小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

フランクフルト放送交響楽団(10/21)

2024-10-22 10:11:41 | クラシック音楽
来日中のフランクフルト放送交響楽団のツアー最終日のコンサートをサントリーホールで聴く。指揮のアラン・アルティノグルは2021年からフランクフルト放送響の音楽監督を務めているアルメニア系フランス人。世界中の名門オーケストラと共演を果たし、2016年からはベルギーのモネ劇場の監督も務めているが、プロフィールを調べたら1975年10月9日生まれで49歳の誕生日を迎えたばかり。この世代の特徴か、指揮台の上でも威圧的なところがなく、オケとフレンドリーな関係を結んでいるように見えた。

ブラームス『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』では庄司紗矢香さんが登場。黒の透かし模様のニットトップスに、ボトムスは光る素材のシルバーのパンツで、個性的な雰囲気が増している印象。オケの長い前奏部を瞑想的な表情で聴いていて、前日のみなとみらいでも同じ曲で共演しているはずだが、毎回オケの様子も微妙に変わるのだろう。全体のエネルギーの中からしかるべきソロを奏でようとしている姿にも見えた。
ブラームスのvnコンチェルトは先日の読響ヴァイグレ指揮&テツラフでも聴いたが、ソロもオーケストラも全く違ったアプローチだった。アルティノグルが引き出すサウンドはいぶし銀のように艶消しで、華やかに演奏されることの多いこの曲をわざと地味に聴かせている。首席フルートの女性が奏でているのは木製のフルートで、音は大きくないがふくよかで薫り高い音を放つ。対抗配置のコントラバスは向かって左端から二人ずつ前にせり出す並びで、一番前の二人は最前列チェロのすぐ後ろまで来ている。サウンド・デザインにこだわりを感じたが、「濃い口」の演奏に鳴れている人にとっては何か物足りない音楽だったかも知れない。オケの音量には節度があり、その注意深さによって今まで聞こえてこなかった緻密な構造が見えてくるようだった。この曲は、ブラームスの代表作のひとつでありながら、表面的で派手な演奏をされることが多いと思う。ブラームスもある種の栄誉を求めて曲を書いたふしがある。指揮者はその奥にある、神秘的で「ブラームスの素顔に近い」精神性を引き出そうとしているようだった。

庄司紗矢香さんは両足をステージにしっかりと吸い付けて、「不動の構え」ともいうべき姿勢で次から次へと目がくらむような超絶技巧を聞かせた。鮮やかなヴォイス・セパレーションは、この楽器の究極の魅力を引き出し、同時に簡単には触れないような威厳もまとっていた。こういう凄味のあるソロを演奏している人の姿というのは、神々しくもある反面怖くもあり、音も鋭利なので「癒し」の要素は全くない。オケは常人離れした凄いソロを引き立てるように、限りなく奥へ奥へと引っ込んでいく。作曲された当時のヨアヒムとブラームスの関係はこうだったのかな、と想像した。3楽章のヴィルトゥオジティのインフレーションのようになる箇所で、庄司さんが「これ、面白すぎるよ」という表情で一瞬スマイルになったので、天才はこんなところで笑うのかとびっくりした。当たり前でないオケのアプローチにソリストも尊敬の念を感じていたのか、アンコールのマックス・レーガー「プレリュードとフーガ」はオケに捧げる演奏に聴こえた(果たし状にも聴こえた)。

後半のムソルグスキー(ラヴェル編)『展覧会の絵』では前半の若いコンマスがセカンドになり、見るからにベテランといった風貌のコンマスが着席。オーケストラも大編成となり、音量も一気にデラックスに。冒頭のトランペット・ソロは輝かしく、こんなに威風堂々としたプロムナードは聴いたことがない。オペラグラスで見たら年代物の古い楽器に見えたが、トランペットにもストラドのような名器があるのだろうか。途中別の楽器に持ち替えている箇所もあったが、最後の喝采もこの奏者へ向けられたものが一番大きかった。
それにしても、なんという面白い曲なのか…アルティノグルはオペラ指揮者でもあるからか、この組曲がオペラ的にも聴こえた。あるシークエンスはワーグナーのように大げさで、そうかと思うとコミカルになったり、アニメーションを見ているような面白い気分になったりする。指揮者の後ろ姿はスタイリッシュだが、オケ側から見ると百面相なのかも。先日行われていた東京国際指揮者コンクールの予選では、このオケでアルティノグルのアシスタントをしていたフランス人ニキタ・ソローキンが素晴らしい演奏を聴かせたが、師匠から多くのことを学んだのだろう。書かれた作品の本質に切り込むような音楽を聞かせる。
『展覧会の絵』は凄いファンタジーで、世界戦争や神話やサイケデリックな誇大妄想が「飛び出す絵本」のように展開される。ムソルグスキーも編曲をしたラヴェルも「童心の人」で、精神の深い部分では大人なんか信じていなかった。子供が面白いものに過集中するように作曲をしていた二人で、ワーグナーなら古代神話として描くシリアスさも、彼らにとっては玩具箱の世界になる。その面白さを、飄々と客観的に眺めながら、アルティノグルは爆発的な音響をホールに轟かせた。前半と後半、同じ素材を使って全く違う料理を出された気分。
アンコールはドビュッシーの「月の光」(オーケストラ版)で、これはお洒落なフレンチのデザートのようで、繊細な合奏が本編とは異なる美味しさを味わわせてくれた。オーケストラはどんなことだって出来るのだ。
目まぐるしくシェフが交代するオケが多い中、フランクフルト放送交響楽団は一人の指揮者の在任期間が比較的長く、インバルは20世紀に16年間音楽監督を務めていた。アルティノグルとの共演はまだまだ聴いてみたい。人間的にも大変魅力的な指揮者のような気がする。





ロンドン交響楽団(9/26)

2024-09-28 15:10:35 | クラシック音楽
6月に英国ロイヤル・オペラ芸術監督として任期最後の公演を日本で行ったアントニオ・パッパーノが、今度はロンドン交響楽団のシェフとして3か月ぶりの来日を果たした。パッパーノの熱烈なファンである自分にとって嬉しいことこの上ない。ROHは22年間シェフを務め、終身芸術監督になるかとも思われたが、見事な幕引きを見せて新しいキャリアを迎えた。この公演では「超一流とは何か」ということを深く考えてしまった。
パッパーノは関わるオーケストラや合唱、ゲストを夢中にさせる。サンタ・チェチーリアの来日公演のときも走って指揮台にぴょんと登り、オケ全員を一瞬で集中モードに持って行った(アルプス交響曲)。オケとの日常が素晴らしいのだ。パッパーノはどの団体とも信頼関係が固く、おかしなスキャンダルを聞いたこともない。芸術性と人間性は別だ、なんて自分は信じない。そういう意見自体が前時代的だ。パッパーノには二度インタビューしたが、自分の洞察力を総動員して彼を観察し、本当に凄い人だと認識した。指揮者は顔が命だとも思うが、パッパーノは完璧で、本当にハンサムで素敵な顔をしていると思う。

クラシックの言説において感情を表現すると「プロっぽくない」とパージされる経験をしてきたが、感情の埒外にある表現をどう断じたらいいのか分からない。客観性? 誰か偉い人がそう言ったから? 一流はそれでよくても、超一流はそうはいかない。子供だって超一流を聴いたら直観でそれが何であるか分かってしまう。パッパーノの音楽は確実に情動に触れ、その感覚が真実のものであり、感情が二流のものではないと実感させてくれる。ロンドン交響楽団のメンバーはベテランが多いが、ベルリオーズ序曲『ローマの謝肉祭』から膠を剝ぎ取ったような若々しい響きを聴かせた。躍動感があり、音の粒子が細かく、入念に作りこまれているが勿体ぶったところがない。英国のオケといえば一流のブラス隊が名物だが、ロンドン響の金管は鳴らしすぎず注意深く響きを調整していた。

ユジャ・ワン登場。11センチくらいのハイヒールに、黄緑とピンクのグラデーションのスパンコールの超ミニドレスで、期待を裏切らないセンス。カラフルなアルマジロのようで、あのファッションで一音でもトチったら彼女の評価は乱降下してしまう。ナイフの上で爪先立ちをしているような賭けを毎回やっているのだ。バカンスはどこで過ごしたのか、すごい日焼けをしている。ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第1番』はユジャが弾くと人気の2番のコンチェルトよりモダンな意匠に富んだ曲に感じられ、ピアニシモは深い内観を表し、オケとのクラッシュするような掛け合いには作曲家の最後のピアノ・コンチェルトである4番に似たモダニティが感じられる。
パッパーノがオケから引き出すラフマニノフは胸を切り裂くように甘美で、情動が突き動かされ、ずっとパッパーノのラフマニノフを聴きたかったのだと砂が水を吸い込むように音楽を貪ってしまった。コンサートマスターが奏でる美音が、クライスラーの録音のようなセピア色の風情を醸し出す。ソロの超絶技巧は奇跡的で、鍵盤の上を飛魚のように跳ねるユジャの両手がマジックか何かを見ているようだった。

パッパーノは元々指揮者を目指していた人ではなく、コレペティとしてあまりにオペラ解釈に優れているので歌手たちが背中を押して、求められる形で指揮台に立った。バレンボイムはオペラの伴奏をするパッパーノのピアノを聴いて「弾いているのは誰だ?」と血相を変えたという。バレンボイムが放っておけない伴奏とはどのようなものだったのか。パッパーノの父親は声楽教師で、子供の頃から伴奏の手伝いをして歌手たちを見てきた。そのエピソードが好きで、9年前の取材で「あなたの人生を映画にしたら『ビリー・エリオット』のような名作になりますよ」と本人に伝えたら笑っていた。

伴奏ピアニストから指揮者になったことで、別人になって急に威張り始めたりしなかったのは、すぐにしかるべき一流のポジションについて「物の分かったオケ」相手に強制的な指示を出す必要がなかったからだろう。人間の世界とは、そのように出来ている。威圧を与えることで芸術が「成る」という伝説は、もう化石だ(一部ではまだ生きているのかも知れないけど)。パッパーノは祝福された人で、彼の生来の優しさや寛大さを損なわずに他者を尊重することで奇跡的な何かを生み続けてきた。

一方でパッパーノは「頑張る人」でもあり、果てしない努力や音楽家としての精進が芸術の高みに上る唯一の道であると信じている。ロンドン交響楽団では19世紀後半のレパートリーを充実させていくことが当面の目標であるとインタビュー映像で語っていたが、後半のサン=サーンス『交響曲第3番《オルガン付き》』では、細部にわたって吟味された音のデザインが、慎重なプランに沿って演奏されていた。オルガンをリチャード・ゴーワースが演奏し、精妙な音を鳴らす後ろ姿に天使の羽が見えたような錯覚を覚えた。
ラトル時代にもある種の完璧さを見せていたと思うが、パッパーノは音楽の根深い部分を聴かせ、それは聴き手の直観を強く刺激する演奏だった。サン=サーンスもオペラを書いたが、今までにROHの来日公演で聴いた他のフランスオペラ(『マノン』『ウェルテル』)を連想させる独特の色彩感があり、サン=サーンスが旅を愛し女性を愛し、愛することに大いに傷ついていた人であったことも思い出させた。そういう感情を引き出されることが自分にとって何より重要なのである。

不調和を招かないリーダーシップとは何かということも考えさせられた。他者へのリスペクトを基本にしながら、いざというときには船の帆を張って進むべき場所へと一気に進ませる。パッパーノはどんな時間も無駄にしない合理的な人であるとも思った。アンコールにフォーレの『パヴァーヌ』。ロンドン響の黄金の糸で編まれた布のようなサウンドに恍惚とした。最初から最高のパートナーシップを感じさせる、ロマンティックで鮮烈な演奏会だった。





ミシェル・プラッソン 日本ラストコンサート(8/15)

2024-08-18 22:31:46 | クラシック音楽
オペラシティで二日間行われたミシェル・プラッソンの日本ラストコンサートの最終日を聴く。客層がいつもと違っていて、夏休みの親子連れが多かったが、子供無料で保護者半額というチケットの料金設定だったらしく、ジャーナリストには案内が少なかったのか、当日券を購入して入った。「東京二期会プレミアムコンサート2024」としての上演で、過去に共演したマエストロのさよなら公演を二期会のソリストと合唱が協力して行うというのは心温まる。

1933年10月生まれのプラッソン氏は90歳。白いジャケットを着たマエストロはにこやかに微笑んで指揮台に上がった。椅子が用意されていたが、ラヴェル『マ・メール・ロワ』の最初の二曲は立って指揮をしていた。「眠れる森の美女のパヴァーヌ」はゆっくり、ゆっくりと進む。オペラシティの一階席はステージを見上げるような姿勢で聴くことになるが、奥にいる東フィルの管楽器が見えないのが残念だった。視界に入る弦楽器のプレイヤーは凄い集中力でマエストロの心に寄り添っていて、「眠れる森…」は何かをまくしたてるのと反対の、澱みながら思い出しながら大切な何かを語るようなフレージングだった。ひとつひとつの音が貴重な糸のようで、丁寧に編み込まれていく絹のサウンドに感じられる。「親指小僧」では木管が「そのとき偶然に鳴った鳥の声」のような音を出す。自分が下手なピアノで弾くときはうっかり「これは音譜です」みたいな無骨な音を出してしまうが、オーケストラには無味乾燥な音などひとつもなく、全体が自然界の相似形で、深海か深い森の中にいるような心地になってくる。
東洋風の「パゴダの女王レドロネット」は、お香のようないい香りがするような音楽で、エキゾティックなバレエの一幕や、プッチーニの『トゥーランドット』の紫禁城のようなヴィジョンが見えてくる。最後の「美女と野獣の対話」では、巨大な日没のパノラマが拡がり、オーケストラが表す色彩やら香りやら記憶やら「すべての懐かしいこと」に溺れる感覚があり、なぜか涙で喉が詰まってしまった。

ラヴェル『ダフニスとクロエ』第2組曲は、第1曲「夜明け」から痺れるような宇宙的な響き。フランス音楽にはこの世界に存在する美しいものすべてが詰まっていると思わずにはいられない。二期会合唱団の神秘的な歌声が複雑で豊かな音のうねりを創り出す。この曲でも東フィルの表情が本当に素晴らしく、全身全霊でマエストロの精神をくみ取ろうとしているのがわかる。
マエストロの優しさや「有終の美」のようなイメージが吹き飛んだのは第3曲『全員の踊り』で、獰猛なほど激しいfffがラヴェルの狂気を炙り出してきた。古代という時間への憧憬、人間が今よりももっと原始的な力に溢れていた頃の野生が、驚くような生々しい音楽となってホールに吹き荒れた。年を重ねたから何かが穏やかになったとか、強靭さが失われたということでは全くないのだ。プラッソンの中の炎がオケに飛び火して、火傷しそうなほどホットなダフニスだった。

フランス音楽の真髄といえば、先日デュトワと新日本フィルの見事な共演を聴いたばかり。読響とカンブルランの10年間にもフランス音楽の豊饒さに驚き続けたし、ライヴで聴いた回数は少ないが日本の矢崎彦太郎先生の指揮には本物のフランス音楽のエッセンスが渦巻いていると感じる。その中でも90歳のプラッソンの「フランスの美学」は巨塔のようだ。この日『マ・メール・ロワ』を初めて聴いた子供たちにとっては楽しい音楽。同時に自分にとっては今まで聴いたこともない、この先も聴くことができないかも知れない『マ・メール・ロワ』だった。

オーケストラを聴くのに、無駄にささくれ立った心になっていた自分にとって、素晴らしい癒しの時間でもあった。フォーレの『レクイエム』を8/15の日本で聴くというのは特別な感覚をともなう。一曲ずつ、光の扉が開いていく鎮魂歌で、フォーレは母の死を悼みながら「きっと魂はよきところへ行く」と信じて作曲したのだと思った。昔リヨンの教会で観た見事な彫刻を思い出す。プラッソンの『レクエイム』はマリアやイエスや天使たちの塑像が、触覚的に感じられる音で、イタリアのリアルなバロック彫刻とも違う優美さをともなっている。二期会合唱団は「ダフニスとクロエ」とは全く別の質感の声を出していて、その引き出しの多さにも感心した。「オッフェルトリウム」「リベラ・メ」では小森輝彦さんが、「ピエ・イエズ」では大村博美さんがソロを歌われ、先日蝶々さんを歌われたばかりの大村さんが、透明で形而上学的なフォーレを聴かせたのは見事だった。

アンコールはフォーレの『ラシーヌ讃歌』で、こんなにも貴重な贈り物を得た後は、聴衆もなかなかマエストロを帰そうとしない。一度さわやかに舞台を去ったプラッソン氏は、長い長い喝采に引き戻されて再びステージの中央に現れた。心からの笑顔と、胸にハートを抱くようなポーズで聴衆に感謝の念を示す。そのときはもう、フランスとか日本とか、そんなことはどうでもよくなった。魂と魂は近づくためにある。天界のようなフェアウェルコンサート。マエストロにとってこの酷暑の2024年の東京が、よき思い出になってくれたことを願うばかり。















都響×ダニエル・ハーディング(8/9)

2024-08-10 19:14:35 | クラシック音楽
都響とハーディングの待ち望まれた初共演は二日間とも完売。満員のサントリーホールでベルク『7つの初期の歌』とマーラー『交響曲第1番《巨人》』を聴く。何から語ったらいいのか。ハーディングは音楽ライターとしての自分に、永遠の夏休みを与えてくれたという意味で、神のような指揮者である。本人とは話したことはないが、2016年のパリ管来日公演でハーディングが指揮したマーラー5番に「恐怖を感じる」という感想を書き、炎上した。そこから8年の日々。ハーディングが振るマーラーは、私の運命を変えたと思う。
都響の感想の前に、そのあらましを書いてみたい。

2016年秋、パリ管のシェフに就任したばかりのハーディングがオケを率いて振ったマラ5は、直観的に自分に被害者(!)の意識を感じさせるもので、当時もうまく言葉に出来なかったと思うが、内容としては印刷された楽譜を完璧に、迫力をもって再現していた。2016年当時、今よりは多忙な音楽ライターだった自分は、記者懇親会で同席する評論家やSNS上のクラシックファンから「頭の悪いお前にクラシックは語らせまい」というお叱りを立て続けに受け、元々頭脳派でもないので自分なりの批評の軸を必死に探していた。
ハーディングの超理路整然とした指揮と、そこで一致団結したパリのエリートたちの演奏は、「やはり自分には相容れない世界なのか」と打ちのめしてくる音楽で、最終楽章は「ワーテルローの戦い」のような戦争画を想像した。

その同じ年には、新日本フィルとの最後の共演があった。それもマーラーだった。指揮者なら光栄であるはずの《千人》のリハーサルにハーディングが現れず、声楽ソリストの一人から「ハーディングから色々学ぶのを楽しみにしていたが、本人がいない。23歳のアシスタントでは何とも頼りない」とメールが来た。ウィーン・フィルでのガッティの代役を優先したハーディングの気持ちも分かる。傷ついたのは、サントリーホールの公演でほとんどリハをしていないハーディングが、本番で見事な手旗信号をこなしたことだった。すみだの2回の本番は実質ゲネプロで、最後のサントリーだけが本番、という声もあった。
「それなのに完璧に振っているように見える」ことが自分にはショックだった。
本物のエリートで、本物の天才だと思った。

パリ管の来日は件の《千人》の後で、マーラーはBプログラム。Aプログラムでは感じなかった激しい拒絶感がマラ5に走った。マーラーのボヘミア性や男性としての脆弱性を完全に抜き去った「推進力」に満ちたヒロイックな指揮に、世界で最も優秀なオケのひとつであるパリ管が一致団結して応えている。その様子に、違和感がこみ上げた。咄嗟に思い出したのは2015年に起こったシャルリー・エブド襲撃テロだった。イスラム教徒と指導者を戯画化する大衆誌シャルリー・エブドの編集部が襲撃され、多くの死者が出、パリ中が震えた。エキゾチックなものや異教的なもの、マイナーな他者に対して理解を遮断すると、どういうことになるのかということを考えさせる事件だった。

混乱した頭で、しかし自分なりにある程度の節度をもって「パリ管のようなエリート集団にこのような演奏をさせるのは危険だ」という感想を書いた。「軍隊的で白人優位的で、ハーディングの音楽からはマーラーの精神が感じられぬ」とも書いた。このマーラーからはパリのテロのような、異質なもの・少数派の立場にいる者への不寛容からくる暴力事件の萌芽を感じたのだ。それを読んだパリ在住の読者から「パリに住んでいる者としてそのような感想はわれわれの恐怖を煽る。取り消せ」と怒りのメッセージが届き、慌てて謝罪すると、当時のパリ管のセカンド・トップの千々岩さんから「感じたままをお書きになったらいいと思いますよ」と、皮肉とも励ましともつかぬリプライをいただいた。

炎上の後、音楽ライターとしては踏んだり蹴ったりで、新日フィル時代からのハーディングのファンからは唾を吐かれるような態度を取られ、仲良くしていた「オーケストラファン」とも次第に険悪になり、当たり前のように受けていたライナーノーツやインタビューの仕事も激減していった。ハーディングの音楽から感じた恐怖を綴っただけのつもりだったが…永遠の夏休みのような仕事の少ない時間は、「これが今の自分の評論への世界からの答えなのだ」と感じさせるに十分だった。他にも色々書き手として不備な点はあったと思うが、すべては2016年のあの炎上から始まった。

「好きでないのなら、聴きにいかなければいい」と先輩の評論家から諭された。しかし、この仕事をしていてパリ管や都響を聴きたくないわけがない。今年に入ってから、都響は雲の上にいるような凄い演奏を立て続けに聴かせてくれた。アダムズ、インバル、フルシャ、ギルバート…ギルバートの感動的なコンサートからわずかな日しか経っていない。アラン・ギルバートは桁外れの指揮者で、オーケストラのサウンドの「粒子」まで変えてしまう。同時期に聴いたノットが色褪せた。ノットは情熱的でカリスマティックだが、平面的で活劇的な音楽を鳴らしていると感じることがある。

前半のベルクは世紀末の退廃感漂う妖艶な曲で、エメラルド色のドレスを着て登場したソプラノのニカ・ゴリッチは美しく、美声。最初は少し伸びやかさが足りないと感じたが、2曲目から羽根の生えたようなめざましい高音で魅了してきた。R・シュトラウスの「4つの最後の歌」を連想したが、ベルクのこの曲は耳に新鮮で、これなら後半も大丈夫だと思った。

マーラーの1番は魔法のような音楽だと思う。きらびやかで面白く、金管の立奏はいかにもエンターテイメント的だ。
始まって間もなくして、「クリスマスツリーのようなマーラーだ」と思った。強弱やソロの抑揚にこだわり抜いた指揮は、それらの部品が全体としての塊にならないまま、次々と虚空へ消えていく。都響のプレイヤーは見事なのだ。毎秒毎秒行われていることは素晴らしい。しかし、表面を飾り立てられたサウンドは「マーラーは何者か」ということも「指揮者がマーラーをどういう人物としてとらえているか」も伝えてこない。自分は過去に色々ありすぎて、ハーディングの音楽に偏見があるのではないか? と新しい耳で聴こうと努力する。都響は精緻でデラックスな音を出していたと思う。

なぜか突然、2013年のスカラ座来日公演でハーディングがヴェルディの『ファルスタッフ』を振ったときのことを思い出した。もうひとつの演目は『リゴレット』で、こちらはなぜかドゥダメルが指揮をした。『ファルスタッフ』はある意味、ドリブル、パス、シュート、的な運動神経が求められるオペラだから(もちろんそれだけではないが)、ハーディングによく合っていた。目の前の指揮者のきびきびした動きに、電気信号的なものを感じる。「指揮」と「操縦」はどこか似ている。ハーディングが指揮者をやめてエールフランスに就職した「パイロット」であることは、もうなかったことになっているのだろうか。

指揮者に誠実さを見せつつ、2016年のパリ管のように「一致団結して燃え上がる」ことを最後までしなかった都響に、何か信頼感みたいなものを感じた。オーケストラと指揮者との間にあるデリケートなものがあるのだ。ある奏者は「見事な指揮だ」と思い、別の奏者は「そうでもない」と思ったのかも知れない。インバルやギルバートのときと、何が違うのか理屈で説明してみろ、と言われたら「オケの心からひとつになるか否か」と答えたいが、これは「科学的に説明」できない。

個人的に、英国の指揮者に苦手な人が多いのかも知れない。ラトルもさっぱり理解できなかった。どんなにフレンドリーでも、階級社会のエリートとしての限界が見える。才能があれば、社会的に「指揮者」という玉座が、当たり前のように用意されている。我が国指揮者の秋山さん、小泉さん、尾高さんは侍の精神で心を研ぎ澄まして指揮者になった人々で、そういう方たちの音楽には当然、凄味がある。
オーケストラを聴き続けてきて、喜びも多かったが「あまりにも苦しめられたわ!」と果物ナイフを振り上げるトスカのような気持ちになることもある。音楽も人の生き方も、表面を飾っただけの代物は信じられない。



「ワーテルローの戦い」


読響×カタリーナ・ヴィンツォー(7/13)

2024-07-15 08:43:54 | クラシック音楽
日本デビューとなる1995年生まれの指揮者カタリーナ・ヴィンツォーと読響の共演。4日前にはサントリーでブラームス2番などを振ったが、やや優等生的な印象で、芸劇でのプログラムにはあまり期待をしていなかった。結果として、二公演聴いておいてよかった。20代で世界中の名門オケに客演している理由が分かり、将来有望であることは勿論、今の若さで聴きたいと思わせる輝かしいエネルギーが感じられた。

ドヴォルザーク 序曲《謝肉祭》から読響の全パートが強力なパワーを発していた。ノースリーブの黒いブラウスと黒いボトムスで登場したヴィンツォーは溌剌とした指揮で、立体的で熱狂的なサウンドをオーケストラから引き出す。奥にいる管楽器と打楽器が前に飛び出してくるような迫力があり、たくさんの種類の面白い音が聴こえる。10分ほどの曲だが、指揮者のスタミナがオケの迫力を引き出す様がありありと伝わってきた。理路整然とした棒で、柔軟性もあり、わくわくするイマジネーションを感じさせた。

モーツァルト『フルートとハープのための協奏曲』では、フルートのマチュー・デュフォーと読響ハープ奏者の景山梨乃さんがソロパートを演奏。ロココ絵画の抜けるような青空が見え、一気に涼しい気分に。モーツァルトは声楽曲も「素直に」歌うのが一番美しいが、ヴィンツォーの正確さにこだわる明晰な音楽作りはモーツァルトで活き活きとしていた。デュフォーのフルートは天上の響きで、景山さんのハープと溶け合っていつまでも聴いていたくなる。ホールの隅々まで柔らかい音が響き渡り、外気の蒸し暑さを忘れた時間だった。

個人的に正統派のアプローチというものが苦手で、指揮者もソリストもニッチな美学の持ち主が好みなのだが、どんなときも基礎をストイックに叩き込んだ音楽家は無敵だと改めて気づかされた。ヴィンツォーの後ろ姿からは、ローカルなポジションに収まるつもりなんかない、秘められた野心が感じられたのだ。
先日聴いたプラハ放送響では、若き熱血指揮者ポペルカのドヴォルザークがどことなく垢ぬけない印象で(濁り酒の味わいはあったが)国際的なキャリアを上っていったフルシャは最初から違っていたのか、途中から方針を切り替えたのか色々考えてしまった。棒一本で世界に殴り込みをかけるという生き方とはどういうものなのか。圧倒的な才能に加えて、コミュニケーション能力やひらめく知性、温かい人間性や冷静さなど多くのことが求められる。

少なくとも「女性指揮者」というカテゴリーは、ますますメジャーになってきて、読響も今年に入ってからだけでもマリー・ジャコやステファニー・チルドレスら新鋭マエストロをゲストに迎えている。実力があれば、女性ということが武器にもなる時代。ヴィンツォーの経歴を見ると、24歳でダラス響のルイージの副指揮者に就任し、ムーティやズヴェーデンのマスタークラスに参加という記述があるが、師の教えをスポンジのように吸収し、与えられた可能性の中で最高の表現を目指してきたのだろう。

どんな仕事も、周囲の応援やスカウトがあってこその出世だが、まず本人が「何を目指しているか」が重要なのだと気づかされた。後半のドヴォルザーク「交響曲第8番」では、オーケストラを完璧に掌握し、曲の優美さや面白さを次々と聴かせるヴィンツォーの魔術に驚愕。リハーサルから素晴らしい高揚感だったのだろう。ドヴォルザークの中のワーグナー的な響きにもはっとした。オペラも振るという彼女、もしかしたら数年以内にバイロイトのピットに入っているかも知れない。最終楽章の冒頭のトランペットが、この指揮者の「私は勝つ!」という勝利のファンファーレに聴こえた。脳のノイズに毒されたり、余計な悩みを抱えなければ、この若さでこんな高邁な音楽を創り上げることが出来る。オーケストラからの喝采にぴょんぴょん嬉しがる仕草はまだ20代で、さきほどまで指揮台にいた「女皇帝」はどこへ行ったのか。読響との相性は抜群で、ヴィンツォーにとって素晴らしい夏になったはず。猛暑と湿気のひどい天候が続く中で、ホールの中だけは爽やかな夏の祝祭が繰り広げられた。