小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ヤクブ・フルシャ&バンベルク交響楽団(6/26)

2018-06-28 02:42:22 | クラシック音楽
来日中のバンベルク交響楽団のサントリーホールでのコンサートを聴いた。指揮は2016年から首席指揮者を務めるヤクブ・フルシャ。前半はブラームスの『ピアノ協奏曲第1番 ニ短調』で、ユリアンナ・アヴデーエワがソリストとして登場した。久しぶりのフルシャは相変わらず人懐こい笑顔で楽員たちを見渡し、コンチェルトの前奏を指揮しはじめた。生真面目で厳粛で哲学的なサウンドが渦巻きのように立ち上り、このオーケストラがもつ悲劇的な響きに忽ち魅了された。ピンクのジャケットを着たアヴデーエワは決然とした表情で最初の一音を鳴らし、それがオケの音と完璧に調和していたことに驚いた。静謐で厳しく、痛々しいほど清潔で聖なる音だった。
ブラームスの2曲のピアノ協奏曲はそれぞれ青年期と壮年期に書かれたもので、二つの曲には共通する精神性を感じる。「独身者の矜持」ともいうべき特異な精神で、それがこの曲を美しいものにしている。生涯結婚しなかったブラームスの厭世観は、ピアノコンチェルトに最もよく描き出されていると思う。ニ短調の1番の執筆中にはシューマンが亡くなり、初演と同じ時期(1859年1月)にブラームスはアガーテ・フォン・ジーボルトとの婚約を破棄している。クララへの断ちがたい想いがそうさせたのだ、というのが通説だが、別なふうにも考える。ブラームスは俗世間と距離を置いて生きる必要があり、彼の芸術性において婚約破棄は避けて通れないものだった。恩人の妻への思慕は、「私はファントムとしての女性しか愛さない」という決意でもあったとも思う。

アヴデーエワのピアノが、凄まじい表現力だった。禁欲的で崇高で、ブラームスの人生と精神性をどこまでも掘り下げていく覚悟に溢れていた。硬質だがストイックな愛情に満ち、あらゆるパッセージに死に至る渇望感が感じられた。女性なのに強靭な左手の持ち主で、オケに比肩するダイナミックなサウンドを一人で鳴らす。オーケストラはこの名曲をありきたりに演奏せず、毎秒ごとに新鮮で新しい美を投げかけていた。木管がとても「ボヘミア調」な雰囲気なのが面白い。弦は偏光オパールのように色彩を変化させ、音楽に秘められた情熱をミステリアスに表現する。ピアニストは、オーケストラからこんなふうに返されたら誰でも嬉しいのではないだろうか。崇高な愛のダイアローグで、それは曲が展開していくごとに濃密な対話となり、枯渇することがなかった。
2楽章のアダージョは完璧な祈りの音楽で、芸術の究極の美は宗教性の中にあるのではないか…という最近の自分の考えに答えをもらった心地になった。時間の感覚が取り払われ、聖なる境地に心が運ばれていった。
3楽章の力強いメロディは、ブラームスの愛の凱歌だった。「私は秘めた愛を封印する」という決意で、フルシャはこの楽章を英雄的に演奏した。アヴデーエワのピアノは金色の螺旋階段を上昇していくかのように舞い上がり、フィナーレに向かってブラームスの魂は救済されていった。ピアニストと指揮者は両方の頬を合わせて抱き合い、奇跡のコンチェルトが実現したことを祝福した。

フルシャには都響の第九のリハーサルのとき(2016年)に一度インタビューをしたことがある。東京文化会館の練習室で、オケに穏やかに語りかけ、楽員全員に感謝の意を示し、みんなを大切に思っていた。「プレイヤーには毎回心から感謝している」と語った。指揮者のエゴで理想郷を創り出すタイプではなく、人の心が織り成す調和の総体がオーケストラだと信じている人だった。
バンベルク響の音も、強制的なものが一切感じられない音で、軍隊のように一糸乱れぬサウンドを愛する人にとっては「緩く」感じられる箇所があったかもしれない。「一糸乱れぬ」ことはフルシャの目的ではないのだ。後半のドヴォルザーク『交響曲第9番 新世界から』では、フルシャが「超」のつくポピュラーな名曲を、微塵もありきたりのものにしないために工夫を重ねていることが伝わってきた。音楽は予想に反してどの楽章でも一直線に突進しない。リタルダンドが何度もかけられ、遊び心とも迂回ともとれる不思議なニュアンスがオケの美しい断面図を見せていく。創造性に満ちた瞬間が何度も繰り返され、奏者たちの心は躍動し、ドヴォルザークの旋律とともに高揚していた。ラルゴ楽章の弱音は危険なほどデリケートで、心からの告白を聴いているような心地になる。
勇壮なフィナーレ楽章でひとしきり燃えたかと思ったら、再び鎮まって音楽に繊細さが溢れ出した。オーケストラは本当に、戦隊ではないのだ。ラストの音の思慮深さは何と表現したらよいか、指揮者のエゴイステイックなナルシズムとは対極にあるもので、フルシャはプレイヤー全員に永遠に続く音楽の喜びをプレゼントしていた。円環のように次につながっていくサウンドで、フルシャという指揮者が本物の「王者」であると感じさせてくれた。平和な王国を統治する王様で、全員が心から幸福であることが彼の喜びなのだ。全く、そんなふうに指揮者が存在できるとは思っていなかった。彼は新しい世代のマエストロで、持って生まれた新しい魂を正直に音楽に投影するのだ。6/29には愛の音楽そのものであるマーラーの3番をサントリーホールで演奏する。

(ブラームスが私的に婚約していたアガーテ・フォン・ジーボルト。1858年に婚約指輪を贈っていた)


東京都交響楽団×オレグ・カエターニ(6/17)

2018-06-18 15:10:11 | クラシック音楽
都響×カエターニは6/13の上野での定期も聴く予定だったのだが、急用があったため断念。宮田大さんがソロを弾かれた矢代秋雄「チェロ協奏曲」が大変よい評判だったので、口惜しく思っていた。リベンジを果たすがごとくサントリーのプロムナードコンサートへ。オール・ロシア・プログラム。
この日、都響のスタッフが用意してくれたのは一階前方席の右端で、チャイコフスキーのエフゲニー・オネーギンのポロネーズがとても面白く聴こえた。舞台のcb側に近いため低弦の凄まじい風圧が伝わってきて、他の弦にも油彩画のようなこってりとしたマチエールが感じられた。クールなイメージの都響がとてもワイルドで野趣に溢れていた。カエターニは都響とは4度目の共演とプロフィールにあるが、初めて聴く指揮者。上品なたたずまいの白髪の指揮者で、右手にボールペンほどの長さの指揮棒を持ち、左手では何かが溢れ出すような優しい仕草をする。

前半2曲目はチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」。1998年生まれのピアニスト、藤田真央さんがソロを務めるというので楽しみにしていた。藤田さんがナクソス・レーベルからリリースしたリストを以前聴いていたので、これはすごい才能だと驚いていたが、なかなかタイミングが合わず、生演奏を聴くのはこれが初めてとなった。
このソロが衝撃的だった。明らかに天才肌のピアニストで、聴衆を惹き付ける魅力とテクニックの持ち主なのだが、それ以上に音楽のイメージ力がとても大きく、限界をまったく設けていない。一楽章から凄い集中力とある種の厳格さを感じさせる演奏で、指揮者も若いソリストが微塵も臆せずにこの名曲を弾いているのが嬉しくてたまらないという表情だった(右端の席だったため指揮者の顔がよく見えた)。メジャーな名曲だが、初演のピアニストが匙を投げたという難曲でもある。

2楽章のアンダンティーノ・センプリーチェで、チャイコフスキーはこの曲でまた「春」を書いたのだなと思った。無垢で初々しい春の女神が、雪解けをもたらす太陽の日差しを注いでいるイメージが浮かんだ。先週ロシア・ナショナル管で「イオランタ」を聴いたこともあって、チャイコフスキーの音楽の中の「聖なるもの」についてずっと考えていた。フェミニンで透明で、穏やかで清楚なのだが春の嵐のように唐突に訪れる何かで、「弦楽セレナーデ」のような名曲にも息づいている。弦楽セレナーデの第4曲は、死に絶えたかと思うほど音楽が弱まった瞬間、彼方から何かが訪れて急速に地上に生命力が溢れる。狂気に近い命の湧出だ。

この日の都響は、いつもの精緻なアンサンブルを保ちながら、指揮者の求めるおおらかなサウンドにだいぶ寄り添っていたと思う。今の都響の演奏能力の高さは、中途半端な指揮者を拒絶するほどの水準で、傍目から見ていても客演指揮者のやることを納得しているのか納得していないのかが明白に伝わってくる。カエターニの愛情深さ、優しさ、ロシアの魂の表現には、オーケストラが静かな敬意を寄せていた。高嶺の花のように憧れている都響が、こんな緩やかで甘いサウンドを聴かせてくれることが嬉しかった。
チャイコフスキーの描く春は、死からの蘇りであり、次の死へつながる始発でもある。この円環の時間を、藤田真央さんはめくるめく霊感で描きつくした。実際にピアニストが何を考えていたのかは知る由もないが…チャイコフスキーが素晴らしいのは、生そのものが死と地続きのメランコリーであり、生と死が同時に存在する次元を音楽で描いたことだと思う。マーラーも同じことをした。消え入るようなピアニシモが、魔法のように次のパッセージにつながり、長い長い呼吸が円を描くように永遠に生きている。2楽章のフルート・ソロは無邪気な響きで、産声を上げたばかりの赤子のようだった。
3楽章はピアニストの鬼才ぶりが遺憾なく発揮され、あの殺人的なユニゾンもかつて聴いたことがないほど完璧で、豊かな表現力に満たされていた。

今年に入ってからしばらく、演奏会を心から楽しめなくなっている自分がいて、ある種の職業病かと憂鬱になっていたのだが、5月に入ってから不思議な形で音楽は再び生きる喜びとなった。毎晩のように行われている演奏会が義務でも犠牲でもなく、やはりとても素晴らしい時間であることに気づき、以前とは違う聴こえ方になった。自分は自由でいていいのだ、と再び音楽に恋する気持ちになれた。冬の呪縛から解かれ、解氷したばかりのペルセフォーヌのように、ぎこちない動きで何かを書きたいと思った。

後半のカリンニコフ「交響曲第1番」は、人懐こい民族的な旋律がそこかしこにちらばめられたシンフォニーで、こんな素朴な曲も都響が演奏すると本当に新鮮なものになる。カエターニはカリンニコフこの曲が好きなのだろうか。マルケヴィッチの子息で、終演後に感想を語り合った評論家の方によると「お父さんとは正反対の優しい音楽を作る」ということだった。ボロディンの韃靼人の踊りや、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の終幕に良く似た楽想が現れる。この時代、ロシアの作曲家は西洋化した作風の中に、民族的な趣向を盛り込むことを政府から命令されていた。だからなのか、それでもなのか、36歳で夭折したカランニコフの交響曲には。ロシアの春の女神の温かい微笑みが感じられた。氷の姫君なんかじゃない。麦の穂をヘアパンドにしたそばかすの美女のようなフレンドリーな女神が見えた気がした。
音楽家は、指揮者はオーケストラは、理想や音楽的営為のためだけに演奏をするのだろうか…そんなはずはない、とも思った。「わたしの心からはこんなにたくさんのものが溢れ出しています」といったカエターニ氏の左手から、演奏家もその都度に、聴衆と恋することを待ち望んでいるのだと思った。都響がマエストロと過ごしたリハーサルの時間を想像し、不思議な幸福感が心に広がった。


フランクフルト放送交響楽団(6/14)

2018-06-15 08:47:44 | クラシック音楽
現在日本ツアー中のフランクフルト放送交響楽団のサントリーホールでのコンサートを聴く(6/14)。指揮は2014/2015シーズンからこの楽団の音楽監督を務めるコロンビア出身のアンドレス・オロスコ=エストラーダ。ウィーン・トーンキュンストラー監督時代から日本をよく訪れている指揮者で、フランクフルト放送響のシェフとしては2015年にもアリス紗良・オットとともに来日ツアーを行っている。
前半はチョ・ソンジンをソリストに迎えたラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』。導入部の鐘の音を暗示する和音で、チョ・ソンジンは最初の和音を重々しく弾いたあと、何かの訪れを待つように次の和音との間に空白を置いた。時間に計測するとコンマ何秒かのことだったかも知れないが、その沈黙で一気に「コンチェルトとは何か」ということを知るに至った。
ピアニストがオーケストラに囲まれて協奏曲を弾くことは、クラシックの聴衆にとって見慣れた光景だ。アルゲリッチは「協奏曲はリサイタルの半分の労力で済む」と言い、皮肉屋のアンデルジェフスキは「モーツァルト以降のピアノ協奏曲はピアニストのスターシステムを象徴したなんだか恥ずかしいもの」だと語る。充分なリハが取れないとか指揮者のエゴが嫌だと言ってコンチェルトを嫌うピアニストもいる。
チョ・ソンジンは、ピアノ協奏曲はピアニストのもので、その責任は舞台の中央にいる演奏家にある、ということを教えてくれた。その認識と覚悟のもとに、音楽の深い本質に降りていた。最初の一音と次の音の間の空隙には、外側から見た「コンチェルトを弾くピアニスト」という景色を逆転させるような、演奏家の内観の本質的表現があった。

チョ・ソンジンは正直なピアニストで、2015年のショパンコンクール優勝時も、ワルシャワ中がお祭り気分になっているときに「自分はショパンだけでなく色々な作曲家を弾いていきたい」という素っ気ないコメントを語り、少しばかり皆を冷や冷やさせた。しかし、ここにはピアニストの本質がある。理知的な彼は、音楽における没入や一体化ということと距離を置く。直観的に「そのやり方は自分とは違う」と思っているからだろう。ラフマニノフの2番のPコンチェルトは、映画音楽にもなったロマンティックな曲で、膨大な聴き手が夢のような感情を抱いている。旋律は溺れるような美に溢れていて、激情的だ。
チョ・ソンジンのピアニズムは、コンチェルトが感情の放恣に走ることをつねに避け、別の抜け道を探していた。分析的で明晰なアプロ―チで、音楽の心臓部に到達しようとしていた。ラフマニノフのロシアの歌を創り上げている、古い教会の旋法が色々な箇所で鮮やかに聴こえ、胸を掻き毟るノスタルジアが硬質な形で曲を潤していくのが感じられた。そこで、ラフマニノフのこの曲が、ラブソングでも愛の凱歌でもなく、孤独の中の静かな歓喜の音楽であったことが明らかになった。
自宅に帰って古い譜面を取り出してみると、確かに「A Monsieur N.Dahl」と記されている。この曲は精神科医ニコライ・ダーリ氏に献呈されたもので、「交響曲第1番」の酷評でノイローゼになったラフマニノフはダーリ博士の診療によって快癒したのだ、暗闇の中で光明を見せてくれた存在に対して捧げられた曲で、映画音楽ともラブストーリーとも関係がない。
ラフマニノフには後期のリストに似た精神性があると思う。ラフマニノフの『ピアノソナタ第2番』を聴いていると「孤独の中の神の祝福」という言葉が浮かぶ。協奏曲2番の本質にあるのはソナタ2番と同じ宗教性であり、作曲家の癒しがたくナイーヴな性格で、さまよう心が何とか拠り所を見つけようとする焦燥だと感じた。音楽が本質以外に着せられてきた衣装を脱がせて、ピアニストは「ラフマニノフと自分は等しい」という直観に達していたと思う。音楽の内側に息づくナイーヴさは、あらゆる境界を消して作曲家とピアニストの心を陸続きにしていた。
ソンジンのテクニックは完璧無比で、3楽章のコーダも華麗だったが、きらびやかさよりもこの曲をここまで深く掘り下げてみせた精神性を祝福したくなった。オケはピアニストの霊感を受け取り、緊張感のあるレスポンスを繰り返した。コンチェルトはやはりピアニストのものなのだ。

「この音楽は自分のものでない」という感覚は、素晴らしいインスピレーションを音楽家に与える。チョ・ソンジンが怜悧な知性によってラフマニノフに接近していった成り行きには、潔癖さがもたらす思いがけない成功の筋道が要約されている。
その衝撃さめやらぬまま、後半のマーラー『交響曲第5番 嬰ハ短調』を聴いたので、こちらは少しばかり求心力の足りない音楽に聴こえてしまった。オロスコ=エストラーダは77年生まれの若い指揮者で、活力とユーモアがあり、メンバーからも好かれているのが見てわかる。木管が上を向いて楽しそうに演奏しているのが目に入った。チームワークは万全だが、マーラーのナイーヴさ、曲の生命力=エンテレキーを作っているものがなかなか見えない。バルビローリやバーンスタインの録音だと一息に聴けてしまう5番が、楽章ごとに散乱したとても長い音楽に聴こえてしまった。リハーサルのときに、何か「言葉」が足りなかったのかも知れない。
それでも、ドイツの一流オケとしての魅力が、泉のようにこんこんと湧き出る楽章もあった。新婚のマーラーがアルマを想って書いた4楽章のアダージェットはこれまで聴いた中でも飛びぬけて美しく、神秘のヴェールの中から女神が現れるような気配がした。この日、コンサートの前にチェコの作曲家ミロシュ・ボク氏の記者懇親会があり、そのときボク氏が語った言葉を思い出した。
「ドイツでは戦時に9割のものが灰となりました。何もなくなったところで、ドイツの人々は音楽だけを支えに厳しい時代を生き抜いたのです」
心の拠り所、という言葉は美しい。人間というこわれやすい種にとって命を命たらしめるもので、時として水や食料よりも大事なものだ。1929年に創設されたフランクフルトのオーケストラが、マーラーの音楽とともに乗り越えてきた時代に思いを馳せた。終演は21時30分。













ロシア・ナショナル管弦楽団&ミハイル・プレトニョフ『イオランタ』

2018-06-14 04:37:08 | クラシック音楽
2018ロシア年&ロシア文化フェスティバルのオープニングを飾るロシア・ナショナル管弦楽団の公演をサントリーホールで聴いた(6/12)。18時30分開演で、前半にチャイコフスキーの『セレナーデ・メランコリック』が演奏されたのだが、直前まで目黒でバレエ取材をしていたため遅刻してこちらは聴けず。『セレナーデ~』はヴァイオリニストの木嶋真優さんがソリストを務められた。
休憩のあとの演奏会形式『イオランタ』から客席で聴く。チャイコフスキーのこの一幕オペラはMETライブビューイングでネトレプコ主演のプロダクションを一度見たきり、実演は初めて。『エフゲニー・オネーギン』と同じように、冒頭は女性歌手たちの子守歌のようなやり取りではじまる。室内楽的で寛いだ優美なオーケストラとともに、盲目の姫イオランタと乳母、イオランタの友人である2人の女性たちが優しい歌を歌いはじめる。イオランタのアナスタシア・モスクヴィナの温かみのある美声が耳に快い。乳母の山下牧子さん、イオランタの友人鷲尾麻衣さん、田村由貴絵さんは舞台での立ち姿も美しく、レース編みのような繊細な声のクラフトを聴かせた。
永遠の眠りについているかのような、女性たちの重唱に囲まれて、イオランタは「何かが足りない」と嘆く。五感のひとつである目の悦びを生まれながらに奪われているイオランタを甘やかすべく、城の中に張り巡らされた繭のような優しさが合唱(新国立劇場合唱団)とオーケストラによって描かれていた。

プレトニョフの作り出す音楽には、一気にことの本質に下降する直観力と、毛細血管に染み込んでくるようなデリカシーがあり、聴衆を陶然とさせる。彼自身のオーケストラであるロシア・ナショナル管を率いての公演は格別で、どのパートも言葉のように雄弁で、ハーモニーは豊かな色彩を帯びていた。何よりもこの「物語を語りたい」という指揮者の熱い情熱に心動かされた。モスクワに初めて行ったとき驚いたのは、街のあらゆるところに小劇場があることで、演じることと物語ることはかの国では空気のように自然なことなのだった。
イオランタの父ルネ王と医師エブン・ハキアのやり取りのくだりは、音楽も一気に勇壮で男性的になる。イオランタに危険をともなう目の手術をさせるべきか否か…ルネ王をバス・バリトンの平野和さんが歌われたが、舞台姿も体格がよく声も立派だったため、最後までロシアの歌手が歌っているのだと思った。ところどころバスバリトンではありえない高音が出てくるのだが、強い喉でドラマティックに表現していた。医師を若いバリトン歌手ヴィタリ・ユシュマノフが歌い、金髪で痩躯の見た目からは信じられないほど逞しい声を聴かせてくれたので喝采したくなった。
ルネ王の禁断の城に迷い込む若者ヴォテモン伯爵とロベルト公爵が登場するあたりから、オペラも推進力を強めていく。テンポの速いオケの伴奏で、禁じられた庭へ入り込もうとするヴォテモンと、それを止めようとするロベルト。イオランタに恋するヴォテモン伯爵を絵に描かれた若きアーサー王のようなイリヤ・セリヴァノフが歌い、自分の恋人への熱い思いを歌うロベルト公爵をバリトンの大西宇宙さんが歌った。この場面では大西さんの勇敢な歌唱がより大きな喝采を浴びた。

眠っていた姫を外からやってきた王子が起こす…という物語は古今にあり、王子のキスで100年の眠りからさめるオーロラ姫や、猛者ジークフリートによって目覚める戦乙女ブリュンヒルデなどバレエやオペラでもシンボリックに描かれている。イオランタも五感のひとつが「眠っている」状態で、心ときめく騎士=ヴォテモン伯爵との出会いによって女として覚醒する。その様子を、チャイコフスキーは自分の持てる限りのイマジネーションを駆使して、究極の筆致で描き尽くすのである。まるで乙女イオランタが、自分の心の中に棲む一番大切な存在であるかのように。心の中の聖堂にいる音楽のミューズが、オペラ作曲家に作品を書かせるのだろう。チャイコフスキーの中の神聖なものが凝縮されている。「あなたは光をみたことがないのか…」と驚く騎士の歌からは、神が天地創造の一日目に作り出した光が確かに見えた。巨大な才能によって受肉したオペラには、泣き出したいほど張り詰めた美しさが漲っていた。

音楽は雄弁だが、何よりも物語の筋を聴かせるために献身的に鳴っていた。プレトニョフはこの神秘的な物語を伝えたいのだ。チャイコフスキーも物語の愛なしにはこの音楽を書かなかっただろう。そう思っているうちに、今までプレトニョフが東フィルとの共演で聴かせてくれたさまざまなオペラや劇音楽が次々と思い出された。東フィルの優しさと懐の深さが、ロシア・ナショナル管の美質と大陸のようにつながるのが感じられた。日本は何と素晴らしい国なのか…二つの国は確かに芸術の地下茎によってつながっていた。

イオランタを娶るべく「自分の身分に不足はない」と身の上語りをするヴォテモンと、イオランタの許嫁であることが明かされるロベルト公爵、プロヴァンス王であるルネ王の「水戸黄門」的な歌など、劇は途中からローエングリンの趣を呈する。チャイコフスキーもわざとやっているのか、ワーグナー的な響きの断片がオケにも飛び交っていた。ラストは、トゥーランドット的な大団円でもハッピーエンドでもなく、ロッシーニのミサ曲のように荘厳に終わる。オペラ形式としては折衷的だが、有り余るほどの美旋律と豊饒な歌声によって観客を喜ばせる内容に仕上がっていた。新国立劇場合唱団は霊的な声、地響きするような男声バスなどロシアの合唱団のような素晴らしい声を聴かせ、ソロ歌手たちを支えた。ルネ王の従者アルメリックを歌った高橋淳さん、門番ベルトラン役のジョン・ハオさんも素晴らしい出来栄えで、ロシアと日本の歌手たちが全く同じハイレベルな次元で共演していたことが嬉しかった。チャイコフスキーの中の聖なる存在を感じた貴重な上演だった。






クリーヴランド管弦楽団 プロメテウス・プロジェクト6/3

2018-06-05 16:51:42 | クラシック音楽
来日中のクリーヴランド管弦楽団の6/3(マチネ)の公演を聴く。プログラムは『エグモント』序曲、『交響曲第4番』『交響曲第7番』。5日間でベートーヴェンの交響曲全曲と序曲の名曲を演奏する「プロメテウス・プロジェクト」の二日目だが、このオーケストラの伝統と美質、ウェルザー=メストの指揮者としての直観の鋭さを深く認識するコンサートだった。
木管の馥郁としたしなやかさや金管の正確さ、低弦の温かみのある勇壮な響きなど、二日目にして発見する個性も多かったが、一番感銘を受けたのはクリーヴランドのオケの「節度の中の情熱」というか、決して派手になりすぎることのない気品だった。そこには秘かなる戦いの意志も感じられた。現代という時代に対して宣戦布告しているようなサウンドで、総体として聴こえてくる音に、彼らの真摯な日常と一朝一夕ではない鍛錬も感じる。圧倒的な基礎の上に成り立っている演奏だった。

ウェルザー=メストがクリーヴランド管の100周年にベートーヴェンを選び、音楽と哲学と「善」の結びつきを聴衆に聴かせようとしたことは見事な選択だった。モーツァルトやブルックナーやマーラーでもよかったかも知れないが、ベートーヴェンほど個人と時代の「渇望感」を見事に表現した作曲家はいないのだ。ブルックナーも光の音楽を書いたが、ベートーヴェンは聖なる直観をフレンドリーな性格の音楽として書く才能に恵まれていた。人間のハートの中には狭い聖堂があり、そこを開いた芸術家のみが優れた作品を創り上げることができる。歴史に名を遺す音楽家は、すべて心の中の聖堂を開けることができた。そこから先は、それぞれの流儀で前進していくことになる。

仄暗い雰囲気で始まる『交響曲第4番』が、一楽章の途中で何かに目覚めたように明るさを加えていくくだりはいかにもベートーヴェンだ。電撃的で、中間的なものが省略されている。闇を切り裂いて光が世界を驚かせていくようだった。それを、オーケストラは非常に「人文学的に」表現していた。クラシックの驚愕とは、花火や爆竹が鳴るわけでもなければ、ギターやピアノが破壊されるわけでもない。その衝撃性は暗喩的であり、神秘のヴェールをまとっているが、同時にとても明白なものだ。
ベートーヴェンのシンフォニーは崇高であると同時に、どんなハードロックよりも過激だと思う。精神の流れが、凄い。音楽が不安を帯びても、墜落せずに明るい方向へと突き進んでいく(内省的な弦楽四重奏曲となるとベートーヴェンはまた別のことをするのだが)。
4番では、ワーグナーが凄まじく多くのことをこの音楽からかすめとっていったことを知らされた。賢明なワーグナーは交響曲を書かなかったが、ベートーヴェンに憧れてやまなかったのだろう。

人間の潜在意識とは不思議なもので、顕在意識で聴いているつもりのこと以上のものを感じ取っている。ベートーヴェン・ツィクルスを聴くという行為が、高尚なものだとか知的なことだとかという以上に「肉体と霊性をアップデイトする」アクションに感じられる。吟味された演奏が人間の臓腑に与えるバイブレーションはすごい。小さな子供だって、何か感じるだろう。数年たって、十数年たって、あるいは何十年たってからこの日の演奏を思い出すこともあるだろう。脳と身体のどの部分がこの経験を覚えているかわからないのだ。

『交響曲第7番』は壮麗で、少しばかり鷹揚な雰囲気ではじまったが、オーケストラの秘められた情熱が3楽章からじわじわと爆発し、フィナーレ楽章では爆発的な音の饗宴となった。プロメテウス・プロジェクトは「人間が叡智によって火をつかうこと」のメタファーが込められているとプログラムにあったが、このフィナーレの狂騒はまさに炎の祝宴だった。
そしてその爆発に至るまでの厳しいコントロール、「逆境」に近いストイックなオケの鍛錬を思わずにはいられなかった。ベートーヴェンはそこまでいって初めて本質を明らかにするのだろう。
名門オーケストラのメモリアル・イヤーの引っ越し公演というのは、これを逃すと聴けないもので、連日行われているこの貴重な人間的営為を一人でも多くの人に聴いてほしいと思った。ただ生きるだけの人生では見えない、もっと凄くて素敵なことがサントリーホールで起こっている。
 ⒸSuntoryHall