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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

サー・アンドラーシュ・シフ&カペラ・アンドレア・バルカ(3/21)

2025-03-26 02:29:14 | クラシック音楽
アンドラーシュ・シフと28人の音楽家たち~カペラ・アンドレア・バルカの最後の日本ツアー、完売の東京公演に先立ってミューザ川崎シンフォニーホールで行われたオール・J.S.バッハ・プログラムを聴いた(3/21)。「メンバーも皆高齢なので」と昨年の記者会見でシフは語っていたが、見た目のベテランぶりと反比例するように音楽は活き活きと瑞々しい。ピアニストの弾き振りでピアノ協奏曲第3番、第5番、第7番、第2番、休憩をはさんで第4番、第1番が演奏され、大変しっくりくる曲順で楽しめた。
シフは一曲目の3番の1楽章アレグロから楽しそうで、ぽんぽんと叩くようにベーゼンドルファーをプレイしていた。ピアノは気ままに加速して、弦楽器奏者たちはメトロノームが同じリズムに同調するように合わせていく。最近のシフは一人で弾くときも軽やかな表情で、2010年代の前半に聴いたようなシリアスな表情ではなくなったが、それにも増してコンチェルトでは楽し気だった。

5番のラルゴ楽章の前には、皆に向かってゆっくり合図をしていた。ピツィカートが甘美で有名なメロディを奏で、バッハの「ロマンティック」が桜が一斉に咲くように花開いた。演奏会が行われた3/21は春分の日の翌日で、バッハのユリウス暦の誕生日だったので、「はじまり」と「祝福」の気運を感じずにはいられない。作曲家はその時代の様式の中で最大限の「個」を表し、シューマンもマーラーもそのように曲を書いたが、バッハの音楽にはエゴというものが感じられず、それでいてバッハ以外の何者でもない。一つの音が別の音に飛んでいくとき、隕石が落ちてきたようにエキセントリックに感じられる箇所もあったが、それも全体の中では巨大な宇宙の摂理に飲み込まれていく。スケールが大きく、遊戯的で魅惑的で、何より美しかった。色彩の異なる華麗なバロック時代のドレスが次々と現れるような、装飾的で雅やかな音の屏風絵だった。

この音楽の自然さはちょっとすごいな…と思った。音に浸かりながら何度もメンバーの数を数えてみたが(多分28人いた)ステージの下手と上手に一人ずつ配置されたバス奏者の、上手側の女性奏者が「本当に幸せでたまらない」という表情で身体を揺らしながら弾いているのが目に入った。他のメンバーもノーストレスで、文字通り「プレイ」していて、シフが曲の始まりにつける装飾的なパッセージにも遊び心があった。旋回する半音階の表現はリストを先取りした超絶技巧で、時代を超越した前衛性も感じられる。シフのテクニシャンぶりも全く衰えることなく、まったく疲労感を見せぬまま6曲を弾き切った。彼を尊敬する生徒たちの前では謹厳な教師である彼が、「バロックの遊び心」をふんだんに満喫している姿が愉快。クラヴィーアのために書かれたコンチェルトは鍵盤楽器ならチェンバロでもフォルテピアノでも何でもいいのだし、その日に出たサイコロの目で色々なことを決めていくような気まぐれな雰囲気もあった。バロック音楽は「音学」なんかではまったくないのだ。

妖艶ささえ漂わせた「香り」のある演奏で、それは春の香りでもあり、作曲家の生まれた季節が万物の芽吹く春であったことと関係があるようにも感じられた。冬の終わり。厳しさや悲観、絶望の日々は終わる。2013年頃に聴いたシフのベートーヴェンはとても深刻で、その前後に指揮者として来日したコチシュがハンガリーのオケを率いて振る姿が対照的なほど誇らしげだったのを思い出した。その後コチシュは亡くなってしまったが…2025年の春に東京で仲間たちと弾き振りをしているのはシフのほうだった。

ラストの『ピアノ協奏曲第1番』はピアニストのびっくりするほどよく回る指が、バレリーナのグランフェッテやピルエットを見ているようで、現役ダンサー並みに日々節制してトレーニングを怠らない演奏家の日常を想像した。不摂生などシフの辞書にはないのだろう。アンコールには女性のフルート奏者が登場して、コンマスも立奏し『ブランデンブルク協奏曲第5番』から第1楽章を聴かせた。大喝采で全部終わったと思いきや、その後にゴルトベルクのアリアもやったらしい。ベテラン揃いのカペラ・アンドレア・バルカが、「今夜、もう一周演奏できますよ」と言ってきそうな、終わりどころか未来しか見えない幸福な演奏会だった。









サー・アンドラーシュ・シフ ピアノリサイタル(12/16)

2024-12-25 12:26:16 | クラシック音楽
「当日までプログラムは秘密」スタイルが定着したアンドラーシュ・シフのオペラシティでのリサイタル。これまでは日本語通訳つきで、奥様の塩川悠子さんやシフの若い友人の音楽家がステージ上でレクチャー部分を訳してくれていたが(このスタイルも結構好きだった)今回はシフ自身が日本語で曲の紹介をしてくれた。シフはまだ70歳なのに、もっと年をとったおじいちゃんのようにゆっくりと喋る。まっすぐな背筋と、消え入るような悲しげな声とのギャップが印象的だった。

バッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリアから始まる。「始原に光ありき」といったすがすがしい明るさのタッチで、シフお気に入りのベーゼンドルファーがホールの隅々まで染み渡るような音を響かせた。続くハイドンの「ピアノ・ソナタ ハ短調」は、典雅で妖艶。エステルハージ宮のお茶会に集う婦人たちの雅やかなドレスやエレガントな調度品、装飾的なティーカップやポットなどが目に浮かんだ。ハイドンのソナタにこうした「艶」を感じるのは、それもシフの演奏でそうした感想を抱くのは意外にも感じられたが…若くて美しい女性のいたずら心や、扇子から香ってくるアーモンドのような芳香がピアノの音から噴き出していた。シフは真面目な顔をして、実はすごいユーモア精神の持ち主ではないのか。東京公演の前に行われた記者会見では、現代ピアニストの多くのペダル使いを「病気のよう」と批判し、基本のキから始めなければピアノ演奏は意味がないというような堅物なことを語っていたが、ハイドンではペダルも豊かだったし、花のように瑞々しいタッチだった。ラストの音だけが男性的で雷鳴的だったのも心に残った。

モーツァルト「ロンド イ短調」は幻想的なヴィジョンが浮かび上がり、宝箱の中からいくつもの宝石が現れてくるような「輝き」が見えた。この曲には不思議なあどけなさがあって、暗闇の中に妖精や翼をもった妖怪を見るような、ときめきのような恐ろしさのようなものを暗示させてくる。シフは鍵盤に覆いかぶさったりのけぞったりという大袈裟なことは一切せず、オルゴールのふたを開けてねじを巻くようにモーツァルトを空中に引き出していく。
ベートーヴェンの「6つのバガテル」は、常人とは桁外れの精神の強さをもっていた作曲家の、宇宙の果てまでも飛んでいけそうな巨大なスケールの音楽だった。祈りのような一曲目はくつろいだ感じで、神に守られている者の安息を伝えてくる。不規則な遊びが波紋のように広がり、楽想を面白いものにしていくが、二曲目のアレグロでは暗号のような言語の対話が起こり、謎めいた表情を深めていく。人生の実りのようなアンダンテと、厳しいユニゾンのプレスト、歪んだダンスは5曲目のアレグレットで幼い者の祈りにつながり、6曲目のプレストは神々しさにあふれた。

「ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタを弾けるようになるまで、50歳まで待たねばなりませんでした」と語ったシフは、芸術における成熟という価値を重要視している。うわべだけの華やかな技巧がもてはやされる若いピアニストを何人も見てきたのだろう。そうした若者たちへの警告のような言葉も会見では語られた。「決して若者が嫌いなわけではないのです」とはいえ、シフ自身は若者であった頃から、もっと早く年を取りたくて仕方なかったのかも知れない。演奏家にとってつねに「時間」は課題だ。克己心と謙虚さとともにシフが積み重ねてきた「成熟へ向かう」時間の貴重さを思った。

しかし、音楽そのものは老成しているというより、どんどん若返っていく。ピアニストが歩んできた時間は直線的なようでいて、実は円環構造だったのかも知れない。後半はシューベルトの「アレグレットハ短調」「ハンガリー風のメロディ」「ピアノ・ソナタ第18番「幻想」」と続き、シューベルトの大海原が広がった。「ハンガリー風のメロディ」では民族楽器のツィンバロンのようなエキゾティックな響きがシルクのように翻った。シューベルトのウィーンは東西文化の結節点で、ハンガリー人のシフは当時のウィーンが「東」の妖艶さにどのように痺れていたかも把握している。シューベルトの神聖さ、豊饒さ、カラフルさ、彼岸から此岸を眺めているようなタナトス感が感じられた。そして、過去のシフのリサイタルは聴いていてシリアスな心境になることが多かったのに、今ではどんどん軽やかに感じられるのにも驚いた。

アンコールはシューベルトの楽興の時、即興曲、バッハ「イタリア協奏曲」、モーツァルトの可愛い「ピアノ・ソナタ第16番」、そしてここでは聴くことが出来ないと思われたショパンも一曲。無窮動な「マズルカop.24-2」が、ユーモラスに演奏された。3時間近くのリサイタルの最後にはシューマン「子供のためのアルバム」から「楽しき農夫」が奏でられ、どんどん若返っていくシフの心が、最後は子供にまで戻ってきたことを確認したのだった。




アレクサンドル・カントロフ(11/30)

2024-12-02 17:40:45 | クラシック音楽
アレクサンドル・カントロフのサントリーホールでのリサイタル。演奏会が始まる前に、ステージの上にぽつんと置かれたスタインウェイがひどく殺風景に見え、ここに一人で座って2000人の人間の視線を浴びるピアニストとは、いかにも奇妙な職業に思えた。チケットは完売(P席は解放しなかった様子)。カントロフはリラックスした様子で現れ、ブラームスの『ラプソディ ロ短調 op.79-1』から弾き始めた。
去年のみなとみらいでのリサイタルでも始終放心していた記憶があるが、何がどのように凄かったのかうまく言い表せない。ブラームスは、音の「面」のようなものが次々と立ち現われ、微妙に色彩や質感を変えていく印象があった。携帯カメラで撮った写真を編集するときに、明度や彩度を調節して微妙に雰囲気が変えていくのと同じ感触があり、ペダルとタッチでコントロールしているにせよ、他では聴いたことのない魔術的な音楽だった。ピントを合わせたり、ぼやかしたり、紗幕を下ろしたり、上げたりして、音の刺激を視覚的な比喩に連結させている印象。ブラームスは、途轍もなく反抗的な音楽家だったのかも知れない。古い教会音楽の旋法の響きが子守歌のようにシンプルなメロディを導くが、衝撃的な中断があり、激情の吐露があり、優しい音楽のようでいて死への衝動のような裏色をチラチラさせる。五線譜のイマジネーションは羽根を生やし、飛翔しようとするが、肉体は頑として地上に縛られたいと願う。ブラームスの「過激さ」を思い、カントロフの孤独な表情が寒々とした氷点下の世界を連想させた。
カントロフが椅子から立ち上がらないので拍手が起こらないまま、リストの超絶技巧練習曲「雪あらし」が始まる。ブラームスとひとつらなりになっているような雰囲気で、ロマンティックな旋律線を追いながら、容赦なく五感が研ぎ澄まされていく感覚があった。そのうち五感は混濁し、高熱を出して倒れたときのような意識に近づいていく。雪山の中でホワイトアウトしていく状態とは、こういう感じなのかも知れない。
続く『巡礼の年第1年『スイス』から「オーベルマンの谷」』は内省的なフレーズが物悲しく、宗教的な感興に包まれた。リスト20代の作曲だが、既に晩年期の枯淡が感じられる。暗闇の中で、神のことだけを思う時間とは、こういう音楽のことではないかと思われた。
バルトークの『ラプソディ』はタールのような黒だけの色彩の世界で、世俗的なものが一切ない不思議な音楽だった。カントロフの左手は饒舌な動きで、タクトを持たない指揮者の手の動きを連想させ、鍵盤に触れていないときにもひらひらと踊っていた。

後半のラフマニノフ『ピアノ・ソナタ第1番』は驚異的な演奏で、2番に比べて個人的に愛着の薄い曲だったが、30数分間に及ぶ大曲の中でカントロフが見せた表情は予想を遥かに超えていた。いくつもの時間が交差する迷宮のようなラフマニノフの曲は、彼のような究極の技術をもつピアニストが弾くと「自分がどこにいるのか」見失ってしまいそうになる。サントリーホールにいて、奇跡を見聞きしているのには違いなかったが、もはや技術がどうこうという次元ではなく、演奏家とともに旅をしている自分の「意識」しかそこには存在していなかった。カントロフはこの曲でリサイタルの意味も教えてくれた。空間と時間がひとつになり、二千人とステージの一人が混然一体の「意識」となり、境界が消滅する。
裸足で雪の上を歩いているような感触と、同時にとても暖かい灯りに包まれている感触が同時にやってくる。ブラームスやリストやバルトークから感じていた「寒さ」はラフマニノフで最高潮に達し、「暖かさ」に反転した。二つの極は一つであり、冷たさとは温かさのことだった。
演奏は何度も激高し、これがフィナーレなのかと思うとまだまだ続いた。掘っても掘っても何も出てこない鉱山を、引き返せないほど奥まで進んで掘り続けているような仕草だった。これは何のために行われているのか。
本編最後のバッハ/ブラームス編『シャコンヌ』は左手だけで演奏される曲で、30分以上するラフマニノフの後にこれを弾くというプログラム構成が信じられない。カントロフはピアニストの定義も変えてしまっている。演奏家のルーティンとして組まれる選曲として、常軌を逸していると思った。修道僧のようにも見える演奏家が、もしかしたら目には見えない楽観的な次元と通じ合っているようにも思えたが、曲半ばで右手をピアノの縁に置いて踏ん張っている様子を見ると、やはり人間にとって尋常でない荒行をしているのだと気づかされる。
万雷の拍手に包まれ、間もなくタブレットを持ってにこやかに現れたカントロフが弾き出したのはワーグナー/リスト編『イゾルデの愛の死』で、その瞬間身体がバラバラになりそうになった。愛の上に愛が重なり、観客からの声なき愛にさらに応えるピアニストがいた。有難さに報いる言葉も出ない。芸術家が存在している境地の果てしなさを思い、この人の源泉にあるのは何なのかもっと知りたくなった。物理的な分断を越えた、圧倒的な「意識」の時間だった。






フランクフルト放送交響楽団(10/21)

2024-10-22 10:11:41 | クラシック音楽
来日中のフランクフルト放送交響楽団のツアー最終日のコンサートをサントリーホールで聴く。指揮のアラン・アルティノグルは2021年からフランクフルト放送響の音楽監督を務めているアルメニア系フランス人。世界中の名門オーケストラと共演を果たし、2016年からはベルギーのモネ劇場の監督も務めているが、プロフィールを調べたら1975年10月9日生まれで49歳の誕生日を迎えたばかり。この世代の特徴か、指揮台の上でも威圧的なところがなく、オケとフレンドリーな関係を結んでいるように見えた。

ブラームス『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』では庄司紗矢香さんが登場。黒の透かし模様のニットトップスに、ボトムスは光る素材のシルバーのパンツで、個性的な雰囲気が増している印象。オケの長い前奏部を瞑想的な表情で聴いていて、前日のみなとみらいでも同じ曲で共演しているはずだが、毎回オケの様子も微妙に変わるのだろう。全体のエネルギーの中からしかるべきソロを奏でようとしている姿にも見えた。
ブラームスのvnコンチェルトは先日の読響ヴァイグレ指揮&テツラフでも聴いたが、ソロもオーケストラも全く違ったアプローチだった。アルティノグルが引き出すサウンドはいぶし銀のように艶消しで、華やかに演奏されることの多いこの曲をわざと地味に聴かせている。首席フルートの女性が奏でているのは木製のフルートで、音は大きくないがふくよかで薫り高い音を放つ。対抗配置のコントラバスは向かって左端から二人ずつ前にせり出す並びで、一番前の二人は最前列チェロのすぐ後ろまで来ている。サウンド・デザインにこだわりを感じたが、「濃い口」の演奏に鳴れている人にとっては何か物足りない音楽だったかも知れない。オケの音量には節度があり、その注意深さによって今まで聞こえてこなかった緻密な構造が見えてくるようだった。この曲は、ブラームスの代表作のひとつでありながら、表面的で派手な演奏をされることが多いと思う。ブラームスもある種の栄誉を求めて曲を書いたふしがある。指揮者はその奥にある、神秘的で「ブラームスの素顔に近い」精神性を引き出そうとしているようだった。

庄司紗矢香さんは両足をステージにしっかりと吸い付けて、「不動の構え」ともいうべき姿勢で次から次へと目がくらむような超絶技巧を聞かせた。鮮やかなヴォイス・セパレーションは、この楽器の究極の魅力を引き出し、同時に簡単には触れないような威厳もまとっていた。こういう凄味のあるソロを演奏している人の姿というのは、神々しくもある反面怖くもあり、音も鋭利なので「癒し」の要素は全くない。オケは常人離れした凄いソロを引き立てるように、限りなく奥へ奥へと引っ込んでいく。作曲された当時のヨアヒムとブラームスの関係はこうだったのかな、と想像した。3楽章のヴィルトゥオジティのインフレーションのようになる箇所で、庄司さんが「これ、面白すぎるよ」という表情で一瞬スマイルになったので、天才はこんなところで笑うのかとびっくりした。当たり前でないオケのアプローチにソリストも尊敬の念を感じていたのか、アンコールのマックス・レーガー「プレリュードとフーガ」はオケに捧げる演奏に聴こえた(果たし状にも聴こえた)。

後半のムソルグスキー(ラヴェル編)『展覧会の絵』では前半の若いコンマスがセカンドになり、見るからにベテランといった風貌のコンマスが着席。オーケストラも大編成となり、音量も一気にデラックスに。冒頭のトランペット・ソロは輝かしく、こんなに威風堂々としたプロムナードは聴いたことがない。オペラグラスで見たら年代物の古い楽器に見えたが、トランペットにもストラドのような名器があるのだろうか。途中別の楽器に持ち替えている箇所もあったが、最後の喝采もこの奏者へ向けられたものが一番大きかった。
それにしても、なんという面白い曲なのか…アルティノグルはオペラ指揮者でもあるからか、この組曲がオペラ的にも聴こえた。あるシークエンスはワーグナーのように大げさで、そうかと思うとコミカルになったり、アニメーションを見ているような面白い気分になったりする。指揮者の後ろ姿はスタイリッシュだが、オケ側から見ると百面相なのかも。先日行われていた東京国際指揮者コンクールの予選では、このオケでアルティノグルのアシスタントをしていたフランス人ニキタ・ソローキンが素晴らしい演奏を聴かせたが、師匠から多くのことを学んだのだろう。書かれた作品の本質に切り込むような音楽を聞かせる。
『展覧会の絵』は凄いファンタジーで、世界戦争や神話やサイケデリックな誇大妄想が「飛び出す絵本」のように展開される。ムソルグスキーも編曲をしたラヴェルも「童心の人」で、精神の深い部分では大人なんか信じていなかった。子供が面白いものに過集中するように作曲をしていた二人で、ワーグナーなら古代神話として描くシリアスさも、彼らにとっては玩具箱の世界になる。その面白さを、飄々と客観的に眺めながら、アルティノグルは爆発的な音響をホールに轟かせた。前半と後半、同じ素材を使って全く違う料理を出された気分。
アンコールはドビュッシーの「月の光」(オーケストラ版)で、これはお洒落なフレンチのデザートのようで、繊細な合奏が本編とは異なる美味しさを味わわせてくれた。オーケストラはどんなことだって出来るのだ。
目まぐるしくシェフが交代するオケが多い中、フランクフルト放送交響楽団は一人の指揮者の在任期間が比較的長く、インバルは20世紀に16年間音楽監督を務めていた。アルティノグルとの共演はまだまだ聴いてみたい。人間的にも大変魅力的な指揮者のような気がする。





ロンドン交響楽団(9/26)

2024-09-28 15:10:35 | クラシック音楽
6月に英国ロイヤル・オペラ芸術監督として任期最後の公演を日本で行ったアントニオ・パッパーノが、今度はロンドン交響楽団のシェフとして3か月ぶりの来日を果たした。パッパーノの熱烈なファンである自分にとって嬉しいことこの上ない。ROHは22年間シェフを務め、終身芸術監督になるかとも思われたが、見事な幕引きを見せて新しいキャリアを迎えた。この公演では「超一流とは何か」ということを深く考えてしまった。
パッパーノは関わるオーケストラや合唱、ゲストを夢中にさせる。サンタ・チェチーリアの来日公演のときも走って指揮台にぴょんと登り、オケ全員を一瞬で集中モードに持って行った(アルプス交響曲)。オケとの日常が素晴らしいのだ。パッパーノはどの団体とも信頼関係が固く、おかしなスキャンダルを聞いたこともない。芸術性と人間性は別だ、なんて自分は信じない。そういう意見自体が前時代的だ。パッパーノには二度インタビューしたが、自分の洞察力を総動員して彼を観察し、本当に凄い人だと認識した。指揮者は顔が命だとも思うが、パッパーノは完璧で、本当にハンサムで素敵な顔をしていると思う。

クラシックの言説において感情を表現すると「プロっぽくない」とパージされる経験をしてきたが、感情の埒外にある表現をどう断じたらいいのか分からない。客観性? 誰か偉い人がそう言ったから? 一流はそれでよくても、超一流はそうはいかない。子供だって超一流を聴いたら直観でそれが何であるか分かってしまう。パッパーノの音楽は確実に情動に触れ、その感覚が真実のものであり、感情が二流のものではないと実感させてくれる。ロンドン交響楽団のメンバーはベテランが多いが、ベルリオーズ序曲『ローマの謝肉祭』から膠を剝ぎ取ったような若々しい響きを聴かせた。躍動感があり、音の粒子が細かく、入念に作りこまれているが勿体ぶったところがない。英国のオケといえば一流のブラス隊が名物だが、ロンドン響の金管は鳴らしすぎず注意深く響きを調整していた。

ユジャ・ワン登場。11センチくらいのハイヒールに、黄緑とピンクのグラデーションのスパンコールの超ミニドレスで、期待を裏切らないセンス。カラフルなアルマジロのようで、あのファッションで一音でもトチったら彼女の評価は乱降下してしまう。ナイフの上で爪先立ちをしているような賭けを毎回やっているのだ。バカンスはどこで過ごしたのか、すごい日焼けをしている。ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第1番』はユジャが弾くと人気の2番のコンチェルトよりモダンな意匠に富んだ曲に感じられ、ピアニシモは深い内観を表し、オケとのクラッシュするような掛け合いには作曲家の最後のピアノ・コンチェルトである4番に似たモダニティが感じられる。
パッパーノがオケから引き出すラフマニノフは胸を切り裂くように甘美で、情動が突き動かされ、ずっとパッパーノのラフマニノフを聴きたかったのだと砂が水を吸い込むように音楽を貪ってしまった。コンサートマスターが奏でる美音が、クライスラーの録音のようなセピア色の風情を醸し出す。ソロの超絶技巧は奇跡的で、鍵盤の上を飛魚のように跳ねるユジャの両手がマジックか何かを見ているようだった。

パッパーノは元々指揮者を目指していた人ではなく、コレペティとしてあまりにオペラ解釈に優れているので歌手たちが背中を押して、求められる形で指揮台に立った。バレンボイムはオペラの伴奏をするパッパーノのピアノを聴いて「弾いているのは誰だ?」と血相を変えたという。バレンボイムが放っておけない伴奏とはどのようなものだったのか。パッパーノの父親は声楽教師で、子供の頃から伴奏の手伝いをして歌手たちを見てきた。そのエピソードが好きで、9年前の取材で「あなたの人生を映画にしたら『ビリー・エリオット』のような名作になりますよ」と本人に伝えたら笑っていた。

伴奏ピアニストから指揮者になったことで、別人になって急に威張り始めたりしなかったのは、すぐにしかるべき一流のポジションについて「物の分かったオケ」相手に強制的な指示を出す必要がなかったからだろう。人間の世界とは、そのように出来ている。威圧を与えることで芸術が「成る」という伝説は、もう化石だ(一部ではまだ生きているのかも知れないけど)。パッパーノは祝福された人で、彼の生来の優しさや寛大さを損なわずに他者を尊重することで奇跡的な何かを生み続けてきた。

一方でパッパーノは「頑張る人」でもあり、果てしない努力や音楽家としての精進が芸術の高みに上る唯一の道であると信じている。ロンドン交響楽団では19世紀後半のレパートリーを充実させていくことが当面の目標であるとインタビュー映像で語っていたが、後半のサン=サーンス『交響曲第3番《オルガン付き》』では、細部にわたって吟味された音のデザインが、慎重なプランに沿って演奏されていた。オルガンをリチャード・ゴーワースが演奏し、精妙な音を鳴らす後ろ姿に天使の羽が見えたような錯覚を覚えた。
ラトル時代にもある種の完璧さを見せていたと思うが、パッパーノは音楽の根深い部分を聴かせ、それは聴き手の直観を強く刺激する演奏だった。サン=サーンスもオペラを書いたが、今までにROHの来日公演で聴いた他のフランスオペラ(『マノン』『ウェルテル』)を連想させる独特の色彩感があり、サン=サーンスが旅を愛し女性を愛し、愛することに大いに傷ついていた人であったことも思い出させた。そういう感情を引き出されることが自分にとって何より重要なのである。

不調和を招かないリーダーシップとは何かということも考えさせられた。他者へのリスペクトを基本にしながら、いざというときには船の帆を張って進むべき場所へと一気に進ませる。パッパーノはどんな時間も無駄にしない合理的な人であるとも思った。アンコールにフォーレの『パヴァーヌ』。ロンドン響の黄金の糸で編まれた布のようなサウンドに恍惚とした。最初から最高のパートナーシップを感じさせる、ロマンティックで鮮烈な演奏会だった。