小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『サロメ』(5/30)

2023-05-31 16:11:48 | オペラ
新国『サロメ』はアウグスト・エファーディング(1928-1999)演出の7回目の再演。2000年の初演から続いている同演出を観たのは2016年3月、7年前になる。同時期にヴォータンも演じたグリア・グリムスレイのかっこよすぎるヨハナーンにクラクラした記憶があるが、装置やディティールに関してはかなり曖昧にしか覚えていなかった。ヘロデ王の宴が催されているのはニンニクのような(!)形状の屋根の下に張られたテント状の空間で、ヘロディアスを侮辱したヨハナーンは大きなマンホール(?)の下に監禁されている。コサック兵のような装束の兵士と、その脇には機動隊のような兵士たちが構えており、視覚的に古代と現代の時間がミックスしたような感覚。一時期のベジャール・バレエを思い出した。

サロメ役のアレックス・ペンダ(アレクサンドリーナ・ペンダチャンスカ)は可憐で小柄、ノットと東響との『パルジファル』ハイライトで聴いたときはもっと大柄な印象があったが、プロの舞台人はオーラを切り替えることが出来るので、サロメ役では少女になり切っていたのかも知れない。華美な宮殿の中でサロメだけ黒い衣裳をつけて、まだ俗悪なものを知らない幼い修道女にも見える。歌唱は気迫に満ち、高音が厳しそうな箇所もあったが、ほとんど気にならなかった。

大きな発見は、この演出ではサロメとヨハナーンが「実は最初から心が通じ合っている」ように見えることだった。サロメの求愛に対してヨハナーンは理性を必死に保ちながら呪詛の言葉で立ち向かう。歌手によって見え方が違うのかも知れない。前回のグリア・グリムスレイは屈強だったが、今回のヨハナーンは一瞬でも気を緩ませたらサロメに呑み込まれそうな繊細さがあった。プロフィール写真ではスキンヘッドのアイスランド出身のバリトン、トマス・トマソンが黒い蓬髪の洗礼者を演じた。

サロメはヨハナーンの「龍が住む洞窟のような黒い瞳」「葡萄のような黒髪」「象牙の柱のように細くて白く美しい体躯」に一目惚れして「私は美しいお前にキスしたい」と歌う。これに対してヨハナーンは「ソドムの娘。汚らわしい淫売」とサロメを追い払う。お互いの言い分がかみ合わない、どこまでいっても平行線のやり取りを、オーケストラが全く異なる響きの音楽でアンダーラインする。サロメは陶酔し、ヨハナーンは呪う。しかしここでは裏腹なものが通底している。コンスタンティン・トリンクス指揮の東フィルが今回も奇跡的な音を奏でていた。

リヒャルト・シュトラウスは素晴らしい思想家で、どうにもならない二つのパワーの相克を、オペラの力で結末へと運んでいく。『エレクトラ』と『サロメ』をこの5月に立て続けに聴いて、作曲家は巨大な思想を残した偉人なのだと痛感した。男女は分かり合えず、理念の違うも者同士は殺し合い、どちらが悪人かも判然としない。サロメは愛を求め、ヨハナーンは信条=自己にとっての正義を貫く。ディスカッション不可能な者同士の対峙は、宗教戦争そのものだ。しかし、背き合うもの同士は、その過程でどんどん似てくるのだ。

5人のユダヤ人たちは与儀巧さん、青地英幸さん、加茂下稔さん、糸賀修平さん、畠山茂さんが演じたが、旧約聖書の登場人物であるはずが皆16世紀頃の宣教師に見える。演出家が意図したのは、かなり宗教的な含蓄のあるメッセージだと思う。「どちらが異教徒か」という現代まで続く議論が、100分のオペラの中に(恐らく)詰め込まれている。上演される土地によって、リアリティの度合いが異なるかも知れない。

サロメを淫蕩だと非難するヨハナーンは、実はサロメに魅了されている…と強く感じたのは、自分の容姿を誉めそやす少女の言い分が、初めて気づかされた自分の女性的な部分なのではないかと思われたから。お前の目が素敵、髪が豊か、肌が白くて美しい…ぞっとするほど魅了される、と迫られる。女の側が一目惚れをして、「金色のアイシャドウの下の金色の瞳で」男の自分に触れたがってくる。官能の相互作用が、微粒子のように空間に漂い始める。

リヒャルト・シュトラウスのオーケストラは、香りであり気配であり、理念の網を潜り抜けて感覚に触れてくる。嗅覚的であり触覚的であり、第六感的な魔法だ。理念という鉄骨の間から沁み出す湧水のようなもので、聴いている側は知らぬうちに催眠術にかけられる。交響詩とオペラでこの技を駆使した作曲家が、交響曲にはそれほど食指を動かされなかったのは、自らの資質を自覚していたからだろう。

ヘロデ王にヨハナーンの首をとらせるためにサロメが舞う「七つのヴェールの踊り」は、ふだん舞うことのない多くの歌手にとって大変な場面だが、最初シルエットとして、そのあとすぐに照明を浴びて踊り続けたアレックス・ペンダは魅惑的だった。昔METライブ・ビューイングでカリタ・マッティラが苦渋に満ちた表情で踊ったときは「大人の拍手」が沸き起こっていたが、相応しい振付と衣裳と照明を味方につければ、歌手にとっても遣り甲斐のあるシーンだと思う。

ヨハナーンの斬首を仄めかす弦の擦過音は恐ろしく、その後のサロメの陶酔の歌も凄味があった。10年くらい前、ピアニストのニコライ・ホジャイノフが「先日『トスカ』と『サロメ』を観たんだけど、女性って恐ろしいんだね」とインタビューで語ってくれたことを思い出した。トスカもサロメも恐ろしい女性ではなく、純真で素直なだけなのだ。ただ、愛が強すぎる。幼いサロメが抱いていたのは肉欲というよりも、「一目惚れをした魅惑的な異性との未来の夢」で、それを本人から断たれたことで、自分なりの一体化をはかった。それを別の男の肉欲によって果たすところは、老獪かも知れない。

オペラは衒学的なものではなく、それほど知識は必要ないのではないかと思わされた公演でもあった。サロメの歌詞のところどころが身につまされ、ただ生きているだけでオペラを理解するのは容易なことだと実感したそう言い。切るには、時間がかかったことも確かである。

ヘロディアスを演じたジェニファー・ラーモアはロッシーニの名手で、前回新国で演じた『イェヌーファ』のコステルニチカの葛藤のある演技も素晴らしかった。歌声も本当に素晴らしいが、舞台にいてサロメの様子をじっと見つめているだけでも存在感がある。ヘロデ王のイアン・ストーレイの威厳と滑稽の入り混じる演技も心に残る。前半でサロメのヨハナーンへの愛に失望して自害してしまうナラボート役の鈴木准さんも大きな貢献を果たしていた。
6/1 6/4にも上演される。


(プログラムの画像)
























新国立劇場『リゴレット』(5/18)

2023-05-26 16:54:13 | オペラ
新国『リゴレット』の初日(5/18)を鑑賞。全6回の公演中、既に3回上演が行われたが、時間が経つにつれこれは桁外れのプロダクションなのではないかという認識に至った。新制作の演出はエミリオ・サージによる比較的シンプルなもので、2013年のクリーゲンブルク演出の「回転しまくる大道具」の派手さとはある意味正反対な世界。人間心理の本質的な恐ろしさをジワジワ見せる知的な演出だった。
時代背景に関して大胆な読み替えが行われたり、派手な装置が登場するわけでもないノーマルな上演だったのだが、歌手たちの出来栄え、指揮者の力量、オケのレスポンスなど全ての要素が高水準で、ヴェルディ作品の真髄を浮き彫りにする奇跡的な時間となった。

冒頭のマントヴァ公の宮殿シーンでは、傾斜のある舞台で女たちが土に埋まった野菜のようにうなだれて寝そべっている。照明が当たるとそれぞれがドレスを着た女性たちであることが分かるのだが、そのうちの二人はオペラグラスで見ると女装した男性で、道化のリゴレットをからかったり誘惑したりしている。リゴレットのロベルト・フロンターリはほぼ素の本人もこんなふうなのではないかというほど自然な佇まいで、道化の衣裳も背中の詰め物も大袈裟なところがない。歌手フロンターリその人が舞台にいるという印象で、それはそれで深い演出だと思った。

マントヴァは93年生まれのペルー生まれのテノール歌手、イヴァン・アヨン・リヴァス。志の高い歌手で、最初はこの役を演じるには地味かなとも思ったが、音程も声量も完璧で、勇敢にソロの妙技を聴かせていく。性格的に物凄く真面目で一途な印象。

ジルダ役のハスミック・トロシャンは2019年の『ドン・パスクワーレ』のノリーナ役でユーモラスな美女を演じ、こんな華やかで美しいソプラノがこの世にはいるのだと驚いたが、ジルダ役ではシリアスで悲劇的で、声楽的に極限まで磨き上げている歌手であることを再認識した。ジルダは過酷なパートで、演劇的にもそうだが、小鳥のような高音を自在に操って恋する自分の心の内を表現する。リゴレットとの二重唱も内容があり、ともすれば説明的になってしまうシーンを長く感じさせることなく美しく聴かせた。

指揮のマウリツィオ・ベニーニは、恋するジルダの天にも昇るような心、命より大事な娘を拉致されたリゴレットの怒りと狼狽をドラマティックに引き出し、ピットから東フィルの神業のようなサウンドが溢れ出した。一幕とニ・三幕の間に休憩があり、二幕開始にピットに入ったときから大きな喝采があったが、無理もない。ベニーニはヴェルディに関して、リゴレットに関して抱えきれないくらい膨大なアイデアを持っていて、どうすれば世界中のオケからその音を引き出せるかも知っている。東フィルはオペラを知り尽くしているから、期待以上のものをマエストロに返したのではないか。恐ろしいほど「語るオーケストラ」だった。

ヴェルディでこうした渋い充実感を味わったのは、久しぶりというより初めてかも知れない。リゴレットのフロンターリ、ジルダのトロシャン、マエストロ・ベニーニは個々の人生の中でこのオペラを掘り下げており、それが寄木細工のように東京の劇場で組み合わさって、底力のある名演が実現した。オペラとはつまり、そういうことの凄さだと思う。

リゴレットもブロードウェイを舞台にしたMET演出があったり、色々いじられてきた作品だが、本当に大事なのは表面的な衣裳ではなく、心理であり精神である。エミリオ・サージは演出ノートで、マントヴァの本質は「退屈」であり、リゴレットの本質は「執着心」であるというようなことを書いているが、このような透視するような視点がなければ、演出の意味もないのだと思う。

リゴレットが怒り狂う「鬼め、悪魔め」は何度聴いても心が粉々になるが、フロンターリの極め尽くした歌、東フィルの衝撃的なサウンドで途轍もない場面になった。ピットのベニーニの後ろ姿を見て、これがオペラの本質なのだと打ちのめされる思い。すべての場面が卓越し心理劇で、指揮者としても歌手・オケ・合唱・演出の好条件を得て余すところなくリゴレットを表現しているようだった。

マントヴァのリヴァスの「女心の歌」は素晴らしく、高音のフェルマータはサービス精神旺盛。テノールとして生き、マントヴァとして舞台で生きようとする気概が、ラストの姿が見えない場面での歌からも感じられた。ヴェルディのために集まった芸術家たちが、宝石のような共演を果たした夜だった。

一度だけ取材したレオ・ヌッチに「ヴェルディを演じることは、実人生の自分を成長させてくれる経験ではないのですか」と質問したところ「一番私が言いたいことを言ってくれた」と、その場でノートにダヌンツィオの詩を書いてプレゼントしてくれた。ヴェルディと歌手たちの絆はそれほど深い。フロンターリも、そうした絆を作曲家に感じていると思う。

日本人キャストは安定の名演で、スパラフチーレ妻屋秀和さん、モンテローネ須藤慎吾さん、マッダレーナ清水華澄さんが特に心に残った。須藤さんの躍進は目覚ましく、役ごとに新しい可能性を感じさせてくれ、魅力も大きい。
28日、31日、6月3日にも公演が行われる。




東京交響楽団×ジョナサン・ノット マーラー『交響曲第6番《悲劇的》』

2023-05-23 03:59:23 | クラシック音楽
衝撃の『エレクトラ』から一週間後、ノットと東響のマラ6をサントリーホールで聴く。交響曲の前に、リゲティの『ムジカ・リチェルカータ 第2番』が小埜寺美樹さんのピアノで演奏された。不安な気持ちを掻き立てる3分間のこの曲を聴くと、キューブリックの最後の映画『アイズ・ワイド・シャット』を思い出す。映画の中で、このリゲティの奇妙な小曲が何度も流れていた。虚空からもぎ取られたような音が、静かに消え行った後に、マーラーが続けて演奏された。

マーラー6番は聴くたびに、過激な自己崩壊へ向かっていくマーラーの人生の道程を想像してしまうが、尊大でヒステリックな名指揮者でもあったマーラーは、この曲で作曲家としての威光を示そうとしたのではないか…と冒頭からしばらく聴いて思った。しかし、全くそうではない。混乱と混沌が怪物的な知性によって、病に近いひとまとまりの絵巻を繰り広げている。
マーラーの交響曲すべてがそうであるように、トランペット奏者には胃痛が起こるようなプレッシャーが与えられる。軍靴がザッザッという音を立て行進するような冒頭から、懐かしい山々の稜線のような豊かな旋律へとつながっていき、それらは表面上は名曲としての威光を放ちかけながらも、奇妙に堕落した(?)展開を見せていくのだ。カウベルは二階L席側のドアの前に設置され、そこから子供が眠るときにみる夢のように鳴っていた。
マーラーは、意識と無意識、聖と俗、現世と涅槃を横断しながら曲を巨大化させていった芸術家で、聴く者を大いに当惑させ、恐らく演奏家も(慣れているとはいえ)当惑させる。ノットの指揮は、マーラーの「シンフォニーたるもの、英雄的ではありたいが、そう振舞った瞬間にそれは嘘になるのだ」とでも言いたげなこじらせ感を、当然のように自在に操っており、魔術師のようだった。

6番の中に秘められた「眠り」のようなまどろみと、それを邪魔する躁病的な音楽との相克も鮮やかだった。サイレンのように繰り返される不幸なマーチは「生きている限り安息の地など存在しない」と言っているかのようで、創造と破壊が交互に行われているような奇妙な感覚を引き起こす。弦のピツィカートがチクタクという時限爆弾の音に聴こえたかと思うと、不意打ちのような懐かしい子守歌が雪崩をうつという奇妙さなのだ。東響の多彩な色彩感、重層的なサウンド、リズム感、劇的表現が素晴らしい。

スケルツォ→アンダンテ・モデラートの順で演奏され、個人的にこの順番が好きなので嬉しかった。初版稿はこの順だが、初演の際にスケルツォが後になった。アンダンテ・モデラートの催眠的な美しさはノットの棒によって最大限に引き出され、全身が別世界へと引き込まれるようだった。バーンスタインはここで泣きながら振ったし、晩年近くのアバドは「ここは、人間皆が辿り着く場所だよ」というような清々しい表情で振った。木管のアンサンブルが野辺の送りのようで、それに応える弦と金管の大合奏が巨大な波のように思われた。アンダンテ・モデラートを聴くと、いつも黒い棺の乗った小舟が霧の中に運ばれていく映像が脳裏に浮かぶ。

生は甘い…死も甘い。生は過酷だ。愛を得て愛を奪われ、9番の終楽章を書いたマーラーの人生を想った。スケルツォでは、変形された軍隊のマーチが死の舞踏のようなワルツになる。目に見えない次元がいくつも重ねられている。6番を聴くと、終戦の年に父親の実家で「二階で眠っていると一階で軍靴が歩く音が聞こえた」という話をいつも思い出すのだが、それは戦死した叔父の足音だったのではないかというのだ。

当時のマーラーは時代遅れになりかけた作曲家で、彼自身が「弟子のシェーンベルクの時代がやってくる」と語っていた。しかしながら、マーラーのこの奇矯さは永遠に新しく、その美もまた同じなのだった。それは当然のことで、マーラーはただひとつの明解な目的を持って作曲をしていたからだ。「私は人類のために(未来永劫)、自分に与えられた知性を使う」という目的だ。

フィナーレ楽章では有名な木製ハンマーが登場する。巨大なものが使われることもあるが、この日のハンマーは比較的小ぶりで、それでも結構な衝撃があった。あのハンマーが意味するところは色んなふうに語られており、妻のアルマ自身も語っているが、アルマは結構嘘をつくので全部は信用できない。私はあの衝撃音は、幼い頃から兄弟の死を看取ってきたグスタフの、「もうたくさんだ。私は死ぬことにする」「いや生は素晴らしい。私は生きることにした」という、矛盾した決意の音に聴こえる。この世界に生まれ落ちてきたショックを引きずり続け、つねに不安に脅かされていたマーラーが、アルマ一人に救済を求めたとしても、そこには安息の地はなかったのかも知れない。

阿片窟に迷い込んだかのように始まる魔術的なフィナーレ楽章は、蛇行と未練を繰り返しながら、自滅的としか言いようのない終わり方をする。破壊的な激しさが持続し、チェレスタとハープの蠱惑的な音が、行き着く先は地獄か天国か大いに惑わせながら、一瞬大団円のように見せかけつつ、葬送音楽のような金管群のしめやかな合奏に続き、「トスカ」の処刑の銃声のような衝撃的なトゥッティで終わる。このような演奏の後では、フライングブラボーも起こらない。長い静寂。喝采はなかなか止まず、ノットへの祝福の歓声がホールに響き渡った。





東京交響楽団×ジョナサン・ノット『エレクトラ』演奏会形式(5/12)

2023-05-15 12:51:40 | オペラ
公演前から話題沸騰だった東響とノットの『エレクトラ』(演奏会形式)のミューザ川崎での初日を鑑賞。R・シュトラウスの『エレクトラ』はずっと「よくわからない」オペラだった。昔、輸入盤でCDを買ったが音源だけ聴いてもちんぷんかんぷんで、音質も悪かったのでそのまま放置していた。(同時に買ったのはストラヴィンスキーの『オイディプス王』だったが、こちらも途中で挫折)
『サロメ』から3年後の作。素材としては似ているが、『エレクトラ』の実演からはそれ以上の過激さが感じられた。『サロメ』のほうが演劇的な筆致が明解で『エレクトラ』はもっとカオス的。声とオーケストラが大きくうねりながら星雲のような巨大な模様を創り出している。台本(ホフマンスタール)はテキストの一節一節が過激で情報量過多という印象。作曲家のほうでも論理的な演劇を見せるというよりも、宇宙の動力ともいうべき「女」の強度を女性歌手たちによって表し、血で血を洗うような音のアクションペインティングを展開していく。演出はシリーズ前作の『サロメ』に続いてサー・トーマス・アレンが監修。

標題役のソプラノ、クリスティーン・ガーキーが只者ではなかった。グラミー賞を何度も受賞し、デトロイト・オペラ副芸術監督も務めるガーキーは、『エレクトラ』を得意とする稀代のスーパー・ソプラノ。そのガーキーが歌うエレクトラは、つむじ風のようなパワーに溢れた女性で、身体がバラバラになるような怒りと悲しみに満ち溢れていて、冒頭の侍女たちの陰口を隠れて聴いている場面には、生まれながらの脆弱性も感じさせた。105分間のオペラで、エレクトラ=ガーキーはほぼ出づっぱりで歌い続けていた印象。うねる金髪はメデューサのようで、哀し気な瞳は驚くほど透き通っている。
メインの女性歌手たち、ガーキー、妹クリソテミス役のシネイド・キャンベル=ウォレス、不貞の母クリテムネストラ役のハンナ・シュヴァルツが全身から放つのは、女の苦痛と苛立ちの悲鳴だ。一番不幸なのは誰か。父親の仇を打つため母とその愛人を殺そうとするエレクトラは地獄の底にいるが、夫を殺し愛人をとったクリテムネストラも罪悪感と恐怖感で息絶え絶えとしている。この役を歌ったハンナ・シュヴァルツは80歳近いベテランだという。メゾ・ソプラノの声が深すぎて、存在感がありすぎて、ガーキーに続いて「凄いものを聴いた」という感慨。ショッキングピンクのドレスを着たクリソテミス役のキャンベル=ウォレスは、お姫様のような恰好をしていながら左腕の内側にはタトゥーが入っている。姉妹は罵り合っているようで、運命共同体としての結束が固く、二人の歌手は物語が進むにつれてどんどん輝きを増し「本物の」エレクトラとクリソテミスに見えてくるのだった。

5人の侍女役は日本が誇る名歌手たちが固めた。全員が主役級の歌手で、金子美香さん、谷口睦美さん、池田香織さん、髙橋絵理さん、田崎尚美さんという豪華な顔ぶれ。「監視の女」は増田のり子さん。一幕オペラだが登場人物が大変多く、髙橋さんと田崎さんはクリテムネストラの側近も兼ねる。エレクトラを罵る侍女たちの中で、一人だけ「高貴なあの方」とエレクトラを庇う侍女役の田崎さんが印象に残った。
女性たちは黒のそれぞれデザインの異なるカクテルドレスを着ていて目にも楽しかったが、男性陣は典型的な「演奏会形式」風のコスチュームで、温度差を感じた。だからといって何を着せるか、ということになると悩むところでもあり、衣装でオペラの迫真性が薄まるのは何とも勿体なかった。
男性歌手では狼狽しつつ滑稽な殺され方をするエギスト役のフランク・ファン・アーケン、オレスト役のジェームス・ストキンソンがいい演技をしていた。演奏会形式では「死んだ弟が生きていた。それこそが自分」という状況が唐突にも見えたが、細部に関しては音楽のカタルシスがすべてを覆っていた。

ノットと東響は歌手たちに遠慮する気配もなく、大音響で嵐のオーケストラを鳴らす。ガーキーは決して音の波に飲み込まれず、特権的な声量でエレクトラの怒りを歌い尽くしていたのが圧巻だった。芸術的にかくあるべき演奏とはどんなものなのか、評論家によっては評価がさまざまだろう。
自分は「女が非常によく描けているオペラで、そのことを知悉している指揮」だと思った。オペラが截然としていないのは、この作品の内容が、フレームを破壊してくるような女たちの情念であり、情欲であり、欲求不満だからで、そんなものが理路整然としているわけがない。歌手たちはプロで、理知的にスコアを読む。ガーキーの暗譜力は神業で、全部が身体の中に入っているので、もはや彼女自身が作品といっていい水準にある。ハンナ・シュヴァルツも素晴らしいオペラの化身だ。
R・シュトラウスのこの独自の視点、「怖い女が一番可愛い女」という哲学は一貫している。女が少しでも喚いたり泣いたりすると異常者扱いする男性がこの世の大部分を占めると思うと、その器の巨大さは破格といっていいほどだ。悪妻として名高いパウリーネとはこのオペラが完成する14年前にバイロイトで出会って結婚しているが、妻によって達観したという解釈も出来るし、もともと好きなタイプが叫んだり泣いたりしている女性なのかも知れない。
エレクトラが置かれた状況は複雑だ。母が象徴する「月」に、破壊を示す「冥王星」が重なっているようなもので、日常の安息は滅茶滅茶に破壊され、「官能という罠にはまった」母への憎しみと、幸せな結婚をする妹へのジェラシーで、自分自身は狼少女のような異様な風貌になっていくのだ。
ガーキーはそうした役を、オペラごと丸呑みしていて、身体の中に収めていた。ノットが彼女を呼んでくれなければ見られなかった奇跡であり、貴重な宝石のような公演だった。

字幕が大きな助けになったが、心理と情景の描写に脳がついていけず、イメージすることが間に合わなかった箇所がいくつかあった。二日後サントリーホールでも観たかったが、早々に売り切れていたので二度見られた人は幸せ。ガーキーの「独り踊り」の場面と、ラストの息絶えるシーンまで、心臓が止まりそうなハイライトがたくさんあった。暗転後の喝采の大きさに、日本の聴衆もこんなにワイルドな声を上げるようになったか…と軽い驚きを感じた。
エレクトラがいるのは古代か、未来なのか…凄い場所まで連れていかれた川崎の夜。