小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(11/20)

2018-11-22 15:24:14 | クラシック音楽
ミューザ川崎での初日が素晴らしかったウィーン・フィルのサントリーホールでのプログラムAを聴く。今年のウィーン・フィルは明らかに例年とは違う音楽を奏でている。過去数年の来日公演は、コンマス側と逆側で全く別のことが起こっていたり、若い指揮者が一人だけ元気すぎたり、妙にビジネスライクだったりして全く好きになれなかったが、今年は初日の一発目で特別なことが起こっていると感じた。ウェルザー=メストのリーダーシップが、オーケストラからかつてないほど新鮮なものを引き出している。その予感はこの夜も当たった。

モーツァルト「魔笛」序曲は、快活で柔らかいエレガントなサウンドで、ウィーン・フィルの職人肌のオペラサウンドが聴こえてきた。小刻みな弦がコケティッシュで、木管のユーモラスな響きが楽しい。ウィーンのモーツァルトはとても小粋で洒落ている。2曲目もモーツァルト。『ピアノ協奏曲第24番 ハ短調』ではソリストのラン・ランが以前よりだいぶほっそりとして、別人のようなルックスで登場したのに驚いた。にこやかにピアノの前に座ると、すぐさま曲の世界に溶け込んで、ほとんど鍵盤を見ずに目をつぶって朗々と(!)演奏していた。ラルゲット楽章でのピアニシモの美しさに聴き惚れる。一昔前のラン・ランは、こんな音を出すピアニストではなかった。「英雄ポロネーズ」をオール・フォルテシモで弾いたかつての元気印少年とは違う。優美で繊細で、フェミニンですらある。痩せたラン・ランはなで肩で、衣裳のシルエットもどこか女性的に見えた。ピアニストがこのように「マッチョからフェミニンへ」移行していく姿は、一種の興味深い「進化」だと思う。数年前にピーター・ゼルキンが、優しさだけから出来ているリサイタルを、ヒストリカルのスタインウェイで聴かせたときのことを思い出した。
ラン・ランといえば、逆境を乗り越えたピアニストで、あの壮絶な「郎朗自伝」のことがつねに頭にある。今のラン・ランには美しい時間しかないのだろう。アレグレット楽章の、高度なメカニックを要求されるパッセージでも、ラン・ランはほとんど鍵盤を見ないで夢見心地で弾いていた。オケも一人一人が、感極まったとでも言いたげな幸福な表情で、芯から音楽に浸っていた。ピアニストのアンコールのシューマンを聴いているときのメンバーの顔も、とても美しかった。

オーケストラは聴くものであり、同時に見るものでもある…ウィーン・フィルは見てこそ最高のオーケストラだ。皇太子殿下も臨席されたこの夜のコンサートは、「ウィーン・フィルを聴きに来た」聴衆の期待感と、オケがその期待に応えて最高のものを返していく鏡像のような姿が最高だった。演奏そのものをオタク的に「ジャッジメント」しようとするなら、完璧無比とはいえなかった。金管は初日と同様、だいぶリラックスして正確な音ではないものを鳴らしていたし、ザッツが微妙に乱れたり、糸のほつれみたいなものがところどころ見えたりした。キュッヒルさんがいたら「昔のウィーン・フィルはこんなものではなかった」と激昂していたかも知れない。不思議なことに、細かいほつれなど全く気にならなかった。もっと貴重なものがオーケストラによって伝えられていた。

後半のブラームス『交響曲第2番』は、一言では言い表せない果てしない音楽だった。この作品で言い古されてきたことのすべてが、まったく新しく、別の意図をもって演奏されていた。ウィーン・フィルは定番のレパートリーとして数えきれないほどこの曲を演奏してきたのだろう。やるべきことは決まっている。ウェルザー=メストの動きに釘付けになった。皆が彼を真剣に見つめているが、同時に何かを一生懸命探している。今、この瞬間に全身全霊を捧げなければならないが、それをどうしたらいいのかは楽員全員に委ねられているといった雰囲気なのだ。
一斉に高まったり、穏やかになったりする呼吸感は見事だが、ウェルザー=メストはサウンドの内容に関しては、プレイヤーの即興的なものに任せている部分が大きいのではないかと思った。あの厳しい表情が、無限の自由を許容しているように見えた。「だって、君たちはウィーン・フィルのメンバーじゃないか」「音楽家が幸福であることをみんなに知らせてくれ」と指揮者がオケにオーダーしているのだ。違っているかも知れないが、そう聴こえた。2011年から2014年まで、ウェルザー=メストは歌劇場の音楽監督としてウィーン・フィルとともにいた。2011年のヴェルディ&ワーグナー・イヤーは過酷であったことをキュッヒルさんは語ってくれたが、そのときのシェフも彼だった。ウィーン・フィルで弾き続けることは、命が縮まるほど大変なことだ。

ステージの上で帳尻を合わせることだけが音楽家の人生ではないのかも知れない。24時間大変で、24時間素晴らしいオーケストラの日常がブラームスのシンフォニーから感じられた。高遠な思想も、重厚な哲学も知っている彼らが、ブラームスと自分たちの人生をイコールでつなげ、音楽の中の善意を全身で顕していた。全員の顔が輝いていて、人間はこんなにいい顔をするものだろうかと目を疑った。ほとんどは男性だが…男性も女性もなく、皆が優しくて親切な人間に見えた。演奏家たちがこの瞬間に感じている思いやりと感謝がステージに溢れ出し、今日この日にサントリーホールにいられたことが奇跡に思えた。実際にウェルザー=メストのリハーサルを見学してはいないのだが、ウィーン・フィルは完全に彼の「王国」だった。
王様は威厳をもって指揮台に立っていたが、見れば見るほどその動きはとてもユニークで、音が溢れ出す直前に全身を後退させるような動作をする。「これから凄いものがやってくるが、みんなも覚悟するように」と伝えているようにも見える。
クリーヴランド管弦楽団のベートーヴェン・ツィクルスで、どこまでも誠実で崇高なウェルザー=メストの生き方に脱帽したが、ブレない生き方をウィーン・フィルでも見せてくれた。音楽仲間への友愛と、オーディエンスへの感謝、時間と空間への深い愛情が横溢していた。アンコールはJシュトラウス二世の『ワルツ南国のばら』とE・シュトラウスの『ポルカ・シュネル《テープは切られた》』でミューザとは違う曲をやってくれたのも嬉しかった。








ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(11/15)

2018-11-18 13:24:59 | クラシック音楽
来日中のウィーン・フィルのミューザ川崎シンフォニーホールでの公演を聴く(11/15)。
プログラムCはドヴォルザーク:序曲『謝肉祭』、ブラームス:『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調』ワーグナー(ウェルザー=メスト編曲)『神々の黄昏』抜粋。
ミューザでこのCプログラムをやってくれたことが有難かった。ウィーン・フィルとは何者か…という答えのひとつが、この初日の公演に集約されていたからだ。
ウィーン・フィルは言うまでもなく世界最高峰の名門オーケストラであり、同時にウィーン国立歌劇場でオペラのピットに入る多忙な「伴奏オーケストラ」でもある。ウィーン・フィルは常任指揮者をもたないが、今回の来日公演で指揮台に上ったフランツ・ウェルザー=メストは、御存知のように2010年から2014年までウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めていた。オケの日常を知る指揮者であり、彼らの特質やチャームポイントを知り尽くしている。その指揮者が導くウィーン・フィルというのは、格別であった。ここ数年聴いてきたエッシェンバッハ、ドゥダメル、メータといった指揮者が参加した来日公演とは別次元の演奏会だったという印象。ティーレマンでさえ、ウィーン・フィルとはこんな来日コンサートを聴かせてくれなかった。

ドヴォルザークの『謝肉祭』から、艶やかで饒舌で「オペラ的」なサウンドが溢れ出した。色も香りもあるオーケストラの響きで、ピッチを高めにチューニングしているのか(445ヘルツに設定していると何かで読んだことがある)ハイテンションで明度が高い。シャンデリアの輝きを連想した。ウィーンが欧州の東西の交易の都市であり、東ヨーロッパの「エキゾティックな」文化を栄養にして芸術の味わいを豊かにしてきた街であることを思い出す。ドヴォルザークの曲の中に多様なスパイスが仕込まれ、各パートがキャラクターのあるレスポンスをしながら、ウィーン・フィル特有の上質な表面を創り出しているのが感じられた。
ブラームス『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』では、コンサート・マスターのフォルクハルト・シュトイデとチェリストのペーテル・ソモダリがソロを務め、体格は違うが兄弟のようにも見える真面目そうなソリストが、自分のたちのオーケストラとのダイアローグを披露した。チャーミングで真剣で、無我夢中なドッペル・コンチェルトで、ウィーン・フィルを前にして「一生懸命」などという言葉は似合わないような気がするが、聴こえてくるのは実にストレートで熱い音楽だった。ソリストもオーケストラも、全員が歌っていた。ふだん歌手に歌わせているオケが、ここぞとばかりに自分の「肉声」を聴かせてくれているようだった。

あえて愚かな言葉で言うなら、舞台の上のシュトイデとソモダリは楽器を使ってラブレターを読んでいるようでもあった。楽曲の背景として、一度決裂したブラームスとヨアヒムとの和解をもたらしたエピソードが残っているが、形式ばったフレーズの中に、言葉を超えた愛とか恋といった情熱が見え隠れし、音楽が握手か抱擁の行為に近いものだと思われた。ポーカーフェイスやかっこつけなどとうに通り越した、音楽家の筋の通った生き方が聴こえたのだ。

ウィーン・フィルは重労働の日々の中で、最高のエレガンスを表現している…エレガンスだけでもウィーン・フィルではないのだ。
後半のウェルザー=メスト編曲のワーグナー『神々の黄昏』抜粋は、指揮者がこの「主人のいない」オーケストラをとことん掌握し、コントロールし、同時に大いなる自由を謳歌させている演奏だった。ラインの黄金からジークフリートまで膨大なライトモティーフが溢れかえり、それらのどのフレーズ、どの一瞬を切り取っても完全なキャラクターと物語が見えた。ウィーン・フィルは本当に最高の歌劇場オーケストラなのだ。時折、迸るように「飛び散る」管楽器の音色が聴こえ、勢いあまって鳴るそのサウンドが魅惑的だった。先日のシュターツカペレ・ドレスデンとティーレマンが聴かせた完璧無比なシューマンの金管とは別の音で、ウィーン・フィルにはウィーン・フィルの良さがある。
そういう「勢い余った」音を許しているウェルザー=メストに頭が下がった。マエストロによる編曲のワーグナーは、オーケストラ全員の創意を掻き立て、ワイルドさを鼓舞し、それでいて俯瞰では艶麗で典雅なウィーンの音に仕上げていた。ウェルザー=メストは任期半ばにして、総監督との意見の相違が原因で歌劇場の音楽監督を退任していたが、彼らとともに仕事をしていた4年間には、宝物のような瞬間が数多くあったのだろう。
ウェルザー=メストといえば真面目で謹厳なイメージを抱いていたのだが、毅然とした背中を見て「もしかして、すごく冗談好きで天才的なユーモア・センスを持っている人なのかもしれない」と思った。ブラームスからもワーグナーからも、アラベッラやチャールダーシュの女王や、メリーウィドウやオペラ舞踏会の「粋」が薫ってきた。以前、ソプラノ歌手の佐々木典子さんが「ウィーンの人って『ヤー、ヤー』」というのが口癖なのよね」と教えてくださったことを思い出す。それは「セ・ラ・ヴィ」みたいなものだろうか。どこか大人っぽくて、小粋なのだ。

アンコールはJ・シュトラウス二世の『レモンの花咲くころ』と『浮気心』。サントリーでは同じプログラムが最終日に演奏される。