小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

魚座の音楽 東京都交響楽団×大野和士(2/23)

2022-02-27 01:45:17 | クラシック音楽
都響と大野さんの芸劇での定期演奏会は、20分前後の曲が4つ並んだ珍しいプログラム。拍手に迎えられて指揮台に乗った大野さんが、びっくりするほど若返っているのに驚く。映像で見る20年くらい前の大野さんのようで、一時期はお具合も良くなさそうで小柄になっていた(?)大野さんも見ていたので、このマエストロは現実とは異なる時間軸でタイムワープをしているのではないかと思った。

ドビュッシーの舞踊詩『遊戯』はテニスに興じる男女の恋模様を描いたニジンスキーによる台本のバレエ曲だが、バレエは一度も見たことがない。ニジンスキー本人が踊った当時の写真を見るにつけ、どんな踊りだったのか興味が湧く。音楽は男女の心理劇を暗示し、妖しげで、フルートは「牧神の午後への前奏曲」を思い出させた。ドビュッシーは2人の女性と1人の男性のテニス遊びの中に、神話の物語をだぶらせて描いていたに違いない。(形而下的な物語だとして最初作曲を断ったが、ディアギレフが倍のギャラを提示したので引き受けたという)。テニスボールが放物線を描いていくような音の描写があり、都響が伸びやかでイマジナティヴなサウンドを奏でていた。


バレエ『遊戯』

縦の線がきっちりきっちりしていた先日のゲストのアクセルロッドの後だったので、大野さんは逆に「きっちりしすぎない」指揮に聴こえた。印象派の絵画のタッチのように、微妙な音の「滲み」出すためにをわざと微細なばらつきをもたらしたり、オケに不意打ちをしかけて瞬間瞬間を躍動的なものにしている印象もあった。嫉妬深い女神ふたりが、若い男の神(ニジンスキー)を奪い合おうとしているようで、無声映画のようなバレエリュスの世界だった。コンマスの四方恭子さんが度々ダイヤモンドのような美しい音を出す。若い男女たちの突然の心の衝動が、面白く歪んで昂揚していく旋律に表れていた。どこかラヴェルの『スペイン狂詩曲』にも似ているのだ。タンバリンの音がスペイン風に聴こえる。約18分。

ニールセンの『フルート協奏曲』では、首席フルート奏者の柳原佑介さんがソロを担当。ニールセンの曲もバレエ音楽のイメージで、全編ニールセンの曲を使用した熊川哲也さん振付のKバレエの『クレオパトラ』を思い出した。実際に『クレオパトラ』で使われていたのは劇音楽『アラジン』からの曲が多かったのだが、フルート協奏曲もエキゾティックな美女の物語にぴったりで、催眠術のようなフルートの旋律が、壺からにゅっと出てダンスするコブラや、絨毯に簀巻きにされてシーザーの前に現れるクレオパトラを連想させた。打楽器は落雷のようにダイナミックで、黄金期のMGM映画のサントラに似た味わいがあり、オーケストラはひとつの「物語」を描き出しているように思えてならなかった。約19分

このコンサートの前半のイメージは…『魚座』だった(占星術を嫌う方には申し訳ない)。天才ダンサーのニジンスキーが魚座で、ニールセンの曲をバレエに使った熊川哲也さんも魚座で、バレエダンサーは圧倒的に魚座が多い。想像界と現実との壁が希薄で、色々なものに「変身」する特性があるから。昔インタビューしたマチュー・ガニオは「ヌレエフもドンもギエムも魚座だから、僕も魚座でよかった!」と目を輝かせていた。12星座最後の星座である魚座は俳優とミュージシャンとダンサーと魔法使いの星座で、すべての境界を溶かし、堅苦しい現実を巨大な夢で飲み込んでしまう。ニジンスキーが狂気の中で死んだように、形ある世界の中で生き延びるには危険な「魔」も精神の中に潜ませている。

後半は魚座の(!)ラヴェルの『高雅で感傷的なワルツ』で、管弦楽版は依頼されたバレエのために書かれた。目鼻のついた花々が踊っているようなサイケデリックな第1曲から、都響は面白い音を鳴らしていた。大野さんの奔放さを、オケも楽しんでいる。リハーサルで準備していたこととは違うことをする指揮者というのは、客席で聴いていてなんとなく分かる。音楽が突然巨大化したり、次元上昇したりするので、何か「瞬間の魔法」のようなものを使わないとそのようなものは出来ないと聴いていて思うのである。アラン・ギルバートもインバルも結構そういうことをやっているように見える。
ラヴェルの洗練を究めたゴージャスなオーケストレーションの源にあるのは「童心」だ。子供が早く大人になれと急かされる文化の中では、ラヴェルの音楽のような面白さは生まれない。こども心とは何か。虫めづる姫が虫と心を通わせるような、ビクトル・エリセの映画「みつばちのささやき」で描かれた世界のような、自然と自分、対象と自分を一体化する貴重な力だ。途中曲と曲との区切れ目がほとんどなくなり、一息に8曲が演奏され、春の花々の乱舞のようなラヴェルの夢が終わった。約17分

大野さんは「物語」の天才で、新国では『紫苑物語』を始めとして驚くほどたくさんの新作オペラを作ったが、この日はアンドロイドが登場する『スーパーエンジェル』を幾度となく思い出した。機械のように正確無比なキュー出しをする指揮なら、将来アンドロイドがやってくれるかも知れない。高度なAIは泣ける指揮をしてくれるかも知れない。アンドロイドも睡りの中で夢を見て、無意識をもつようになるまでどれくらいかかるだろう。そんな無駄なことを真剣に考えていた。

『ばらの騎士』組曲は最初の一音から巨大な渦巻きのような天界のオーケストラが立ち現れた。『ばらの騎士』はワーグナーの『タンホイザー』への返歌だと思う。大野さんの指揮からは、アルプスを越えて吹いてくる風の神からのメッセージのような「いと高き」場所からのこだまが聴こえ、黄金の雨に変身する神や、ヘビの髪をもつ女神や、三頭の顔をもつ犬を弾きつれた冥府の神を連想させた。豪華な天井画のようなサウンドスケープが展開されていく。ホルンの響きが懐かしい雰囲気なのは、R・シュトラウスの父親がホルン奏者だったから。作曲家は父親が大好きだったはずだ。演出家のコンヴィチュニーは、指揮者だったお父さんが大好きだったと語ってくれた。ある種の天才は父親が大好きなのだ。
R・シュトラウスはワーグナーが悲劇的な結末にしたタンホイザーの物語を、元帥夫人とオクタヴィアンをヴェーヌスとタンホイザーに置き換えて書いたと思う。人間の理性は悲劇をハッピーエンドにする。『影のない女』では天空の男女が地上の男女に興味津々で、『ダナエの愛』では、ユピテルが愛するダナエを説得しようとして失敗し、神の無力さを知る。天と地を逆転させて、人間の世界に「すべてがある」ということを、あらゆる物語を通じて書き続けた。大野さんのくるぐると大きな円を描くような指揮は、神の次元と人間の世界をかき混ぜている作法のように見えたのだ。天界から、出し惜しみされていた金のリンゴがどっさり振ってきて、イナゴの代わりに夥しい天使たちがホールを飛び交っていた。

4つの個性的なピースを並べたこの演奏会は、都響と大野さんの集大成的な演奏会でもあった。オケと指揮者はこんな凄いところまで来た、と曲を聴いている間じゅう思っていた。ウィーンフィルのティボール・コバーチさんは、カルロス・クライバーと来日した94年の「ばらの騎士」の奇蹟を溢れる笑顔で語ってくれたが、指揮者とオケの特別な絆を作る曲がこの曲なのだろう(組曲もオペラも)。
終演後の芸劇のエスカレーターは天と地を結ぶベルトコンベアに感じられ、さまざまな人(ご高齢も多い)が、このホールの巨大なエスカレーターに乗って移動している様子は、夢の絵のようでもあった。

この翌日、世界史に一撃を与えるニュースが地球を覆い、表層と深層が「かき混ぜられていく」未曽有の流れがはじまった。世界の不可視の次元が浮上してくるのが予想される。天文学上の「魚座」にはには現在ヘリオス(太陽)とジュピター(木星)が接近していて、ネプチューン(海王星)もいる。ここから起こるのは、予想外の出来事だ。ショッキングな出来事の裏には、かつて果たされなかった癒しがくっついてくるはずだ。
遥かなる天と地と、その間にある人間を象徴していたあのコンサートの「巨大さ」が、まだ揺曳している。

新日本フィル×小泉和裕(2/21)

2022-02-24 02:26:30 | クラシック音楽
新日本フィルと小泉和裕マエストロのサントリーホール定期は、シューマンの交響曲第1番『春』とフランク交響曲ニ短調。前後半で交響曲2曲は素晴らしく美味しいプログラムだが、観客は思ったより少ない。この公演はクラシック愛好家なら是非聴いておきたい超名演だった。
コンサートマスターは崔文洙さん。シューマンの「春」から、多層的で繊細なサウンドがホールを満たした。優美だが、音楽そのものはとても「強い」感じ。鍛え上げられていて求心力があり、豪華で重量感のあるものが飛行機のように離陸していくイメージだった。小泉さんの決然とした指揮の、迷いのなさに感心した、このオーケストラの初代音楽監督が小泉さんで、それは1975年のことであったが、50年近く経った現在も指揮者は青年のような後ろ姿だった。

この音楽は果たして「強い」のだろうか。強さの意味を考え、芸術の究極の強さについて想いをめぐらせた。オケの「推進力」という言葉の意味が分かったような気もした。指揮者は確かにパイロットに似ている(実際にパイロットになった指揮者もいた)。後退せずに一気に音楽が進んでいく勢いは、表現に迫力を与える。

2楽章のラルゲットでは、プレイヤーの数だけの蝋燭の灯が見えた。時々音から可視的なエネルギーを感じることがある。赤いような青いようなたくさんの灯が美しくゆらめていて、指揮者のもとに集まってひとつの大きな炎になったり、再び分かれてたくさんの灯になったりした。それぞれの音型がとても詳しく聞こえてくるが、ひとつひとつがシューマンの言葉のようで、切実な熱を持っていた。

4楽章のぶんぶんという弦のさざめきはメンデルスゾーンを思い出した。コンマスの玄妙な音色が宝石のきらめきで、オーケストラのテクスチャーは耳でみる贅沢品そのものだった。少し前にメトロポリタン美術館展を見に行ったが、油彩画の布と宝石の描写にはうっとりとするばかりで、そうした見事な描写からは美に対する洞察力がうかがえる。指揮者は日々、何を観察してこのような美しい音を作り上げるのだろうか。一瞬一瞬が驚きの連続。

後半のフランクの交響曲ニ短調は、さらに神がかっていた。この曲は質実剛健な、人生の応援歌(!)のようなところがあると思っていたが、そういう直情的な音楽とも違っており、フランクの中に多くの作曲家が見え隠れした。ベートーヴェンの対話があり、マーラーの胎内回帰的な甘美があり、アレグレット楽章のハープからはワーグナーの神々の国が幻視された。3楽章ではブルックナーのマントラ的な呪文も聴こえたような気がした。

フランス的な名曲というより、作りそのものは弁証法的で、数少ないモティーフが何度も繰り返され、組み合わさってひとつの曲になっている。ドイツ的というより、汎ヨーロッパ的な作りなのかも知れない。17世紀のイタリアの建築に、楕円のモティーフが執拗に繰り返されている聖堂などがあるが、それを思い出した。正方形、円、螺旋形などにも西洋人はこだわる。目に見える規範、繰り返し、論理性といったものに石の文化の永遠性が宿る。

西洋の人々の芸術観と、東洋のそれとは違う。フランクの二短調の2楽章は極楽のようだが、柔らかくすばしこく東西を走る弦の音が、虫の声のようだった。虫の音をノイズではなく「鳴き声」と捉えるのは日本人の脳の特性だが、ヴァイオリンは確かに虫のささやきを奏でていた。この微かさは、どのように楽譜に書かれているのか。マエストロが念力で読み取った徴なのではないかと思った。

小泉さんの音楽に感じる計り知れない「殺気」というか「凄味」がこの日もじわじわ来た。日本の指揮者が一番凄い、と日々感じるが、それは五感の可能性を極限まで究めた西洋芸術と向き合ったとき、こちらは五感を超えた六感、七感までを表現することが出来るからだ。洋の東西は壁ではなく、西洋を東洋が包み込む。「気配」や「無」までも指揮者は表現する。四季を四つの区切りではなく、二十四の節季に分けて認識する和の感受性が、無敵の音楽美を創り出していた。

3楽章は力いっぱいにアンセム的な歌に仕上げる指揮も悪くないが、小泉さんはこの楽章をもっと洗練された、ミステリアスな音楽として捉えていたように思った。力強いが、力は支配し強制するもので、それとは逆のものがあった。フランクを通じて表された人間の寛大さ、愛情深さ…何よりも愛だった。新日本フィルのトロンボーン奏者の騎士のようなたたたずまい、コンマスのチェさんの相変わらずの天才にも面食らった。19日のトリフォニーに行かなかったことが悔やまれる…世界中のオーケストラファン、指揮者たち、もう亡くなった指揮者にも聴かせたい演奏会だった。バーンスタインやヤンソンスもきっと、驚いたはずなのである。




東京都交響楽団×ジョン・アクセルロッド

2022-02-12 19:44:49 | クラシック音楽
昨年11月の来日以来、指揮者が来られない日本の多くのオーケストラの「お助けマン」となって、予定されていた数々のコンサートを救ったジョン・アクセルロッド。アクセルロッドの指揮を初めて聞いたのは2015年のサントリーホールのオープニング・フェスタだった。この夜彼は信じられない数のオペラアリアと間奏曲をたった一人で振り、たくさんの歌手をサポートし、汗だくになりながらもにこやかで「こんなにすごい体力がある指揮者は日本人にはいないな」と感心した記憶がある。その後、N響と共演したジャズ・コンサートでも陽気なキャラクターを生かした指揮が好印象。世界中のオーケストラを振り、オペラ歌劇場の信頼も篤い人気のコンダクターとなった。

昨年12月の都響との初共演で、今まで意識したことのなかったアクセルロッドの音楽への違和感を感じた。ストラヴィンスキー『火の鳥』の冒頭のバス音が、機械のパルス音のようで、ロシアのおとぎ話を想像できず、最後までオケは「書かれた音符をひたすら厳密に鳴らしている」という印象だった。自分の思い込みが激しいのかも知れない。それから間もなくして読響の「第九」で再び彼の指揮を聴いた。感想はほぼ同じ。都響のほうがレスポンスが鮮やかで、スーパーフラットな指揮者の「解釈」を映し出していた。

都響との二度目の共演は、聴こうかどうか迷った。好意的に聴けないのならコンサートには行かない方がいい。でも、もしかしたら最後の和解のチャンスがあるかも知れない。一曲目のチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』のポロネーズは溌剌としていい感じ。神経質になって聴くと微妙な歌いまわしが野暮ったいような気もするが、華やかで運動感もあって、元気いっぱいのオーブニングだった。
2002年生まれの富田心さんがソロを弾いたグラズノフの『ヴァイオリン協奏曲 イ短調』は、ヴァイオリニストの天才的な表現力と緻密な演奏に聞き惚れた。グラズノフのコンチェルトはところどころ聴きなれたコルンゴルトのコンチェルトを連想させたが、技術的にはもっと難しいのではないかと思われた。冨田さんは天才の部類に入る演奏家だと思うが、技術だけでなく既に自分自身の魂を音楽に乗せることを成しえている。揺るぎない才能を感じた。コンマスの矢部達哉さん率いるオーケストラも優美だった。

今日のアクセルロッドなら、OKかも知れない。淡い期待を抱きながら後半のチャイコフスキー『交響曲第4番』を聴いた。アクセルロッドはバーンスタインの薫陶を得た人らしいが、聴いていてカラヤンを思い出した。カラヤンは生で聴いたことがない。『カラヤンがクラシックを殺した』という本を思い出した。もう一度読み返そうとしたが、本が出てこない。オーディオマニアのカラヤンは、音響的にデラックスな演奏と録音を生産してクラシックの裾野を広げたが、カラヤン以前のマエストロが持っていたアウラのようなものを殺した、というような内容だったと記憶している。

 アクセルロッドは素晴らしい耳を持っている。それだけでなく、厳密に楽譜を再現することにプライドをかけている。正統派といえば正統派なのだが、イマジネーションが欠落している。演奏家は楽譜の完全なる再現を目指す、という理念が徹底していて、プレイヤーに脚色をさせない。Twitterで見る都響のリハーサルは和気藹々としていたから、嫌な感じではなかったのだろう。否定的な感想を書くと、共演を楽しんでいた演奏家に申し訳ない気持ちになる。しかし、最後までこのチャイコフスキーには共感できなかった。

今回の長い滞在でアクセルロッドはN響とも共演しており、こちらは聴いていないが、N響なら問題がないような気がする。都響がN響っぽい音楽だった。恐れずに言うなら、楽理的な演奏で、チャイコフスキーの4番が細かく分断され、研究されているのが分かった。精巧な部品が合体したような音楽なのだ。バラバラにされた膨大なディテールが統合されていて、隙がない。
それこそが、この音楽を好きになれない理由だった。楽譜を楽譜通り正確に、その瞬間の響きを完璧に…音楽全体の肉体や精神や生態系(?)が存在しなかった。しかし、この「精巧な部品の集積」という演奏は、日本のオーケストラ・ファンが好むところであると思う。予想通り、この演奏会は好評だった。ほとんど悪い感想を書いている人はいない。

デカルトに端を発すると言われている「要素還元主義」は、先端的な知の世界ではオールドファッションとされている。アカデミズムはいまだ要素還元主義を大切にしている。専門性を狭く高く垂直に積み上げ、垣根を高くする。このアカデミズムの手法と、なぜか日本のオーケストラの聴衆は相性がいい。いろいろな専門を横断する、あるいは統合しようとする聴き方はマイナーどころか、存在意義さえ認められない。

評論家は専門家だらけなのだから、自分は素朴な農夫のように音楽を聴きたいと思ってきた。農夫は本の知識を持たないが、そのほかのわずかなことに自足し人生全体を拓いていく。クラシックは自分にとって、生き方を拓いてくれる芸術で、尾高さん、小泉さん、秋山さんの演奏からは、音符だけでない巨大な何かを毎回もらう。「専門分野を越える『何か』とは何かを端的に証明しろ」と言われると言葉を失う。相手は「楽譜」という大きな武器を持っていて、こちらは丸腰なのだ。分野を横断などということを言っても、槍や鉄砲でやられるだけである。

カラヤンで思い出したが、カラヤンのシンフォニーは感情移入できないものが多いが、オペラはまた別で、カラスが歌った『蝶々夫人』の録音があまりに完璧なので、指揮は誰かと思ったらカラヤンだった。アクセルロッドもオペラはいいのかも知れない。先入観にとらわれず、機会があったら彼の指揮するオペラを聴いてみたい。






札幌交響楽団 東京公演(2/8)

2022-02-11 12:04:40 | クラシック音楽
札響の東京公演をサントリーホールで聴く。首席指揮者のマティアス・バーメルトの来日が叶わず、ユベール・スダーンが予定されていたプログラムを引き継いだ。前半はベルリオーズ劇的交響曲『ロメオとジュリエット』より「愛の場面」、伊福部昭『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』、後半はシューマン『交響曲第2番』。
スダーンさんは2021年12月末のゲルハルト・オピッツさんと愛知室内オーケストラの特別演奏会でも指揮をされていたが(素晴らしい名演だった)、ずっと日本に滞在していたのだろうか。首席指揮者のバーメルトさんが来られなくなったのは残念だが、スダーンさんが代理で指揮をすると決まったとき、少し嬉しかった。指揮台なしで指揮棒なし。いつものように紳士的に登場して、大きな優しい手でベルリオーズのロメジュリの愛の場面を振り始めた。

ベルリオーズのロメジュリといえば、自分にとってモーリス・ベジャール版のロメジュリだった。2005年の初夏にローザンヌでこの曲が流れる舞台を何度も聴いた。ベジャールは反戦の想いもこめて「争いより愛を」とロメジュリのバレエを振り付けた。札響の「愛の場面」は優美だったが、遠くにいる金管が少し甘く、わずかだが不揃いに感じられた。リハーサルで指揮者が鬼のように金管をいじめれば、引き締まった本番になることもあるだろう。もはやそんなことは、どうでもよかった。合奏は美しく、夕暮れ時の金色の海のようだった。

伊福部昭さんの曲は、懐かしい質感がした。冒頭のヴァイオリンのモノローグは「ねんねんころりよ」を思い出す。民謡調で、ルネサンス期の吟遊詩人の音楽にも聴こえる。山根一仁さんが集中度の高いヴァイオリン・ソロを奏でた。後半からあの有名な「ゴジラ」の主題が現れたが、律動的なオーケストラが土台となって浮上する「ゴジラ旋律」はショスタコーヴィチやストラヴィンスキー、バルトークを強く思わせた。それらと伊福部音楽は地下茎でつながっている。「ゴジラ」のモティーフが転回していく様子は、ラフマニノフのパガニーニラプソディさながらで、神々しく、同時に「ソーラン節」を思わせる。この日は伊福部昭氏の命日だった。

前半の2曲だけでも、スダーンの指揮の良さをつくづく感じた。プログラムによると、札響との初共演は1975年なそうである。スダーンは1946年生まれだから29歳のとき。その後札響とは何度共演したのだろう。東響はスダーンからノットに首席が変わって、ノットの派手なイメージもあってか(?)桂冠指揮者のスダーンの影が少し薄くなってしまったような気がするが、個人的にはスダーンの方が東響らしさを引き出していたように思う。ノットも悪くないが、自分には彼の音楽はよくわからない。大変なエリートだとは思う。スダーンは「なんでこんなに謙虚なんだろう」といつも思う。音楽はとても心に残る。深い問いがあり、野心とかそういうものとは関係のない場所で、ひたすら優美に鳴っている。

去年の指揮コンで、連日のようにスダーンの後ろ姿を見た。予選の審査で、指揮者たちはほうぼうに好きな場所でコンテスタントの演奏を聴いていた。いつもバルコニー席にいたのは自由なオッコ・カムだ。スダーンは毎回通訳をともなって前方の左側の席に座っていたが、その後ろ姿が「王子様」のようだった。私にとって、他の人がどうでもいいというこういう「素」の瞬間こそ大事な時間で、スダーンのあの後ろ姿から多くのものを感じた。自分の人生にそんなに多くを求めていない。音楽を心底愛しているが、他人をいびってまで何かを実現しようとはしていない。そして、本当に育ちのいい人だ。家族から愛されて育ったユべール少年の子供時代を思い浮かべた。

後半のシューマンでは指揮台と指揮棒が登場するのかと思ったら、そのままで台も棒もなし。スダーンさんは身体全体でオケに覆いかぶさるようにして音を引き出していた。1楽章は美しい日没のような景色が思い浮かび、宗教的な感慨に満たされた。70代の指揮者はまさに人生の実りを迎えているが、スダーンは古き良き何かを懐かしんでいるわけでも、新しい何かに迎合しているわけでもなく、あらかじめて決められていたプログラムに、自分の心の経験を乗せていた。わざとらしさや脅かすようなところが全くない。それでも狂気が滲みだす2楽章の終わりでは、鋭い音が飛び散った。そこからゆったりとした3楽章への流れは、筆舌に尽くしがたかった。シューマンの愛情深さ、人間らしさ、調和を懐かしむ心が、指揮台を使わないスダーンの身振りから溢れ出した。札響の「優しさ」に打たれた。

フィナーレ楽章では各パートの俊敏さと祝祭的な音の輝き、合奏の巨大なパワーが炸裂した。札響は素敵なオーケストラである。年間ブログラムを見たら、指揮者も曲目もかなり豪華。1年の中で一番寒い季節に東京に来て、名演を披露してくれた。