小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』(6/29)

2023-06-30 10:20:09 | バレエ
4年ぶりの来日を果たした英国ロイヤル・バレエ団による『ロミオとジュリエット』6/29ソワレを鑑賞。
6/24~6/25に上演された『ロイヤル・セレブレーション』では、優雅で繊細な男性たち4人による『FOR FOUR』、華やかで強靭な女性たち4人による『プリマ』、巨匠アシュトンの英国絵画のような『田園の出来事』、バランシンの絢爛たる『ジュエルズ~ダイヤモンド』が熱狂的に迎えられたが、どこまでも美しくナイーヴな男性ダンサーと、華麗で強い女性ダンサーのコントラストが英国的に感じられ、伝統あるバレエ団の揺るがぬ格式に驚かされた。

『ロミオとジュリエット』は7組のプリンシパルによる7公演が全て完売。驚異的な人気公演となり、高額な転売チケットが流布するなどの悩ましい事態も起こっていたという。6/29のソワレも超満員。映画版にも出演したフランチェスカ・ヘイワードがジュリエットを、同年(2016年)にプリンシパルとなったアレクサンダー・キャンベルがロミオを演じた。

幕が開いた瞬間、ニコラス・ジョージアディスの伝説的な装置と暗いライティング、どこか血の匂いを感じさせる舞台の神妙な空気感に「これがロイヤルのロミジュリなのだ」と襟元を正したくなった。自分にとってバレエのロミジュリは、このマクミラン版が決定版で、92年のABTの来日公演でアレッサンドラ・フェリとフリオ・ボッカのペアを観て大きな衝撃を受けた(そのツアー中にマクミランが亡くなり、海外での追悼公演となった)。意外にも、最近多く観ていたのはクランコ版で、今回のマクミラン版が非常に新鮮に感じられた。現在のカンパニーの姿勢でもあるのか、語り口が上品で、あからさまな残酷さは控えられ、奥に秘められたものを感じさせる舞台だった。

ジョージアディスの美術と衣裳は圧巻で、戯画的なコスチュームをあてがわれることもある婚約者パリスやティボルトの装束も美麗。こうした細部は「ロミジュリ」マニアには深く突き刺さる。パリスのジュリエットへの愛は途中から一方的なものになるが、パリスにも深い苦痛があり、彼の育ちの良さや紳士的な振舞いがそれを暗示する(パリス役はニコル・エドモンド)。ティボルトを演じたベネット・ガートサイドは過去の来日公演でも重要な役を踊っていたが、円熟期(キャリアの終盤?)に入って、演劇性が先鋭化していて、物語の中心に入り込む威力を発していた。

フランチェスカ・ヘイワードのジュリエットは、「可愛らしい」少女を予想していたいたが、蓋を開けたらそんなものではなく、この人は驚異的な天才で、これはすごいロイヤルの宝だと思った。乳母とたわむれる登場シーンから、舞踏会でパリスとお披露目の踊りを踊るシーン、ロミオの出現とパ・ド・ドゥ、そこから再びパリスとの踊り…という短い時間の中で、みるみるうちに「女性」になっていく。この役なら当然だろう、とも思うが、実際に目の前で演じられると衝撃的以外の何物でもなかった。一人の人物を演じているというより、運命そのものを演じているようで、すべての動きに高度に抽象化された閃きがあった。

アレクサンダー・キャンベルは童顔で少年のようなダンサーで、若いロミオを微塵の虚飾もなく等身大に演じた。フランチェスカは当初本当の恋人であるセザール・コラレスとペアを組む予定だったが、コラレスの怪我により初めてキャンベルと踊ることになったという。このペアはユニークなケミカルを感じさせた。マクミラン版のバルコニーのシーンは、踊るダンサーによっては公然とした濡れ場(!)にも見えるのだが、この二人は妖精が空中で踊っているようで、背後からロミオにふわっと身をまかせるジュリエットは空気の精そのもの。人間の姿から蔓枝植物に変化していくギリシア神話の神のようでもあり、男女である以上にふたつの霊であり、絡み合うふたつのメロディだった。この場面をこんなふうに観たのは初めてだった。

マクミランは「うたかたの恋」や「マノン」でバレエ表現のモラルぎりぎりの表現をした人で、「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンにも性愛のリアルな暗示を盛り込んでいる。と、そう思っていた。実際、そのように踊っても素晴らしいのだが(オシポワ、マリアネラの演技が楽しみ)、さらに若い世代であるダンサーは、思ってもみなかった新しい位相を見せてくれた。フランチェスカ・ヘイワードもマチネの主役ヤスミン・ナグディも1992年生まれで、マクミランが亡くなった年に生まれている。

広場での乱闘シーンでは、マキューシオ(ジェイムズ・ヘイ)を背後から刺し、ロミオと決闘するティボルトが圧巻だった。ティボルトだけが大人の男で、大人をからかうマキューシオは無礼な若僧、自分の親族の城にもぐりこんできたロミオも未熟者、という図式が浮き彫りになった。マキューシオを刺した剣についた血を指でなぞり、「これはなんだ?」と敵に差し出す仕草、逆上したロミオに「お前がそうなるのを待っていた」と年長者の余裕で構える。単純な悪役などではなかった。

ティボルト絶命の場面はキャラクターの見せ所だが、前後の流れも含めてガートサイドは素晴らしく、この夜キャピュレット公を演じたギャリー・エイヴィスも凄い演技をしたと思う。前日はマックレーのロミオとエイヴィスのティボルトという組み合わせだった。そういうことを考えると、全キャスト観なければ気が済まなくなってくる。

2023年のマクミラン版は、過去に上演されたある種の「くどさ」を抜き取り、どぎつい雰囲気を消しながらも、演劇のもっと怖くてミステリアスな位相を示していた。この夜もにこやかなケヴィン・オヘアが客席から舞台を見守っていたが、芸術監督の指針の正しさを尊敬したくなる。

プロコフィエフの音楽は狂気に近いほどドラマティックで、一日二回公演の疲労度を考えると東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の健闘には感謝しかない。ジュリエットの仮死状態からロミオの死、ジュリエットの本物の死に至るまでの追い込み方は、舞台もピットも鬼気迫るものがあった。
『ロミオとジュリエット』はバレエで演じられるのが一番強烈なのではないか。何種類かオペラがあり、原典はストレートプレイだが、言葉のない次元で最も痛切に突き刺さってくるものがある。自分の分身が「出現」してしまったとき、世界はすべて変わってしまい、理屈では通らない衝動ですべてが崩壊してしまう。なぜそうなるのか、実際のところ本人たちにしか分からない。あるときは悲劇的に描かれ、あるときは滑稽に描かれる。
英国ロイヤル・バレエ団の『ロミオとジュリエット』は東京で残り4回、大阪と姫路でも公演が行われる。



パレルモ・マッシモ劇場『ラ・ボエーム』(6/15)

2023-06-18 06:34:48 | オペラ
2020年の来日予定が延期に次ぐ延期を経ての実現。海外オペラの引っ越し公演が再び東京に戻ってきた。3年前のチケットをそのまま握りしめて東京文化会館に来た人も少なくないという。『ナブッコ』から『ボエーム』に演目は変更され、主役のミミはアンジェラ・ゲオルギュー、ロドルフォはヴィットリオ・グリゴーロというスターの共演が実現した。

開演前から、がやがや練習するオケの音に「イタリア人だなぁ」と笑いがこぼれる。おしゃべりで自由で、それぞれ違う場面の音を出し、オペラと関係ない旋律まで聴こえてくる。指揮者のフランチェスコ・イヴァン・チャンパがピットに入ると、勢いのいいサウンドがはじけ出した。マルチェッロ役のフランチェスコ・ヴルタッジョに続いて、ロドルフォ役のグリゴーロが歌い出すと、一気に明かりがついたような感じになった。冬の寒い空気に晒されたパリの屋根裏部屋に、次々と若者たちが帰ってくる。演劇面ではグリゴーロがグイグイ引っ張っていた。

一幕ですぐにロドルフォとミミは重要なアリアを歌わなければならないが、「冷たい手を」も「私の名はミミ」もかなりスローテンポな指揮で、解釈としては理念を尊重したいが、歌手の生理にあっているのか少し心配になった。オペラで指揮だけが際立つというのはいいのか悪いのか、パッパーノなら完全に裏方に隠れる。グリゴーロは指揮者のテンポを尊重し、粘り強く歌いハイCも見事だった。ゲオルギューのほうが心配で、音が上がり切らなかったところもあったが、呼吸感に沿うもう少し早めの伴奏だったら完璧に歌えたかも。初日の一幕だから、緊張していたのかも知れない。

転換をした二幕のカフェ・モミュスの場面はこの劇場版も賑やか。ムゼッタのジェッシカ・ヌッチオが大活躍の場面だが、品が良すぎて、ミミとコントラストをつけてもう少しケバケバしい演技でもいいのではないかと思った。演出家が歌手につけている芝居は全体的に薄目で、グリゴーロは全体の薄さを一人で埋めようとパワー全開だった。感動的なのは、そうしたグリゴーロのあり方が確実にオペラに活気を与え、座長的なポジションを担っていたことだ。この公演でグリゴーロがどれだけひとつひとつの公演を「成就」させようとしているかが伝わってきて胸が熱くなった。

オケはどんどん良くなって、二幕目以降は文句のつけようがなかった。日本のオケなら照れてしまうような強力な歌心があり、透明感と色彩感に加えて、怖さ知らずの大胆さがある。イタリアに旅したとき「すべてがこんなに大雑把で大丈夫だろうか」と不安になりつつ、最後はすべてが面白かったことを思い出した。引っ越し公演の醍醐味で、彼らがふだん吸っている空気、劇場のアコースティックから何もかもが「違っている」ことが面白かった。

3幕のアンフェール関門の場面は、オケも歌手もすべてがパーフェクトだった。ミミとロドルフォが別れを決意しつつ、冬の間は一緒にいようと歌う場面で、ゲオルギューも見事な表現だった。ゲオルギューとネトレプコは6歳しか年が違わないが、オペラ歌手としての感性は世代がきっちり分かれていて、ゲオルギューはモダンというよりクラシカル。ネトレプコはモダンそのもの。ゲオルギューの、古き良き時代を引き継いでいる感じのヒロインが、とても良かった。グリゴーロは天才的な役者で、どんなアプローチの相手役にもぴったり合う。

3幕の後に15分間の短い休憩があり、その後に4幕が始まるはずが、なかなか開始しない。漏電でピットの照明が一部故障したとのこと。長く上野の文化会館に通っていて、こんなことは初めて。主催者は肝をつぶしかけただろう。10数分待機の時間があったが、長く感じられた。それもこれも「イタリアっぽいのかな」と思える。
幕が開くのを待機していた屋根裏部屋の若者たちが、すぐさまスイッチオンになって元気のいい歌を歌い始めたのも感動。やはり、グリゴーロが凄い。現場感覚がシャープで、寛大。ゲオルギューも、最初のアリアで凹まずに後半を見事に盛り返し、ラストの演技ではプリマドンナの誇りを見せてくれた。ゲオルギューのミミを2023年の東京で聴けるというのは、奇跡のひとつではないか。最後の最後には、ミミの海のように果てしない愛が余韻に残る。

プッチーニはやはり凄い。何度聴いてもボエームは飽きないし、オーケストラによって思いもよらなかった魅力を再発見できる。指揮のイヴァン・チャンパも結構好きになった。

この翌日には『椿姫』を鑑賞し、いよいよパレルモ・マッシモ劇場の魅力にはまった。16年前には『シチリア島の夕べの祈り』と『カヴァパリ』を聴いていたはずなのだが、すっかり記憶が薄れていた。古きを温めつつ、健全な新陳代謝も行われているのだろう。そして何より、引っ越し公演は本当にいいものだと思った。世の中がいくら便利になっても、時代錯誤と呼ばれずにこの貴重なイベントは生き残って欲しい。





上原彩子&松田華音 ラフマニノフ ピアノ・デュオ・リサイタル(6/7)

2023-06-15 12:13:49 | クラシック音楽
上原彩子さんと松田華音さん、ともにロシアとの絆が深い二人のピアニストによるデュオ・リサイタルをサントリーホールで鑑賞。今年はラフマニノフの生誕150周年でオーケストラもピアノリサイタルもラフマニノフをフィーチャーしたプログラムが多いが、深遠さと彫りのきめ細かさにおいて別次元の趣を呈した演奏会だった。
一部では松田さんが「12の歌 Op.21より第5曲『リラの花』変イ長調」「練習曲集『音の絵』Op.39-6」「楽曲の時Op.16-6」の3曲を独奏し、そのあとに上原さんが加わって『2台のピアノのための組曲 第2番 Op,17』を演奏した。鍵盤に覆いかぶさるようにして念を入れて弾く松田さんの姿には少年の凛々しさを感じ、厳かに身体と楽器を溶け合わせる上原さんには、女王の風格が感じられた。

ラフマニノフは感傷的だという人は多い。亡くなった坂本龍一さんは「アメリカのデコレーションケーキみたい」と語っていた。ラフマニノフはセンティメンタルでも甘いケーキでもない。冷厳で高貴で、黒ダイヤモンドのような貴重な音楽を創り出した。ピアノコンチェルトの2番が映画音楽に使われたからといって、通俗的だとは思わない。映画音楽は凄い価値のあるジャンルだ。ロシアの宗教曲も書き、オペラも書き、交響曲も書いた。チャイコフスキーを尊敬し、プロコフィエフからは嫉妬されていたラフマニノフの曲は、孤高の次元に息づいている。清潔な自我感覚が芯にあり、実際何にも媚びていない。

『2台のピアノのための組曲 第2番』は、とても高い視点から演奏されていた。ドラマティックで、溺れるほど魅惑的な美しい旋律も出てくるが、二人のピアニストは音楽全体を俯瞰するように冷静に曲を進め、複雑なリズムを微塵もズラさずに演奏していた(ラフマニノフにおいて、リズムはとても重要なものだ)。深い深い内観の世界に降りていくピアニストの精神を凝視してしまった。息継ぎがなく、音で埋め尽くされた楽想は、シーケンス・ミュージックを先取りしているようでもある。

後半は上原さんのソロで『13の前奏曲Op,32より第2曲 第6曲 第10曲』、最後に『交響的舞曲(2台のピアノ版)Op.45』が演奏された。瞑想的でシンフォニックで、ピアノという楽器の万能性に改めて衝撃を受けた。上原さんと松田さんの強い指、呼吸感、ソリッドな和声感と魔法のような装飾音に驚愕。『交響的舞曲』はピアノ版でしか認識できない構造の複雑さ、予測不可能な展開を聴いた。熱いようで冷たい。もちろん、ラフマニノフは温かい人柄だった。しかしながら、その芸術の芯にあるものはドライアイスのように触れない。ラフマニノフが引き受けていた霊感は、無数の無念の魂で、木霊に紛れた人の嘆きであり、海や湖の底で響いている嗚咽だ。それが原油のように均質的な何かになり、滔々と流れだしていく。悲劇的なものの本質は、奥に秘められていて、簡単には触れられない。

ラフマニノフがどれだけ「深い」のか、この演奏会がなければ考えることはなかった。アンコールはラフマニノフ:2台のピアノのための組曲第1番「幻想的絵画」Op.5から第3楽章、第4楽章が演奏され、贅沢なリサイタルだった。