小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

K-BALLET COMPANY 『マダム・バタフライ』

2019-09-29 09:36:44 | バレエ
K-BALLET COMPANY20周年記念公演『マダム・バタフライ』の初日(9/27)をオーチャードホールで鑑賞。華やかなセレブレティがゲスト席に散見される中、世界初演の舞台が幕を開けた。浮世絵風の洋風の装いの女性の顔と、着物を着た女性の顔が二重写しになった絵が描かれた幕が現れ、「君が代」をアレンジした旋律が冒頭に奏でられた。暗がりの中、幼いバタフライは父が「ミカドからたまわった剣」で、自決の前の剣舞を踊るのを見る。その剣は、蝶々の手に握らされる。父から娘へ引き継がれる「武士道」の精神を表現するプロローグである。

第1幕1場はアメリカで、陽気な水兵たちが紅白の旗を持ってバーンスタイン・ミュージカルのように軽快に踊る。エリート海軍士官のピンカートン(堀内將平)が、やがて妻となるケイトと出会い、恋をする「前史」的なストーリーが描かれ、ここでのピンカートンはノーブルなジークフリート王子かジゼルのアルブレヒトのようだ。ケイト(小林美奈)と友人たちは、やや身分の怪しい雰囲気を醸し出しながらも華やかで、優美なクラシックのステップや跳躍で「西洋美」を表現する。ドヴォルザークの「弦楽セレナード」の旋律が聴こえてきたが、チェロパートを強調した編曲版に聴こえた。マノン・レスコーの時代の装束を思わせる女性たちのカラフルなドレスが眩しく、照明も明るい。このシーンで熊川さんがプティパ以降の「バレエの定式」に引き寄せたドラマ作りを提示してきたことを強く感じた。

第1幕2場は長崎の遊郭で、この地に赴任してきたピンカートンが二人の海軍士官をともなってふらふらと迷い込んでくる。このシーンでプッチーニ・オペラの『蝶々夫人』の冒頭のフルオーケストラが鳴ったので驚いた。ピンカートンが一人ではなく、若者3人で遊郭にやってくるのは、キャピュレット家に潜り込むロミオを思わせる。あとの二人はマキューシオとベンヴォーリオなのだ。オペラでピンカートンが胸ときめかせて歌う「Amore o grillo」の旋律に乗せて、3人の若者が酔っ払いながら踊る場面が面白かった。遊郭の艶やかさを演出する、花魁(中村祥子)と女性群舞の舞いは魔法のようで、黒いトウシューズのポワントが花魁の下駄を表現してたのも強烈なインパクトだった。
 第2場では、シャープレス(スチュアート・キャシディ)、スズキ(荒井祐子)、ゴロー(石橋奨也)も一気に登場するのだが、バレエのための登場人物だと頭を切り替える必要があった。オペラの中では、シャープレスは遊郭に来るような人物ではないし、スズキは地味なお手伝いさんで置屋の女将ではない。そうした「オペラ的雑念」を一掃すると、可憐なバタフライ(矢内千夏)の登場シーンから純粋なラブストーリーを楽しめるのだ。花魁の動きに蝶々さんの身の上語りの旋律を被せ「もしかしてこの花魁が蝶々さん?」と思わせておいて、幼い本物の蝶々さんを登場させるあたり、演出の「駆け引き」が絶妙だった。

シアターオーケストラトーキョーと指揮の井田勝大氏は、プッチーニのスコアからバレエに必要なモティーフを注意深く取り出し、ランチベリー風に編曲したり、声楽パートを管楽器に置き換えたりして効果を出していた。井田さんは音楽監督も務めているが、おそらくビゼーの『カルメン』より『蝶々夫人』は何倍も悩んだのではないか? カルメン、ホセ、ミカエラ、エスカミリオという構成に比べて、バタフライではメインの登場人物の性格が複雑で、途中から急に変化したり、基本の気質に自制がきいていたりする。その中で、とても重要な「正解」のフレーズが取り出されていた。地味な役割に思えるシャープレスはいくつも重要なモティーフをオペラで歌うが、ピンカートンに注意を促し、不幸の予感が的中したときに再度登場する1幕の二重唱のモティーフ、2幕で繰り返し使われたスズキ、ピンカートン、シャープレスの三重唱のモティーフ(これは「君が代」と「星条旗は永遠なれ」が融合・転回したメロディで、オペラの中で最も美しいのではないかと思う)は、バレエにも大きな深みをもたらしていた。

矢内さんの蝶々さんは繊細な情緒があり、軽やかで若々しく、ピンカートンとの結婚式のシーンで見せるお転婆な表情も自然で、儚げなシルエットを引き立てるコスチュームも似合っていた。2幕での「3年後のバタフライ」では、髪型も変わり洋装で、別人のようになる。この別人への変身が、素晴らしかった。バレリーナは天性の女優である。オペラでは「残りのお金も尽き果てた」という幕で、スラム街のような舞台仕立てになる現代演出もあるが、熊川版では室内の調度品などはそのままに、時間の経過をバタフライ一人に表現させる。長崎の富豪ヤマドリも、ここでは若い日本人将校(山本雅也)が演じ、バタフライは大いに心揺さぶられるが、不在の夫と息子の愛に引き裂かれて諦める。スズキはその姿を見て同情する。

ケイトとともに再び日本に上陸したピンカートンが見たのは、バタフライの怒りや悲嘆ではなく、すべてを「運命」と呑み込む、巨大な愛だった(プッチーニの三重唱の音楽がここで生きる)。ケイトは完全な悪役で、ガムザッティのような威力を発するが、バタフライはここで「どのバレエヒロインでもない」存在であることを証明する。復讐もせず、呪詛の言葉ももたないまま、愛をひたすら内向させ、赦す。「西洋の人」ピンカートンは一度も見たことのない愛に驚愕するのだ。
 配役表のクレジットには原作のジョン・ルーサー・ロングと演出・振付・台本の熊川哲也の名前があるが、オペラ台本作家のイッリカ/ジャコーザの名前はない。音楽はオペラから多くを得ているが、物語はそこに依拠していない。日本人が新たな日本のヒロインを作り出した信念のバレエだった。『カルメン』も『クレオパトラ』も「この女性たちは熊川さん自身ではないのか」と思ったが、バタフライもそう思えた。少なくとも「分身」ではあるはずだ。父から引き継いだ剣で自害し、その剣が息子にまた引き渡されるラストが心に残る。あの場面は、恐らくとても重要なものだ。
休憩1回を含め、トータルで2時間30分。初日は和装の熊川さんの登場に、スタンディングオベーションも巻き起こった。振付のディテールや音楽の使い方を確認するためにも、もう一度観たい。オーチャードホールの公演は9/29まで、東京文化会館では10/10~10/14に上演される。


読響×ヴァイグレ ベートーヴェン/マーラー

2019-09-22 14:35:30 | クラシック音楽
常任指揮者セバスティアン・ヴァイグレと読響のウィーン・プログラムを東京芸術劇場で聴く(9/21)。10日ほど前に聴いたサントリーホールのプフィッツナー/ハンス・ロットは快演。こんなに早く読響になじんでしまっては、前任のカンブルランが可哀想…と余計な心配をしてしまうほど、新しい常任指揮者の「ドイツ色」はオーケストラと一体化していた。
 前半のベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』ではカリスマのオーラをまとったルドルフ・ブッフビンダーがゆっくり歩いて登場。個人的にもベートーヴェンのコンチェルトの中で一番好きな曲だが、ソリストの存在感がこれほどまでに揺るぎない演奏も初めて聴く。仰々しいところは全くないのに、華麗で貴族的で歓喜的なベートーヴェンの音楽を円熟のタッチで聴かせた。作曲家の自然観、生命観、楽観主義的なフィロソフィーが伝わってくる巨大なピアニズムで、読響とヴァイグレはごく自然な伴奏を奏でた。ピアニストの手中にすっぽりとはまったベートーヴェンは、巨匠と作曲家の相性の良さ、音楽の「気品」の重要さを教えてくれた。アンコールはピアノ・ソナタ『悲愴』の第3楽章を丸々演奏するという太っ腹なところも見せてくれ、贅沢なミニ・リサイタルのような一幕だった。

後半はマーラー『交響曲第5番』。低めの指揮台に上って第一楽章の葬送行進曲を振り始めたヴァイグレ、この楽章が極端に長く感じられた。ヴァイグレの動きは煩瑣で、指揮棒が何を示しているかがほとんど理解できない。混沌としたサウンドの渦の中で、テンポにも強弱にも理念が感じられなかった。これには少し驚いた。就任以来、快調なパートナーシップを見せてきた読響と指揮者が初めて「躓いた」感触があった。楽曲を熟知した指揮者が見せる左手には独特の余裕が現れるものだが、この曲でのヴァイグレの動きは形而下的で、譜面が示す「不条理」にひたすら「わからない」と言っているように見えた。

それでもオーケストラは鳴る。読響のオートマティックな合奏力は見事だ。そのうち、指揮者の性格とマーラーという作曲家が極端に「合わない」のではないかという疑念が湧いてきた。「マーラーは不可解。一番自分の性格に近いのはモーツァルト」と言い切ってくれたのは、日本フィルとのマーラー・ツィクルス中盤まできたときにインタビューに答えてくれた山田和樹さんだったが、そういう正直さは聴き手にとっても気持ちいい。山田さんはその後見事な6.7.8.9番を振って「バケた」のだが、何が起こったのかを聴くと「マーラーについての論文やカントの哲学書を読んだ」とのことで、その率直さにも二度のけぞったのだった。
 作曲家の性格に入りこむ…ということの奇跡を、今年になって何回か聴いた。チャイコフスキー、ブルックナー、ブラームス…指揮者は卓越したアイデアと直観と勤勉さでことの本質に切り込む。ヴァイグレも明らかに、楽曲の内奥に接近しようとしていた。その都度、作曲家から跳ね返されているという印象だった。指揮者が悪夢のような汗をかいているように見えた。
 歌劇場オーケストラで優れたリーダーシップをとってきたヴァイグレにとって、マーラーのシンフォニーはどのようなものだったのだろう。マーラーも歌劇場の指揮者だった。晩年近くのアバドが、この曲の矛盾と荒々しさを万感を込めて振っているのを見ると、ひどく心を打たれる。たくさんことが、たくさんの楽器によって引き起こされるが、このパッチワークを「不可解だ」と思ったときに、恐らく指揮者がとる究極の姿勢がある。自分が感じた即物性をそのまま、手旗信号のようにオケに投影する方法で、それが成功すると見事な戦争シンフォニーになる。そういうとき、オーケストラとは指揮者の自家用ヘリコプターなのだと深く納得してしまう。

マーラーは歪んでいる…その歪みを文体にして分裂症的なシンフォニーを書いた。インバルのマーラーは素晴らしいが、インバルの音楽には通常の道徳観では測れない、何者にも裁けない透き通った「悪」が貫いている。資質自体が、悪魔的なのだ。マーラーの前で、瀕死の特攻隊長のように頑張っているヴァイグレは、とてもいい人なのだ。楽想が次から次へと過呼吸気味に溢れ、1楽章から3楽章までほとんど同じ印象だったが、それはまさに善意の闘いだった。
 
 有名なアダージェットは、そこだけ切り離された世界で、新婚のマーラーがアルマに寄せて書いたというエピソードを思い出す。そのアルマが、10年も経たないうちに「こんな男はこりごりだ」と夫を捨てたのだ。マーラーは、女性と調和しているときだけこういう毒のない美しい曲を書けた。作曲家をオペラの登場人物に譬えるなら、悲劇の主人公だ。彼はオテロでもなかった。自分に無力感を与えたものに対して、普通の男性は猛毒をふるって仕返しをしようとするが、マーラーはそれを相手に味わわせて勝利をとろうとはしないのだ。「負けました…もうお仕舞いです」という9番のラストを、優美なアダージェットを聴いて思い出した。

最終楽章は奇妙なカタルシスに溢れていた。指揮者が楽想の何を優先したいのか、どういうテンポでどういうクライマックスが欲しいのか、コントロール権をほぼ放棄していたために、膨大な楽器が未消化の生々しい音を出し、昼の生き物も夜の生き物も一気に彷徨する荒々しいジャングルのような音場になった。それでも、どのパートも温かい。自分が愛する読響だった。男性同士が争いを続ける変わり映えのしない世界で、ヴァイグレの必死な背中を見て思った。トンネルは堀り始められたばかりで、これが本当の素晴らしいスタートなのだ。数々のRシュトラウスのオペラ上演にもまして、このコンサートが一番感動した読響とヴァイグレとの共演となった。

マーラー『巨人』の風刺画

英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』(9/18)

2019-09-19 12:20:40 | オペラ
来日中の英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』ふたたび(9/18)。既に神奈川でスタートしている『オテロ』をまだ観ていないのに、オペラの残像に吸い寄せられるように昼間の上野に向かった。当日券で出ている一番安い席を選ぼうとしたが、上階センターブロックの一列目中央という好みの席が空いている。予算より高い席になったものの、オーケストラピットの3/4が見え、視界をさえぎるものがないので舞台も綺麗に見えて理想的だった。

英国ロイヤル・オペラの来日公演は2010年(『マノン』『椿姫』)2015年(『マクベス』『ドン・ジョヴァンニ』)を観ているが、総合的に高水準で、今回はさらに調子を上げてきている。『ファウスト』には「もっと近づいてその正体を知りたい」と思わせるものがあった。
オケの士気は一幕冒頭から充分。最初の一音をスタンバイしている弦楽器の構えが真剣だった。軽く驚いたのは、ピットの中にいる男性奏者が全員正装をして黒いリボンタイをつけていることで、他にもこういうオペラハウスはあるのかも知れないが、本当に英国紳士・淑女の集団なのだと思った。柔らかく繊細な木管セクションは、8人中女性奏者は一人。コントラバス6名は中央から上手奥にかけて横長に並び、こちらも女性奏者は一人。金管はホルンの一部しか見えなかったが、独自の配置に指揮者のサウンド・デザインのこだわりを見た。

歌手たちは初日と同様に安定感があり、二度目の鑑賞では見逃していたディテールや脇役の光る演技にも目が行った。ズボン役の花屋のジーベル役のジュリー・ボーリアンの澄んだ声が上階にも綺麗に届いてくる。「この婆さんは悪魔と結婚しようとしている!」とメフィストフェレスに呆れられる未亡人マルトを演じるキャロル・ウィルソンも筋金入りのコメディエンヌで、派手なドレスと媚態で登場した瞬間に笑いをとっていた。3幕のファウスト=マルグリート、メフィストフェレス=マルトの四重唱はどこかコミカルで、シリアスな中に笑いの要素が組み込まれているオペラのからくりに驚かされる。ザルツブルク音楽祭の映像で、ハンプソン演じるドン・ジョヴァンニに牛耳られるレポレロを演じていた昔のダルカンジェロを思い出した。

ファウストのグリゴーロ、マルグリートのレイチェル・ウィリス=ソレンセンはベスト・カップルで、演劇的な指向性が似ていると思った。それぞれ、自分の役についての分析が徹底している。マルグリートの「宝石の歌」は派手さよりも、物語全体の中での位置づけということが強調されていて、全5幕でこの人物をどのように見せていくかということに重きが置かれていた。ソレンセンは、当初来日が予定されていたヨンチェヴァから変更になった歌手で、ヨンチェヴァの前にはダムラウがキャスティングされていたこともあり、正直それほど期待していなかった。ロイヤルからキャスティングされるだけのことはある。演劇的な知性が随所に感じられ、声楽的には…自分自身を知り尽くし、予想外のどんなパターンにも最善を尽くす驚異的な準備がなされていた。長身で美人だが、基礎作りが実直で、浮ついたところがない。
グリゴーロの自己探求の深さにも舌を巻いた。以前オペラシティで聴いたリサイタルで「こんなマニアックなテノールがいるのか」と驚いたものだが、細部まで歌詞と旋律を吟味し、命をかけて歌う。リサイタルの歌曲では伴奏ピアニストがグリゴーロの歌を聴きながら涙を流していた。オペラにもそうした凝縮感があり、尋常でない取り組みが伺えたのだ。

英国ロイヤル・オペラの特徴とは「一途な働き者が集まってくるパワースポット」ということなのではないか。ふとそんなことを考えた。スターになるための処世術や、効率のいいパフォーマンスのコツといったもの…が、あるのかも知れないが、この劇場が与える感動は少し違う種類のもので、全員になんとも言い難い「逆境感」がある。フィジカルに恵まれて、ただ楽しく歌ってきた人はここにはいないのである。
 グリゴーロとソレンセンには、強固な「譲らない生き方」も感じた。全員が、方々の裾野から自分を信じて山を登り続け、頂上で出会った…というのがロイヤル・オペラという場なのではないか。「自分には学歴がないから、一生勉強を続ける」と言ったパッパーノもその一人だ。声楽教師の父のアシスタントをし、未来の伴奏ピアニストとして期待されていたパッパーノは、どの指揮者にも似ていない。アシスタントとして6年働いていたというバレンボイムを尊敬していたが、指揮者としては誰にも似ていないのだ。

パッパーノが18年かけて作り上げた劇場オーケストラの音は、基本的にはとても上品で、モダンさもあるのだが、『ファウスト』では、野卑で通俗的な音、ワイルドで爆発的な音も引き出されていた。もしかして、パッパーノが指揮棒を揮ってあれほど激しく動かないと、簡単に「上品なサウンドに逆戻り」してしまうのかも知れない。時折、びっくりするほどノスタルジックな…ジュリーニやバルビローリの録音を彷彿させるアナログでロマンティックな音も聴こえた。それがあまりに美しいので涙してしまったほどだが…ワルプルギスの夜のシーンでは、屋台のラッパのようなトランペットも聴こえ、パッパーノがオケに求めるイメージの多彩さには舌を巻いた。

ゾンビとなったマルグリートの兄ヴァランタンも登場するバレエ・シーンでは、ジゼルのウィリたちは全員裸足で、大きな叫び声を出して踊っていた。とびきり大きな悲鳴を上げていたバレリーナもいて、ピットでパッパーノが微笑んでいるのではないかと想像した。ソリスト絶唱のピークに銅鑼の音が被さるシーンもあり、とにかくオペラは演劇なのだということを目的に作られている。耳に心地よい、優等生的な音楽は求められていないのだ。
ダルカンジェロのメフィストフェレスは連日揺るぎなく、ドレス姿も凄かった。ルネ・パーペが同じ役を演じた写真ではもっと地味なデザインだったが…ダルカンジェロ版はもっと悪魔的なのだ。歌手によってコスチュームも変わる。

「オペラは人生そのもの」と語るグリゴーロのインタビューを読んだが、この来日公演で英国ロイヤル・オペラが教えてくれるのも人生そのもの…と感慨深く思った。ソリストも、合唱も、オーケストラも、マクヴィカーの演出にも「個人の人生」が感じられた。全員が引き返せない道を歩いてきて、真剣な労働を捧げてひとつのものを作り上げている。すべては「個人」なのだ。それが集団となったときに、凄まじいパワーが出る。
音楽を職業にしている人にとっては、莫大なインスピレーションを得られる上演。音楽をやっていない自分のような聴衆にとっても、こうした感動がどこからやってくるのか、神秘的な感慨に包まれるオペラだった。パッパーノに寄せられた大きな喝采、カーテンコールの後に客電がついても手拍子を続け、ステージに押し寄せた一階席の様子を見ながら思った。この『ファウスト』はただのオペラではなく、ちょっとした奇跡のオペラだったのである。


東京交響楽団×ライアン・ウィグルスワース(9/14)

2019-09-15 11:19:41 | クラシック音楽
オペラシティで東響と英国出身の1979年生まれの指揮者ライアン・ウィグルスワースの共演を聴く。指揮者の名前も知らなかったが、作曲家でピアニストでもあり、イングリッシュ・ナショナル・オペラのレジデント・イン・コンポーザーも務めた人だという。一曲目はベートーヴェン「ピアノ協奏曲第1番」の弾き振り。導入部を立って指揮したのち、ピアノを弾きはじめたが、この姿がなんとも「劇場の人」という雰囲気で、遠目からは少し顔も似ていたため来日中のパッパーノを思い出した。ウィグルスワースはグラインドボーンで「魔笛」も振るオペラ指揮者なので、パッパーノに指導を受けたことがあるのかも知れない。

このベートーヴェンが不思議な幻惑的世界で、ピアノの音がモーツァルトオペラのフォルテピアノ風にも聴こえることもあり、パステルカラーの物語を観ているような気分で、かなり夢心地になってしまった。退屈だから眠いのではなく、現実ではない特別な次元に連れ去られてしまう感覚があったのだ。休憩時間に評論家の方に感想をお聞きしたところ、私と同じ状態だったらしく「よかったけど寝てしまった」「パンチ不足かも」という。私としては「よかったので寝てしまった」。左手の素早いパッセージが見事で、両手の均質な動きが粒ぞろいの音を真珠玉のように転がしていた。「ベートーヴェンだけど、モーツァルトオペラみたい」というのはいかにもまぬけな感想だが、何をもってして様式感というのか、外側から観察しただけではわからない。慣例的に時代と様式で区分される「コンポーザー」の、既成のグリッドを全部外して、純粋なインスピレーション、ミニマルなクラフトをつなぎあわせて自在に再構成するような大胆さが感じられた。

 前半では、清冽な空気感を醸し出すオーケストラに「英国風」な何かを感じたが、こういう質感は指揮者が意図的に出しているものか、思わず出てしまうものなのかわからない。アラン・ギルバートの指揮には、時折マンハッタンの街を思わせるサウンドスケープが現れる。埋立地の基底部分に車のクラクションや町全体の喧騒が響いて、再び地上に戻ってくる音と似た反響が聞えることがあるのだ(説明が難しい)。
ウィグルスワースのサウンドからは、イギリスの夏の爽やかな空気、古い教会の鐘の音といったものが感じられた。15-18年までハレ管弦楽団の首席客演指揮者をつとめていたというが、高貴な透明感と、えもいわれぬ「情」が宿る音作りからバルビローリの録音を思い出す瞬間もあった。

後半はベートーヴェンのカンタータ「静かな海と楽しい航海」作品112で、初めて聴く。同タイトルのメンデルスゾーンのオーケストラ曲を去年指揮者コンクールで聴いたばかりだが、ベートーヴェンはメンデルスゾーンより厳かな雰囲気。7-8分の曲だが密度感があり、東響コーラスが素晴らしい準備をして実演に臨んだことが伺えた。めざましい声の輝き、オケの輝きが目に見える光彩となって二階席まで届いた。9/15の新潟公演ではにいがた東響コーラスが合唱を務める。
ブラームス『交響曲第3番』はどうなるのか予測不可能だった。作曲家の重厚なイメージと、どちらかというと女性的な優しさを感じた前半でのアプローチがどう組み合うのか、期待が募った。予想以上に、この指揮者の天才性を実感する内容で、音楽の内容のすべてを「内側から」感じて組み立てなおしている。作曲家のあらゆる個性、元ネタ、記譜法を知り、時計を分解してまた完全に再構成するように指揮しているのだと思った。それが出来るのは彼自身が作曲家であり、創造の源泉とは何かを日々吟味しているからだろう。
卓越していたのは二楽章のアンダンテで、素朴なモティーフが緻密に重なり、ブラームスが膨大な過去の音楽を取材し、書籍だらけの空間でこれを書き、心は自在に古き時代へ旅していたことが伝わってきた。音色が一秒ごとに変化していくような、指揮者の独特の「タッチ」にも驚愕した。そこからあの有名な三楽章のポーコ・アレグレットへつながる件は、言葉に尽くし難い。
 二階席からはパッパーノに見えたりアラン・ギルバートに見えたり、全体としてはまだシャイな若者にも見えたりしたが、youtubeでインタビューに答えている映像では、どちらかというと断固とした口調で自らの音楽哲学を主張する指揮者だった。しかし、音楽は危険なほど繊細だ。危険なほど、というのは、ウィグルスワースが感じている使命があまりに独自だと思うからだ。
巨大な直観に貫かれた哲学で音楽のパースペクティヴを変えようとしている。それは必然的に「戦闘」の趣を呈するだろう。しかし音楽は限りなく優しく、非肉体的で、素直な「魂」そのものを聴かせた。指揮者の棒を目で追っているだけで、美しいものが確実に生まれることが理解できた。左手の動きも美しい。右脳と左脳は三叉神経で交差するので、左脳が指揮棒で、右脳が左手のジェスチャーになるのだろう。右手と左手が奇跡的に均質であった冒頭のコンチェルトのソロを再び思い出した。
ウィグルスワースと東響は29日にもミューザ川崎シンフォニーホールで共演を行う。



英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』(9/12)

2019-09-14 08:38:53 | オペラ
英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』の来日公演を東京文化会館で観る(9/12)。初日は当日券売り場にも長い列ができたらしく、客席は見たところ9割方埋まっていた。記者会見では音楽監督のパッパーノが「METなどでは頻繁に乗る人気作」と紹介していたが、日本ではなぜか上演回数がそれほど多くない。一度きりだった2008年のパリ国立オペラの来日公演でも『ファウスト』は上演されなかった。個人的に、ライブビューイングやDVD以外で生の『ファウスト』を初めて観る貴重な機会となった。

タイトルロールを歌うヴィットリオ・グリゴーロは、来日リサイタルは何度か行ってきたが、本格的なオペラで日本上陸するのは初。デビュー間もない頃はポップス出身のレッテルを張られ、そのイメージから抜け出すのに苦労したが、根性と信念の人で今ではオペラ界のスターのひとりとなった。ホフマンにしてもネモリーノにしても200%の熱意で取り組む歌手で、白髪のウィッグつけた老ファウストが本当に彼だとはすぐに分からなかった。老いた声を出し、演技も本物の老人のようだ。メフィストフェレスとの契約で若返りを果たす場面は鮮やかで、老人からいつものグリゴーロに戻った瞬間、ぴょんぴょんジャンプして大はしゃぎだった。
 メフィストフェレス役のイルデブランド・ダルカンジェロは登場の瞬間から圧倒する存在感があり、バス=バリトンの闇を思わせる美声で空間を埋め尽くした。立ち姿にカリスマ性があり、フランス語も自然に歌う。グリゴーロもフランスオペラ(ホフマン、ロミオ等)を頻繁に歌っているだけあってディクションは高水準だったと思う。パッパーノは歌詞を大切にする指揮者なので、稽古の段階でブラッシュアップされるのだろう。
 2幕ではマルグリートの兄ヴァランタン役のステファン・デグーが歌う「出征を前に」でいきなり心を鷲掴みされた。バリトンの魅力満載で、ロイヤルはこういう凄い歌手も脇役に揃えるのかと驚いた。マルグリートのレイチェル・ウィリス=ソレンセンはロール・デビューらしいが、若さにそぐわぬ成熟した歌唱と演技で、声に仄暗い影がある。ソプラノというよりメゾに近い印象の声質だが、ドラマティックで重いというのとも違う、メランコリックでミステリアスな響きで、前半のやや抑制された演技が後半で爆発していく様子が圧巻。リサイタルでもよく取り上げられる「宝石の歌」も華麗なだけでない、この歌手ならではの理念を感じさせる解釈で、大物感があった。

若さを得たファウストがマルグリートに愛を迫る3幕では、「この清らかな住まい」を筆頭にグリゴーロのロマンティックな歌唱が光る。『トスカ』の牧童としてデビューし、カヴァラドッシ役のパヴァロッティから可愛がってもらったというエピソードを読んだことがあるが、黄金期のテノールの華やかさをどこかでイメージしているのかも知れない。「ジュ・テーーーム」とフェルマータをかけるところも臆面がないが、現代的なバランス感覚もあって、聴かせどころをエスプレッソのように凝縮させている箇所がたくさんあった。高音箇所での思い切ったクレシェンドなどがそれだが、射撃の名手のように一度も外れなかった。客席から熱気を引き出す天才なのだ。

1幕・2幕・3幕まで2時間通しで演奏され(短い場面転換あり)、オーケストラの集中力とスタミナは特筆すべきものがあった。2002年から続くパートナーシップで、完全に指揮者とオケが一体化している。これはスタートラインから奇跡が起こっていたわけではなく、パッパーノいわく「5年単位で進化してきた」成果だという。木管の柔らかな表現はマルグリートの美を細密画のように表し、金管は初日こそやや残念な箇所もあったが誠実でダイナミックだった。弦は呼吸するが如しで、歌手たちのバイオリズムと完璧にシンクロしている。歌劇場オーケストラというのは、そういうものなのだろう。言葉のひとつひとつに吸い付くように、音楽が溢れ出していた。

後半の4-5幕はひたすら衝撃的だ。デヴィッド・マクヴィカー演出は2004年のプロダクションだが、ゲーテの時代のドイツではなく、グノーが作曲をした1850-1860年代のパリを舞台にしており、プロジェクションなどのハイテクをほとんど使わず生の舞台のスペクタクルの醍醐味を見せた。チャールズ・エドワーズの装置は秀逸で、舞台上方にパイプオルガンを作り、ファウストに演奏させる。グノーが聖職者をめざし、オペラに教会音楽のイメージを投影していたことを視覚化しているのだろう。でも、そうだとしたら…『ファウスト』はすさまじい「罪悪感」のオペラだと思う。色欲への断罪というものが容赦なく行われ、ファウストの若さへの渇望には最大限の罪が与えられる。
マクヴィカー版はグノーが書いた7曲のバレエ音楽をすべてカットせずに演じ、ゾンビなジゼル風の異様なバレリーナたちが大活躍した。その中には、身ごもったマルグリートもいる(ダンサーが仮装している)。兵士たちがバレリーナと酒池肉林の踊り(?)を見せ、その中にマルグリートの狂気が浮かび上がる様子は本当に恐ろしかった。5幕のワルプルギスの夜では、メフィストフェレスのダルカンジェロもヒゲのマダムとなり艶やかなカクテルドレス姿で歌う。狂気と退廃と悪魔的なるものの貪欲な表現は、日本人にとっては消化するのが難しいほど手ごわいと思えたが、その衝撃こそがロイヤル・オペラ版『ファウスト』の爆発的な感動に直結していた。

全5幕のグランド・オペラは耳慣れた曲も多く、心が華やぐ瞬間が時折訪れた。「メフィストフェレスのセレナード」は中でも愛着のある歌で、ホロストフスキーやアーウィン・シュロットの録音でよく聴いていたが、生で聞くダルカンジェロの歌がなんといっても最高だった。確かシュロットとダルカンジェロは英国ではダブルキャストだったはずである。エッティンガーの指揮で、ファビアーノ、シュロットの公演を現地で観ていた方は「日本公演のほうが断然いい」と興奮しておられた。引っ越し公演はチケット代も高価だが、リハーサルや調整に十分な時間をかけ、ベスト・キャストがベストなコンディションで歌ってくれるのなら、それだけの価値があるということになる。
 高水準な上演を支えているロイヤル・オペラの根幹にある「真摯な働き者の精神」に触れ、木霊のような神秘的な合唱、職人肌の指揮者とオケのパーフェクトな演奏にただひたすら驚いた。2010年、2015年と引っ越し公演を聴いてきたが、19年目のパッパーノとオペラハウスはますます純粋で高貴な境地に達していると思えた。『ファウスト』はあと3回上演が行われる。

photo: Bill Cooper