小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『夢遊病の女』(10/6)

2024-10-11 20:00:18 | オペラ
3か月前(!)の『トスカ』の大成功で結束感を増したマウリツィオ・ベニーニと東フィルがピットに入った『夢遊病の女』。ベルカントの王子アントニーノ・シラグーザが久々の新国再登場で、主役のアミーナを歌うクラウディア・ムスキオも若手の実力派として頭角を表している新星ソプラノと期待は高まる。ムスキオは2017年デビューとプロフィールにあるから、20代後半か30代前半くらいだろうか? アミーナの恋敵リーザを伊藤晴さんが、リーザに恋するアレッシオを近藤圭さんが、村の領主ロドルフォ伯爵を妻屋秀和さんが演じた。

バルバラ・リュックの演出は10名ほどのダンサーが冒頭から活躍する独特の構成で、音楽が始まる前にも灰色のダンサーたちが不穏なジェスチャーでアミーナを取り囲み、彼女が顕在意識ではコントロールできない「悪霊のようなもの」に囚われている様子を表現した(音楽がなかなか始まらないので少し不安になる)。合唱は中世ヨーロッパの村人のようなコスチュームで、アミーナとエルヴィーノの結婚も、しかじかの出来事も、すべて村人たちの衆人環視のもとで行われる。恋人を取られたリーザは苛立ちながらアミーナへの嫉妬を隠せず、ベルカントの殿堂・藤原歌劇団のプリマドンナ、伊藤晴さんが堂々として華やかなアリア「皆が喜んでいるのに私だけは」を歌った。

ゲネプロと本番を見て、美術と照明がとても美しいことに気づいた。ひなびたポプラのような木に、案山子じみた男女のボロ人形がぶら下がっていて、何か結婚を揶揄しているようでもある。殺風景な村の景色がライティングによってカラーになったりモノクロになったりするのが魔法に見えた。白いドレスのアミーナには灰色ダンサーたちが背後霊のようにつきまとっていて、歌手は始終身体を触られたり密着したりするので拒絶感がないか心配していたが、アミーナ役のムスキオはバレリーナとしての訓練を積んだ人で、この演出には積極的だったという。こういうこともオペラの幸運のひとつである。

妻屋さん演じるロドルフォ伯爵は、野外での入浴姿も披露し(!)ドン・ジョヴァンニかマントヴァかという色男に最初見えたが、話が進むにつれて良識的で博識(夢遊病とはなんぞやということも知っている)な人物であることが明らかになる。ベッリーニのこのオペラを観ること自体久しぶりだったので、物語中で本当の悪役は一人もいないことに後から気づいてはっとした。アミーナを憎く思うリーザでさえ、常識的な羞恥心と罪悪感を持っている。後半で正義感を発揮するアミーナの養母テレーザ(谷口睦美さん)も凛々しいほどに、「善なるもの」を信じていて、リーザを咎めアミーナをかばう場面は素晴らしい存在感だった。

シラグーザのエルヴィーノはどの場面も名人芸で、なんと安々と歌い上げるのだろうと惚れ惚れしたが、アジリタの音譜ひとつ外さない節回しと、神業のような高音には「プロとしてのド根性」を感じずにはいられない。ふだんはスキンヘッドだが、ヘアメイクでは自然なショートヘアで、本当に生えているように見えた。リーザと伯爵の不義を疑って、嫉妬に苦しめられるときの歌唱は迫力がありすぎて「なんという真実味」と驚かされた。

ピットのベニーニは、先日のプッチーニと全く違うことをやっていた。作曲家が違うのだから当然なのだが、余白の中で歌手の歌だけが空間を埋める箇所では、魔法のように舞台の上の登場人物に「息を与えて」いた。歌手たちはベニーニのもとで、どれほど安心して歌えていたことだろう。様式が違うと、棒の使い方も全く変わる。ベルカントには別のテクニックが要るのだ。ベニーニはオペラをどれくらい真剣に学んだ人なんだろう…と、マエストロの背中を見ながら刻苦勉励の青春時代を想像した。物凄く熱心な指揮者の卵だったはず。ベッリーニを振るベニーニの姿がしばらく脳裏に焼き付いたままだった。東フィルとは今作でも完璧な協調体制をキープしていた。

シラグーザのエルヴィーノが恐ろしい嫉妬のベルカントを歌い上げると、その解答のようにムスキオのアミーナは天上的なソプラノで返してきた。あの最後のシーンの、今にも落っこちてきそうな屋根の軒下で歌うアリアは、「ベルカントの高音の美」を即物的に表したものなのだろうか。高さはどれくらいあるのか…高所恐怖症の歌手は歌えない演出。そこでのムスキオは教会の祭壇の上のマリア像のようで、夢遊病という病が聖なる者の証であるかのように、村人たちは彼女を仰ぎ見るのである。

人間が「無意識」の存在を知ることになったのは、黙読できる能力を身に着けてからのことで、昔の人々は音読しか出来なかったため、ヨーロッパの古い図書館には閲覧者たちの「声が聴こえないように」ひとつひとつ厚い仕切りがついていたという。松岡正剛さんの本に書いてあった。この村人たちは恐らく本を読むことも叶わず(ドニゼッティの『愛の妙薬』のアディーナは本を読める特権的な存在)、無意識という領域があることすらも知らない。覚醒した意識とは別のものに操られて高い所にいる娘は、さぞ不思議な存在だっただろう。この演出では、「夢遊病」という不可思議な病が娘の聖性と結びついていて、彼女の純潔は証明されるが、それ以上の尊さを最終的にまとうのである。

色々な共演者とベルカントを歌ってきたシラグーザが、カーテンコールで「君は本当に最高!」とムスキオを抱き上げていたのが印象的だった。ベニーニもいよいよ若返って、フレンドリーな雰囲気で舞台に上がってきた。合唱の村人たちは、しばらくさっきまでアミーナのいた場所を呆然と眺め、合唱指揮者の三澤さんが現れてようやく客席側を向いた。ベルカントオペラの凄味と音楽家たちの奇跡を目の当たりにした公演。あと二回上演されます。




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