小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×カンブルラン アイヴズ、マーラー交響曲第9番

2018-04-21 10:21:59 | クラシック音楽
カンブルラン読響、シーズン開幕の3つめのプログラムはアイヴズ『ニューイングランドの3つの場所』とマーラー『交響曲第9番』。既にベートーヴェン、ストラヴィンスキーを中心とした2つの演奏会で、オケと指揮者の9年間の驚異的な達成を聴かせてくれたが、最後のマーラー・プログラムは決定打となる「外れなし」の内容だった。コンサートマスターは小森谷巧氏。
アイヴスの『ニューイングランド…』は嵐の前の曇天の空のような不安な響きで、『ボストン・コモンのセント・ゴードンズ』は瞑想的な音楽の中に、変形したポピュラーな旋律が幽霊のように去来する。『コネティカット州レディングの場トラム将軍の兵営』はその微睡みを打ち破るような強制的な軍隊的音楽で、複数の行進曲の旋律がコラージュ的に構成され、ピカソの『ゲルニカ』を思い出した。3曲目『ストックブリッジのフーサトニック川』は再び不協和音が帯のように拡がり、無意識が作り出す筋書きのない夢を現実で見ているよう。転生したばかりの初心な魂が、見るもの聴くものに反射的に共鳴するが、赤ん坊の視力ではゲシュタルトとして構成できないのでぼんやりとした色や香りの塊が提示されている…という印象の音楽だった。プログラムの解説で、マーラーの9番とほぼ作曲年代が重なっていることを知り、カンブルランが含むところを色々考えた。

後半の『マーラー交響曲第9番』はどのような演奏になるか、全く予想がつかなかった。蓋を開けてみると、鮮烈で知的で、100年の眠りから覚めたようなマーラーだった。
生前のマーラーが完成した最後の交響曲は、個性や趣向は違えど今まで聴いたどの演奏にも退嬰的で悲劇的な含意があった。作曲家の肉体的な死、精神的な失望、ワーグナーが『トリスタン…』で突き詰めた後期ロマン派の袋小路をさらに突き詰めた「終焉」のニュアンスが9番には含まれていて、それゆえに感傷的な気分で聴くことが多かった。読響が尾高忠明先生とこの曲をやったときは大号泣してしまったし、ヤンソンスとバイエルン放送響でも涙が溢れ出した。バーンスタインもこの曲の最終楽章の未練がましさを、脈拍が次第に遠くなっていく瀕死の人間に譬える。何かの「お仕舞い」の音楽がマラ9だと思っていた。

カンブルランはこの曲から一切の文学臭を抜き取り、クリアでスーパーリアルなサウンドを各パートから引き出した。その結果浮き彫りになったのは、マーラーがシェーンベルクに揶揄されるような時代遅れの作曲家ではなく、最後の最後まで前衛的で冒険的なアプローチを貫いていたということだった。譜面通りのことをやっているだけなのだが、今まで(思い入れが強すぎて)聴こえてこなかった楽器と楽器のぶつかり合いが作り出す奇矯な音、切っ先の鋭いアヴァンギャルドなトゥッティ、現代音楽の先を行く冒険的な和声が宝石のように輝きだし、あらゆる瞬間が閃光的だった。
1楽章ではオーケストラの大合奏の渦中に、渦巻きのような求心的なサウンドの塊が見えたり、弦の大海原の中に金糸のようなチェロの1音が浮き彫りになったり、オケの魔法が矢継ぎ早に提示された。オケが築き上げた圧倒的な基礎が作り出す魔法であり、読響が登り詰めてきたカンブルランとの軌跡がどれほどのものであったか改めて驚いた。

死に瀕した老人のようなマーラー9番がユニークな蘇りを見せたのは、大胆で積極的なホルンの活躍、その他金管木管の全く怯むことのない勇敢さによるところが大きかったと思う。とにかく管が攻める、微塵たりとも躊躇せず、完璧な反応を見せる。そのことで、第2楽章のイメージが全く塗り替えられた。グロテスク風味の牧歌的なダンスだと思っていたこの楽章が、オーケストラのためのキレキレの実験音楽であり、管楽器の遊戯的な尻取りであることが理解できた。第3楽章のロンド・ブルレスケはショスタコーヴィチの反抗精神を感じた。なるほど。バーンスタインが語るようにマーラーは預言者であった。2つの世界大戦を見ぬまま1911年に亡くなったマーラーは幸福ともいえるが、20世紀の戦争と大量殺戮の時代を予見していた。3楽章は反抗的でアイロニカルで、未来予知的なサウンドが溢れ出した。

カンブルランの姿勢は本当に一貫していると思う。正確に厳しく音楽を作り上げることで本質を見せ、そこでは音楽がまとってきた歴史的な衣装がすべて脱がされ裸にされる。マーラー9番は衰弱や心神耗弱とは関係がなく、1番から8番までの様々な響きが統合され、創造性において最高度の達成をみた傑作として再現された。これは「正しい」のか「正しくないのか」。実に正しいと私は思う。それぞれの指揮者が正解を出す権利があり、カンブルランは鮮やかに自己とマーラーを繋げた。
ここで聴き手として、覚醒することもあった。音楽は茫洋としていて、聴き手はいかようにも聴ける…というのは、半分真実だが半分は無責任だと思う。真摯に道筋を作ってきた音楽家の、揺るぎない志向性を読み取らなければ聴いている意味がない。
カンブルランは「目の前の混濁や闇の行く末には、必ず光がある」という音楽を作り出す人で、演奏会によってサウンドの印象は変わることがあっても、この理念は全く曲がることがない。メシアンでも、ベートーヴェンでも、ハイドンでもモーツァルトでも数多の現代音楽でもそうであった。

そうした強靭で未来的で、ある種の「楽観」からなる指揮者の理念が、マーラー9番のアダージョをどう演奏するのか…これだけは全く予想がつかなかった。3楽章までの攻めまくりの成り行きを捨てて、全く違う音楽が展開されることも予想した。実際に4楽章で起こったことはあまりに鮮烈で、驚異的だったのだ。
絶望的で悲劇的なアダージョ楽章が、蘇生と新たなる誕生の音楽に変貌していた。少なくとも、私個人は明確にそう思えた。この1週間前に聴いたノットと東響のブルックナー9番のアダージョでは、神といよいよ一体化していく作曲家の喜悦を感じたが、マーラーはさらに宇宙的な喜悦とともに、この楽章で新しい朝を迎える準備をしているのだと思えた。楽譜にしつこく書き込まれた未練がましい死の暗示は、次に生まれるための期待感とつながっていた。読響の成熟した弦の響きが、同時に若々しさも暗示し、曲の展開とともに光彩がどんどん増して、最後の弱音では眩しい一筋の光が見えた。一生を通じて「生まれたくない!」と時間の逆行を試みていたマーラーが、いよいよ母親の胎内から出て世界の光を浴びようとする、意思決定の瞬間に感じられた。

ベートーヴェン、ストラヴィンスキーではカンブルランのカーテンコールはなかったが、この日は流石にマエストロを呼び出さないわけにはいかなかった。3つのプログラムで、カンブルランは本当に心から幸せそうだった。今シーズンの読響とカンブルランは前人未到の境地にある。こういう演奏会を聴けるのは当たり前だとは思わない。誇張と誤解されることがあっても、ライターとしては文字にして残していかなければ…と決心した。日本のオケの芸術的達成ということでも、今後長く記憶にとどめるべき演奏会だと確信した。





























読売日本交響楽団×シルヴァン・カンブルラン(4/8)

2018-04-13 14:31:46 | クラシック音楽
読響2018/2019シーズンのスタートとなる演奏会を池袋の東京芸術劇場で聴いた(4/8)。
今期は2010年から常任指揮者を務めるシルヴァン・カンブルランの最終シーズンとなるが、「春」「死と再生」を想起させるプログラムはとても高水準な内容だった。
ラモーの歌劇『ダルダニュス』組曲から20分にわたる抜粋は、「スコアを眺めているとさまざまな物語が浮かんでくる」というカンブルランのファンタジーが詰め込まれたフランス色濃厚な演奏で、オケの切れ味のいいフレージングと一糸の乱れもない合奏から、メンバー全員の格別に充実した気力が伺えた。
『ダルダニュス』は古代ギリシアを舞台とする悲劇をラモーがオペラ化した作品だが、組曲では豪華な酒宴を描いたタペストリーのような雅やかなヴィジョンが展開される。
ラモーが終わった段階で、何か今日のこのコンサートが特別な場であり時間であるような気がして仕方なかった。なんと形容したらいいか…芸劇の空間がとても明るかった。当たり前のことだが、特別な照明が設置されていたわけではない。ただ、漂っている空気がとても軽やかでキラキラと輝いていた。これは人の精神の明るさで、科学的に計測できないからといってこの特別な感覚を無視したり否定したりすることは出来ない。

ヴァイオリニストの佐藤俊介さんが登場し、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番 トルコ風』が始まった。プログラムによると佐藤さんのヴァイオリンは2007年及び2009年パリ製のシュテファン・フォン・ベアだという。テツラフもモダン・ヴァイオリンを使うが、ストラドを使わない演奏家にはなぜか不思議な愛着があって、佐藤さんのこの日の演奏にも強く惹かれるものがあった。最初の一音が、微塵の濁りも余計なメランコリーもない明朗な音で、エレクトリック・ヴァイオリンにも似た鋭利なサウンドだった。それが、モーツァルトのイ長調のハイテンションなこの曲には非常にフィットしていて、電撃的な春の目覚めのイメージだった。
それにしても、オーケストラの呼吸感が本当に素晴らしい。積極性に溢れ、水のように透明で、何の制約もない自由な雰囲気だった。勿論、完璧な合奏のための規律がなければ音楽は成立しないのだが、「ねばならない」という強制力がどこにも見当たらず、一秒ごとに色鮮やかな音楽を創造していく喜悦のみが溢れ出していた。

オーケストラは指揮者のものだ、ということを改めて実感した。指揮者が全員を支配しているというより、全員がカンブルランだったのだ。指揮者の思考や美意識を一人ひとりが吸い取って、オケ全体がひとつの人格になっているのがわかった。そういう演奏会はたくさんあるようで滅多にない。
読響がカンブルランとやった過去のたくさんの演奏会を思い出し、自分がプレイヤーならとっとと逃げ出したくなっていただろう(!)『アッシジの聖フランチェスコ』を、見事にやり遂げたいきさつなども思い出された。十円はげが出来てもおかしくない「苦役」ともいえる難曲をクリアして、読響はさらにタフになり柔軟になり、勇敢になった。

カンブルランにインタビューしたとき、面白かった。マエストロが音楽について語りだすと、聞き手である私はどこかに消えてしまうような気がした。「アッシジ…」についてたずねると、それを語るカンブルランはどんどんピンク色になり、古代の詩人のように雄弁になり、ここではないどこかへ行ってしまいそうな人に見えるのだった。現代にこんな巨大なパワーをもつ人がいるのだ。
マエストロが読響を理想のオケに導いていて、彼が全員を「引き上げて」いるのだ…とずっと思っていたが、この日のコンサートを聴いて、そうとばかりは言っていられないとも感じた。走りながら指揮台に上るカンブルランは恐ろしいほど毎回真剣で、あのような演奏会は本人も覚悟して努力を重ねていかなければ続けられないだろう。
カンブルランは読響のお父さん、という印象も変わった。キャプテン(船長)であり、隊長であり、料理長であり…やはり「指揮者」なのだ。

指揮者の導く道と、運命をともにするオーケストラ、ということに何より興味がある。来日するたびによくなるネゼ=セガンとフィラデルフィア管、ソヒエフとトゥールーズ・キャピトル管、毎回素晴らしいパッパーノとサンタ・チェチーリア、インバルと都響、ノットと東響、プレトニョフと東フィル…それを思うと、ウィーン・フィルの来日公演では一度も感動したことがない。「どのオケがすごい」ということを「カブトムシとクワガタのどっちが強い」という基準で語ることに自分は全く興味がない。

4/8に聴いたカンブルランと読響は、間違いなく世界一のオーケストラで、後半のベートーヴェンの7番では目を開けていられないほどまぶしい音が、すべての楽章のすべての瞬間に溢れ出した。カンブルラン特有のきびきびとしたアクセントが飛沫をあげるたびに、その一秒一秒に凝縮された凄いエネルギーと時間を感じずにはいられなかった。
各パートの首席をはじめ楽員全員が、美しい動きで最高のサウンドを生み出し、その持続が途切れることはなかった。
「自分の思い入れが強すぎて、客観性を失っているのではないか」と、たびたび目をつぶって無心に聴こうとしたが、目をつぶっていても全身の皮膚から光の粒子のようなものがしみ込んできて、刺激された心が身体をつきやぶって何かを主張してくる。その不思議な感覚はオーケストラの演奏会でしか体感できないものだ。
プレストからアレグロ・コン・ブリオへ音楽は勢いをつけていくが、勢い任せの空疎な狂騒ではなく、人間の精神の祝福の表現だった。時間の自然な流れに驚き、明るく勇敢な意図をもって進めば、最後には爆発的な喜びが待っている…カンブルランが、オケと過ごした時間をどうとらえているか、全員がどうとらえているか、高貴な認識を受け取った。それはありきたりの説教などとは別次元の人間の「正道」で、逃げもごまかしもきかない芸術の真の姿で、こういうものを見たくて芸術を追い求めてきたのだと自分の人生を振り返った。

不思議なことに、カンブルランは凄い演奏が終わるといつも意外なほどあっさりと幕に消えてしまう。音楽の時間が素晴らしすぎて、それが終わると虚無感を感じてしまうのだろうか。いわゆる「一般参賀」があってもおかしくない演奏会だったが、ステージも客席もわりとすぐに散り散りになってしまった。
それでも、夢に出てくるほどこの日の演奏会は忘れられないものになり、日々心の中で反芻している。