小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

セイジ・オザワ松本フェスティバル『エフゲニー・オネーギン』8/22.8/24

2019-08-26 10:09:57 | オペラ
セイジ・オザワ松本フェスティバルの4年ぶりのオペラ公演は、ファビオ・ルイージ指揮『エフゲニー・オネーギン』。全3回の上演のうち、中日の8/22と楽日の8/24を観た。松本を2往復したのは、初日に主役のオネーギンを演じたバリトンの大西宇宙さんを聴くためだった。演奏や演出のディテールを認識するためにも、これは2度鑑賞する必要があったプロダクションだった。

オネーギン役はスター歌手のマリウシュ・クヴィエチェンがケガで降板したため、22日はトルコ出身のレヴァント・バキルチが演じた。初日を体調不良で降板していたこともありスタミナ面での心配があったが、本人も始終確信を持てなくて残念そうな様子だった。この日は一階席の最後列で鑑賞したため、高い場所からピットがかなり良く見えた。ファビオ・ルイージがかつてないほど情熱的に、大きなジェスチャーでテンポも自在に巻いたり緩めたりしながら、全身を使って振っていた。ロシア語のオペラを初めて振るので語学から勉強したというが、すっかり『エフゲニー・オネーギン』の虜になってしまったのだろう。小澤さんも世界各国でこのオペラを振った。チャイコフスキーのオペラに宿る「魔力」がマエストロからマエストロへ感染したのかも知れない。

タチヤーナのアンナ・ネチャーエヴァは両日とも好演。透き通った木霊のような幻想的な美声で、この役だとどうしてもネトレプコを思い出してしまう。ネチャーエヴァは純粋な人で、その役で乗っている期間は24時間オペラに捧げているタイプに感じられた。オンとオフは関係ない、というタイプもいるが、このタチヤーナは歌手が人生の隅々まで捧げつくして演じているように見えたのだ。「手紙の場」では、突然自分の内面に訪れた闇のような孤独感と、全身に満ちる宇宙的なパワーに驚いているヒロインを見せた。

バキルチの不調にもかかわらず素晴らしかった『エフゲニー・オネーギン』で学んだのは、これは人間関係が重要なオペラで、タチヤーナやレンスキー、グレーミンがそれぞれ重要なアリアを歌うため、オネーギンその人は物語を進行させるための「聞き役」でいても成立するということだった。他人の歌を聴いているのも立派な演技である。

しかし、タイトルロールに充分な気力が宿っていることは重要で、24日に大西さんが加わったことで完璧なプロダクションになった。チャイコフスキーの粘り強く、意外な展開を見せる旋律も鮮やかに表現し、演技にも気品があった。1820年代の豪華な衣裳をまとった東京オペラシンガーズの合唱も主役のエネルギーと調和して、いっそう聴きごたえがあった。何事にも満足しない厭世観の塊である青年貴族の役が、大西さんの強い眼力の表情とぴったりなのだ。決闘で一撃の勝利を収める役には、底知れぬ強さというものが必要だ。オネーギンのタフで強靭な魅力が溢れ出し、舞台に欠けていたパズルの一片がはまったことで、完璧な上演となった。

この松本のプロダクションは客席から観ていても、明らかに特別な、高水準のクオリティだった。登場人物に巻き起こる感情が自然で、台本通りに演じているというレベル以上のものがあり、毎回新しいドラマが生まれ、少しずつ違う情熱が燃え盛っていた。平易な言い方をすると歌手全員が「役になりきっている」ということなのだが、毎回異なる聴衆とともに新鮮な演技で空間を満たしていくには、直観の訓練が必要だと思う。歌手全員が見事だった。

18歳の若さで死ぬレンスキーを歌ったイタリア人歌手、パオロ・ファナーレは善良で世間知らずの若者を好ましく演じ、決闘のシーンのアリアも聴いていて万感こみ上げるものがあった。これはロシアのテノールにとって最も大切な歌のひとつだ、と語ってくれたのはディミトリー・コルチャックだったが、イタリアの歌手も素晴らしく歌う。
幼な妻との恋の喜びを滋味深く歌うグレーミン公爵を演じたバス・バリトンのアレクサンダー・ヴィノグラドフには、二日とも大きな喝采が寄せらせた。グレーミン公爵の歌がこんなに染みるのも、それまでのタチヤーナの演技が完璧だからで、この年長者のアリアは鏡のような役目を果たしている。それにしてもヴィノグラドフの「うまさ」は、ある程度年を重ねないと味わいの出ないもので、年相応のベテラン歌手が歌うことで大きな説得力が出た。

野太い声でおきゃんなオリガを演じた若手のリンゼイ・アンマンは、タチヤーナの妹とは思えないほどのギャルっぽさだったが、登場人物の全てが沈鬱なこの劇で、唯一陽気な存在としていいアクセントになっていた。再演演出ではよくあることだが、歌手の性格によって演技を大袈裟にしている部分もあったのだろう。ケーキを素手で鷲掴みにして食べるシーンには驚いた。お転婆で恐れ知らずの性格なのかも。重いメゾで既にワーグナーも多数歌っているらしい。

カーセン演出は、舞台にかなりの傾斜がかけられており、ポロネーズを踊るダンサーたちは大変だったと思う。床を埋め尽くす枯葉が美しく、照明もドラマティック。オネーギンとレンスキーの決闘のシーンの、夜明け前の青から薄紫の世界も幻想的だった。タチヤーナの聖名誕生日でもサンクトペテルブルクの大広間でも、形の違う椅子が舞台を囲むように並べられていたが、チャイコフスキーのオペラの初演が学生たちによるものだったこと、この作品に関して作曲家が「オペラ」という仰々しい呼び名を嫌い、「抒情的な場」と呼んだことを思い出させた。

 名手たちが結集したオーケストラは極上のサウンドで、見事な集中力によって息の長い音楽を聴かせた。本当にあの冷静なルイージの姿なのか? とピットを見て何度も驚いた。チャイコフスキーには、いくつもの解釈の次元があり、深く関われば関わるほど危険な作曲家だとつくづく思う。才能という美徳が、彼自身のどうしようもなく反社会的な部分と隣り合わせにあり、矛盾を抱えたまま傑作を書き続け、最後は袋小路に追い込まれた。
 
 オペラとは妄想による至宝だ。プーシキンもチャイコフスキーもこのオペラによって殺された。プーシキンは妻にしつこく言い寄るフランス人将校ダンテスと決闘し(政府が仕組んだ罠であった)37歳で凶弾に倒れた。チャイコフスキーも同じ37歳で巨大な不幸と出会う。ちょうど『エフゲニー・オネーギン』の執筆中で、ハンサムな自分に愛の手紙を送ってきた声楽家の卵アントニーナを「現実のタチヤーナ」と思い込んで結婚してしまう。エルミタージュ・ホテルでの披露宴は葬式のようで、妻を愛せないチャイコフスキーはモスクワ川で自殺未遂をはかる。人生とオペラに境目なんかない。
 
 タチヤーナとオネーギンは二人でひとつの存在だ。人生に虚妄を抱かずにはいられないロマンティストで、お互いが時間差で相手に「ロマンティストでは生きられない」と説教する。そうした若さのドラマも、老いとともにやがて土の中に埋もれていく。冒頭のラーリナ夫人とばあやのフィリーピエヴナの哀し気な歌は、舞台の歌手たちの優れた表現によって疼くような感情を喚起させた。「昔は許婚以外の人も好きになった」「英国の小説に夢中になった」「今では人々が自分を呼ぶ名も変わってしまった…」。いずれはみんな朽ち滅びて死んでしまう。あの夥しい落ち葉が、この世の役目を終えた命の寝床に見えたのだった。


フェスタサマーミューザ2019 東京フィル×ダン・エッティンガー(8/11)

2019-08-18 02:33:46 | クラシック音楽
 8/12まで開催されていたフェスタサマーミューザ2019は、例年にも増して熱気にあふれた名演が多かった。中でも忘れがたいのは東フィルとダン・エッティンガーの「リユニオン」共演(8/11)だ。後半のチャイコフスキー『悲愴』ではロマン派音楽の究極の演奏を聴いた。コンサートマスターは三浦章宏氏。
 ダン・エッティンガーが東フィルの常任指揮者を務めていた2010~2015年の東フィルの定期をそれほど多く聴いていなかった。2009-2010年の新国でのリング四部作も聴いていない。この日の演奏を聴いて、当時の凄いケミストリーを想像した。オペラのライブ配信などで聴くエッティンガーの指揮は、どれもが好きというわけではなかったが、東フィルとの相性は卓越している。ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲は、快速なのに重みがあり、個性的な楽劇の登場人物を想像させる快活な音楽だった。東フィルは弦も管も本当にうまいと思う。木管のクオリティがどんどん上がっている。合奏全体の生命力が素晴らしく、野暮ったいところがない洗練されたワーグナーだった。
 モーツァルト『フルート協奏曲第1番』では、ソリストの高木綾子さんが目の覚めるような至芸を聴かせた。技巧的な曲をエレガントに、正確に演奏された。オペラ座の愛らしいエトワール、アマンディーヌ・アルビッソンが踊るシルフィードを連想した。詩人の求愛をかわす空気の精は、目にもとまらぬ速さで森を横断していく。フルートというのはモーツァルトのオペラのタイトルの通り「魔法の笛」なのだ。オーケストラとソロの優雅な対話を楽しんだ。

 チャイコフスキー『交響曲第6番《悲愴》』では、芸術家の死に至る逆境ということを演奏から深く感じた。作曲家の最後の交響曲であり、音楽には暗い暗示が含まれている。チャイコフスキーの死因は、ロシア当局の弾圧(同性愛者であるかどの)の他、レストランで生水を飲んでコレラに罹った説などあるが、振付家のバランシンがインタビューで語っていた説を信じている。弾圧は確かにあり、チャイコフスキーは絶望して危険な生水を飲んだ。実質的な自殺だったという説だ。
 第1楽章から絶望を思わせる響きで、東フィルのサウンドのボディを作っている厚く豊かな質感、臓腑に直接響くメランコリーの表現に感銘を受けた。テンポは激しく揺れ、崩壊しそうな加速も加えられるが、絶対に崩壊しない。人懐こい民謡風のフレーズはロシアの夕焼けのようで、管楽器同志の掛け合いは虹を幻視させ、チャイコフスキーがプティパと創造したバレエの夢の世界を連想させた。信じがたいほどの霊感に溢れたモティーフが堰を切ったように次から次へと登場する。雷鳴のような打楽器と、この世の終わりの嵐のような展開。これを書いていたとき、チャイコフスキー眠れていたのだろうか。異常な精神状態を感じた。ピツィカートが血のしたたりのようで、悲愴は血で書かれたシンフォニーだと思った。
 第2楽章のワルツは、サンクトペデルブルクへの愛だ。『エフゲニー・オネーギン』の最終幕で、グレーミン公爵が朗々と歌い出すあの広間の場面を思い出す。シャンデリアと夜会服、貴族たちの社交の世界。チャイコフスキーにはそういう世界こそ相応しかった。この魅惑的なワルツから、チャイコフスキーの生への未練を確かに感じた。美しいサンクトペテルブルクの街への別れを嘆いているようだ。
 ダン・エッティンガーはどのようにチャイコフスキーを「読んだ」のか、散文的な質問をして答えてくれる人なのかどうか知らない。明らかな天才を感じた。天才が天才の視点から音楽を見ている。形而上的な世界で想像力を羽ばたかせている作曲家が、同時に形而下の世界に足をひっぱられている…同性愛は当時の(そして今でも?)ロシアでは重罪だった。チャイコフスキーは自己矛盾に引き裂かれ、法という人間の作った枠組みに収まらない自分の生き方に苦悩していた。
 自己矛盾と天才が分かちがたく結びついていた場合、芸術家はどう生きたらいいのだろうか。ロマン派の作曲家は狂気に蝕まれたり、うまい具合に病気で早死にしたりしたが、チャイコフスキーは最後まで麻酔なしで精神の逆境に耐え、その苦痛の全部を音符にしたと思う。第3楽章のトリックスターの踊りのような軍隊行進曲は、生きることすべてへのアイロニーのようだ。厭世観を知らぬ者、譲歩や美徳を知らず、生をただ貪る者たちを戯画的に描いている。マーラーの9番と何と酷似していることか。閉所に追い込まれるような感覚にところどころ襲われた。各パートが鮮やかで、ひとつひとつの音が狂気を帯びている。
 第4楽章は、弦のグロテスクな音が素晴らしい。既に生命を失いつつある、絶望した精神の声に聴こえた。低弦は音程も狂っている。わざと奇矯な音を出しているのだ。音楽としてぎりぎりの実験をして、作曲家の転落を描き出している。死の灰のような楽章であり、歪んだ字で書かれた遺書のような最終章だ。同時にチャイコフスキーは、自分が間もなく行く天国の扉を開ける瞬間を夢見ているが、自分の入る墓の穴を掘っているのは、紛れもなく彼自身だということも知っている。
そのような音楽が、高貴な人間性、騎士的精神によって書かれていることが悲しくてやり切れなかった。音楽会は楽しいものであるとは限らない。ある特別な精神の辿った道を理解するための、神聖な儀式でもあると思う。
 ダン・エッティンガーの曖昧さのないクリアなヴィジョン、コンサートマスターの三浦さんの見事なレスポンス、楽員の方々の信じがたいほどの献身に感謝したい奇跡的なコンサートだった。ホールの響きはいよいよ成熟し、この深淵をしっかりと受け止めていた。


フェリ、ボッレ&フレンズ Bプロ(8/4)

2019-08-10 16:28:47 | バレエ
フェリ、ボッレ&フレンズ最終日(Bプログラム)を文京シビックホールで観た。演目はノイマイヤー振付『バーンスタイン組曲』から4曲、高岸直樹振付『リベルタンゴ』ノイマイヤー『オルフェウス』よりパ・ド・ドゥ、ラッセル・マリファント振付『TWO』、リカルド・グラツィアーノ振付『アモローサ』、ノイマイヤー『作品100~モーリスのために』『フラトレス』(『ドゥーゼ』より)。
ノイマイヤー・ガラの趣も呈したこのプログラムの上演のために、ノイマイヤー自身が来日して丁寧な指導に当たったという。Bプロにはカーステン・ユング、アレクサンドル・トルーシュ、カレン・アザチャン、マルク・フベーテらハンブルク・バレエ団のスター・ダンサーズが加わり、Aプロから参加しているシルヴィア・アッツォーニ、アレクサンドル・リアブコと合わせて、ハンブルク・サポートの高水準の上演が行われた。

『バーンスタイン組曲』から、ノイマイヤー・ダンサーたちのセンスと躍動感が素晴らしかった。Aプロでは3部の『マルグリットとアルマン』のみだったフェリも、「ロンリー・タウン」で早々と登場し、リアブコ、フベーテとともに軽やかに踊った。少年時代にミュージカル映画に心酔したノイマイヤーのバーンスタインへの共感が、「作曲家の精神の踊り」として表現されたバレエで、初演から21年が経っているがとても鮮烈だった。衣装が独特だなと思っていたら、デザインはジョルジオ・アルマーニだった。
 高岸直樹さん振付の『リベルタンゴ』は、ピアソラの音楽に合わせて上野水香さんとマルセロ・ゴメスがシャープで情熱的なデュオを踊った。元々、水香さんのために振り付けられた作品だという。彼女の美しいシルエット、タンゴのリズムに合わせて空間を刻んでいくような機敏なステップが見事で、女性ダンサーへの敬意を極限まで表現するゴメスがここでも最高の表情を見せた。気を緩めると事故も起こりかねない緊張感のある振付だが、二人は雲の上にいるよう。ゴメスは後半の『アモローサ』ではアッツォーニとも完璧なデュオを見せたが、ABプロを通してベテランの底力を表したと思う。
 
 2部ではボッレが大活躍し、マリファントのアブストラクトな『TWO』を厳しさとユーモアを交えた表現で見せた。ダンサーの肉体美が際立つ。ノイマイヤーがベジャールの70歳の誕生日に捧げた『作品100~モーリスのために』は、Bプロの中でも特に楽しみにしていた作品だった。サイモン&ガーファンクルの「旧友」「明日に架ける橋」に合わせて踊られる男性二人のための振付で(映像でもこの二人の演技が見られる)、ボッレが踊るたびにいい表情になっていく。言葉にするのは難しいが、ノイマイヤーとベジャールの関係、友情と敬意などが絡み合った天上的な作品で、ノイマイヤーの元で踊るリアブコは以前からこの根底にある世界観を理解していたが、以前のボッレはどこか不可解な表情を見せていたこともあった。
 ボッレは機会があれば、ベジャールも大いに「踊らせたい」と思っていたダンサーだったと思う。ノイマイヤーとベジャールの間にある霊感の交流を、今のボッレは深い次元で把握していたように見えた。リアブコはそれを「待っていた」ふうでもあり、この『モーリスのために』は爆発的な感動を呼び起こした。観客の熱狂は火が付いたようであった。

フェリがハンブルクの4人のダンサー…トルーシュ、アザチャン、フベーテ、ユングと踊る『フラトレス』は、ノイマイヤーが1986年にマリシア・ハイデに振り付けた小品をベースに、復帰したフェリのために2015年に創作したバレエで、20世紀初頭に実在したイタリア人女優エレオノーラ・ドゥーゼと3人の恋人、1人のメンターとの心理的なドラマが描かれている。
 そういう解説を読まずにこの作品を観たので、これはバランシン・バレエへのオマージュではないかとも思った。音楽はアルヴォ・ペルトだが、静謐で純化された世界観からは、ストラヴィンスキーの新古典派の音楽にバランシンが振り付けた『アポロ』と似た質感が感じられた。
 4人の男性ダンサーとフェリは明らかに違う意識の次元にいて、フェリは眠っているようにも見えた。とても「催眠的な」雰囲気があり、神話の女神のように幻想的で、男性たちはその意識にコミットしようとするが、高貴な魂には触れられない…といったふうなのだ。能のような静けさに溢れ、一つの動きの変奏と展開、再現があり、非常に音楽的だった。驚いたのは、フェリが紛れもなく神々しく美しかったことで、ダンサーとして全く衰えていない…それどころか、いよいよ輝きを増しており、過去の素晴らしい彼女の上演が丸ごとこの瞬間に接ぎ木された感覚があった。
 ダンサーの美とは何か、改めて「内面にあるもの」の重要さを気づかされた。
 この凄いBプロを観て、ガラ公演の本質とは何かを考えた。4日間、計5回の公演は、最初「多すぎるのではないか」とも思ったが、終わってみれば5回全部見ておくべきだったと後悔してしまう。ノイマイヤーとハンブルク・バレエがここまで精力的にバックアップするとは宣伝にはなかったし、「蓋を開けてみたら途轍もなく贅沢なものが上演された」という感慨がある。

 アフタートークでボッレが、今回自分が心から上演したい作品が可能になったことと、リハーサルが完璧にオーガナイズされたものだったことに感謝していたが、舞台の上でのダンサーたちの輝きはそうした主催側の敬意と、余裕をもった準備に支えられていた。
 7-8月に多くのダンス公演が行われた中でも、このフェリ、ボッレのガラは飛びぬけていた。実力のある人気ダンサーを集めても、振付に力がなかったり、上演の構成そのものにプロフェッショナルな視点がなければ真の意味で公演は成功しない。旬の人を見られるのならどの公演も素晴らしい…と言いたいところだが、バカンス気分で日本に来て踊ってもらうだけの公演では、芸術的価値は生まれにくいだろう。最終的に残るのは精神的価値であり、魂をかけて人生を築いてきたアーティストの心に真の喜びをもたらすことである、と考える。この公演では、バレエ招聘事業の底力を見た。



フェリ、ボッレ&フレンズ(8/1)

2019-08-02 13:35:26 | バレエ

フェリ、ボッレ&フレンズAプログラム。予想以上に白熱した濃厚な舞台だった。一部と二部はコンテンポラリーで、マウロ・ビゴンゼッティ振付の「カラヴァッジォ」、ナタリア・ホレチナ振付の「フォーリング・フォー・ジ・アート・オブ・フライング」、プティ振付「ボレロ」、休憩をはさんでマルセロ・ゴメス振付(!)「アミ」、ウェイン・マクレガー振付「クオリア」、プティ「アルルの女」と続く。ボッレの肉体美は「カラヴァッジォ」から神々しく、相手役の英国ロイヤル・バレエのメリッサ・ハミルトンも今が旬のときとばかり輝いている。二人が舞台に立つと、神話の世界が見えるようだ。アッツォーニ&リアブコのハンブルクの黄金カップルは「フォーリング…」と「アルルの女」二演目で観られた。もはや何も言うことのない究極のコンビ。
プティ版の二人で踊るボレロは初めて見た。レスリングのショーを思わせる-冒頭のライト、上野水香さんとゴメスのタンゴのような、格闘技やサーカスも彷彿させる、奇矯でエネルギッシュなダンスにプティの鬼才を思った。水香さんはベジャールの「ボレロ」も素晴らしく踊るが、生前のベジャールとプティの両方を魅了した稀有な日本人ダンサーだった。大理石の彫刻のように無駄がない、研ぎ澄まされたダンスで、息が上がりそうな動きの後に信じられない静止の瞬間が何度も続く。ゴメスが両性具有的な雰囲気を醸し出していたので、プティ版「ボレロ」には、男女の性の役割交換のような意味合いもあるのではないかと深読みしていたが、柄本弾さんと水香さんが踊られたときにはそのような雰囲気はなかったとのことである。一部のラストを飾ったこの作品で一気に客席はヒートした。

ゴメス振付の「アミ」が傑作だった。リアブコとゴメスによる男性デュオで、ショパンのノクターン13番に乗って緊張感のあるムーヴメントが重なり合っていく。エンディングはどこかユーモラスだ。Aプログラムの全作品が「ふたりのダンサーによる振付」だったが、この統一は素晴らしい効果を上げていたと思う。男と女、男と男、それぞれが対等の力で対峙し、異質さをぶつけあったり、一体化したりする。コンテンポラリーでこれだけの豊かさが感じられるのは凄い。ゴメス作品の秀逸さは新しい発見だったが…新しいバレエ作品というのはあまりに多く作られすぎ、玉石混交なので、プロデュース的な観点がしっかりしていないと客席から見てアンバランスな舞台になってしまう。この夜のプログラムは秀逸だった。ベテラン・ダンサーの円熟の境地がまた、振付を深遠なものにしていた。

アッツォーニとリアブコの「アルルの女」はプティの代表作だが、二人が踊ると改めて振付の良さが際立つ。カップルの愛を破壊する「その場にいない、見えない」アルルの女の猛威が、アッツォーニの悲嘆とリアブコの狂気から伝わってきた。ラストの身投げまでのリアブコの狂騒的な動き、盲目的な回転、出口なしというパントマイムのようなジェスチャーは、バレエにしか存在しない次元のもので、逸脱した精神がダンサーの技術と身体の美しさによって表現される。二部のラストにこの演目が配されたことで、さらに興奮が増した。リアブコ演じるフレデリの狂気は、三部の「マルグリットとアルマン」のアルマンの、嫉妬に狂った愚行へとつながるのである。

三部では、いよいよフェリの登場。この日はオペラグラスを忘れていったため、フェリの姿をクローズアップで見るということがなかった。56歳のバレリーナは2007年の引退前と同じように美しく、柔軟で、マルグリットの19世紀風のドレスもよく似合っていた。アシュトンの「マルグリットとアルマン」を前回生で見たのは、2003年のギエムの「三つの愛の物語」で、相手はムッルだったかジョナサン・コープだったがそれすらも記憶に曖昧だが、大いに感動したということは覚えている。ロイヤルバレエのバレエのピットの常連であるピアニストが、コンチェルト編曲版のリストのロ短調ソナタを弾き、音楽も最高だった。今回の音楽はピアノソロで、フレデリック・ヴァイセ=クニッターが責任あるピアノ演奏を担当したが、プレッシャーが大きい役目を最後まで頑張って果たしてくれた。

 ボッレのアルマンは今まで見たどのダンサーより美しく、その高貴な美しさには言葉を封じるような威力があった。ダンサーという生き方に対して、軽々しい言葉は言えない…という気持ちになった。1975年生まれのボッレは、今でも20代後半のような美しさだが、それは人生の200%をバレエに捧げているからであり、そのような生き方を間近で見るというのは改めて特殊なことに感じられた。アルマンの若さ、情熱、美、死に瀕したマルグリットに強烈な生への未練を与える存在感が、この上なく優美なアラベスクによって浮き彫りになった。大きな白鳥のようなボッレが羽搏くたびに、空気が振動する。フェリは、いよいよ大胆で危険を顧みない演技を見せ、20代の彼女が踊ったジュリエットと比べても遜色がなかった。92年のABTの来日公演で、ボッカと踊ったロミジュリを上野の文化会館の五階席で見て、魂を抜かれたことを思い出した。

 アシュトンでもマクミランでも、フェリが見せる個性はどこかコンテンポラリー的だ。このプログラムで初めて気づいた。彼女がある動きからある動きへと突然シフトしていくときの電撃性は、クラシック的ではない。物語を鮮烈にする効果があるが、他のバレリーナにはない鮮烈さがあった。それは、身体の教養としてフェリが、あらかじめクラシカルな演目の中にコンテンポラリーの前衛性を忍ばせていたからではないか。それが、「マルグリットとアルマン」では最高度に生かされていた。嫉妬したアルマンがマルグリットに札束を投げる場面、オペラでは合唱とジェルモンが若者を非難する。バレエでは、誰もマルグリットを守らない。血が凍るような孤独感。フェリの演技が光っていた。豹変したアルマンの残酷さも、見事なものだった。

マルグリットの忌のきわの二人の再会シーンは、フェリとボッレのカップルの真骨頂で、ここでまた新たになるフェリの印象があった。どんな宿命の女を演じているときも、彼女の中にはミステリアスな「少年性」のようなものがあり、アルマンの中の少年性、未成熟な部分はマルグリットの一部であったという解釈が私の中に生まれた。ボッカと踊ったジュリエットも、思い返すとそうだったのだ。43歳で引退したまま、フェリが踊り続けていなかったら気づかなかった。肉体という衣装をまとってダンサーが見せてくれる究極の姿を、フェリは見せてくれたのだ。

二度の休憩と終演後、ロビーを往来するお客さんたちが「贅沢だ、贅沢だ」と口々につぶやいているのが聞こえた。これは本当に…蓋を開けてみるまで分からなかったが、文字通り奇跡のステージであった。ベテラン・ダンサーが達した、魂の真実の境地を丸ごと見せてもらった。Bプログラムの準備のためにノイマイヤーとハンブルクのダンサーも待機していると聞いたが、両プログラムを見られる観客は世界でも稀有な幸運を目撃することになると思う。