野平一郎さんのオペラ『亡命』の初演をブルーローズで鑑賞(8/23)。大きな話題となっていた新作で、会場は超満員だった。二日間の上演の二日目を聴いたが、前日も空席がなかったという。
ブルーローズの左端の前から2列目は予想外の特等席で、最初から最後までヴァイオリンの川田知子さんの弓の振動を間近で感じることが出来た。藤原亜美さんの驚異的なピアノ演奏も詳しく見え、フルートの高木綾子さんが頻繁に楽器を持ち替えて演奏されているのも見えた。クラリネットの山根孝司さん、ホルンの福川伸陽さん、チェロの向山佳絵子さんの6名のアンサンブルと、5名の歌手によってオペラは上演された。
野平多美さんによる台本は、ハンガリーから西側に亡命する音楽家の一家と、祖国にとどまる一家を描いた物語で、これをロナルド・カヴァイエ氏が英訳。独語でも伊語でもなく、英語の上演というのがよかった。日本語ではハンガリーが舞台であることを感じづらいし、日本のオペラでよく使われる独語でも奇妙だ。すべてではないが、英語のもつ明快さがある種の「ジェントルさ」を物語に加味していたようにも思われた。テキストと音楽が醸し出す質感は映像的でもあり、20世紀の東欧のドキュメンタリー映画のような雰囲気も感じられた。
5人の歌手は、全員が複数の役割を担う。あらすじを明快に説明することはそれほど意味がないかも知れない。2017年と1956年のふたつの時間が交互にあらわれ、1956年の芸術家たちは、祖国ハンガリーで表現の自由を奪われている。東西が分断された欧州で「クラスターを使っただけで反政治的な音楽を書いた」と検閲にチェックされ、西側の新しい音楽への憧れを募らせながら、国家からオーダーされた民謡のアレンジを仕方なく書き続ける。
バリトンの松平敬さん、テノールの鈴木准さん、バリトンの山下浩司さんが、精神科医のソプラノ幸田浩子さんの前で悪夢を告白する。この冒頭の場面では、彼らは三人で一人の役を演じているようにも感じられた。戦時の不安を訴える歌詞は根深いエモーションを引き出し、それが音楽と強い結びつきを保っていた。そのおかげで「難解」であるはずのこの『亡命』のオペラがまったく難解ではなく、具体的で真実味のある音楽に感じられたのだ。私の目の前にはつねに、大きな楽譜を譜面台に置いて、両手を広げてゆらゆらと指揮をされる野平一郎さんの姿があったが、野平さんとともに演奏家たちが放つ音の全体にははっきりとした確信があり、「生き物」のような実体があった。現代音楽でこういう感触を得たのは初めてのことだった。すべての音が物語が誘発する情動から引き出されていて、必然の音楽を作り上げていた。
現代音楽は難しいし、頻繁に上演されるホールやオーケストラの委嘱作品にしても「わかったようで、わからない」と思うものが多い。何が分からないかというと、今聴いているものがゲームなのかサロン的な会話なのか、冗談なのか真実の表現なのかという真意が分からないのだ。リテラシーがないと言われればそれまでなのだが、若手によるコンペティション参加作品にも「風流な知的遊戯」以上のものを感じないことが時々ある。
なぜそもそも、日本人が現代音楽を書くのかという疑問もある。吉松隆さんにインタビューしたとき「調性音楽を書く自分は、表紙を見ただけでコンクールでは落とされた」と聞いて、訳が分からない世界だと思った。その中間の「わかるような感じがする」チャーミングな現代音楽とも出会ってきたが、他人の褌で相撲をとっているような作品もたくさん聴いてきたような気がする。
野平オペラの中心に宿っている渇望感は、とても普遍的だった。現代音楽が「存在する意味」を具体的に理解させてくれた。「創造する人間にとって地獄とは何か?」 という仮定が立てられ、それは十分な視野を与えられないこと(西側の情報が遮断されていること)、内側からの情熱を表出できないこと(国歌や民謡のアレンジを強要される)、そして未来に前進するための表現を行えないことであった。「未来の聴衆のため」という単語が、強く心に残った。作曲家は自分のために作曲するのではなく、開かれた世界に向かって創造するのであって、それは物質的であることの反対で、少し夢想的な表現をするなら「風」のような稀薄な状態で遠い場所まで拡散したいという情熱から創作をするのである。
検閲し、閉じ込め、不自由を強要する体制とは、これに反して「物体的」で「固体的」であり、戦車のように固いものだ。創造力と体制とは、もともと勝負にならないほど異質なエネルギーなのであり、この堂々巡りから脱するには逃げること…『亡命』しかないのだ。
歌手の方々の表現には素晴らしい力があった。松平さんの声域の広さに改めて驚いたが、これは初演の歌手を想定して書かれたものなのだろう。山下さん、鈴木さんは色々なオペラで拝聴しているので、改めて近い舞台で姿を見られると嬉しい。スコアの難しさは想像を絶するが、声は美しく、オペラが訴えたい「ひとつの芯」を伝えてきた。幸田さん、小野美咲さんは複数の役を柔軟に演じられた。どけだれ入念に準備をされたのか、器楽アンサンブルとの呼吸感も見事だった。
一部と二部の間に休憩が10分入り、終演は9時15分頃。二時間強の上演となった。前半では亡命前の登場人物の不安な心理が起伏をもって描かれ、後半は亡命実行から、ゆるやかな回復の時間が描かれたので、休憩を入れたことでコントラストがついてよかったと思う。ラストは、亡命を果たした一家と祖国にとどまった一家が「果たして『亡命』をしたのはどちらであったか…」と途方に暮れる。見事な終幕だと思った。『亡命』の前半と後半では、急であったりなだらかであったりする別々の地獄が描かれていたのだ。

ブルーローズの左端の前から2列目は予想外の特等席で、最初から最後までヴァイオリンの川田知子さんの弓の振動を間近で感じることが出来た。藤原亜美さんの驚異的なピアノ演奏も詳しく見え、フルートの高木綾子さんが頻繁に楽器を持ち替えて演奏されているのも見えた。クラリネットの山根孝司さん、ホルンの福川伸陽さん、チェロの向山佳絵子さんの6名のアンサンブルと、5名の歌手によってオペラは上演された。
野平多美さんによる台本は、ハンガリーから西側に亡命する音楽家の一家と、祖国にとどまる一家を描いた物語で、これをロナルド・カヴァイエ氏が英訳。独語でも伊語でもなく、英語の上演というのがよかった。日本語ではハンガリーが舞台であることを感じづらいし、日本のオペラでよく使われる独語でも奇妙だ。すべてではないが、英語のもつ明快さがある種の「ジェントルさ」を物語に加味していたようにも思われた。テキストと音楽が醸し出す質感は映像的でもあり、20世紀の東欧のドキュメンタリー映画のような雰囲気も感じられた。
5人の歌手は、全員が複数の役割を担う。あらすじを明快に説明することはそれほど意味がないかも知れない。2017年と1956年のふたつの時間が交互にあらわれ、1956年の芸術家たちは、祖国ハンガリーで表現の自由を奪われている。東西が分断された欧州で「クラスターを使っただけで反政治的な音楽を書いた」と検閲にチェックされ、西側の新しい音楽への憧れを募らせながら、国家からオーダーされた民謡のアレンジを仕方なく書き続ける。
バリトンの松平敬さん、テノールの鈴木准さん、バリトンの山下浩司さんが、精神科医のソプラノ幸田浩子さんの前で悪夢を告白する。この冒頭の場面では、彼らは三人で一人の役を演じているようにも感じられた。戦時の不安を訴える歌詞は根深いエモーションを引き出し、それが音楽と強い結びつきを保っていた。そのおかげで「難解」であるはずのこの『亡命』のオペラがまったく難解ではなく、具体的で真実味のある音楽に感じられたのだ。私の目の前にはつねに、大きな楽譜を譜面台に置いて、両手を広げてゆらゆらと指揮をされる野平一郎さんの姿があったが、野平さんとともに演奏家たちが放つ音の全体にははっきりとした確信があり、「生き物」のような実体があった。現代音楽でこういう感触を得たのは初めてのことだった。すべての音が物語が誘発する情動から引き出されていて、必然の音楽を作り上げていた。
現代音楽は難しいし、頻繁に上演されるホールやオーケストラの委嘱作品にしても「わかったようで、わからない」と思うものが多い。何が分からないかというと、今聴いているものがゲームなのかサロン的な会話なのか、冗談なのか真実の表現なのかという真意が分からないのだ。リテラシーがないと言われればそれまでなのだが、若手によるコンペティション参加作品にも「風流な知的遊戯」以上のものを感じないことが時々ある。
なぜそもそも、日本人が現代音楽を書くのかという疑問もある。吉松隆さんにインタビューしたとき「調性音楽を書く自分は、表紙を見ただけでコンクールでは落とされた」と聞いて、訳が分からない世界だと思った。その中間の「わかるような感じがする」チャーミングな現代音楽とも出会ってきたが、他人の褌で相撲をとっているような作品もたくさん聴いてきたような気がする。
野平オペラの中心に宿っている渇望感は、とても普遍的だった。現代音楽が「存在する意味」を具体的に理解させてくれた。「創造する人間にとって地獄とは何か?」 という仮定が立てられ、それは十分な視野を与えられないこと(西側の情報が遮断されていること)、内側からの情熱を表出できないこと(国歌や民謡のアレンジを強要される)、そして未来に前進するための表現を行えないことであった。「未来の聴衆のため」という単語が、強く心に残った。作曲家は自分のために作曲するのではなく、開かれた世界に向かって創造するのであって、それは物質的であることの反対で、少し夢想的な表現をするなら「風」のような稀薄な状態で遠い場所まで拡散したいという情熱から創作をするのである。
検閲し、閉じ込め、不自由を強要する体制とは、これに反して「物体的」で「固体的」であり、戦車のように固いものだ。創造力と体制とは、もともと勝負にならないほど異質なエネルギーなのであり、この堂々巡りから脱するには逃げること…『亡命』しかないのだ。
歌手の方々の表現には素晴らしい力があった。松平さんの声域の広さに改めて驚いたが、これは初演の歌手を想定して書かれたものなのだろう。山下さん、鈴木さんは色々なオペラで拝聴しているので、改めて近い舞台で姿を見られると嬉しい。スコアの難しさは想像を絶するが、声は美しく、オペラが訴えたい「ひとつの芯」を伝えてきた。幸田さん、小野美咲さんは複数の役を柔軟に演じられた。どけだれ入念に準備をされたのか、器楽アンサンブルとの呼吸感も見事だった。
一部と二部の間に休憩が10分入り、終演は9時15分頃。二時間強の上演となった。前半では亡命前の登場人物の不安な心理が起伏をもって描かれ、後半は亡命実行から、ゆるやかな回復の時間が描かれたので、休憩を入れたことでコントラストがついてよかったと思う。ラストは、亡命を果たした一家と祖国にとどまった一家が「果たして『亡命』をしたのはどちらであったか…」と途方に暮れる。見事な終幕だと思った。『亡命』の前半と後半では、急であったりなだらかであったりする別々の地獄が描かれていたのだ。
