小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

スラットキン指揮デトロイト交響楽団 feat.小曽根真

2017-07-19 13:05:49 | クラシック音楽
連休の最終日(7月17日)、文京シビックホールでスラットキン指揮デトロイト交響楽団のコンサートを聴いた。その前日と前々日に東響と都響のマーラーを堪能した後だったので、デトロイト響のオール・アメリカン・プログラムは何かと新鮮だった。文京シビックでクラシックを聴くのも久々なのだが、ステージにずらりと並んだグランド・オーケストラが鳴らす『キャンディード』序曲は豪速&爆音の演奏で、その「物量」というか、音の塊のでかさに思わず吹っ飛んでしまった。映像で見るバーンスタイン自身の指揮だともっとテンポは抑えめのはずだが、実のところ私もこの曲は速めの演奏が好きなのだ。
バーバーの『弦楽のためのアダージョ』は一転してスタティックな曲だが、音の重ね方が日本のオケともヨーロッパのオケとも違っていて、弱音にも内側から張り出してくるような肉厚な弾力が感じられる。
繊細なシルク織りのような弦楽アダージョとは違う、水をはじくような弦のテクスチャーがユニークで、厳密な好みはとにかくとして、キャラクターが非常に明快なので引き込まれずにはいられない。

ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』では小曽根真さんが登場。これが最高のガーシュウィンで、アドリブいっぱいでいたずら心と冒険心いっぱい、オケのパートも書き換えてあるんじゃないかと思うほど個性的な演奏だった。小曽根さんのソロは2014年にアラン・ギルバート&NYフィルと共演したときのガーシュウィンよりさらに遊びの要素が増えていて、次に何が起こるのか全く予測がつかない。インプロビゼーションがインプロビゼーションを呼び、オケも食いつくようにピアノのほうを見つめていた。スリリングで幻想的な旋律が次々と立ち現れ、思わずソロの最中に拍手をしそうになってしまったほど。オーケストラのリアクションも面白い。音符がアニメーションのように動き出して、おどけたように踊っているのが見えた。スラットキンは始終楽しそうで、スウィングしまくる小曽根さんと共謀するようにオケから楽観的なハーモニーを引き出していた。まさに「プレイ」という言葉が相応しい。
一流の「遊び」が、曲のアウトラインぎりぎりまではみ出していて、本当にドキドキして楽しかった。

音響のせいか演奏のせいか、デトロイト響のサウンドはセクションごとに分割して出来栄えを観察しようという気にはまったくならず、デラックスでゴージャスでユーモアに溢れた全体の印象をひたすら浴びるという感触だった。この日のプログラムは張り出すような楽しさがあって、内省的な気分になるというより、もっと具体的なエネルギーをサプライしてもらう感じだったのだ。
共同体におけるオケの在り方が、明快なのだろう。彼らは何よりも、オーディエンスを楽しませるためにステージにいた。
それからいうと、東京には優秀なオケが多すぎるせいで、聴衆のほうがクリティックになりすぎているのではないか…と思うことがある。クラシックは聴き比べが醍醐味なのだから「あっちのマーラーとくらべてやっぱりこっちは…」というような批評は出てきて当然といえば当然なのだが、それぞれの良さを胸にしまっておけばいいのにと正直思うこともある。
ロサンゼルス・フィルの人気は、競合オケがいないからだと聞いたことがあるが、デトロイトはどうなのか。直感的に、地元の聴衆と相思相愛のオーケストラなんじゃないかと思った。家族といるような温かさがサウンドにある。
ふだん、自分が音楽を聴くために抱え込んできた余計なものが、本当に無駄に感じられた。
日本のクラシックは男性社会か女性社会かといえば、歴然たる男性社会で、そこで男装するつもりもない自分は、ことあるごとに無防備な感覚に陥るのだが…もはやそんな繰り言もどうでもよいくらい、心が温まり高揚したのだ。

後半のコープランド「交響曲第3番」はスラットキンの名指揮者としての威厳に襟元を正したくなる演奏で、見たところベテランの多いこのオーケストラが並外れた体力で、立て続けに高度なアンサンブルを持続させているのに驚いた。サウンドは一貫して明快で、野生動物のように美しい毛並みとワイルドな生命力を横溢させていた。金管楽器のショーケースのような交響曲で、勇ましいファンファーレがホールを埋め尽くしていく。
ノットのマーラーはミューザのために綿密に吟味されていたが、ツアーでやってきたデトロイト響は文京シビックに最も相応しい響きを瞬時に選んで鳴らしていった。スラットキンは次から次へとコープランドのシンフォニーに書き記された音の景色、グランドキャニオンやアーリーアメリカンな風物をカラフルに浮き彫りにする。
そこにとても「聖なる力」を感じた。「我々は何者なのか、何をやっているのかわかっているのです」とオーケストラが語っているようで、そのストレートさに人間としての崇高さを感じずにはいられなかったのだ。
全4楽章のコープランドの大曲をフルパワーで演奏したあと、アンコールがニ曲。日本の聴衆のためにフルヴァージョンでオーケストレーションされた「花」では涙を拭く聴衆もいた。最後には父フェリックス・スラットキンの短い「超アメリカン」な曲が家族的な団欒のフィーリングをもたらし、レナードの愛情に溢れた少年時代に思いを馳せた。誰もが幸せな気分になった休日のコンサートだった。
スラットキン指揮デトロイト交響楽団は7/19にもオペラシティでコンサートを行う。










ネルソン・フレイレ ピアノ・リサイタル

2017-07-05 10:20:55 | クラシック音楽
ネルソン・フレイレの12年ぶりのソロ・リサイタルをすみだトリフォニーホールで聴いた。藤原歌劇団の『ノルマ』をマチネで鑑賞し、60代のデヴィーアの奇跡の歌声を聴いて脳がいっぱいになっていたことと、悪天候で体調が万全でなかったこともあって錦糸町はキャンセルしようかと思っていたが、行ってよかった。音楽会が聴き手の人生に変化を与えるものだと、身をもって知った貴重な晩だった。

フレイレはいつものように謙虚なたたずまいで登場。久々のトリフォニーの2階はステージから遠く、ピアノが小さく見えたが、最初の一音で不安が吹き飛んだ。バッハ/ジロティ編『前奏曲ト短調BWV535』から、心臓の奥深くに響く特別な音だった。神妙で暗く、重く悲劇的なタッチで、十字架を背負うキリストの姿が忽ち心に立ち現れた。
無辜で捕らわれた者が、牢獄から星空を見上げているような囚われの感情がこみ上げ、これは一体何なのだろうかと不思議に感じられた。
ニュースで毎日のように報道される人間の愚かさに対して、すべて責任を負っているジャーナリスティックな音にも思えた。ブゾーニ編曲のコラール2曲と、有名なヘス編曲の『主よ人の望みの喜びよ』と4曲続けてバッハが演奏され、それだけで涙腺が決壊してしまった。

リサイタルに際してこのような反応をしてしまう自分も不思議に思えた。シリアスで真剣な音楽を聴くほどに、自らの軽薄さと愚かさを痛感し、懺悔したい想いにとらわれる。
批評という活動とは矛盾しているようだが、こうした内面の熱狂に対しては抵抗が出来ない。突き放して対象化するにはあまりに演奏に価値がありすぎ、自分の知性など太刀打ちできないと感じるのだ。

シューマンの『幻想曲 ハ長調Op.17』では、完璧なテクニックの持ち主であるフレイレが、演奏が華美になりすぎなようペダルを極限まで抑制しているのがわかった。2楽章の朗々たるパッセージは、人間が刻苦勉励にのみ到達できる歓喜の心境を表しているようで、ピアニストの真摯な日常が透けて見えた。シューマンの健全さと哲学性、見知らぬ者にも握手を求めるような博愛の精神をあの2楽章から感じた。3楽章の優美さ、慈愛のこもった穏やかな歌には芸術の至高性を感じずにはいられなかった。
古代ギリシアの哲学者の競争相手が、詩人であったということを思い出した。詩に勝利するためにピタゴラスもアリストテレスも腐心したのだが、芸術家は両方を表現することが出来るのだ…そんなことを考えながら、またしても涙が止まらなかった。リサイタルでは、演奏家しか見るものがないので、フレイレの姿を見て涙を禁じることのほうが難しかった。曲を終えると必ず4回お辞儀をする。三方向に深く会釈したあと、軽くもう一度お辞儀をするのだ。律儀なほど4回、なのである。

後半のヴィラ=ロボスは前半からの流れを変えるインターミッション的な効果を醸し出し、『ブラジル風バッハ』第4番より前奏曲『赤ちゃんの一族』から「色白の娘<陶器の人形>」「貧乏な娘<ぼろ切れの人形>」「小麦色の娘<張りぼての人形>」の三曲が、ムソルグスキーやドビュッシーを彷彿させる世界をあらわした。イマジナティヴで魔術的なタッチに、フレイレが「出来ないことは何もない」ピアニストであることを確認した。
驚いたのは、ショパンの『ピアノソナタ第3番Op.58』で、前半のバッハでかくも宗教的な気分を喚起させてくれたフレイレが、無神論者的なショパンをどう演奏するのか想像もつかなかった。アルゲリッチが娘ステファニーの監督した映画で「ショパンは嫌い」と語っていたのを思い出し、フレイレがちゃんとショパンをプログラムに入れてくれたことも嬉しかったのだ。
何と、壮麗で自由奔放で、憶するもののないショパンの世界が展開された。これはフレイレしか表現することの出来ないショパンで、有り余るほどのテクニック(スケルツォ楽章では超絶技巧のインフレーションともいうべき事態が起こっていた)、絢爛たる高音のパッセージと、コントラバスのような強調された低音は、世界で最もゴージャスなオーケストラを想像させた。めくるめく詩の世界であり、善悪を超えた霊力のアートを完成させたのがショパンであり、その真髄をピアニストは隈なく表現した。
フィナーレ楽章では、整合性から逸脱する寸前のテンポが採用され、獰猛な嵐のようになった音の粒粒が水晶のごとくクラッシュした。バッハの神妙さに首を垂れていた自分が、再び電撃的なアートの霊感に打たれた瞬間だった。
自分を安定化させる小さなポリシーや、狭い見識から成るアイデンティティが、いかに馬鹿馬鹿しいものか思い知らされた。リサイタルがこのような自由な美と思想を表現出来ることに驚き、人間性の本質にこのようなアクロバティックな切り込み方をする芸術家の在り方に骨の髄まで震撼したのである。
うわべを飾って生きることは虚しい。ニュースを見ても、政治家を戯画化して安心している何もできない自分がどこかにいる。戯画化して見ることで、終わっているのだ。それはひょっとして自分自身に対しても、同じことをしているのではないか。
12年ぶりのフレイレのリサイタルは、会場を感動で満たし、私の精神を変容させた。
ホールを出ると嵐はますます激しくなり、穏やかさとユーモアが交互に現れた4曲のアンコールを反芻しながら水びだしになって駅へ駆け込んだ。