小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ・リサイタル(11/25)

2019-11-28 03:11:24 | クラシック音楽
紀尾井ホールでのアファナシエフ。直前に知り、ウェブでうまくチケットを買えなかったので売り切りれだと思っていたが、開演30分前にホールに電話をかけたところ、S席のみ当日券が出るという。11000円はお得なチケット代だ。2003年頃、浜離宮で6000円だったが、アファナシエフのようなピアニストにとっては安すぎると思っていた。この夜の紀尾井の客席は比較的若い聴衆が多く、ほぼ満員に見えた。

 客電はとても暗く、ほとんど闇のよう。黒いタートルネックに黒いズボンのアファナシエフは、不愛想に現れて部屋の中で練習を始めるような雰囲気で弾き始めた。最近はほとんど着るものにも気を使わない。前半はハイドンの『ピアノ・ソナタ第20番ハ短調』と『ピアノ・ソナタ第40番 ト短調』。大きな手がカラスの羽のように鍵盤の上でばさばさと動き、深緑色の真珠を連想する憂いを帯びたソナタが繰り広げられた。偽作を除いても60曲近いピアノ・ソナタを書いたハイドンだが、短調の曲はわずか8曲。この夜の2曲のソナタは、バッハのコラールを思わせる、神聖でメランコリックな音楽だった。

 アファナシエフは心から聴衆を求めている…とも思った。暗い客電は胎内のようで、ピアニストと聴衆は闇の中でひとつの呼吸をし、一筋の光明を追っていた。普段着のままで、いちいちお辞儀をしないのも、定型的な「リサイタル」のセレモニーなど不要だと思っているからなのではないか。ステージと客席の心の距離はますます狭まってきている。ハイドンの短調のソナタはアファナシエフの内面を表していると同時に、ホールに吸い寄せられてきた聴き手の心を見透かしているようにも思えた。

 「エキセントリック」と長年評されてきたアファナシエフやポゴレリッチは、コンサート・ピアニストとして厳密で厳格でさえある人で、彼らを正確な言葉で定義することは簡単ではない、と感じる。感傷的であってはいけないが、客体化しすぎても結論は出ない。音楽は人間の傷つきやすさや人生の脆さをも表現する。その内容が、自分も人生を重ねてきたことでいよいよ本質的に感じられるようになった。
 アファナシエフの巨大な才能とは、人間の孤独を率直に表現できることで、かなり若い頃からこの素質があったのではないかと思う。凍えるような孤独感は、2019年の演奏会でいよいよ先鋭化されていた。孤独をつきつめればつきつめるほど、他者との境界がなくなっていく…というのは芸術のミステリーだ。

 その前(2018年5月)に聴いたアファナシエフのブラームスの『ピアノ協奏曲第2番』は独特な世界だった。佐渡裕さん指揮トーンキュンストラー管との共演だったが、そのときのアファナシエフの演奏は、オケとも聴衆ともコミュニケーションを一切拒絶するような印象があり、「生きていて何もいいことなんか、ない」と言っているようだった。いよいよここまで来たか…と思い、彼が抱えている不条理の大きさにため息が出たが、後日あるところから、アファナシエフがそのとき抱えていた大きな悲しみについて聞いた。ずっと彼を応援し、日本での書籍の出版などをサポートしてきた「恩人」が亡くなったばかりで、失意の底に沈んでいたというのだ。

 キャリアの集大成ともいえる6枚組の録音(タイトルは『遺言』)をリリースしたアファナシエフは、死が抽象的なものではなくなり、自分もまたそこに近づいていることを音楽で表現しているようだった。同時に、彼というピアニストが時を超えた存在であることも実感した。後半のムソルグスキー『展覧会の絵』では、アファナシエフの独特の遅いテンポ感と超個性的なフレージングが次から次へと驚きを巻き起こした。通常、軽やかに演奏される曲も、ピアニストによって変形され、鉛のような重みを帯びる。聴いていて痛みに似た感覚があったが、それがこのリサイタルでは、いちいち共感できた。「なぜそのように弾くのか」という説明など要らない。そう弾きたいアファナシエフの心が分かり、次の瞬間に訪れる新しい霊感にも「そうだ、その通りだ」とうなづいてしまった。

 直前まで未定だったラフマニノフは「前奏曲Op.32-12 嬰ト短調」と「幻想的小品集第2曲 前奏曲」(『鐘』)で、二つのラフマニノフではピアニストの「命の賭け」を聴いた。「鐘」の大胆なフォルテシモの連打は、ピアノ演奏という枠を超えていたと思う。彼が人生というものにとうに飽き、ピアニストとしての自分が崩壊すればいい…と思っていることの現れのようだった。この自殺的な鍵盤への落下が失敗すればいい…そうしてピアニストとしての自分など粉々になればいい…しかし演奏は思惑を裏切って毎回うまくいく。危険なロシアン・ルーレットも、アファナシエフを崩壊させない。百の弾丸を胸に打ち込んで、それでも死ねないピアニストの凄い姿があった。芸術家とは、ピアニストの人生とはそのようなものだ…と聴衆は知る必要があるのかも知れない。

 アンコールはショパンの「ワルツOp.64-2」一曲のみ。この上なく甘美で、ゴージャスなショパンは一筆書きの魔法の絵のように美しかった。過ぎ去った思い出か、それとも誰かへ捧げる曲なのか…自らのフィナーレを意識しつつ、アファナシエフはまだ、人生に恋しているのかも知れない。この曲を弾き終えて「聴衆が好きでたまらない」といった微笑みを見せ、たった一度のお辞儀をしてステージを去った。リサイタルはピアニストと聴衆から出来ている…その全体を改めて美しいと思った晩だった。





ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(11/21)

2019-11-22 03:54:20 | クラシック音楽
ズービン・メータ指揮ベルリンフィルのサントリーホールの二日目を聴く。プログラムはブルックナー『交響曲第8番 ハ短調』(ノヴァーク版第2稿)。メータは杖をついてゆっくり指揮台の椅子に座り、数年前にイスラエル・フィルを伴って来たときより一回り小さくなっていたように見えた。譜面台はない。80分以上あるブル8を暗譜で振った。

一度指揮台に着くと、指揮者が途端に大きく見えた。冒頭の弦のアンサンブルからベルリン・フィルの強靭で深みのある響きがホールの空気を揺さぶる。最初から最後までコントラバス奏者の戦士のような献身に目を見張ったが、メータ自身がバス奏者出身であり、特別に心に届く指導をしたのではないかと想像する。弦が一晩で一気に擦り減りそうな音圧だ。すべてのパートが真剣で誠実で、かつてサイモン・ラトルが「なかなか言うことをきかない気難しいプロフェッショナル集団」と呼んでいた団体とは別物のように見えた。

弦の厚みも凄いが、管の何物にも動じないタフネスにも驚かされた。表情に富み、並でない安定感がある。全体的に非常に男性的なサウンドで、先日のフィラデルフィア管とは正反対だし、コンセルトヘボウ管の平和な音とも質感が異なる。メータのブル8はオペラのようでもあり、作曲家が尊敬していたワーグナーの楽劇の登場人物を思い出す瞬間があった。ブルックナーが「ドイツの野人」と呼んだ2楽章のスケルツォ主題は、野山をかけめぐる野生児ジークフリートのようで、巨大な権力を得ようと増長するアルべリヒのようにも思われた。未熟で盲目的な男性性が、さまざまな衝動に取りつかれて荒れ狂い、手ごわい自然からしっぺ返しを食らっているような物語を妄想した。

この演奏会では、自分の色々な考えを改めた。今までメータを偉大な指揮者だと思いこそすれ、熱狂的に聴いたことはなかったのだ。インバル派とメータ派がいるとしたら(分けられるほど単純ではないが)私はインバル派で、音の「実体」がクリアに見えすぎるメータはあまり好みではなかった。私の耳も変わり、83歳を迎えたメータ自身も変わったのではないかと思う。「言わなければならないことを直截的に伝える」指揮になったと感じた。節度や自制心を突き破って、自分が見てきた「人間のすべて」を語り明かそうとするような新しい態度が見えたのだ。

メータは「耐えがたきを耐え、ことを乱す余計なことを言わぬ」寡黙な人だったと思う。音楽はすべてを語るが、ネガティヴィティに足をとらわれず「より大きなまとまり」へと表現を導いていく指揮者だった。それは私の一面的な聴き方でもあった。この世に超人などいない。メータの巨大な創造への意志は、いつ瓦解するとも知れない破壊衝動と、生きることの不安と表裏一体であった…とこの日初めて思った。ベルリンフィルと創り出そうとしている「人間の物語」は途轍もなく貴重なものに思われた。暗くて息苦しく、メランコリックで美しい、人間の矛盾そのものの音楽だった。

1楽章と2楽章では、この上なく理性的に整えられたベルリンフィルのサウンドが、竜巻や台風のように荒々しく脅威的なものを表しており、それを修復するような3楽章にさしかかった瞬間息を呑んだ。ステージに一つ二つと星が輝き、やがて満点の星空になっていくような絵が浮かんだ。ベルリンフィルの息の長さ、呼吸だけで陶酔の境地にトリップする密教の修行者のようなアンサンブルに驚かされる。

 フィナーレ楽章では、爆音に近い合奏にもかかわらず、各パートが混濁せず凛とした輪郭を保っていることに気づいた。サントリーで聴いているのに、上野の文化会館で聴いているような感触があったのだ。夢のように溶け合う響きが似合うサントリーだが、ベルリン・フィルのソロイスティックな主張の強さは別の次元を聴かせてくれる。先頃まで行われていたウィーン・フィルの公演を聴いていないが、同じホールで聴き比べが出来た人はとても面白かったと思う。
 ベルリンフィルとメータの関係性は素晴らしい。音楽家はその瞬間ごとに新しく生まれ変わるもので、病を克服して再び指揮台に立ったメータが「今」届いている境地というものがあるはずだ。オールドファッションでも未来的でもない、圧倒的な「現在」というリアリティをオーケストラは指揮者と共有していた。

 ペトレンコが新監督に就任し、ベルリンフィルはどんな宇宙時代に突入するのかと思っていたときに(もちろん大きな期待をしているが!)、この来日公演は有難かった。ソロ・カーテンコールに応えるメータを見ながら、2003年に亡くなった母方の祖父のことを思い出していた。立派な男で、戦地に4回赴いて生還し、帰ってきてからは酒浸り気味になり、戦争のことは子供たちに一切口にしなかったという。本当に言いたいことは言葉では表せないが、何か伝えたいことがあったはずだ。いよいよ「本当のこと」を語りだしたメータに、「もっと貴方のことを聞かせてください」と詰め寄りたくなったコンサートだった。


 







ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(11/18)

2019-11-21 00:49:45 | クラシック音楽
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のサントリーホールでの公演を聴く。前半にワーグナー『タンホイザー序曲』、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調op.19』、後半がブラームス『交響曲第4番ホ短調op.98』。

急な発熱と鼻水の発作のためコンサート直前に風邪薬を飲んだ影響で、ベートーヴェンのコンチェルトではしばしば夢の境地にさらわれてしまいそうだったが、ラン・ランのソロはチャーミングで、ソフトタッチのピアニシモが優雅だった。体格がスマートになる前は、リサイタルでも「オール・フォルテッシモ」の英雄ポロネーズを聴かせていたラン・ランだが、ここ数年は繊細でチャーミングな表現が際立つ。偶然だが、ラン・ランもパーヴォもカーティス音楽院出身で、若くして音楽を学ぶために米国に渡った音楽家である。ヨーヨー・マが演奏する姿が見る者を幸せにするように、ラン・ランがピアノを弾く姿も癒しの天使のようだ。オーケストラもピアニストのアプローチを受け入れ、快活なアンサンブルを聴かせた。

ラン・ランと同様、今回はパーヴォもゲストという形での参加だった。プログラムで音楽学の松村洋一郎さんが「この来日公演がお互いの歴史の『幕開け』につながる『区切り』になるかどうか時が経たねば分からないが…」と原稿の結びに書かれていたが、これは暗にパーヴォが未来の首席指揮者にふさわしいかオケに試されている、ということなのだろうか? だとしたら、同じことを考えながら聴いていた。
冒頭のワーグナーは「タンホイザー」だったが、「パルジファル」のような救世主を、今のコンセルトヘボウ管は求めているのかも知れない。前任者のダニエレ・ガッティがわずか2年で退任して以来、シェフのポストは空席になっている。コンセルトヘボウ管は現在ウィーンフィル状態ともいえるが、ウィーンフィルとは異なり、彼らはリーダーを渇望しているように思えるのだ。

そのガッティが指揮をした2017年のコンサートは、少しばかり奇妙だった。イタリアオペラを得意とし、外連味のある指揮もするガッティの「個性」が、オーケストラの音からほとんど感じられなかった。各パートが植物の地下茎のようなネットワークで連携していて、その緻密さと美意識には指揮者でさえ簡単に触れることが出来ない、という雰囲気だった。ガッティは表面上は「コントロール」していたのかも知れないが、オケの本質とは溶け合っていないように感じられた。音楽とは関係ない理由での退任だったが、続けていたら苦労も多かったと予想する(ガッティはその後ローマ歌劇場の音楽監督に就任)。

指揮者とはいったい何だろうか。マリス・ヤンソンスの偉大過ぎる存在が頭をかすめる。ヤンソンスはあまりにコンセルトヘボウ管と一心同体で、指揮者とオケの理想的な関係性を確立していた。彼が指揮台にいる姿を思い出しただけで、熱いものがこみあげる。バイエルン放送響でもまったく同じ感興に襲われるのだから何とも理屈では説明しがたいが、人間として芸術家としてリーダーとして、あれほど魅力的な人物と「競う」というのは難儀なことだ。コンセルトヘボウ管に客演したヤクブ・フルシャに「ヤンソンスに似ていると言われなかった?」と聞いたとき、嬉しそうに「言われましたとも!」と笑顔で答えてくれたのも、実に自然な反応だったと思う。

パーヴォという人もまた魅力的な指揮者だ。その一方で、ここ数年の彼の指揮を聴いていて、「オケと家族になれれるかどうか」が音楽的な成就を左右しているのかも知れない、と思うようになった。ドイツ・カンマーフィルとは完璧な血縁関係にある。故国のエストニア・フェスティバル管とは言うまでもない。
パリ管の来日公演も素晴らしかったが、任期の最後のほうはうまくいかなかったと聞く。N響に関しては、よいときとそうでないときがある。幸い、最悪の演奏は聴いたことがないが、演奏会形式『フィデリオ』などは、大評判だった歌手たちと対照的に、オケと指揮者の関係は冷めていたように見えた。音楽にあまり熱が感じられなかったのだ。どこかで「家族になれない」と思う瞬間があると、長期的なパートナーシップを諦めてしまう人なのではないか…そんな憶測を抱いていた。

 それもまた人間味であるし、個性ではあるが、指揮者としては厳しいものがあるだろう。他人と家族になるのは簡単なことではない。後半のブラームス4番は、栄えある指揮台の上で極上のオケをコントロールしようとする意志と、そう簡単にはいかないという謙虚さがせめぎあった複雑な指揮者の内面が伝わってきた。
 弦も管も素晴らしく鳴り、充分に立派な演奏であった…が、そこから指揮者の内面や人生は伝わってこなかった。その直前に、インバルと都響、ノットと東響、ブロムシュテットとN響という「攻め攻め」の演奏を聴いて、指揮者の生き様をまざまざと見せられていたため、パーヴォの指揮が「薄く」感じられたのかも知れない。ノットはオーケストラとの関係を更新するため、毎回失敗ぎりぎりのハイリスクの挑戦をする。「いいときもあれば悪いときもある」という甘さを許さない。外側からの評価はどうであれ、死に物狂いで「我々は運命共同体である」ということを示す。クールなN響が、パーヴォのときには見せない「熱」をブロムシュテットのために見せたとき、これは何なのだろうと考えずにいられなかった。

 コンセルトヘボウ管の事務局長のヤン・ラース氏は素晴らしい人物で、ガッティとの来日記者会見で、姿を見ただけでオーケストラの「もうひとつの心臓」として機能している人だと直感的に理解した。同じ空間にいるだけで心が浄化され、創造的になれる「神」のような人…と表現するのは大袈裟だが、彼がいることでオーケストラには間違ったことは絶対に起こらないと確信した。

 パーヴォがコンセルトヘボウ管と「家族」になるかどうか…は未知数だし、事情通でもないので実際のところどういう話になっているのか分からない。パーヴォが一流の音楽家であることは疑いようもないし、コンセルトヘボウ管もリーダーを求めている。彼らは実に人間的で柔軟で知的な集団なのだ。外から何かがやってくるのを待っていて、リーダーとともに成長したいと思っているはずだ。大きな全体像が見えづらかったブラームス4番だったが、翌日のベートーヴェン4番&ショスタコーヴィチ10番はどうだっただろうか? バルト三国の隣国出身のヤンソンスが「君が頑張ってくれなきゃ困るじゃないか!」とパーヴォを励ましている笑顔を想像した。




新国立劇場『ドン・パスクワーレ』(11/13)

2019-11-16 01:59:35 | オペラ
新制作『ドン・パスクワーレ』の11/13の昼公演を観る。新国のレパートリーに新たに加わったベルカントものとして話題になっていたオペラ。最初から最後まで面白く、歌手と合唱の芸達者ぶりに驚いた。個人的に記憶に残っている「ドンパス」といえば、オットー・シェンク演出・ネトレプコ主演のMETのプロダクションなのだが、印象がずいぶん違った。MET版ではタイトルロールを今は亡きジョン・デル・カルロが歌っており、全体が「カントリー風味」だったが、ロベルト・スカンディウッツィの主役はもっと洗練された雰囲気を放つ。豪華なガウンを着て、美術品に囲まれた書斎で優雅な(老いているとはいえ)独身貴族を演じる。新国では過去にフィリッポ二世を演じ、震災の年に来日した(2回だけ公演して中止となった)フィレンツェ歌劇場の『運命の力』にも出演していた名歌手だが、生で聴くのは初めて。

ステファノ・ヴィツィオーリの演出はスカラ座でも絶賛された名プロダクションだけあって、ユニークな美術とモダンな芝居が優れていたが、稽古のハイライト映像を見て、今回の上演でますます磨かれたのではないかと想像した。歌詞に呼応した一挙手一投足の動き、極端に横長の大道具が左右を横切るスピーディな動きなど、すべてが見事で、歌手も合唱もダンサーも本気で集中しなければあのクレイジーなムードは出なかっただろう。稽古で見るオペラのほうがさらに迫力満点ということもある。これは準備段階から見学してみたかった。

ドン・パスクワーレを騙して甘い汁を吸う未亡人ノリーナは、つくづく悪女だと思った。ソプラノのハスミック・トロシャンはこの役を完璧に手中にしており、余裕さえ感じさせる表情で嬉々として演じていた。登場シーンの、セットが生き物のように左右に分かれて配置され、海のような背景が現れるところは何だか笑ってしまう。「ヴィーナスの誕生」のパロディのようなのだが、実際はとんでもないヴィーナスなのだ。胸が大きく開いた衣装で強調されているグラマラスなボディにもどうしても目が行く。ビアジオ・ピッツーティ演じるマラテスタが「老人も一目で恋に落ちる」と踏んだ若い女の役がぴったりで、長丁場のカバレッタでは歌手のきらびやかな技巧を次から次へと披露した。
 ノリーナの恋人エルネストを歌ったテノールのマキシム・ミロノフは、聖なる声の持ち主で、ボーイソプラノからすくすくとテノールに育ったのではないかと思わせるリリカルな響き。とてもシリアスなエルネストだった。透明に響き渡る貴重な声の持ち主で、一幕ではところどころこもりがちに聴こえた部分もあったが、次第に前に出てきて安心。こんな純朴な青年が、腹黒い未亡人とどのようにして夫婦になっていくのか、未来を想像すると少し不安でもあった(!)。

 ドン・パスクワーレはさまざまな人間関係の中で自分の性格を表していく役で、朗々としたアリアなどはないが、その分早口言葉のデュエットが多く、舞台で大量のエネルギーを発する。歌も芝居も本当の老人ではこなせない、という仕掛けになっており、深い声と健康な身体をもつ60代のスカンディウッツィのドンパスはまさに「歌い頃」であった。私などは、焼きの足りないロールパンのようなエネルストよりも、趣味のいい成熟したスカンディウッツィのドン・パスクワーレのほうが素敵だと思ってしまうのだが…物語ではとことんやりこめられ、馬鹿にされる。さまざまなハラスメントが告発される今のデリカシーでは、危険な歌詞もたくさん出てくる。

 それでも、このオペラは面白い。それは、作品の中にどこか二次元的な感覚があり、現実と少し乖離した世界を描いているからだと思う。ドニゼッティはシリアスもコメディも傑作を書いた人だが、劇作家としてキレキレの感覚を持っていて、少女漫画の大御所がコメディタッチの連載から急にシリアスな物語を書き出すような振れ幅がある。50歳で死んだのに70ものオペラを書き残したことも驚異的だが、天性の演劇人の性で、「舞台では現実とは違うことがいくらでも起こっていい」と思って書いているふしがある。落語家の桂枝雀さんがいう「ホンマ領域とウソ領域」を往来して、リアリズムとは少し違う、コミックやアニメーションのような世界をオペラに投影しているのだ。頭が常に加熱していて、おでこに冷えピタシートを張りながら五線譜にへばりついていたに違いない。

ノリーナが注文した100個の帽子が乗っかった台や、どこまでも左右に長いダイニングテーブルには大笑いした。演出家のヴィツィオーリは装置にたくさんのギャグセンスを盛り込み、合唱は韋駄天のごとく東西を走ってセットを運ぶが、あれはひょっとしてベルカントのアジリタの16分音符を可視化したものではないか…と思った。呼吸が続くことが奇跡的に思われるような長い技巧的なフレーズを歌手のみんなが歌うが、それは物語が「ウソ領域」にまではみ出していることの表れで、オペラそのものがわざと書かれているし、歌手たちもわざと歌うことを求められる。「このオペラの教訓は、老人が若い女と結婚しようなんて思うのは愚かなことだということよ!」とノリーナは高々と歌い上げるが、その場面は「真夏の夜の夢」の森のような夢うつつの青緑色の世界で、ドン・パスクワーレは妖精王オベロンの寛大さで、意地悪な連中全員を許すのである。

指揮のコッラード・ロヴァーリスは序曲からすべての音が言葉であるような生き生きとしたサウンドを東フィルから引き出し、最後までドニゼッティのオペラの魔法を聴かせた。「オペラはイタリア人だけのものではない」と思いつつ、指揮者とバス、バリトンが渋いイタリアの底力を出しているのを聴くと、やはりイタリアは凄いと頭を垂れてしまう、このオペラではその「イタリア風味」が本当に洒落ていて、これ見よがしではなく、近づいた人にだけ香る大人の香水のように粋だったのである。
11/16と11/17にも上演が行われる。

photo:Fabio Parenzan

フィラデルフィア管弦楽団(11/4.5)

2019-11-13 04:35:23 | クラシック音楽
ネゼ=セガンが音楽監督になって8年目・3回目のフィラデルフィア管の来日公演。11/4のサントリーホールと11/5の東京芸術劇場のコンサートを聴いた。11/4のプログラムはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(vn リサ・バティアシュヴィリ)マーラー『交響曲第5番』。11/5はラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』(pf ハオチェン・チャン)とドヴォルザーク『交響曲第9番「新世界から」』。スタンダードな名曲コンサートのプログラムだが、両日とも新鮮な感動を得た。

ヴァティアシュヴィリとネゼ=セガンはヨーロッパ室内管弦楽とプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番と2番の録音を行っているが、今回の共演も、鮮烈で細部まで輪郭のはっきりしたソロと壮麗なオーケストラのサウンドが好相性で、今年に入ってから何度か聴いたチャイコフスキーのvnコンチェルトの中でも最も心を動かされた。改めて、とんでもない技巧が詰め込まれた曲だと思い知る。音圧の強い濃密なヴァティアシュヴィリのソロが耳に焼き付いて、しばらくこの曲の色々なメロディが頭から離れなかった。卓越したソロに、ネゼ=セガンもひざまずくポーズで敬意を表した。

マーラー5番は、総じて指揮者の強い主張を感じない演奏だったが、そのことが逆に衝撃的だった。ネゼ=セガンは透明な触媒となって、最大限に「フィラデルフィアの音」を作り上げているようで、明るく自然な音楽の中にはいくつもの啓示が含まれていた。デラックスで、ゴージャスで、癒しさえ感じられれるマーラーに、オーケストラを聴くとはどのような体験か、ということを改めて考えさせられたのだ。
フィラデルフィア管は世界でも指折りの一流オケであると同時に、地域に根付いたアウトリーチ活動を積極的に続けており、街のコミュニティ・センターや学校、病院などでも演奏会を行っている。ペンシルベニア州の人々がこのオーケストラを聴くのと、たくさんの在京オケを聴き比べている東京のクラシック・ファンとでは、恐らく聴き方が全く違うはずだ。ネゼ=セガンのマーラーは、何代も定期会員として地元のホールの客席を埋め尽くしてきた聴衆の、幸せな時間を思い起こさせた。人生の喜びや悲しみをコンサートに行くことでともに味わってきた、佳きアメリカ人の姿というものを想像したのだ。

ネゼ=セガンはもちろん、凡庸な指揮者ではない。途轍もない器の持ち主だ。ドビュッシーの「海」を指揮するにあたり、楽譜にいくつもの年代を書き込んでいるインタビュー映像を見たことがある。違うオケと演奏するたび、どのような編成でやったか、準備していた演奏効果が出せたか、反省点はどこであったか克明に記していた。刻苦勉励の人であり、過ぎ去った時間を無駄にしない人だ。そのようにして作り上げてきた音楽は、指揮者の強い主張を打ち出すものではなく、一人でも多くの聴衆の心を揺り動かすものとして再現される。

マーラーにしても、二日目のドヴォルザーク「新世界」にしても、宝石のように輝くディテールがあり、各パートの真剣な取り組みがあったが、それは知性的であるというより、ハートに響く美しい合奏だった。他の人がどう聴いたかは分からないが、知的に聴くこともできるし、心の癒しとして聴くこともできる演奏だったと思う。個人的には「共生」とか「共存」といった言葉が脳裏に浮かんだ。フィラデルフィア管の誕生以来、彼らの演奏を聴いてきた無数の人々…既にお墓に入った人も含めて…のことを考えた。彼らのサウンドを聴くのが楽しみで、コンサートを指折り数えて心待ちにしていた人々や、家族や大切な人にチケットをプレゼントしてきた人々のことを想像した。

そうした感想は、当然クラシックのコアな聴衆とはかけ離れたものかも知れない。ネゼ=セガン自身はどのように音楽を聴いてもらいたいと思っているだろうか。彼の姿を見ていると、半分はミーハーな気持ちで「アイドルだ」と思う。エゴを超越した無私の心で、世界全体を明るくしようとする姿勢が音楽から感じられる。生きていることで、時間とともに欠けていくものや失われていくものがあり、やがて消えてなくなる自分自身というものが存在する。絶望はしたくない。コンサートの記憶というのは、香りのように一瞬で時間を飛び越え、幸福だった過去を思い出させるのだ。

11/5の前半に演奏されたラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」は、このオーケストラのためにあるような曲だった。ロマンティックでノスタルジックで、ロシアとアメリカの「大陸的」なスケール感がある。ハオチェン・チャンは強靭な指で実存主義者のソロを奏で、クラッシュするようなオケとの瞬間が劇的だった。アンコールに弾いたショパンのノクターン作品9-2は、恐らくこの日に最もふさわしい曲だったと思う。あの誰もが知る名曲が、格別にチャーミングに聴こえ、オケの何人かのメンバーが涙ぐんでいる様子が一階席から見えた。指揮台に座って、ハオチェンを微笑みながら見守っているネゼ=セガンも、寛大で優しい神様のようだった。響き渡る音楽の背後にある、膨大な世界を思った特別なコンサートだった。