小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

サントリーホール サマーフェスティパル2018 オペラ『亡命』(世界初演) 

2018-08-26 10:23:27 | オペラ
野平一郎さんのオペラ『亡命』の初演をブルーローズで鑑賞(8/23)。大きな話題となっていた新作で、会場は超満員だった。二日間の上演の二日目を聴いたが、前日も空席がなかったという。
ブルーローズの左端の前から2列目は予想外の特等席で、最初から最後までヴァイオリンの川田知子さんの弓の振動を間近で感じることが出来た。藤原亜美さんの驚異的なピアノ演奏も詳しく見え、フルートの高木綾子さんが頻繁に楽器を持ち替えて演奏されているのも見えた。クラリネットの山根孝司さん、ホルンの福川伸陽さん、チェロの向山佳絵子さんの6名のアンサンブルと、5名の歌手によってオペラは上演された。
野平多美さんによる台本は、ハンガリーから西側に亡命する音楽家の一家と、祖国にとどまる一家を描いた物語で、これをロナルド・カヴァイエ氏が英訳。独語でも伊語でもなく、英語の上演というのがよかった。日本語ではハンガリーが舞台であることを感じづらいし、日本のオペラでよく使われる独語でも奇妙だ。すべてではないが、英語のもつ明快さがある種の「ジェントルさ」を物語に加味していたようにも思われた。テキストと音楽が醸し出す質感は映像的でもあり、20世紀の東欧のドキュメンタリー映画のような雰囲気も感じられた。

5人の歌手は、全員が複数の役割を担う。あらすじを明快に説明することはそれほど意味がないかも知れない。2017年と1956年のふたつの時間が交互にあらわれ、1956年の芸術家たちは、祖国ハンガリーで表現の自由を奪われている。東西が分断された欧州で「クラスターを使っただけで反政治的な音楽を書いた」と検閲にチェックされ、西側の新しい音楽への憧れを募らせながら、国家からオーダーされた民謡のアレンジを仕方なく書き続ける。

バリトンの松平敬さん、テノールの鈴木准さん、バリトンの山下浩司さんが、精神科医のソプラノ幸田浩子さんの前で悪夢を告白する。この冒頭の場面では、彼らは三人で一人の役を演じているようにも感じられた。戦時の不安を訴える歌詞は根深いエモーションを引き出し、それが音楽と強い結びつきを保っていた。そのおかげで「難解」であるはずのこの『亡命』のオペラがまったく難解ではなく、具体的で真実味のある音楽に感じられたのだ。私の目の前にはつねに、大きな楽譜を譜面台に置いて、両手を広げてゆらゆらと指揮をされる野平一郎さんの姿があったが、野平さんとともに演奏家たちが放つ音の全体にははっきりとした確信があり、「生き物」のような実体があった。現代音楽でこういう感触を得たのは初めてのことだった。すべての音が物語が誘発する情動から引き出されていて、必然の音楽を作り上げていた。

現代音楽は難しいし、頻繁に上演されるホールやオーケストラの委嘱作品にしても「わかったようで、わからない」と思うものが多い。何が分からないかというと、今聴いているものがゲームなのかサロン的な会話なのか、冗談なのか真実の表現なのかという真意が分からないのだ。リテラシーがないと言われればそれまでなのだが、若手によるコンペティション参加作品にも「風流な知的遊戯」以上のものを感じないことが時々ある。
なぜそもそも、日本人が現代音楽を書くのかという疑問もある。吉松隆さんにインタビューしたとき「調性音楽を書く自分は、表紙を見ただけでコンクールでは落とされた」と聞いて、訳が分からない世界だと思った。その中間の「わかるような感じがする」チャーミングな現代音楽とも出会ってきたが、他人の褌で相撲をとっているような作品もたくさん聴いてきたような気がする。

野平オペラの中心に宿っている渇望感は、とても普遍的だった。現代音楽が「存在する意味」を具体的に理解させてくれた。「創造する人間にとって地獄とは何か?」 という仮定が立てられ、それは十分な視野を与えられないこと(西側の情報が遮断されていること)、内側からの情熱を表出できないこと(国歌や民謡のアレンジを強要される)、そして未来に前進するための表現を行えないことであった。「未来の聴衆のため」という単語が、強く心に残った。作曲家は自分のために作曲するのではなく、開かれた世界に向かって創造するのであって、それは物質的であることの反対で、少し夢想的な表現をするなら「風」のような稀薄な状態で遠い場所まで拡散したいという情熱から創作をするのである。
検閲し、閉じ込め、不自由を強要する体制とは、これに反して「物体的」で「固体的」であり、戦車のように固いものだ。創造力と体制とは、もともと勝負にならないほど異質なエネルギーなのであり、この堂々巡りから脱するには逃げること…『亡命』しかないのだ。

歌手の方々の表現には素晴らしい力があった。松平さんの声域の広さに改めて驚いたが、これは初演の歌手を想定して書かれたものなのだろう。山下さん、鈴木さんは色々なオペラで拝聴しているので、改めて近い舞台で姿を見られると嬉しい。スコアの難しさは想像を絶するが、声は美しく、オペラが訴えたい「ひとつの芯」を伝えてきた。幸田さん、小野美咲さんは複数の役を柔軟に演じられた。どけだれ入念に準備をされたのか、器楽アンサンブルとの呼吸感も見事だった。

一部と二部の間に休憩が10分入り、終演は9時15分頃。二時間強の上演となった。前半では亡命前の登場人物の不安な心理が起伏をもって描かれ、後半は亡命実行から、ゆるやかな回復の時間が描かれたので、休憩を入れたことでコントラストがついてよかったと思う。ラストは、亡命を果たした一家と祖国にとどまった一家が「果たして『亡命』をしたのはどちらであったか…」と途方に暮れる。見事な終幕だと思った。『亡命』の前半と後半では、急であったりなだらかであったりする別々の地獄が描かれていたのだ。
























読響 サマーフェスティバル2018 三大協奏曲(8/21)

2018-08-25 05:57:57 | クラシック音楽
18時半開演の芸劇でのコンサート直前に、実家の岩手から新幹線で東京に到着。ヴァイオリニストの岡本誠司さん、チェリストのラウラ・ファン・デル・ヘイデンさん、ピアニストの反田恭平さんが登場する読響の三大協奏曲プロは、旬の若手のアップロードされた演奏を確認するためにも絶対に聴いておきたかった。指揮は大井剛史さん。コンサートマスターは長原幸太さん。
岡本誠司さんがメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』を演奏する前に、管セクションの譜面台に別の楽譜が置かれていたというトラブル(?)があり、いったんステージに現れた指揮者とソリストが袖に引っ込んでからまた登場するという珍しいことがあった。ようやくはじまったメンデルスゾーンは、薫る風のように柔軟な質感のサウンドで、岡本さんの軽やかで優雅なソロが美しい。溜まっていた心の疲労をときほぐしてくれる癒しの力があり、すがるように聴き入ってしまった。岡本さんは94年生まれで、この年はクラシック奏者の当たり年なのだが、それまでの世代にはない洗練された軽やかさがある。高度な技術に支えられた透明感があって、室内楽でもコンチェルトでも自然体で音楽の哲学的なメッセージを伝えてくる。メンデルスゾーンの性格の優しさ、バッハへの尊敬、自然と人間の高次の結びつきを感じさせる演奏だった。

この三大協奏曲では、三つの戦いということをずっと考えていた。芸術家の日常は戦いの連続だというが、その戦いの本質とは何だろう…という問いの答えが、三人のアーティストの演奏から理解できた。岡本さんはバッハ国際コンクールで優勝されたときに初めてインタビューしたが、その後も何度も演奏会を拝聴している。去年のちょうど今頃、ピアニストの務川さんとのデュオ・リサイタルのあと、帰りの電車で岡本さんの先生と一緒になり、幼少期の岡本さんのお話をお聞きした。印象的だったのは、岡本さんの音楽性があまりに自由なので、これでは国内のコンクールでの入賞は難しいと思っていたら、一気に世界で認められてしまったというお話だ。なんだかとても岡本さんらしい。

フィギュアスケートの採点が六点満点から変わったときに、選手の滑り方が変わったということを思い出した。音楽はそれではつまらない。はみ出すような特別なものがあるから、人は選ばれるのではないか。コンクールの現場感覚がないので浅はかなことを言っているかも知れないが、音楽の戦いとは点数稼ぎや徒競走よりもっと面白いもののはずだ。
岡本さんは目覚ましい速度で成長している。芸術のゴールを知っていて、そこから逆算して日々を過ごしている感じだ。メンデルスゾーンのvn協奏曲の3楽章は、演奏家によっては意地悪でとりすました音楽に聴こえるのだが、岡本さんはテクニカルなパッセージほど優しさを感じさせる。ロココ的で優美な色彩感の、哲学的なインスピレーションに溢れた演奏だった。

次に登場したチェリストのラウラ・ファン・デル・ヘイデンはゴールドのゴージャスなドレスが似合う美しい演奏家で、97年生まれ(20歳or21歳)という若さ。ドヴォルザークの『チェロ協奏曲』は最初の一音から闘いを挑むような迫力で、大井さんも読響からメンデルスゾーンと全く別の音を引き出した。オペラもよく振られる大井さんだが、この曲の見事な陰影とドラマはヴェルディ・オペラを思い起こさせた。ソリストは、明らかに壮大で強烈な世界をイメージしていて「若くて可愛い女性だなんて言われたくない」と自分の楽器で主張しているようだった。アリス=紗良・オットが「可愛いといわれるのが本当にいやだ」と語っていたのを思い出した。邪魔者を追い払うようにリストの超絶技巧練習曲を弾いていたアリスと、ドヴォルザークをリストの「死の舞踏」のように奏でるラウラが少しばかり重なってしまった。このコンチェルトには確かに、サイケデリックでクレイジーなところがある。オケの見事なバックアップで、ソリストの真剣で崇高な闘いは勝利した。

休憩をはさんで反田恭平さんのチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』。先日のサマーミューザでラフマニノフの『5番』のピアノ協奏曲の日本初演を成功させた反田さんだが、彼の演奏家人生こそ闘いの連続だ。人の運命は実に奇妙だと思う。突出した才能ゆえに色々な逆境を乗り越えなければならなかった。昨年、写真集のためのロングインタビューを行ったときは、モスクワ音楽院での留学生の苛酷な対応について知り、心が痛んだ。とはいえ、どんなときも他人を責めたり状況を恨んだりしないのが彼で、この強さはどこからくるのだろうといつも驚く。まだ23歳なのに、既に凄まじい境地を幾度も乗り越えてきた。

チャイコフスキーの1番のピアノ協奏曲は、献呈されたピアニストが「演奏不可能」と放棄して別の演奏家によって初演されたエピソードをもつほど技術的に難しい曲だが、楽想の美しさゆえに「完璧でなくても聴けてしまう」奇妙な曲でもある。反田さんは几帳面な性格で、チャイコフスキーのどんな煩瑣なパッセージもいい加減に弾き飛ばすことはせず、精緻なタッチで楽譜を再現し、あらゆる瞬間に聴衆を魅了した。全盛期のホロヴィッツでもリヒテルでもアルゲリッチでもない、反田恭平のオリジナルな凄いピアニズムで、フィナーレのユニゾンまで辿り着くのに時間が飛ぶように過ぎた。チャイコフスキーは、テクニカルな小節をクリスタルガラスの装飾のように積み上げることで、鏡の向こうの世界へ行こうとしたのではないか。作曲家自身が自分の曲を「わざとらしい作り物(交響曲第5番について)」と評している。そのヒリヒリとした「キワの感覚」を反田さんの演奏は見事に浮き彫りにした。

それにしても反田さんはモスクワでもっと学びたかったのではないか。彼の芸術を引き上げるものは彼しかいない、という覚悟を感じ、若い音楽家をこの境地に運んだ様々なものについて思いを巡らせた。そういえば、ロングインタビューでは音楽学校を作りたいと語ってくれたが、その意味がようやく分かった。

若い演奏家が向き合っている闘いとその返答を聴いた三大協奏曲で、彼らにとって貴重な時期にこのプログラムを実現した読響には感謝しかない。挑まれた戦いに「愛情」という返答をする芸術家の生き方を見た。彼らからは学ぶことしかない。