小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

コンヴィチュニーの『影のない女』

2024-10-27 11:41:55 | オペラ
二期会のペーター・コンヴィチュニー演出『影のない女』(ボン歌劇場との共同制作)の上演が連日熱い議論を呼んでいる。事前に「皆さんは死んだオペラを観ている」といったコンヴィチュニーの発言の一部が非難され、カーテンコールの映像では初日から激しいブーイングが飛んだ様子。プロの歌手や批評家からも、主に3幕の大幅カットについて批判が起こり、その他にもしかじかの性的表現や、歌詞や設定への変更が一種のアレルギー的な反応を引き起こしていた。

Bキャストのゲネプロを見たとき、最初は何が語られているのか分からなかった。前回このオペラを観たのは2011年のマリインスキー劇場の来日公演で、指揮はゲルギエフ、演出はジョナサン・ケントで、同じプロダクションを2010年にサンクトペテルブルクの白夜祭でも観ていた。霊界のカップルと地上のカップルが交差する幻想的な物語という印象だったが、コンヴィチュニー版ではバラクはそもそも染物屋でもないし、皇后と乳母は清掃スタッフの恰好をして現実に舞い降りる。皇帝はギャングのボスで、たくさんのシーンでピストルの暴発が起こる。
ゲネプロでは前半の100分がチンプンカンプンで、後半の45分で急に色々なことが覚醒した。皇后の腹から取り出された嬰児が「アナタノ子供ダヨー! ドウカ死ナセテ! モウタクサン!」と語り出す場面で、頭が真っ白になった。観る人によっては由々しい印象を得たかも知れない。この世界に生まれてくることが、子供にとって幸せなのか? ガザ地区やウクライナで殺されたり手足を失ったりしている小さな子供たちを思い出し、何よりいい年をしてこの世に存在している実感が湧かない自分のことを思った。

コンヴィチュニーの精神の内奥には、癒し難い厭世観があると思う。プログラムではドラマトゥルクのべッティーナ・バルツの長大なコンセプトが掲載されているが、そうしたアイデアに反応してしまうコンヴィチュニーは、「生存している」という当たり前のことに暗い気持ちを抱いているからなのではないか。今まで観てきたオペラにもそれを感じた。
R・シュトラウスが『影のない女』を完成させたのは1919年で、最初の世界大戦が始まった5年後で、その後の20世紀は戦争の時代となり、「産めよ増やせよ」の富国強兵のスローガンが欧州にも蔓延した。「女はまるで軍用道路!」と叫ぶ妻。それまで対立していたバラクとその妻が、急に和解する3幕が大幅にカットされたが、劇中最も甘美で豊饒な部分を「抜いた」ことに大きな意味がある。作品を愛する人々にとっては多大なフラストレーションだが、演出家はそこに嘘があると確信し、メスを入れた。

版権が切れているのだから、演出家は自由にカットする権利がある。一方で「オペラはみんなのもの」だから勝手なことはするな、という一般論がある。演出家は劇場と外の世界を交流させ、人間全体の意識を覚醒させたいと思っているが、一部の(多くの?)鑑賞者はそれを「要らない」という。このままではコンヴィチュニーが時代錯誤のエゴイストになってしまう。そんなことはあってはならないと思う。

本公演は26日の初日キャストを10列目で観た。ゲネは一階の最後列で観たので、その景色はずいぶん違っていた。本番3回目で上演として円熟していたということもあったが、間近で見る歌手たちが、愛と生命と性の本質を、暴力ぎりぎりになる局面も含めて真剣に演じていて、困難なはずの歌唱も全くそれを感じさせず、演劇的な迫力だけが横溢していたのが驚異だった。
女性歌手たちが特に凄い。バラクの妻の板波利加さんはコンヴィチュニーの愛弟子といっていいほどの歌手で、皇后の冨平安希子さんは2018年のコンヴィチュニー版『魔弾の射手』で好演し、乳母の藤井麻美さんは今回が初めてのコンヴィチュニー作品となる。その3人が、演出家の巨大な愛を受け取り、無限の可能性を舞台で花開かせ、嘘のない女性像を表現した。皇后はバラクとの性交を暗示させる長いシーンを演じなければならず、露骨ではないが大変な精神力を要すると思われた。個人的には最も素晴らしい場面だと胸打たれた。

最後列で観ていたものをステージ近くで観て印象が変わったことは、オペラ全体に精神的に近づく必然を感じさせた。バックステージツアーにも参加したが、ボンで制作された装置はハイテクで美しく、照明も回転する床も最新の機構が使われている。あの清潔なラボやカウンセリングルーム、夜景レストランの美術について、ほとんど指摘されないのが不思議である。装置の贅沢さには見るべきものがある。
近くに寄らないと見えないものがあるのに、見ようとしないのは何故なのか。性的表現も、自分自身に近づいて考えてみれば、拒絶反応以外の何かが起こるはず。バックステージツアーの後には、コンヴィチュニーによる『コジ・ファン・トゥッテ』のマスタークラスも見学した。2時間の間に若い歌手たちが驚くべき成長を遂げていた。演出家は真の天才であり、そのインスピレーションはエゴを超えた人間全体の洞察から来ていると確信した。

これだけ炎上してしまっては、もはや演出家を賞賛することは盲目的信奉者と同一視されかねないが、視野を広げれば、そもそもこうした刺激的上演を日本で観られるということ自体が凄いのである。あの巨大な装置は今日の夕刻には全部撤収され、ボンに送り返されてしまう(ほとんどの装置はボンで制作されていた)。跡形もなく消え去ってしまうあの世界が、まもなく虹のように感じられる。

アレホ・ペレスと東響の音楽は驚異的で、ペレスは演劇に寄り添った音楽を積極的に作り、ノットとの『サロメ』や『エレクトラ』が素晴らしかった東響も神業的なサウンドを聴かせた。歌手たちは全員エンジンを唸らせて、オーケストラと一心同体になっていた。

人間はショックなことが起こらないと眠ったままでいる、と言ったのはベジャールだった。眠ったままでいいはずがない。揺り起こそうとするコンヴィチュニーに「嫌だ!」とブーイングした観客まで、演出家が予測したアートの一部だったのかも知れない。黙示録的な上演だった。







フランクフルト放送交響楽団(10/21)

2024-10-22 10:11:41 | クラシック音楽
来日中のフランクフルト放送交響楽団のツアー最終日のコンサートをサントリーホールで聴く。指揮のアラン・アルティノグルは2021年からフランクフルト放送響の音楽監督を務めているアルメニア系フランス人。世界中の名門オーケストラと共演を果たし、2016年からはベルギーのモネ劇場の監督も務めているが、プロフィールを調べたら1975年10月9日生まれで49歳の誕生日を迎えたばかり。この世代の特徴か、指揮台の上でも威圧的なところがなく、オケとフレンドリーな関係を結んでいるように見えた。

ブラームス『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』では庄司紗矢香さんが登場。黒の透かし模様のニットトップスに、ボトムスは光る素材のシルバーのパンツで、個性的な雰囲気が増している印象。オケの長い前奏部を瞑想的な表情で聴いていて、前日のみなとみらいでも同じ曲で共演しているはずだが、毎回オケの様子も微妙に変わるのだろう。全体のエネルギーの中からしかるべきソロを奏でようとしている姿にも見えた。
ブラームスのvnコンチェルトは先日の読響ヴァイグレ指揮&テツラフでも聴いたが、ソロもオーケストラも全く違ったアプローチだった。アルティノグルが引き出すサウンドはいぶし銀のように艶消しで、華やかに演奏されることの多いこの曲をわざと地味に聴かせている。首席フルートの女性が奏でているのは木製のフルートで、音は大きくないがふくよかで薫り高い音を放つ。対抗配置のコントラバスは向かって左端から二人ずつ前にせり出す並びで、一番前の二人は最前列チェロのすぐ後ろまで来ている。サウンド・デザインにこだわりを感じたが、「濃い口」の演奏に鳴れている人にとっては何か物足りない音楽だったかも知れない。オケの音量には節度があり、その注意深さによって今まで聞こえてこなかった緻密な構造が見えてくるようだった。この曲は、ブラームスの代表作のひとつでありながら、表面的で派手な演奏をされることが多いと思う。ブラームスもある種の栄誉を求めて曲を書いたふしがある。指揮者はその奥にある、神秘的で「ブラームスの素顔に近い」精神性を引き出そうとしているようだった。

庄司紗矢香さんは両足をステージにしっかりと吸い付けて、「不動の構え」ともいうべき姿勢で次から次へと目がくらむような超絶技巧を聞かせた。鮮やかなヴォイス・セパレーションは、この楽器の究極の魅力を引き出し、同時に簡単には触れないような威厳もまとっていた。こういう凄味のあるソロを演奏している人の姿というのは、神々しくもある反面怖くもあり、音も鋭利なので「癒し」の要素は全くない。オケは常人離れした凄いソロを引き立てるように、限りなく奥へ奥へと引っ込んでいく。作曲された当時のヨアヒムとブラームスの関係はこうだったのかな、と想像した。3楽章のヴィルトゥオジティのインフレーションのようになる箇所で、庄司さんが「これ、面白すぎるよ」という表情で一瞬スマイルになったので、天才はこんなところで笑うのかとびっくりした。当たり前でないオケのアプローチにソリストも尊敬の念を感じていたのか、アンコールのマックス・レーガー「プレリュードとフーガ」はオケに捧げる演奏に聴こえた(果たし状にも聴こえた)。

後半のムソルグスキー(ラヴェル編)『展覧会の絵』では前半の若いコンマスがセカンドになり、見るからにベテランといった風貌のコンマスが着席。オーケストラも大編成となり、音量も一気にデラックスに。冒頭のトランペット・ソロは輝かしく、こんなに威風堂々としたプロムナードは聴いたことがない。オペラグラスで見たら年代物の古い楽器に見えたが、トランペットにもストラドのような名器があるのだろうか。途中別の楽器に持ち替えている箇所もあったが、最後の喝采もこの奏者へ向けられたものが一番大きかった。
それにしても、なんという面白い曲なのか…アルティノグルはオペラ指揮者でもあるからか、この組曲がオペラ的にも聴こえた。あるシークエンスはワーグナーのように大げさで、そうかと思うとコミカルになったり、アニメーションを見ているような面白い気分になったりする。指揮者の後ろ姿はスタイリッシュだが、オケ側から見ると百面相なのかも。先日行われていた東京国際指揮者コンクールの予選では、このオケでアルティノグルのアシスタントをしていたフランス人ニキタ・ソローキンが素晴らしい演奏を聴かせたが、師匠から多くのことを学んだのだろう。書かれた作品の本質に切り込むような音楽を聞かせる。
『展覧会の絵』は凄いファンタジーで、世界戦争や神話やサイケデリックな誇大妄想が「飛び出す絵本」のように展開される。ムソルグスキーも編曲をしたラヴェルも「童心の人」で、精神の深い部分では大人なんか信じていなかった。子供が面白いものに過集中するように作曲をしていた二人で、ワーグナーなら古代神話として描くシリアスさも、彼らにとっては玩具箱の世界になる。その面白さを、飄々と客観的に眺めながら、アルティノグルは爆発的な音響をホールに轟かせた。前半と後半、同じ素材を使って全く違う料理を出された気分。
アンコールはドビュッシーの「月の光」(オーケストラ版)で、これはお洒落なフレンチのデザートのようで、繊細な合奏が本編とは異なる美味しさを味わわせてくれた。オーケストラはどんなことだって出来るのだ。
目まぐるしくシェフが交代するオケが多い中、フランクフルト放送交響楽団は一人の指揮者の在任期間が比較的長く、インバルは20世紀に16年間音楽監督を務めていた。アルティノグルとの共演はまだまだ聴いてみたい。人間的にも大変魅力的な指揮者のような気がする。





新国立劇場『夢遊病の女』(10/6)

2024-10-11 20:00:18 | オペラ
3か月前(!)の『トスカ』の大成功で結束感を増したマウリツィオ・ベニーニと東フィルがピットに入った『夢遊病の女』。ベルカントの王子アントニーノ・シラグーザが久々の新国再登場で、主役のアミーナを歌うクラウディア・ムスキオも若手の実力派として頭角を表している新星ソプラノと期待は高まる。ムスキオは2017年デビューとプロフィールにあるから、20代後半か30代前半くらいだろうか? アミーナの恋敵リーザを伊藤晴さんが、リーザに恋するアレッシオを近藤圭さんが、村の領主ロドルフォ伯爵を妻屋秀和さんが演じた。

バルバラ・リュックの演出は10名ほどのダンサーが冒頭から活躍する独特の構成で、音楽が始まる前にも灰色のダンサーたちが不穏なジェスチャーでアミーナを取り囲み、彼女が顕在意識ではコントロールできない「悪霊のようなもの」に囚われている様子を表現した(音楽がなかなか始まらないので少し不安になる)。合唱は中世ヨーロッパの村人のようなコスチュームで、アミーナとエルヴィーノの結婚も、しかじかの出来事も、すべて村人たちの衆人環視のもとで行われる。恋人を取られたリーザは苛立ちながらアミーナへの嫉妬を隠せず、ベルカントの殿堂・藤原歌劇団のプリマドンナ、伊藤晴さんが堂々として華やかなアリア「皆が喜んでいるのに私だけは」を歌った。

ゲネプロと本番を見て、美術と照明がとても美しいことに気づいた。ひなびたポプラのような木に、案山子じみた男女のボロ人形がぶら下がっていて、何か結婚を揶揄しているようでもある。殺風景な村の景色がライティングによってカラーになったりモノクロになったりするのが魔法に見えた。白いドレスのアミーナには灰色ダンサーたちが背後霊のようにつきまとっていて、歌手は始終身体を触られたり密着したりするので拒絶感がないか心配していたが、アミーナ役のムスキオはバレリーナとしての訓練を積んだ人で、この演出には積極的だったという。こういうこともオペラの幸運のひとつである。

妻屋さん演じるロドルフォ伯爵は、野外での入浴姿も披露し(!)ドン・ジョヴァンニかマントヴァかという色男に最初見えたが、話が進むにつれて良識的で博識(夢遊病とはなんぞやということも知っている)な人物であることが明らかになる。ベッリーニのこのオペラを観ること自体久しぶりだったので、物語中で本当の悪役は一人もいないことに後から気づいてはっとした。アミーナを憎く思うリーザでさえ、常識的な羞恥心と罪悪感を持っている。後半で正義感を発揮するアミーナの養母テレーザ(谷口睦美さん)も凛々しいほどに、「善なるもの」を信じていて、リーザを咎めアミーナをかばう場面は素晴らしい存在感だった。

シラグーザのエルヴィーノはどの場面も名人芸で、なんと安々と歌い上げるのだろうと惚れ惚れしたが、アジリタの音譜ひとつ外さない節回しと、神業のような高音には「プロとしてのド根性」を感じずにはいられない。ふだんはスキンヘッドだが、ヘアメイクでは自然なショートヘアで、本当に生えているように見えた。リーザと伯爵の不義を疑って、嫉妬に苦しめられるときの歌唱は迫力がありすぎて「なんという真実味」と驚かされた。

ピットのベニーニは、先日のプッチーニと全く違うことをやっていた。作曲家が違うのだから当然なのだが、余白の中で歌手の歌だけが空間を埋める箇所では、魔法のように舞台の上の登場人物に「息を与えて」いた。歌手たちはベニーニのもとで、どれほど安心して歌えていたことだろう。様式が違うと、棒の使い方も全く変わる。ベルカントには別のテクニックが要るのだ。ベニーニはオペラをどれくらい真剣に学んだ人なんだろう…と、マエストロの背中を見ながら刻苦勉励の青春時代を想像した。物凄く熱心な指揮者の卵だったはず。ベッリーニを振るベニーニの姿がしばらく脳裏に焼き付いたままだった。東フィルとは今作でも完璧な協調体制をキープしていた。

シラグーザのエルヴィーノが恐ろしい嫉妬のベルカントを歌い上げると、その解答のようにムスキオのアミーナは天上的なソプラノで返してきた。あの最後のシーンの、今にも落っこちてきそうな屋根の軒下で歌うアリアは、「ベルカントの高音の美」を即物的に表したものなのだろうか。高さはどれくらいあるのか…高所恐怖症の歌手は歌えない演出。そこでのムスキオは教会の祭壇の上のマリア像のようで、夢遊病という病が聖なる者の証であるかのように、村人たちは彼女を仰ぎ見るのである。

人間が「無意識」の存在を知ることになったのは、黙読できる能力を身に着けてからのことで、昔の人々は音読しか出来なかったため、ヨーロッパの古い図書館には閲覧者たちの「声が聴こえないように」ひとつひとつ厚い仕切りがついていたという。松岡正剛さんの本に書いてあった。この村人たちは恐らく本を読むことも叶わず(ドニゼッティの『愛の妙薬』のアディーナは本を読める特権的な存在)、無意識という領域があることすらも知らない。覚醒した意識とは別のものに操られて高い所にいる娘は、さぞ不思議な存在だっただろう。この演出では、「夢遊病」という不可思議な病が娘の聖性と結びついていて、彼女の純潔は証明されるが、それ以上の尊さを最終的にまとうのである。

色々な共演者とベルカントを歌ってきたシラグーザが、カーテンコールで「君は本当に最高!」とムスキオを抱き上げていたのが印象的だった。ベニーニもいよいよ若返って、フレンドリーな雰囲気で舞台に上がってきた。合唱の村人たちは、しばらくさっきまでアミーナのいた場所を呆然と眺め、合唱指揮者の三澤さんが現れてようやく客席側を向いた。ベルカントオペラの凄味と音楽家たちの奇跡を目の当たりにした公演。あと二回上演されます。