小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京交響楽団×秋山和慶 第651回定期演奏会

2017-06-25 12:46:40 | クラシック音楽
24日の土曜日は、上野の文化会館でKバレエの『ジゼル』を観た後、ミューザ川崎シンフォニーホールで東響の定期演奏会を聴いた。
一曲目ウェーバー『オベロン』はぎりぎりでホールに入れず外で聴く。夏至は過ぎたが、この日は蟹座の新月で、妖精王オベロンの曲にぴったりの初夏の気配に包まれていた。ドアの隙間から薫るようないい音が聴こえてきて、体調は今一つだったがミューザまで来てよかったと思った。
『オベロン』の後は、ホルン協奏曲が二つ。ソリストのフェリックス・クリーザーがハイドンとモーツァルトの『ホルン協奏曲第2番』を演奏した。颯爽とした歩き方で登場したクリーザーは両手がなく、台の上にホルンを置いて足の指で楽器を操った。
会場の目が足先に集まる中、クリーザーが出した一音は驚くほど純粋で屈託がなく、自然の崇高美そのもののような響きだった。音程を取るのがあれほど難しい楽器で、あんな自由な音を聴いたことがない。
ハイドンとモーツァルトはひとつながりの典雅な曲にも感じられたが、解説によるとハイドンのほうは偽作で、ハイドン自身が実際に書いた第一番の前にどこかの誰かが書いたものらしい。モーツァルトはやはり東響らしい洗練されたエスプリが加わり、より繊細で複雑なハーモニーが広がっていったが、偽物にしてはハイドンは良すぎた。楽想は単純だが、ホルン奏者にとっては技巧的な苦労がいる箇所も多い。贋作と本物の二枚の絵画が、ユーモラスに並んでいるような2曲だった。

クリーザーはごく日常の振舞いとして足の指で演奏したのだが、その姿にはどうしたって勇気をもらわないわけにはいかない。他人と自分が違うからといって、無気力になったり怠惰になったりせず、内側からの真実を突き詰めていく態度は、芸術の理想にも思えた。
太陽のように明るく、初夏の青空のように爽やかなホルンで、その音色に演奏家の人生がそのまま息づいていた。モーツァルトではユーモアや洒落たセンスを忍ばせていて、オーケストラとの相性もよかった。

色々な想いがうごめく中で聴いた後半のブラームス『交響曲第1番』は、導入部からはっとするようなドラマティックなサウンドで、どういうバランスでこの音が鳴っているのか謎だった。音量はとても大きい。闇から立ち上がる巨大な龍のようなサウンドに心を惹き付けられた。
弦楽器のフレージングにはたくさんのアクセントがあり、それはドイツ語のディクションを強調しているようでもあり、ブラ1のあの暗いはじまりが、夏の嵐の前触れに感じられた。
いぶし銀のようなブラームス…などとよく言われるが、いぶし銀なんてものではない。ギラギラと派手で饒舌で、身体を突き抜けて飛び出してくる作曲家の「念」が放射状に噴き出していた。
作曲家を理解するということはどういうことなのか、ずっと頭で考えてきたが、ここには否応なくブラームスが「いた」のだ。
交響曲1番は、本当に息苦しくなるほどの創造性に溢れていて、その裏側には「このまま何も言えずに、世の中に対して無力であったらどうしたらいいのだ」という作曲家の不安と焦燥が渦巻いていた。

まず、ブラームス特有の厭世観というものがある。世俗を敵に回してでも、芸術家として価値のあるものを作り、自分でも収まりようもない反骨精神に落とし前をつけたいという野心のようなものがある。
厭世観とはなんと素晴らしいものか…ショパンもシューベルトもマーラーもチャイコフスキーも、これなしでは存在しなかった。
作品が長い時を経て残っている、ということ自体、作曲家の時間軸が普通ではなかったということで
炭素的な生き方を否定して、凝縮された鉱物的な生の証を五線譜の中に遺そうとしたのが「名作」と呼ばれるものの正体なのだと思う。

「世俗を否定する!」という明快な意識が、なぜか強力に湧いたのは、ただの直観だったのかも知れない。前半のクリーザーの演奏に、自分を邪魔したり脅かしたりする「邪な他者」がいなかったことが、ブラームスを深く聴くことのヒントになったのだと思う。
ブラ1という曲の中に詰め込まれたアイデアがあまりに膨大で、「書けすぎている」と思ったのも初めてのことだった。チャイコフスキーは自分の5番について「よく書けすぎた嘘くさい作り物」と自虐的なことを言っていたが、ブラームスも苦渋の中で、人為の限りを尽くしてよいものを書こうと試みた。
そこには反自然的な衝動がある。穏健な人間として生きることを否定して、英雄的なものを掴もうとする野心が隠れているのだ。

穏やかで優しい秋山先生が、そういうブラームスを聴かせてくれたことは衝撃だった。どのようにして、指揮者は作曲家を「読む」ことが出来るのか…。
急に思い出したのは、まだ招待券もいただけない駆け出しのクラシックライターだった頃、当日券で聴いたアマチュア合唱団のドイツ・レクイエムで、指揮者が秋山先生だった。そのブラームスは今でも忘れられない。アマチュアとは思えない真剣でプロフェッショナルな演奏で、終わってからしばらく放心状態だった。客席は出演者のご家族がほとんど…という演奏会だったが、合唱の男性に、片足のない方がおられた。長い「ドイツ・レクイエム」の間中、一度も座らず、曲が進むにつれ、表情が素晴らしく生き生きとし、神の世界へと導かれていくような光彩に包まれていった。それを見て「これがブラームスなのか」と思った。
厭世観とは、奇妙なようだが人間への爆発的な愛とイコールで、自分の魂の性向にならって芸術家は厭世的になるのだが、目的はひとつである。人間全体を高揚させ、もっと先に進化させるために、孤独で偏屈な生き方を選ぶのである。

ブラームスとチャイコフスキーの厭世観がよく似ているということも、エキセントリックなピツィカート使いがそっくりなことも、改めて気づいた。チャイコフスキーはブラームスを嫌っていたが、初対面で意見を覆して「いいやつだ」「崇拝されているのもわかる」などと弟への手紙に書いている。ブラームスのほうは遠慮なく、チャイコフスキーの4番の「最終楽章はあまりよくない」と本人に伝えている。するとチャイコフスキーも「実は私も好きではないのだ」と自分の曲を否定する。人間を超えようとした人たちもまた人間で、厭世観とはかくも人間臭いものなのだ。

ミューザは遠いが、東響はさりげなく奇跡のようなコンサートを毎回行うので聞き逃せない。この夏は川崎に通うことになりそう。













ボリショイ・バレエ『パリの炎』6/14.15

2017-06-23 00:58:01 | バレエ
ボリショイ・バレエ来日公演の最後の演目『パリの炎』を6/14.15に東京文化会館で観た。最初の二つの演目--『ジゼル』と『白鳥の湖』がグリゴローヴィチ版にふさわしいロシア的な色彩感の装置(美術・シモン・ヴィルサラーゼ)だったのが、『パリ…』では打って変わって、モダンで新古典主義的なセンスも備えた美術が舞台に現れた。引き延ばされた写真や設計図のような図案を使った幾何学的でスタイリッシュなもので、王宮シーンではロココ主義の劇場のインテリアを再現していた。
1932年版のワイノーネン版からストーリーも大々的に改変して制作されたラトマンスキー版は、台本のメッセージも未来的で、パリ市民革命をテーマにしていながら、あらゆる「分断された人間たち」を一つにしようとするユートピア的な発想に貫かれていた。つまりこれは、1930年代の革命賛美のバレエではなかった。

マルセイユの青年フィリップ役を演じたウラディスラフ・ラントラートフ(14日)は、このツアー終盤にして初めて見ることになった。
ジゼルのアルブレヒトと、急遽チュージンの代役で二幕から登板したジークフリートの出来栄えは噂に聞いていたが、今回の公演では偶然が重なって縁が薄かった。この3年で後輩のロヂキンが一気に大スターになってしまったこともあり、日本公演でもロヂキンがザハロワと踊る日はハイライト公演の趣を呈していた。少しばかり、ラントラートフの影が薄くなっていた印象があったのだ。

『パリの炎』でのラントラートフは「ああ、やっぱりラントラートフはいい!」と心の中で叫ばずにはいられないほど、高いジャンプ、俊敏なステップ、甲から溢れ出す貴族的な品の良さが魅力的だった。均整のとれた肉体から、この上なく「モスクワ的な」勇壮でダイナミックなアクションを見せつけていく。爽やかなシルエットは、ラントラートフならではのもので、正義感の強い高潔なフィリップの役は彼自身のキャラクターとも合っていた。バックステージで本人に聞いたところ、最初にもらった大役がパリの炎のこの役だったという。
ジャンヌ役のクリサノワは勇敢で、男性ダンサーから男性ダンサーへと投げ飛ばすようなリフトで運ばれていく。こんなアクロバティックなバレエの稽古には怪我がつきものなのではないか? とラントラートフに聞くと「本気で練習していれば何の問題もなく最後まで行くバレエ」だと言う。煩瑣なまでに多くのダンサーが登場し、色々な踊りを踊るのに決して混沌に陥らず、一筋のストーリーが主旋律のように浮かび上がってくるのは、さすがラトマンスキーの手腕だ。

背中を痛めたセミョーン・チュージンの代役でコスタ・ド・ボールガール公爵を演じたのはイーゴル・ツヴィルコで、まだ若いリーディング・ソリストなのだが、今回の来日公演では八面六臂の大活躍で、ジゼルのアルブレヒト、白鳥のロットバルト、びわ湖の「パリの炎」ではフィリップを踊り、既にメインの3役を成功させていた。
最後の最後に、マッチョで屈強なセクシストであるボールガール侯爵を演じてみせたのには参った。見事なカメレオン・ダンサーであり、俳優である。
この侯爵、自分の欲しい女は娘ほどの若い女でもとにかく欲しいというドン・ジョヴァンニのような利己的な貴族。代役とは思えない入り込んだ演技で、この人物の暴力性と権力への妄執を全身で演じていた。

音楽はボリス・アサフィエフによるもので、リュリやラモーの断片のような王宮の舞曲がちらばめられていたが、細かい出典はわからない。ボリショイ劇場管が素晴らしいサウンドだった。実のところ「白鳥の湖」ではアンサンブルの粗さが気になっていたのだが、ツアー中盤で疲れていたのだろうか。『パリ…』は二日間とも神懸った演奏で、管楽器の細かいパッセージも正確で、華麗さと躍動感があった。パーヴェル・ソローキンのベテラン指揮者としての面目躍如たる演奏で、舞台との息もぴったりだった。

ボリショイ・ダンサーの層は非常に厚く、この最後の演目でも若いダンサーが頭角を表わしていた。驚いたのは、王宮での劇中劇で「俳優」を演じたダヴィッド・モッタ・ソアレスで、優美でバランスの取れた細身の体型で、どのポジションも完璧で表現力も成熟していた。女優役のマルガリータ・シュライネルも見事だったが、ソアレスのサポートには不安定なところがなく、華奢な下半身からは信じられないほど力強いリフトを何度も成功させた。
ソアレスという名前が気になって出身を聞くと、ブラジルのリオデジャネイロ生まれで、2年前にボリショイに入り現在20歳だという。既にくるみ割り王子や「ジゼル」のアルブレヒトも踊っているらしい。

侯爵の娘役を演じたジョージア出身のアナ・トゥラザシヴィリも悲劇的なヒロイン役をドラマティックに演じたが「白鳥の湖」ではハンガリーの踊りを生き生きとこなし、見事に「陰と陽」の二面性を見せてくれた。切れ味のいい「ハンガリー」ではアナニアシヴィリを思い出さないわけにはいかない。現在ソリストだが、明るい性格のダンサーで、バックステージでインタビューをしているとワジーエフ監督が「彼女に何を聞いてるの? お天気の話かな?」と声をかけてくる。「監督が言っているのはすごいユーモアですよ」とロシア語通訳のナターシャさんが笑って教えてくれた。ひよっこダンサーに何を話すことがあるの?という冗談らしいが、それも優秀な若いダンサーに対する彼なりのエールなのだ。

このワジーエフ監督監督について、ゲネプロで鬼コーチのような姿を見ていたため勝手に想像していたが、ダンサーとの信頼関係は極めて良好で、大声で怒鳴っているように聴こえる言葉も、実は普通の会話だったりする(トゥラザシヴィリがそう教えてくれた)。カンパニーはワジーエフによってよりストイックな引き締めが行われたが、恐怖政治ではなく、若者たちはみんな彼の激しい性格を理解しつつ、リーダーとしての実力を認めているようだった。

ルイ16世と議長たちの諧謔的な踊り、民衆たちの革命の踊り、王宮の優雅な踊り、性格の異なるダンスを見事に構成し、ジャンヌ役のクリサノワはダンスシューズとトゥシューズの両方で、未来的な女性像を表現した。二日目のクレトワもポジティヴで素晴らしい性格のダンサーで、終盤までエネルギーを出し切ってハードなヒロイン像を演じていた。パワフルで祝祭的な男女の群舞がひとしきり繰り広げられ、ラストで鍬や鎌を持った民衆たちが勝利の凱歌を全身で歌い上げるように舞台前方へ歩み寄るシーンでは、客席にも稲妻のような感興が巻き起こった。あの熱狂的な一体感はバレエでしか起こらない。オペラでも観客は熱狂するが、バレエはまるで何かが爆発したみたいで、ボリショイ・バレエともなるとそれはまさに大きな「炎」のようなものになる。

二日目にフィリップを演じたワシーリエフも、言うまでもなく最高の演技で、ワシーリエフとオシポワのハイライトシーンでこのバレエを知った自分にとっても、全幕でダンサーの当たり役を見られるのは至福であった。ジャンプも驚くほど高く、回転も勢いあまって音楽よりたくさん回っていた。カーテンコールでも何度もジャンプ。すごいエンターテイナーだ。こうしたことすべても、ワシーリエフの「愛情表現」なのだと今回はっきりと感じた。
なんのためにあんなに踊るのか…この世界から感じている愛を全身で表しているのだ。
ミラノスカラ座バレエでのヌレエフ版ドンキを見た時も、それを感じた。ワシーリエフのエネルギーはすべてを一つにする。スカラ座では盛り上がり過ぎたカーテンコールで、勢い余ってスタッフが全員登場し、自分の子供を肩車して出てくる裏方までいたのだ。

ところで、今回の公演は初来日から60周年ということもあって、記者会見でも「ボリショイらしさ」「モスクワらしさ」についての質問が多かったのだが、ダンサーからの答えは「ボリショイらしさは存在するが、バレエとして何か特別変わったことがあるわけではない」というものがほとんどで、バックステージでも同じ反応だった。とても知的な口調で、皆が「もう世界はひとつなのだ」ということを語る。
批評的な観点からすると、カテゴライズや差別化というのは芸術を「識別」するのに便利だが、舞台の側ではもっともっと巨大なことが表現されているのだ。
世界は分断されているようで、人間は深層の部分ではひとつになりつつある…芸術の世界では一足先に意識の進化が行われていると実感した。ボリショイ・バレエが教えてくれたことは、果てしなく巨大なもので、人間についてのあらゆる古い考えやステロタイプを覆していかなければ…と心が熱く震えたのである。




ボリショイ・バレエ団『ジゼル』(6/4)

2017-06-06 09:21:25 | クラシック音楽
現在、総勢230名の引っ越し公演を行っているボリショイ・バレエ団。今年は来日60周年と、ロシアの総合芸術祭「ロシアン・シーズン」の開幕と重なって、ボリショイの初日も祝祭的なムードが際立っていた。
6/4はオブラスツォーワ/ツヴィルコ組(マチネ)とザハロワ/ロヂキン組(ソワレ)の二回公演で、どちらも超満員。一階前方ブロックの最後列の補助席で鑑賞する。
オブラスツォーワはマリインスキーからの移籍後、ボリショイとともに来日するのはこれが初めてで、去年双子の母になるなど実人生にも喜ばしいことがあった直後だというが、ジゼル登場のシーンでは母どころか16歳くらいのティーンエイジャーに見えた。可憐で愛らしく、一幕では全身で恋する歓喜を表現し、アダンの音楽に対する反応も素晴らしかった。アルブレヒト役のイーゴリ・ツヴィルコは前半では少しばかり地味に見えたが、堅実なタイプで技術にも基礎の厚みを感じさせ、二幕のラストシーンでは見事なアントルシャ・シスの連続技で会場を熱狂させた。
モスクワ国立バレエ・アカデミー出身で、コールドとして来日公演に参加したことはあるが、ソリストとして日本で踊るのは始めてだという。終演後に話を聞いたところ、マリインスキー出身のオブラスツォーワの「優雅さ」を大変尊敬しており、演劇性を強調するボリショイ・バレリーナとは少しばかり違う魅力に、パートナーとして影響されていると語っていた。
二幕のウィリたちの群舞は幻想的で、コールドの質が向上しているのを実感する。静止したときのシルエットが切ってそろえたようで、高度な規律が現在のバレエ団を支えていることが伝わってきた。

それにしても、ボリショイ劇場管弦楽団の「ロシア風味」の演奏には、なかなか腑に落ちるものがあって楽しかった。ステップの雰囲気が変わるところでは、思い切りサウンドの性格も変わり、ジゼルとアルブレヒトの音楽が本当に「女の音楽」と「男の音楽」になっていた。ジゼル一人のシーンにしても、感情面で強い変化が起こると、オケも振動するような大きな音になるのだ。ボリショイ・バレエの演劇性…とは、伴奏のオケのこの「濃い」性格にも表れていて、実に迷いがない。同じロマンティック・バレエでも、ロシアとフランスでは全く表現の質が変わるのは、オケのキャラクターによるところが大きいのかも知れない。「ズン」というアクセントが入ることで、バレエの印象もだいぶ変わってくるのである。

ところで、前回の来日公演との大きな違いはバレエ監督の交代で、13年間マリインスキー・バレエの芸術監督を務め、その後ミラノ・スカラ座バレエ団の監督に任命されたマハール・ワジーエフがセルゲイ・フィーリンの後任となった(2016年3月より)。記者会見でも前任者のフィーリンの「フィ」の字も出なかったが、それくらいバレエ団の空気は刷新されており、ワジーエフが強い支配力でボリショイを統率しているのが会見での彼の言葉からも理解できた。
衝撃的だったのは、6/3に行われたゲネプロで、舞台の上で大声を出してバレリーナをしごいている人がいると思ったらワジーエフその人で、ザハロワのロマンティックなソロの最中にも、何やかにやとロシア語で発破をかけているのだ。
ゲネプロで、客席から大声を出す監督というのは見たことがあるが、舞台の上でジゼルの隣で怒号(?)を散らしているのは初めて見た。
まったくロマンティックな光景ではない。ザハロワも演技に入り込むどころの話ではなかっただろう。
本番でも素晴らしいウィリの演技を見て「でも彼女たちの頭の中にあるのは『ワジーエフに怒られませんように』ということばかりだろうなぁ…」と考えていた。

しかし、その光景は素晴らしい覚醒を与えてくれた。これこそが芸術の本質であり、ロシア・バレエの美なのではないかと思った。
客席から夢ばかりを見ていたが、ジゼルの物語の幻想性は人間が作っているもので、夢を完璧に近づけようとすればするほど現実面での試練が苛酷になる。「ダンサーが生き生きと楽しそうに踊っている」という感想は、間違ってはいないが、舞台に立たない人間には想像もつかないほどのメンタルの強さと、準備にかけた忍耐がその境地を作り出しているのだ。
ロシア・バレエの美は、過酷さと恐怖から成り立っている…ゲネプロの後、舞台裏ではロヂキンがげっそりとこけた頬をして、シューズを脱いだタイツの足で歩いているのを見た。これがプロフェッショナルの世界なのだ…恐怖のゲネプロは燦然たる本番として昇華され、カーテンコールでの熱狂へつながっていくのである。

ソワレのザハロワ&ロヂキン組は、この上演が日本におけるボリショイ上演の伝説のひとつになるのではないか…と思われるほどの完成度で、コールドの緊張感も格別だった。
ザハロワは登場の瞬間から「踊る国宝」で、とても村娘には見えなかったが、完璧なパの連続と細やかな表情はバレエというジャンルを超えた何かの極致を実現しているようで、ジゼル発狂のシーンからは、舞台全体が巨大な絵画と化したような感触があった。一秒一秒が引き延ばされ、フリーズされた画像になり、ザハロワの髪の毛の一本一本が物語の悲劇性を表現していた。
ロパートキナの「白鳥」を見た時と似た感覚があった。ジゼルの発狂は女性の普遍的な「哀しみ」と「無念」を凝縮したもので、それはあらゆる時代・あらゆる場所で空気のように浮遊している。
それを舞台という空間がとらえて、凝縮化する。世のはじめから隠されてきたことを暴かれたような、凄まじい瞬間だった。ジゼルは、恋人の姿も判別できないほど錯乱するが、自分の母親だけは誰かわかる。ザハロワが母親役のアントローポワに救いを求めて全身を委ねるように抱き着く場面で、震撼せずにはいられなかった。
ジゼルで母と娘の関係をこれほど鮮やかに感じた瞬間もなかったからだ。

アルブレヒト役のデニス・ロヂキンは短期間でボリショイの大スターになり、今や国宝ザハロワの相手役という重責を担っているが、この日も天性の演技力で伯爵の優雅さ、優しさ、情愛深さを表現し、20代の今でしか見せられない思い切りのよい技術を見せた。
ロヂキンの技術について、厳しい意見もあると通訳のロシア人スタッフから聞いたが、私は何の問題もないのではないかと思う。着地はボリショイ・ダンサーと思えないほど静かで(!)、オペラ座のゲストでも違和感がないように思える。それまで受けてきた教育がキャラクター・ダンス主体で、ボリショイに入団したのもキャラクターを踊るつもりだったからというのは最初のインタビューで彼から聴いたが、ツィスカリーゼに励まされて猛特訓を受け、現在の地位を手に入れた。
何よりロマンティックな美貌は彼の宝物で、自分がティーンエイジャーだった頃にこういうダンサーのファンになったら大変だっただろうなと思った。ある程度「枯れた」今だからこそ、平気で鑑賞することが出来るのだ。
ボリショイ劇場管はマチネとソワレでは音のキャラクターが異なり、特に弦はジゼルのダンサーの性格に合わせて音色を変化させていた。指揮者は舞台を見ながら振るので、自然と違う音楽になるのかも知れない。
『白鳥の湖』『パリの炎』でも、このオーケストラの活躍が楽しみである。