小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

原田慶太楼×N響(11/26)

2020-11-28 09:56:30 | クラシック音楽
サントリーホールでのN響×原田慶太楼さんのアメリカン・プログラムの二日目。リハーサルでの熱い様子がN響のSNSで伝えられ、楽しみにしてホールに向かう。期待以上の演奏会だった。バーンスタイン、G・ウォーカー、ピアソラ、コープランド、マルケスのオール北米&南米作曲家のレアなプログラム。こんなエキサイティングな内容のコンサートなのに、観客はあまり入っていない。都内感染者の増加もあるのだろうが、馴染みのない曲は聴こうとしない日本の多数派の聴衆は、もっと変わっていくべきではないかと思った。

今年のサマーミューザで原田さんと東響の新時代を感じさせる「規格外」のサウンドを聴いて以来、次は何をしてくれるのか心が高鳴る。米国育ちでロシアでも研鑽を積んだ原田さんは、いい意味で「日本の空気を読もう」としない。バーンスタイン『オン・ザ・タウン』の「3つのダンス・エピソード」からアメリカの洋酒のような洒落た香りが炸裂した。ミュージカルの中の曲なのだから、お醤油味では、まずい。ネイティブスピーカーの呼吸感でストーリーが運ばれていく感覚があり、平坦で穏やかな日本語の発語とは異なる音楽だった。ブラスのジャジーでお洒落な「風味」や、ブルージーだったりユーモラスだったりする旋律のキャラクターを楽しんだ。微かに20世紀ロシア音楽の諧謔的なエッセンスも感じられた。

コンサートマスターは伊藤亮太郎さん。N響だからアンサンブルのクオリティが高いのは当たり前だが、若い指揮者に率いられて楽員さんたちが前のめりになって真剣に演奏している姿は、珍しく感じられた。リハーサルがうまくいっていたからだと思うが、どんな啓示的な言葉が指揮者から語られていたのか気になる。G・ウォーカーの『弦楽のための抒情詩』は6分ほどの短い曲だが、繊細で抒情的な響きがほつれた心を癒してくれる心地がした。類似していると言われるバーバーよりむしろ、ヤナーチェクの弦楽曲を思い出す。

ジョージ・ウォーカー

ピアソラ『タンガーソ』(『ブエノスアイレス変奏曲』)は圧巻で、変則的なリズム、底知れない冒険を繰り返すコード進行が作曲家の天才性を思い出させた。音楽にぞくぞくする官能性があり、動物的な本能が息づいている。原田さんの指揮姿は、時折ボクサーのようで「あしたのジョー」の主人公にも似ていた。弦楽器奏者の集中力はすさまじく、管楽器との掛け合いも絶妙で、ウッド・ブロックやピアノの個性的なサウンドが独特のアクセントになっていた。

アルゼンチン・タンゴは日本の踊りではないし、やはり違う言語の文化だと思った。言葉が変わると感情が変わり、呼吸が変わる。激昂の仕方も激しくなり、「ケンカの後の仲直り」みたいなやり方も変わってくるだろう。一生という時間の使い方が、刹那的になり凝縮感が出てくるのかも知れない。それが原田さんの「ボクサーパンチ型の指揮」から感じられた。音楽にとって必然のアクションだった。

こうした「異」文化を、忖度など一切しないアメリカ育ちの若い指揮者が思い切り表現してくれるのは有難い。原田さんは同時に、全体も見ている。やはり、日本の文化はどこか偏っているし、クラシックの享受の在り方もこのままでは行き詰まるのだ。お米ばかり食べていると、眠くなるという。農耕民族として平和と調和を愛する美徳がある一方で、そのままでは眠った民族になってしまう。新世界や運命は名曲だが、それを白いご飯のように有難がり、身体を目覚めさせてくれる食べ物を見ようともしないのは問題だ。このアメリカン・プログラムには白米ではない最強の栄養価が詰まっていた。

コープランドのバレエ組曲『アパラチアの春』はマーサ・グレアムのために書かれた曲で、晩年のグレアムとカンパニーの最後の来日公演を東京で観たことを思い出した。91年頃だったはずだ。その後何年も経って、ラジオのパーソナリティをやっていたときにもこの曲をよくかけた。音楽が伝える情景と神妙な心理劇はこの夜の「ダンス・プログラム」の中でもやや異質で、始終瞑想的だった原田さんの表情がさらに穏やかになった瞬間、オーケストラの響きが広大な広がりを見せたのが印象的だった。

マルケス『ダンソン第2番』はドゥダメルの指揮で耳に焼き付いていたキューバ音楽。大上段に構えず、10分ほどの曲でコンサートを締めるのが何とも粋だと思った。オーケストラは大いに燃えたが、N響の習慣なのか、終演後の熱気は一気にクールに。そういえば、N響をサントリーであまり聴くことがなかった。他のオケはもっと満面の笑顔で熱い余韻に浸るものだが、すべてのオケが同じでなくてもいいのかも知れない。
N響と原田さんの共演はまだまだ聴いてみたい。






東京二期会『メリー・ウィドー』(11/25)

2020-11-26 10:12:47 | オペラ
二期会『メリー・ウィドー』のプレビュー公演を日生劇場で鑑賞。日比谷はクリスマスツリーの電飾で華やぎ、レトロなアメリカンポップスが流れていた。二期会のオペレッタはいつもこの時期に上演されるような気がする。昨年の『天国と地獄』や、2014年の『チャールダーシュの女王』もクリスマス前の色づく東京の景色とともに記憶している。
日生劇場はいい劇場…今年は特に、射手座の季節にこの劇場に行くのが楽しみで、ビジューつきの替えの靴まで持って出かけてしまった。
自宅兼事務所から車で10分ほどの場所だが、近隣の帝国ホテルやペニンシュラを散歩したくて有楽町から歩いた。

日本語上演のオペレッタは発声もお芝居も大変だが、眞鍋卓嗣さんの演出はさらに芝居部分が多く、歌手陣は身体をフルに使ってコミカルな動き、お笑い芸人並みのボケとツッコミを披露していく。プレビュー公演のためか、冒頭の男性陣たちのお芝居には個々のテンションにギャップが感じられるふしもあったが、そこを屋台骨のように支えていたのがミルコ・ツェータ男爵役の三戸大久さんだった。膨大な台詞をこなし、ジュピター神のように舞台に君臨していい声を聴かせてくれた。

ヴァランシェンヌ箕浦綾乃さんはこの公演が二期会デビューとなるが、舞台初日はかなり緊張されていたように見えた。ヴァラシェンヌのパートは実はとても難しく書かれているのだ。不倫相手のカミーユ役の高田正人さんがよく支えていた。高田さんと箕浦さんは芝居の相性もよかったと思う。
ハンナ役の嘉目真木子さんが登場すると、すべてが一気に引き締まる。意外にもハンナは初役だという。どんな役も真剣に取り組まれる嘉目さんが、この未亡人役をシリアスに演じていたのがよかった。嘉目さんが舞台に現れた瞬間に、これからどんなドラマが展開されようと「右のものは右に、左のものは左に収まる」と思える。ヒロインが正義を握っている、と感じさせる真っ直ぐな存在感があるのだ。

ダニロ役は最初から泥酔している芝居で、与那城敬さんがいい味を出していた。眞鍋演出では、芝居と歌唱と台詞がめまぐるしく交差し、特にダニロ役の負担が多かったと思うが、与那城さんは誠実にこなしていて魅力にあふれていた。嘉目さんも与那城さんも真っ白な清潔感溢れるカップルなのだ。『メリー・ウィドー』は「大人になればなるほど恋は純粋になる」という話だと思っているので、お二人の演技には作品との本質的な相性の良さを感じた。ソーシャル・ディスタンス時代となって、密着した演技が出来なくなったことは、芸術にとってもひとつの「進化」だと考える。人と人とが直接触れ合うと、ある意味ただの物質になってしまう。触れるか触れないかの、静電気を感じるようなギリギリの距離感がむしろ男女の醍醐味だと思う。

ピットには期待の沖澤のどかさんが入り、東響を率いて期待以上のサウンドを聴かせた。弦の弱音の表現力、男性の感情の暴発を象徴するような打楽器、合奏の上品さ、どの場面にも指揮者の厳密な意図と美意識が行き届いていて、沖澤さんのオペラ指揮者としての適性を証明していた。6年前の『チャールダーシュ…』の三ツ橋敬子さんの指揮でも東響はいい音を聴かせてくれたが、若い女性指揮者に秘められている才能をきちんと汲み取って鳴らしてくれるのは有難い。音楽の未来を握っているのは沖澤さんや三ツ橋さんのような人たちなのだ。
レハールは歌手が歌う旋律と管楽器をシンクロさせ、弦楽器とシンクロさせたプッチーニと似たポップな大衆性がある。声量が控え目の歌手たちはオケの旋律線に歌がかき消されてしまう場面があったが、これは歌手が頑張るしかない。男性陣がバッカス神のように歌う「女、女、女のマーチ」では、指揮棒を振る沖澤さんが凄い笑顔で、思わずこちらも笑ってしまった。

オペラやオペレッタは、「感情的に腑に落ちる」ということがなければ、どうも観た感じがしない。「どうだ、凄いだろう」というものを見せられても、「情」が動かなければ何も残らない。日生劇場は凄い場所で、ここではエモーショナルな出来事が起こらないわけにはいかないのだ。『メリー・ウィドー』なら、上野の東京文化会館で観た2016年のウィーン・フォルクスオーパーのゴージャス極まる上演が忘れられないが、ある意味日生劇場は負けていない。とちらが凄くて、どちらが本物、などという議論はナンセンスだ。この2020年の東京で、ピットが宝石の音楽を奏で、日本語でレハールが上演されていることを俯瞰の目で見た時、狂おしく愛らしい至福の空間であると思った。

架空の国ポンテヴェドロ、という設定が既に、少女漫画『パタリロ!』の「常春の国マリネラ」に似ている。演劇・娯楽・オペレッタには「擬き(もどき)」の楽しさがあり、それは日本語上演のような「移し(写し)」の作法によってさらに大衆化する。大衆化しているから簡単、というのではない。与那城さんのダニロを、ヨーロッパの歌手は真似できないと思う。ラスト近くでの日本語での芝居と歌の高速切り替えの連続技は、最も高度な技術を要する。それを「楽しい!」と見ている自分はなんと幸せなのか…。

「ヴィリアの歌」は泣けて仕方がなかった。山の向こうから故郷が、先祖が、風のように語り掛けてくるメロディで、どの国でもその国の言葉で歌われるべきだと思った。満月はどの国から見ても満月。一休さんが水を張った桶に映し、将軍様のもとに運んだ月のように「みんなのもの」だった。
ダニロに「落とし物はないですか?」と問われる人妻たちを演じたシルヴィアーヌ内田智子さん、オルガ小野綾香さん、プラシコヴィア石井藍さんのコメディエンヌぶりも圧巻。マキシムの踊り子や官僚たちも熱演で、プリチッチュ役の志村文彦さんはもはや、日本のオペレッタの至宝だと認識した。
美術装置はシンプルだが、「ハンナの故郷を思わせる」緑に溢れたパーティの装飾は女心にぐっとくるものだった。大使館が舞台なので、なるほどどの国の大使館もああいう地下への階段や中庭があるよなぁ…と納得。特にあの階段はポーランド大使館そっくりだ。
二期会『メリー・ウィドー』は11/26.27.28.29にも日生劇場で上演される。






騎士道としての指揮 新日本フィル(11/20)

2020-11-22 10:42:00 | クラシック音楽
新日本フィル×尾高忠明氏によるメンデルスゾーン、モーツァルト・プロ。この日に都内感染者が連続500人越えとなり、夕方から都知事がTVで外出自粛を強くアピールしたためか、会場であるトリフォニーホールは4割程度の入り。東京のどのオーケストラでも定期会員の演奏会離れが悩みの種となっている。
しかし、コンサートの内容は大変貴重で、忘れがたいものとなった。
オーケストラのメンバーが空席の多い会場に登場するとき、いつも「がっかりしていないかな」と心配になる。尾高先生は穏やかな表情でメンデルスゾーン序曲『静かな海と楽しい航海』を振り始めた。2年前の東京国際音楽コンクールの指揮部門の課題曲で、沖澤のどかさんが素晴らしい演奏をして優勝したことを思い出す。メンデルスゾーン19歳のときの作曲だが、ホルンや木管やコントラバスの書き方が「タンホイザー序曲」と似ていることに気づいた。ワーグナーはメンデルスゾーンのネガティヴ・キャンペーンに執心していたことでも有名だが(同じくユダヤ人マイアベーアもワーグナー禍を受けた)演奏効果の面でメンデルスゾーンの創意工夫がほぼ丸ごと使われている印象だ。もちろんワーグナーの方がだいぶ後になる。10代のメンデルスゾーンの天才ぶりと、隙のないオーケストレーション、決して止まることのない躍動的なメロディの嵐に驚く。幽玄な絵画を連想させる「静かな海」から、ドラマティックな陰影に富んだ「楽しい航海」へ続く流れが最高だった。描かれているのは情景か、心象か。ゲーテの二編の詩をもとにメンデルスゾーンはこの曲を作った。オーケストラは広大な海を表現し、太陽の光や風や香り、航海する人の心理までを生き生きと描き出した。

モーツァルトの『協奏交響曲』が始まるとき、わっとステージが明るくなった感じがして驚いた。ヴァイオリンの成田達輝さん、ヴィオラの東条慧さん、尾高先生のに3人が笑顔で登場し、その笑顔で舞台全体がスパークした印象があったのだ。前方で鑑賞していたため、眩しい光彩を浴びるような感触だったが、ソリスト二人の演奏も陽光のようだった。指揮者や共演者によってオーロラの如く表情を変える成田さんのヴァイオリンが、東条さんとの共演で生き生きとした弾力性を帯び、ソリスト同士の快活な対話が展開した。東条さんの演奏を聴くのは初めてだったが、海外で研鑽を積まれ、プロフィールによると2021年からデンマーク王立管弦楽団の首席奏者として使用期間を開始されるとのこと。つむじ風のようなアーティスト・パワーの持ち主で、彼女の演奏会なら何でも聴いてみたいと思わせた。2楽章のアンダンテは暗鬱な音楽で、ベジャールが『バレエ・フォー・ライフ』でこの部分を虫籠に自らとらわれていく夏の虫のような少年たち(?)の場面で面白く使っていたことを思い出した。

ウィーン・フィルの来日のあと、都響、読響、新日フィル、日フィル、ピットでの東フィルを聴き、在京オケの演奏会こそ聴かなければならないと思った。この状況下でウィーン・フィルを聴くことは「非日常的な」体験だったが、オーケストラの内側はつねに日常で、むしろ地味なものだ。ウィーン・フィルにしても、大部分は自分たちの劇場のピットで演奏している。派手か地味かを決めるのは聴衆からみた価値観であって、演奏家にはそれほど関係ない。そうした心境に立ち返って聴く在京オケの演奏は、尊敬に値するものばかりだった。別のオーケストラのプレイヤーにも取材する機会もあり、オケの楽員というのは凄い人たちだと思った。経験豊富で幼少期からトレーニングを積み、キャリアを決めるためのいくつもの岐路に立たされ、濃厚な人生を生きている。そうした立派な人々を「束ねる」指揮者というのは、なかなか緊張感のある仕事だと思った。

「あなたはどういう音楽人生を生きてきましたか?」と指揮者は一人一人のプレイヤーにインタビューしている時間はない。音楽家には音楽家同士の言葉にならない合意の地点がある。ジョン・マウチェリの著作『指揮者は何を考えているか』をずっと読んでいて、リアルで時に辛辣なクラシックの現実に衝撃を受けたが、マウチェリが語るように「指揮者は一種の錬金術を使っている」のだと確信する。
指揮者はどんなふうにだってオケを支配できる。エキセントリックな奇想で染め上げたり、玩具の戦艦で遊ぶ子供のようにサウンドを配置し、「ずどーん」「ばきゅーん」と人柱を使うことも出来る。そんなとき忘れてはいけないのは、音を出す演奏家たちは成熟した大人だということである。

尾高先生の指揮は、オーケストラを聴き始めてからずっとミステリーだった。人生で一番感動したのは、2013年か2014年に聞いた読響とのマーラー9番で、一種の究極体験だった。あのとき何故あんなにも魂を持っていかれたのか言葉で正確に表すことが出来ない。何かをぎゅっと掴んで支配しているというより、違う錬金術があったと思う。高遠で高貴で、一人一人の演奏家の精神の中にある青い炎が大きく燃え上がってくような世界だった。それがどのようなテクニックなのか、客席から聴いていて分からない。神秘というしかないのだった。

 恐らく非常に緻密に準備された後半のメンデルスゾーンの『スコットランド』は圧巻で、オーケストラの全パートから飛び出してくる情熱が凄かった。2020年という年に演奏家が晒された不条理を思い、難しいスコアから均整以上の新しい価値が飛び出してくるのを感じた。なんというか、1楽章からとてもバンキッシュな演奏に聴こえたのだ。コンサートマスターの崔さんと尾高さんのアイコンタクトに、一言では言えない合意があった感じがした。メンデルスゾーンは天才で、あんな卓越した知能の持ち主は限られた年数しか生きていられないと思う。そんな傑作を数学的に演奏するのか、一縷の隙も無い「褒められる」演奏をするのか…恐らくその日その時にしかない正解があるのだろう。翌日にも同じ演奏会があり、別のものになっていたかも知れない。
 まばらなトリフォニーホールの前から12列で聴く『スコットランド』は、ほとんどロック・ミュージックだった。自分はロックのライターだったから、このジャンルを一方的に軽んじられるのは嫌だ。破壊とトラブルメーカーの精神が、閉塞した世界に風穴を開ける音楽がロックだ。

 コロナで死が身近に感じられるようになった分、時間はもう余り残っていないのだから、物事を本質的に感じたいと思うようになった。うわべだけ整えられた、「凄い」と言わせて相手を屈服させようとする音楽より、何かもっと凄いものが指揮者とオーケストラの間にはある。
尾高先生の人間としての「粋」、指揮者の騎士道に感動したコンサートでもあった。

夢と童心 ウィーン・フィル(11/12) 

2020-11-13 12:14:39 | クラシック音楽
11/14と同プログラムの追加公演。前半はドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』『交響詩「海」~3つの交響的スケッチ~』、後半は11/9と同じストラヴィンスキー『火の鳥』。
一階前方席を選んでしまったため、管楽器セクションがよく見えず、サウンドも舞台と近すぎて「高い席がいい席とは限らない」と後悔してしまったが、ティボール・コバーチさんの額の汗の粒までよく見える席はなかなかリアルでよかった。1stヴァイオリン側だったので、どんなときも「力を入れすぎず、抜きすぎない」絶妙なボウイングに驚きながら、ウィーン・フィルの金糸の音を間近で楽しんだ。

ゲルギエフは顔色もよく、一番短いタクトを使用。9日と同じものだろうか? さらに短くなっているようにも見える。ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』の冒頭のフルートは、深い深い沈黙ののちに搾り取られるように指揮者から引き出され、宇宙のはじまりのような「最も古い音」に聴こえた。ハープとフルートと弦が、薄くて軽い布地のようにホールを覆い、なんにもない風だけの太古の地面に、神話の世界の生き物たちが息づいていくのを想像した。ニジンスキーが振り付けた奇妙な「二次元バレエ」を思い出す。こんなにも自在な空気のような音楽をもとに、跳躍も回転もない、拘束された動きだけのバレエをつくったニジンスキーは真の天才だったが、振付家としては評価されず「私は神だ」という言葉を残して狂死した。先を行きすぎていたのだ。



ウィーン・フィルの『牧神』からは、山の神の気配を感じた。本物のアルプスの山々を初めて見たのは2005年だったが、あんなにも雄々しく神々しい姿の自然には、太古から神がいると信じられていてもおかしくない。日本にも山の神はいるが、あちらの山の神はワーグナー的でありR・シュトラウス的であり、何かがもっと男性的なのだった。続く『交響詩「海」』では、海の神を感じた。ポセイドーンやネプチューンと呼ばれる古代神を想起するドビュッシーだった。ウィーン・フィルの幾層にも奏でられるグレイッシュなグラデーションが、前方席では少しごつごつして聴こえる。実感として、いくつもの自然神が闘争しているようなワイルドな音楽に聴こえた。洗練された音の海から、星座のように海神や竜神、ヴィーナスやその手下たちが浮かび上がってくるようだった。要はとても楽しい音楽だったのだ。

マツ―エフがプロコフィエフの2番のピアノ協奏曲を弾いた日は、楽しいというより神妙な心境だった。ウィーン・フィルも毎年のことながら、三日目ともなるとサントリーホールの響きを親しく感じるのかも知れない。「わが劇場」で鳴らしているかのような雰囲気さえあった。ゲルギエフは曲が終わるたびに「これ、いいでしょ」と言いたげな無邪気な笑顔を見せる。
聴衆も一階席の人々は少しばかり前のめりで、好奇心を隠そうとしていない。今年の特徴なのか以前からだったのか、女性客がとても多い。素敵な聴衆が具体的に何を求めてウィーン・フィルにやってくるのか、とても興味が湧いた。

『火の鳥』もまた、コンテクストが変わるとサントリー初日とは別の趣で聴こえる。ゲルギエフは1910年版に格別の愛着があるのだろう。バレエ・リュスの2回目のパリ公演が1910年で、これが出世作となったストラヴィンスキーはロシアでも全くの無名だった。ガブリエル・ピエルネの指揮で、最後の週の8回のリハーサルにストラヴィンスキー自身も立ち会ったという。
 9日にオケの右側で聴いたときは管楽器の個別の奏者が何をやっているかがよく見えたが、この日はほとんど見えなかった。コントラバスはよく見えたが、オケの真ん中あたりの様子がよく分からない。あれこれ考えているうちに、自分はいったい何をしようとしているのかおかしくなった。音楽はどんどん進む。

 オケの機能に気を取られて、物語を聞こうとしていなかったのだ。「火の鳥」はチャイコフスキーの「白鳥の湖」によく似ている。魔王カスチェイはロッドバルトだし、「眠れる森の美女」のカラボスのようでもある。火の鳥はオデットではなく、「眠り」のリラの精だ。心優しいイヴァンは、ちょっと間抜けになったジークフリート王子かも知れない。魑魅魍魎や鬼たち、精霊、大蛇のようなものがうごめいている。

ストラヴィンスキーはチャイコフスキーを超えようとしていた。『火の鳥』は最初のバレエ・リュスの委嘱作で、作曲家としての出世がかかっていたし、このバレエ音楽で失敗するわけにはいかなかった。そんなとき、偉大なるチャイコフスキーのことを考えないわけにはいかなかっただろう。プティパの時代にバレエに献身したチャイコフスキーは、このジャンルを崇拝し、天才のイマジネーションを駆使して作曲に励んだ。
「新しい楽器や合唱を使った『くるみ割り人形』の革新性がなければ、ストラヴィンスキーのバレエ音楽はなかった」と指揮者の井田勝大さんが語っていた。ストラヴィンスキーはチャイコフスキーから多大な影響を受けていたのた。
 チャイコフスキーともうひとつ、ストラヴィンスキーが参照していたのは「夢」だ。夢の世界の荒唐無稽さからインスピレーションを得て、ぼろ人形のペトルーシュカの物語を思いついた。バレエ音楽は夢の論理から成り立っている。シルフィードは人の目に止まらぬ速さで空中を舞うし、ありとあらゆる妖精、魔物、魔法使いたちが活躍する。人形はまた独特だ。夢の中に現れる人形は、ときとして「分身」を意味する。

「ウィーン・フィルのメンバーは、夜眠るときに不思議な夢を見ているのではないか」と、そんなおかしなことを考えた。皆、ゲルギエフのつまようじに従って絢爛たる技術の音楽を奏でているが、理性や悟性だけではあそこまで音楽は膨らまない。「世の中には無意識なんてない」と語るおかしな人もいる。そんなことがあるわけがない。火の鳥の夢を見ないウィーン・フィルのメンバーがいるとは思えなかった。
忙しいオーケストラでは、指揮者は散文的なことをあまり言わない。リハでは段取りだけを合理的に打ち合わせる。火の鳥に関して、あらかじめ同じ夢(!)を見ていることが重要なのだ。

全力で『火の鳥』を振り終えたゲルギエフが、10歳の少年に見えた。薔薇色の顔をして、ニコニコの笑顔だった。オーケストラも少年少女のような心で物語に参加していたと感じた。ウィーン・フィルが軍隊のようなオケだと思ったなら、お客さんは高いチケットを買ってコンサートに来るだろうか…これは本物の夢のオーケストラで、一瞬のファンタジーが、聞き終わった後にオルゴールのように何度も記憶の中で再生される。
アンコールの『皇帝円舞曲』が一瞬、何の曲かわからなかった。おもちゃのようにいたずらっぽい響きで、ゲルギエフはますます子供っぽい顔になって振った。等身大のドールが踊る機械仕掛けの遊園地が目の前に広がった。この日の火の鳥はやっぱり「童心」だったんだ…。
アンコールが終わった後、一階席のお客さんも子供のように立ち上がって、再びステージにゲルギエフを呼び出した。幸せそうなゲルギエフの表情を見て、忙しすぎるこの指揮者は音楽から無限の活力を得ているのだと理解した。ウィーン・フィルの公演はあと二回行われる。

 

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(11/9)

2020-11-10 15:26:58 | クラシック音楽
ウィーン・フィル、5日間連続公演のサントリーホールでの初日。毎年11月のサントリーホールの恒例行事も、2020年は特別な雰囲気の中で行われることとなった。ホールエントランスから一階席と二階席に分けての入場となり、なかなか進まぬ長い列に並びながら、決して廉価ではないチケットを購入してウィーン・フィルの公演にやってきた人々の静かな期待感を肌で感じていた。ウィーン・フィルに遅刻してくる人などいないのだ。19時5分になって開演前のアナウンスが流れたが、満員の客席の、神聖な儀式を待っているような静寂が忘れられない。

舞台横のRB席で聴いたため、ステージの下手側がよく見えた。緊張気味の客席とは逆に、楽員たちは寛いだ表情で登場。黒装束のイメージがあったが、男性も女性も灰色のズボンを履いている。ゲルギエフはますます聖人のような面立ちで、指揮台はなし。プロコフィエフの『ピアノ協奏曲第2番』は曇天のように重々しく始まり、デニス・マツーエフが哲学者の表情でソロを弾いた。何か、深遠な問いと答えがソリストの心の中で交わされているようで、オーケストラもロシアの冬空のような寒々とした響きを奏でる。包み込まれるような音の振動が、大自然の中では無力な人間の小ささと、風前の灯の中でも消えぬ誇りを思わせた。

一楽章から尋常でない感覚に襲われたが、ゲルギエフが導くウィーン・フィルの音には、頭で考えている「ウィーン・フィルらしさ」を裏切るものがあった。公演の直前まで、中野雄さんの名著『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』(文春新書)を読み、見事な取材力と鑑識眼によって綴られたウィーン・フィル論に感動していたが、このような見事なオケの本質に到達できる知性は自分にはない、と諦めていた。
それならばせめて、超一流のオーケストラの「今」を体験することで、謙虚に「ウィーン・フィルの輝き」を学ぼうとしてホールに来たのだが、プロコフィエフのコンチェルトは想定外の出来事の連続で、彼らが何ヘルツでチューニングを行い、どんな楽器を使っているかなど、全て些末なことに思えた。これは厳しい冬の音楽で、マツ―エフは始終苦吟するような表情で(オペラグラスで顔がよく見えた)、時折椅子から腰を浮かせて信じがたいパッセージを奏でた。
ゲルギエフとマツ―エフの間にだけ「ロシア音楽の合意」があり、オケはそれについていったのか…そんなことがあるはずはなかった。プレイヤー一人一人が曲の深淵に下降し、2020年の東京でしか聴くことのできない稀有のオーケストラ・サウンドを掘り当てていた。

クラシックの聴き手として丸裸にされたような気分になった。
ウィーン・フィルをある固定的なイメージの集合体で捉えることの無意味さを思った。彼らには伝統があり、実力者としての矜持がある…が、それ以上に、一人一人が勇敢な戦士であり、自由な人間であり、一期一会の演奏会でやるべきことを主体的に決めている。外側から恐る恐る観察しようとして、金箔を幾重にも塗りこめていたのは自分の方だった。
ウィーン・フィルは一流のアンサンブルを奏でるので、違和感のある指揮者のいうことを聞かない、というのも真実だろう。同時に、ウィーン・フィルは新しい経験を求めていて、音楽に飽きたくないと思っている。及び腰で「ウィーン・フィルらしさ」を引き立てようなどとする指揮者の浅薄さも一瞬で見抜くのだ。ゲルギエフは、人間は厳しい運命の中で生きなければならない、という真実をロシア音楽を通じて聴衆に示した。それがウィーン・フィルだったことで、衝撃は倍加した。

マツ―エフはあれだけの技巧をこなしつつ、全身の細胞でオケの音を聴き、あらゆる瞬間に素晴らしい反応をした。プロコフィエフが曲を書いた時間は、遠い過去となり失われた時間となったが、演奏家は再び失われた時間を見出す。ロシア芸術の、音楽にもバレエにも共通する「再現し、ともに生きる」Переси Баньеという感覚である。アンコールはショパンのワルツop.64-2で、侘しく儚い、面影とうつろいのメロディが溢れ出した。プロコフィエフの後で、この曲が聞こえると何故か泣き出したい気分になる。

前半二つ目のコンチェルトはチャイコフスキー『ロココ風の主題による変奏曲』で、この曲が始まった瞬間、全身が春のようになった。眉毛も凍るツンドラ地帯から、急に温泉に飛び込んだような感じだ。堤剛さんが微笑みながらチェロを奏で、ここでオケも先ほどとは違う表情になり…ウィーン・フィル「らしい」雅やかなサウンドが飛び出した。
チャイコフスキーはモーツァルトを愛したが、ロココ風…にもモーツァルトの影響を強く感じる。この日の午後、指揮者の井田勝大さんにインタビューをしたが、その中で「モーツァルトは貴族たちがワルツよりメヌエットを身近に感じていたことを知っていた。日常的に奏でられるメヌエットを作曲すると、貴族たちは親しみを感じて喜んだ」という話を教えていただいた。ウィーン・フィルの貴族的な響きは、ワルツに限らない…モーツァルトとチャイコフスキー、ロココとウィーンをつなぐ曲に感じられた。以前取材したとき「サントリーホールはすべてのスタッフが素晴らしい。カフェから清掃スタッフまで全員が素晴らしいんです」と仰っていた堤先生の言葉も思い出された。

後半のストラヴィンスキー『火の鳥』(1910年版)は、過酷なリアリズムでも貴族の音楽でもなく、子供が絵本を読んで吸い込まれていくような夢幻の宇宙だった。大編成となり、管楽器の名演のオンパレードとなり、豪華な三台のハープ、ピアノ、チェレスタ、コンマスのシュトイデの名人芸がびっくり箱を開けたように飛び出した。黄金色で虹色のウィーン・フィル・サウンドだった。管楽器は女性奏者が以前より増えていたように思う。ピッコロ奏者がめざましい演奏をした。このオーケストラは、新しいパッセージに移り変わるとき、前の楽器の音を次の楽器が擬態する。管と弦がお互いにそっくりな音を出す。少なくとも、ストラヴィンスキーではたびたびそのようなことがあった。ユーモアなのか、自然なことなのか…そういう不思議なアンサンブルの積み重ねが、聴き手を幻惑し、異次元へと誘い込んだ。
 ふだんは聴こえないたくさんの音が聴こえた。パヴェダイヤのように、無数の色がオーケストラに潜んでいる。「子守歌」で、ベテランのヴィオラ奏者が微笑み合って「僕たちは、この部分が本当に好きだよね」という表情をしたので、嬉しくなった。その気分は楽員全員に共通していたのか、幻の巨大な鳥が舞台に現れたような幻想的なサウンドとなった。

RB席はオケと客席のすべてが見え、2020年のウィーン・フィルの来日公演が改めて特別な状況のもとで、特別な気分に包まれて始まったことを伝えてきた。ゲルギエフの爪楊枝は不思議な念動力を放ち、過酷な時代のさなかに巨大な知恵とファンタジーをもたらした。常任指揮者をもたないウィーン・フィル。主役はオケか、指揮者か、ソリストか。果たして演奏会は誰のものなのか。この日の特別な空気を作り出していたのは、音を出さない聴衆だった。今更ながら、コンサートは客席とステージの共同作業なのだと知った一夜だった。

デニス・マツーエフのソロを聴きながら脳裏に浮かんだ北斎の海の描写。マツ―エフは11/10の公演にも出演。