小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東響×原田慶太楼 (9/13) 

2020-09-16 20:46:52 | クラシック音楽

先月のフェスタサマーミューザでも鮮烈な演奏を聴かせた原田慶太楼さんと東響。来年4月から東響の正指揮者に就任する原田さんが、いよいよオーケストラの構造改革を行っている、と感じたインパクト大のコンサートだった。この夏は、日本の若手指揮者の色とりどりの実力を発見した特別な季節だったが、原田さんはスケールが桁違いという印象。オケと指揮者、オケと聴衆の予定調和に収まらない大きな音楽世界を創造する。繊細で上品で、京料理の出汁のような東響の定番サウンドが(勿論毎回そうだというわけではないが)、この日のコンサートではワイルドで予測不可能で「はみ出した」ものになっていた。

冒頭はスッペ『詩人と農夫』序曲。東響のオペレッタといえば、二期会の『チャールダーシュの女王』(2014年・三ツ橋敬子さん指揮)を思い出す。原田さんと東響のオペレッタも全幕で聴いてみたいと咄嗟に思った。楽想が急展開するシークエンスから、原田さんも踊りながら振る。この週に聴いた指揮者は、山田和樹さん、矢崎彦太郎さんと皆「踊る指揮者」で、楽しい音楽を踊らないで指揮をすることのほうが不自然だと思った。

『チャールダーシュの女王』を思い出したところで、次のベートーヴェン『ピアノ協奏曲0番』のソロがツィンバロンのようなエキゾティックな響きに溢れていることに気づいた。ピアニストの鐵百合奈さんは、1楽章ではやや緊張気味に聴こえたが、2楽章、3楽章とどんどん調子を上げていった。モーツァルト的といえばそうなのだが、ラルゲット楽章はどこかショパンを彷彿させる。ロンド楽章はひたすら明るくきらびやかで「花柄」のイメージ。鐵さんの奏でる機知に富んだ装飾音は美しく、耳なじみのないこの曲を理想的な形で紹介してくれた。

この日の話題は何といっても後半のプロコフィエフ『交響曲第5番』の爆演で、密が避けられていたここ数カ月のコンサートの中で、久々に大編成のオーケストラを聴いたという達成感があった。それ以上に、各パートのダイナミックな音量、恐怖を感じるほどの音圧と、不気味さを際立たせる旋律の呵責なさに驚かされる。プロコフィエフは不思議な作曲家で、不調和の中にも必ず流麗な美があり、交響曲第5番もバレエ音楽『シンデレラ』を思わせるくだりがあった(プログラム解説によると実際は破棄された『ロミオとジュリエット』のハッピーエンドの音楽が流用されたらしい)。

音楽の中に獰猛な大蛇が棲んでいて、その怪物のコントロール不可能な「生命」を音楽は描き出していた。それは人間の中に潜む暗黒の部分であるのかも知れない。恐怖心を掻き立てられると同時に、奇妙な憧憬も呼び起こされる。艶やかな狂気に魅了される、と言ったらいいか。原田さんは最初から最後まで決然として、プロコフィエフのスコアから読み取ったものを遂行しているという風だった。

ミューザという空間が、この爆音を歓迎しているように思えたのは不思議なことだったが、過去にここで演奏されたサロネン指揮フィルハーモニア管、ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管でも「ホールが誘発する巨大な生き物」を見た(聴いた)ような気がする。何かを突破させる場の引力が、もしかしたらこのホールにはあるのかも知れない。まっさらだった若いホールが、どんどん面白いユニークな空間になってきている。限界とか、教条主義とか、エリ―ティズムとか、そういったものを超越する懐の深さがあって、「オーケストラのアミューズメントパーク」とでも呼びたいホールになってきているのだ。

2楽章は陽気で、近代テクノロジーを祝福するような、同時に揶揄するようなユーモアに溢れ、陽気な気分が炸裂した。プロコフィエフは絵画でいうなら具象絵画だ。十分にアブストラクトなのだが、「これはジャガイモで、これはニンジン」とちゃんと具が認識(!)できるのだ。原田さんの音楽は、めくるめく変幻自在のリズムとハーモニーを楽しく聴かせ、子供が聴いてもエキサイトできるある種の平明さも表していた。滑り台のようなフレーズ、おばけ屋敷のような響き、妖精たちが住まう花園のようなランドスケープ(アダージョ楽章)も美しかった。プロコフィエフのヴァイオリンの高音を聴くと、いつも気絶するほどいい香りの香水を嗅いだ気分になる。

クラシックは誰のものだろうか。窮屈な「既にあるもの」を壊して、オーケストラに新しい輪郭を与えたこのコンサートは、聴き手によってさまざまな反応を引き起こした。日本ではクラシック音楽は、長らく高踏的で高尚なものだった。一般の聴衆は耳が肥えていて、アカデミックな感想を述べる。

原田さんの音楽からは切っ先の鋭いプロフェッショナル精神を感じる。既にある日本のクラシック精神的な土壌を知り尽くして、それが世界的なアートの観点から少しばかりズレていることも理解している。本来的な意味でのクラシックを、この日本でやろうとしている方だと思った。音楽はすべて、人々を楽しませ活気づけるエンターテイメントなのだ。究極的にそう思う。人生で起こる様々なこともまた、エンターテイメントだ。作曲家は逆境をエンターテイメントにした人で、指揮者は逆境によって神となった作曲家の魂を翻訳する、エンターテイナーの役目を果たす。

音楽家は黙して語らず、という時代ももう古いのだ。今になって大友直人さんの『クラシックへの挑戦状』を取り寄せて読んでいるが、この本には身をもって深く納得できることしか書かれていない。日本の指揮者が日本で活躍することに、窮屈さがあってたまるものか。演奏会の後、原田さんがSNSでフレンドリーに発信した「感想を語り合おう」という言葉は、この先の演奏家と聴衆の新しい在り方を示すものだった。プロの指揮者が指揮台に立つ、ということの覚悟を知れば知るほど、自分は一人の聴き手としてシンプルでありたいと思うばかりだった。


東京二期会『フィデリオ』

2020-09-10 20:45:14 | オペラ

新国立劇場で9/3から9/6まで上演された二期会『フィデリオ』のゲネプロと初日公演を観た。演出は深作健太さん、指揮は大植英次さん、東京フィル、合唱は二期会合唱団・新国立合唱団・藤原歌劇団合唱部の3団体の共演。ゲネと初日で両キャストを鑑賞したが、所要な役どころの歌手たちは台詞部分も含めてドイツ語の発音が美しく、歌唱のクオリティも高かった。ピットは舞台の高さまで上げられ、一階席からもオーケストラ全員が見える。大植さんの指揮はベートーヴェンの音楽の典雅な美しさを際立たせ、東フィルの反応も見事だった。東フィルは2年前にチョン・ミョンフン指揮による演奏会形式で『フィデリオ』を演奏しているが、その経験もあってかゲネから余裕を感じさせた。

このプロダクションでは、深作健太さんの演出が重要な位置を占めていた。ゲネの直前に行われたシーズン記者発表では、コロナ禍で当初予定されていた演出プランが大幅な変更を強いられ、いくつものアイデアを諦めなければならなかった経緯が事務局から伝えられた。1945年を起点にして、2020年までの激動の歴史(ドイツを主軸とする)が映像や絵画イメージとともに繰り広げられ、古今東西の哲学者や文学者、思想家の著述の引用が紗幕に投影される。『レオノーレ序曲 第3番』が冒頭に演奏されたが、ここで『フィデリオ』のダイジェスト的な無言劇が展開され、同時に多くの文章も映し出された。

演出の衝撃性も含め、ゲネでは驚きの連続だった。木下美穂子さんのレオノーレは勇敢でシリアスで、重い世界苦を背負った小原啓楼さんのフロレスタンも素晴らしく、物語の痛々しさと歴史の呵責なさを伝えてきた。深作『ローエングリン』でもこのお二人はよかった。小原さんはローエングリンでも深作さんの「創造する」物語に深く入り込み、演技を通じて何か心の急速な成長をはかっていたように見えたが、フロレスタンも歌手の「演劇的真実に向かって内向する心」が感じられた。本番初日のレオノーレ役の土屋優子さんは、太陽のような輝かしい声の持ち主で、夫が閉じ込められた暗い牢獄に差し込む光そのものの存在感が印象的。フロレスタン福井敬さんも、役の純粋さを強く伝えてくる歌唱と演技だった。

ラストシーンまで、何が起こるかわからなかった。「戦争犠牲者」の象徴のようなフロレスタンが車椅子から立ち上がり、「壁」と「分断」の歴史が明るい未来へとつながっていくという奇想天外にも思える展開は、実はとてもベートーヴェン的だと思う。2020年の夏に聴いたいくつかのベートーヴェンの交響曲では、同じようなことが起った。悲観が一瞬で楽観に変わる。ベートーヴェンの弁証法とは、つねに光の爆発によって結論づけられる。電撃的な「楽観」を最後に置いたことが、見事だと思った。混沌の中にいる人間にとって、強力なメッセージをもつエンディングだった。

『フィデリオ』は、同じ新国のこの劇場でカタリーナ・ワーグナーが予想を裏切る悲劇的結末の新演出を行ったように、いくらでも書き込む余地のあるオペラだと思う。演出の「正解」はすべて、たったひとりの個人である演出家に委ねられるが、これは本当に凄いことだと思う。観客と演出家、という図式は多勢に無勢だ。ゼロから新しい価値を生み出す演出は、模倣や教育に依拠した演出(そんなものは見るだけ時間の無駄なのだが)より明らかに価値があるが、なぜか今現在のこの世の中は、過度に保守的で、新しいことに対して文句が多すぎる。創造について何か言いたいのなら、もっと近づいてそのプロダクションを見るべきだし、どのような思念とアイデアの積み重ねによって構成されているのかを観察するべきだ。

演出には歴史への考察と音楽の理解が求められる。この二つが真摯に行われていることが重要だが、さらに演出家の「個」のパワーが勢いよくオペラを貫いていることが重要だ。それ以外に、何を根拠にするというのだ。過去になされた演出を模倣したりコラージュしたり、目利きの客のご機嫌をとったりする演出は最悪だ。オペラ演出家は、自分でそうなろうと思った時点で偉大なのだ。深作さんの歴史考察、音楽の洞察、魂を剥き出しにした演劇の造形は高い完成度を見せていた。この方の特性として、ベートーヴェンにはない強烈な宗教性のようなものが端々に見えることがあるが、その二つの個性の「交差」も観ていて快かった。

最後の最後に舞台に登場する合唱はディスタンスを保ち、マスクをおもむろに外して歌った。「あ、これは本当に2020年のフィデリオだ」と思った。オペラ歌手たちが、今この瞬間にすべてを出し尽くし、次々と「今」を生きていくように、演出家も今という時間を惜しみなく生きる。この演出は「賛否両論」という説もあるが、表舞台とバックステージから押し寄せる肯定的な気分は、途轍もなく明るく大きなものだった。模倣や忖度によって「ちいさなオペラ」を見せられても仕方ない。無数の制約の中で、巨大な思想を見せてくれた深作さんは、この先たくさんのオペラを創造していく演出家だと確信した。