラ・ヴィクトリアとの共同制作で、既にシャンゼリゼ劇場では初演が行われ、世界で最も忙しい演出家のひとりであるロラン・ペリーが8月から二期会の歌手たちに稽古をつけていた。フィオルディリージとドラベッラ、グリエルモとフェランドは現実の歌手として登場し、実際に1950年代にベルリンに存在したというレコーディング・スタジオを模したというセットで劇が始まった。

ロラン・ペリーという演出家は簡単にヒューマニズムなどと言わないクールな策士で、薄氷を踏みながら次々と新しいアイデアを創り出している演劇人というイメージ。今回は最高過ぎた。レコーディングスタジオの舞台は完璧で(チームを組んでいるシャンタル・トマが今回も冴えた装置デザイン)、そこにレトロな色彩感のブルーとグリーンの服を着たフィオルディリージ(種谷典子さん)とドラベッラ(藤井麻美さん)がソファに座りながら何やら発声練習や顔の筋肉ほぐしをしている。歌手の日常を観察している演出家の面白い芝居づけ。グリエルモ(宮下嘉彦さん)とフェランド(糸賀修平さん)も歌手という設定。50代くらいの男性として描かれるドン・アルフォンソ(河野鉄平さん)は百戦錬磨の音楽プロデューサーといった雰囲気。

あらすじでは、グリエルモとフェランドは女性たちの変わらぬ愛を試すために戦場へと出向くが、この現代劇の設定では一体どういうことになるのかとドキドキしていたら、男たちは普通に荷物をまとめてスタジオを出ていき、変装して戻って来る。演出のアイデアとしては力業というか、大変人を食っているが、「アルバニアの貴族」に変装した二人は白塗り化粧に黒装束の宮廷服で、モーツァルトの時代の御大臣みたいな姿なのだ。音楽も彼らの自己紹介の件は、時代を逆行したような古めかしいムードになる。こんな奇妙な男たちを女性たちは愛するとは思えないが、ペリーの魔法で劇はどんどん妖しい方向へ向かっていく。

若いキャストが集まった初日ははじけるような声の応戦で、ドラベッラ藤井さんの実力は既に知っていたが、フィオルディリージ種谷さんは正直ノーマークだったので、こんな凄い若手が二期会にいたのかと驚いた。高音が輝かしく、透明感があり、どんなに芝居が激昂しても声の上品さが失われない。誘惑に負けんとする長女が歌う14番のアリアでは、歌う場所を変えるたびに上からマイクが垂れ下がってくるという面白い仕掛けがあったが、歌手の真剣な表現は、この年頃の女性にとって「愛するということ」が生物学的にどれほど重要で自分の命を左右するということかを伝えてきた。後半でも長丁場のロンドでフィオルディリージは嵐のような心の動揺を歌うが、舞台上ではあらゆるドアに鍵がかかっていて、物理的にも感情的にも逃げ場がないという設定だった。

こうした追い詰められた女性の悲劇的相貌は、演出のもうひとつの視点からいうと「歌手の芸の肥やし」であり、絶体絶命のデズデモーナやトスカのように歌い手にリアリティを与えるのだが、女の心理から言うと「男たちの悪戯のために女をこんな状態に追い込むなんて!」と怒りも湧いてくる。一方で、男の視点からこのフィオルディリージの熱唱を聴くと、どんな濡れ場よりも妖艶で官能的なのだ。種谷さんは本気で自分を追い詰めた演技をしており、稽古場でのインタビューでも「フィオルディリージと私は頑固なところが似ている」と語っていたが、一種の憑依的ともいえる境地に達していた。

ドラベッラ藤井麻美さんはコントラスト的に「陽気な次女」としてコメディエンヌとしての魅力を発揮しまくり、チャーミングな演技と無限に湧き出る泉のような美声で1幕11番のアリアなど聴かせどころを歌った。ものすごく芯のある方で、声も豊かで安定感があるが、演劇的な柔軟性も素晴らしく、役によって全く違う顔を見せてくれる。種谷さんとの姉妹役は新境地で、スズキのような渋い役だけでなくきゃぴきゃぴした藤井さんもとても可愛くてセクシーだと思った。

演技は非常に細かく作られており、日本キャストとの再演で新たにたくさんのアイデアが生まれたという。ロラン・ペリーが鬼才なのは、「自分がどのような者か」ということを知り尽くしていて、オリジナルの統辞法を絶対に譲らないから。デセイやミンコフスキと組んでたくさん上演したオッフェンバックのオペレッタは、ボックスセットを持っているがフランス語の台詞がメインなのでなかなか全部見れていない。彼の根っこにあるのはフランス的なユーモアと美意識と人間観で、二日目キャストのドン・アルフォンソ黒田博さんが過去に主役を演じた『ファルスタッフ』でもそのポリシーを貫いていた。オペラは書かれた時代精神に支配されながらも、ダブルミーニングとして「普遍的人間性」を表現する。フランスには「自分はゲイでカトリック信者である」ということを演出上のアイデンティティにしているオリヴィエ・ピィのような人もいるが、ペリーもそれくらい自分自身の文体を貫くということに命をかけている。

日本のキャストとの長い稽古で、演出家の中にも新しい切り札がたくさん生まれたのではないだろうか。ドン・アルフォンソ河野鉄平さんは身のこなしが軽やかで、まるで自分の国の言葉を話すかのようにイタリア語のレチタティーヴォをこなす。デスピーナ九嶋香奈枝さんにはよくある可愛いデスピーナを演じさせず、労働階級のスタジオの清掃係のような姿で登場する。この二人は、他のオペラには絶対に似た者がいないモーツァルトとダ・ポンテの創造物で、あらゆる奇妙さを引き受けつつ、現代的なリアリティを表現していた。ゲネプロでは二日目のキャストも見学したが、七澤結さんのデスピーナはゾンビのようなメイクで、演技もさらに振り切れていてびっくりした。

恋人たちを試そうとするグリエルモとフェルランドの悪辣さと、裏切られたと知ったときの激昂の表現は、ほとんどヴェリズモ・オペラのような激しさで、声楽的にはモーツァルトの端正さを保ちつつも、感情表現は破壊的といっていいほどだった。宮下さんと糸賀さんは変装メイクをすると双子の兄弟のようで、死んだふりの演技も面白い。張り詰めた独唱も、このオペラの最大の美質である重唱も真摯に歌われていた。

オーケストラは新日本フィルとクリスティアン・アルミンクで、粋なリユニオン・プロジェクトになったわけだが、ゲネ初日ではピットの音に生気がなくて焦った。本番は全く違う活き活きとした音楽で、テンポはハーモニーを味わうようにゆったりとして、声楽家たちを包み込むような優しい風のようなアンサンブルも快かった。日を重ねて充実していっていると思う。合唱は二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部の合同で、二期会を新国で聴くのもフレッシュだったが、合唱の響きにも瑞々しい若さが感じられた。

コジはモーツァルトの最晩年のオペラだが、こんな凄いものを書き続けていたから早死にしてしまったのだろう。あまりに優れているし、膨大な細部が美しく、歌もオーケストラも次から次へと奇跡が起こる。このオペラでしか出会えない美しい旋律やハーモニーがありすぎて、巨大な才能を現実化するために身体をどれだけ酷使していたのだろうかと寒い気持ちにもなった。使いまわしなどなく、ほんの一瞬出会っては消えていくいくつもの美しい旋律が心に残る。そしてそれはすべてモーツァルトの宇宙で、太陽系のすべての天体が音楽家の中にあるのだと伝えてきた。歌手と演出の素晴らしさと、作品の真価を知ることの出来る稀に見る名演。













































新国立劇場『トスカ』(7/10)

2024-07-12 12:28:03 | オペラ
新国立劇場『トスカ』の二日目を鑑賞。アントネッロ・マダウ=ディアツの豪華な演出は2000年から新国で上演され、今回が9回目。個人的には5回目の鑑賞になるが、4年ぶりの新国トスカはゼッフィレッリ版より格段に豪華に感じられ、あらゆる瞬間が完璧な絵のようだった。若くて美しいジョイス・エル=コーリーのトスカ、勇敢で押しの強いテオドール・イリンカイのカヴァラドッシなど歌手陣も良かったが、この公演で最も心を揺さぶられたのはピットのオーケストラの美麗さだった。1952年生まれの巨匠マウリツィオ・ベニーニと東京フィルの強力な協調体制が、オペラを最高のものに仕上げていた。

今年はプッチーニ没後100年で、先月から二本の『蝶々夫人』のライブビューイング(ロイヤル・オペラ・ハウスとMET)、パッパーノ最後の任期となるロイヤル・オペラ・ハウス『トゥーランドット』など、立て続けにプッチーニ・オペラを観る機会があった。重層的でドラマティックなオーケストラ、ヴェリズモ的な歌手たちの演技にオペラの最高の完成形を見る思いで、こんなものを書いてしまう作曲家の脳はどのようになっているのか甚だ謎だった。

『トスカ』は1900年1月の初演で、プッチーニは1858年12月生まれだから、実際のところ40歳でこのオペラを書いている。その4年前には『ラ・ボエーム』、4年後には『蝶々夫人』を書いていて、『トゥーランドット』はその20年後…と記者会見で説明してくれたパッパーノの言葉を思い出した。指揮者は指揮台の上でスコアに敬意を評しつつ、心のどこかで「40歳でこれを書いた…!」と驚きを隠せないはずだ。
マエストロ・ベニーニと東フィルは何度目の共演だろう。冒頭の恐怖のモティーフから、雄弁で心理的な音が飛び出した。ピットの床を高めに設定しているのか、指揮者のやっていることがすべて見えるのが嬉しい。こういう見方をしていいものか分からないが、3時間の公演で、ほぼピットとマエストロに釘付けになってしまい、素晴らしいことが行われている舞台のまぶしさよりも、暗闇で行われていることに心を奪われていた。

堂守の志村文彦さんの、片足を引きずるような演技が今回も本当によく出来ていて、堂守が教会でぶつくさとつぶやく場面からピットは宝石箱の輝きで、セットの階段までもがオケの音によって造形されている感覚があった。リコルディの安い版のスコアを持っているので後から見てみたが、かろうじておたまじゃくしを追えるだけで、このびっしりと書き込まれた縦の線を指揮者が「音楽」にしていくのは素人の自分にとっては奇跡としか言いようがない。歌手たちは最高のオーケストラに包まれて、幸福な気分で歌っているように見えた。テンポも自然で、呼吸するような感じ。一幕でトスカとカヴァラドッシが無邪気に(!)で歌うデュエットでは、管楽器パートから小鳥や色とりどりの花を思わせる音が飛び出し、こんなにカラフルで陶酔的なオーケストラをプッチーニは書いていたのだ…と驚かされた。初めて聴くような世界だった。

スカルピアは健康上の理由で降板したニカラズ・ラグヴィラーヴァの代わりに青山貴さんが登板。悪役メイクで豪華な「テ・デウム」を歌い、2幕でのトスカ拷問も役になり切っていた。黒光りする迫力のバリトンで、青山さんの恵まれた声質が悪役でも生きていた。トスカ役のエル=コーリーは肉食系の濃い演技で相手役にぶつかってくるが、スカルピアは不動の威厳でエゴを通していく。精神の力を感じる修羅場だった。

ライトモティーフの組み立て方が、ワーグナーより洗練されている…というか、もっと無意識の次元に食い込んでいて、出来事・状況・心理といった全体の成り行きが、登場人物の輪郭を超えて交通している。アンジェロッテイ、堂守、スカルピアは全くの別人だが、あるモティーフを共有していて、マイナーになったりメジャーになったりしながら魔法のしりとりのように組み立てられていて、それは「夢の論理」とも呼びたい無意識層のロジックによって完成している。激越な表現となるカヴァラドッシの拷問、トスカの殺人のシーンはマエストロも炎のようになって指揮棒を震わせていた。最初から最後まで「一生懸命」な指揮で、心を込めてオケを導いているのがわかった。ベニーニは人生の中で何度「トスカ」を振ったのだろう。彼の人生のすべてが指揮棒に託されていた。

そのことを、オペラに関して百戦錬磨の東京フィルはすべて理解して、オーケストラの経験値を総動員して応えていた。日常的に劇場の響きを知り尽くしている強味を活かして、「この劇場で上演されるトスカ」の最高の響きを目指していたと思う。ピットの中で、お互いの音がどう聴こえているのかは分からないが、劇場全体に広がる調和は奇跡的で、今まで聴いたどのプッチーニよりも心に響いた。
ラストまで緊張の糸は切れず、歌手たちも事故なく過酷な役を歌い切った。「プッチーニとは何者か」という問いの答えが少しずつ頭の中ではっきりしてきて、それはありきたりのようだが「音楽で心理を表現するすごい天才」ということに尽きた。『蝶々夫人』も『トスカ』も残酷物語であるどころか、こんなに清潔な作品はない。音楽には美しかなく、寄木細工のようなオーケストラは一秒も退屈な音を鳴らさない。喝采の中、舞台に上がったベニーニが、チェロや管楽器を演奏するジェスチャーをして、ピットの奏者に敬意を評していた姿も素晴らしかった。歌手だけでなく、作曲家が書いたすべての音譜をすべての細胞で聴いた心地がした異次元の名演。