小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

日本フィル×ラザレフ(4/24) 

2021-04-25 20:26:34 | クラシック音楽

桂冠指揮者アレクサンドル・ラザレフが振るロシア・プロ。この困難な状況の中、ラザレフが無事に来日を果たしたニュースはこの上ない喜びだった。ラザレフは日本の新緑の季節がよく似合う。自分が年をとるにつれて、日に日に太陽が沈むのが遅くなり、大気が夏の気配を増してくる牡牛座の季節が好ましく感じられるが、3年前にラザレフがストラヴィンスキーの『ペルセフォーヌ』を日フィルと日本初演してくれたのも、同じ時期だったように記憶している。カラフルな草花が大地を覆い、アートの女神が微笑む地球の祝祭的な時間だ。

感染症の影響で今年に入ってからの在京オケのコンサートは、かなり良い内容のものでもホールが閑散としていることが多かったが、日フィル定期サントリー二日目の土曜日は珍しく客席が埋まっていた。ラザレフ・ファンの多さ、というかラザレフと日フィルの黄金コンビのファンが多いことを改めて知る。嬉しそうに登場し、指揮台に乗るラザレフ。

グラズノフ『交響曲第7番《田園》ヘ長調』はこの爽やかな季節に合わせたかのような選曲だった。グラズノフはラザレフお気に入りの作曲家で、以前杉並公会堂で行われた記者懇親会は、グラズノフの酒豪エピソードを滔々と語るラザレフの独演会になったことがあった。このときラザレフが「グラズノフのスコアはチャイコフスキーよりずっとよく書けている」と言った言葉を覚えていたが、それはどういうことなのか具体的には分からずにいた。

その後、バレエ指揮でチャイコフスキーもグラズノフも多く振られている井田勝大さんに「本当にそうなのでしょうか」と質問してみたら、「確かに。ラザレフさんの仰ることは分かります」とのお答え。楽器の特性をよく理解し、特に管楽器が自然で、響きの計算がよくなされており、チャイコフスキーはその点不完全な部分も多いという。

ラザレフと日フィルのグラズノフは音楽の展開が早く、次から次へと屏風絵のような極彩色のパノラマが展開されていく。ベートーヴェンの田園よりも、優雅なバレエ音楽を連想させる。バレエ音楽の寄稿でグラズノフについて書いたとき「グラズノフの音楽の特徴をもっと書いてくれ」と言われて窮したことがあった。「よく書けている」などと生意気なことは言えない。日曜日のサントリーで聴くラザレフの『田園』は、王侯貴族の優雅で贅沢な、夏至の日の舞踏会のような音楽だった。広い領地を見渡す素晴らしい庭に、楽し気な提灯が飾られていて、王や貴族たちは自然の景観と美酒とダンスを楽しんでいる…チャイコフスキーより「優れたスコア」というのはまだ腑に落ちないが、弦の美しい旋律がロシア的な憂愁を醸し出しつつも、チャイコフスキーのような悲観へは傾かない。根本にあるものはもっと楽観的なのだ。

サンクトペテルブルクのエレガントな街並みも思い出された。2楽章アンダンテはところどころ、バッハより昔の荘重な宮廷音楽にも聴こえる。3楽章のスケルツォからはユーモアや哄笑も聞き取れた。フィナーレ楽章はそのままバレエの終幕に使えそうだな…と連想する。ラザレフお得意の「一瞬客席を向いての指揮」も健在で、フィナーレの最後でも完全に客席を向いた。会場は大熱狂。

ラザレフは日本フィルのお父さんなのだなぁ…と休憩時間にぼんやり考えていた。父は子供たちに厳しいが、家族と一緒にいる時間が一番嬉しいのだ。人と人とが行うことには相性がある。もしかしたら、ラザレフにとって日フィルといる時間が一番自分らしくいられる時間なのではないか? グラズノフは温かみがあり、貴族的な典雅さとともに、親しさや寛ぎも感じさせた。

ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』(1947年版)は、ラザレフが指揮台に上った瞬間にいきなり始まった。指揮者はこのようにオーケストラに魂を吹き込むのか…「カーニバルの市場」からどんどんアッチェレランドをかけていくが、オケは全パート脱落せずにしっかりとついていく。段染め模様の毛糸が編まれて複雑な模様が浮き彫りになっていくような、面白い質感があった。ラザレフはすべてのソロにキュー出しを怠らず、木管の可愛い音、ピアノとチェレスタの魔法のような音も生き生きとしていた。音楽の若々しさは指揮者の若々しさだ。ラザレフは実際、ムーティより年下なのだが、見た目は年上に見えないこともない。でも、子供の心を持っているのだ。「カーニバルの市場」では振り向き指揮のオンパレードで、お客さんを向いたまま管楽器にキュー出しをし、おならのような一音が鳴るたびに客席からは笑いが巻き起こった。

真剣で面白く、張り詰めていて夢の中にいるような「ペトルーシュカの部屋」だった。どうしてもバレエの場面を思い出してしまう。ペトルーシュカの片恋と、つれない踊り子の追いかけっこ。ペトルーシュカ役のダンサーは顔から床に転んだり、とにかく本気でボロ人形を演じるのだが、その姿はとても滑稽で哀れを誘う。

打楽器は始終重労働を求められるが、パーフェクトな演奏で鬼父さんラザレフに最高の音を捧げていた。トランペットもソロ歌手のように技術と表現力を求められる。トランペットとフルートの掛け合いは、まさに追いかける男と逃げ回る女の即物的暗示だ。目まぐるしく新しいことが起こり、緊張感が途切れないが、音楽はなんとも言えない楽しさに脈動し、マエストロが客席に向かって振り向く回数も前半のグラズノフ以上だった。

こうした奇々怪々とした音楽をストラヴィンスキーが書いたのにも理由があった。バレエ・リュスの委嘱作ということ以上に…行き詰った西洋音楽史の「続き」を書くために、ありとあらゆる蘇生の手段を実験し、「音楽の死」を乗り越えた。

ムーティと春祭オーケストラの直後に聴いたせいか、日本のオーケストラにはこうした、西欧ロシアからやってくる「お父さん」が必要なのだな…と思っていた。つねに一緒にいるわけではない。西洋と東洋は物理的には離れている。最近はリモート指揮も可能になったが…それでも、「いつも一緒にいるわけではない大好きなお父さん」を迎える日本のオーケストラの音には、格別の輝きと歓喜が満ち溢れている。
ロシア音楽の本質がどのようなものか、日本の中だけで考えても延々と答えは出ない。我々がその本質を知らない、という条件にあることは、実は豊かなことなのだ。イタリアオペラの本質を知らない、ロシア音楽の本質を知らない…それがすべての始まりであり、笑顔で「お父さん」を歓迎する我々の文化の誇りである。

ラザレフはこの曲でも客席を向いて音楽を終え、魔法じみたペトルーシュカの最後だった。拍手喝采止まらず、客席もステージもヒートしていた。
奇しくも緊急事態宣言が発令される直前のコンサートとなり、ぎりぎりでマエストロの音楽を聴けたことになる。ひとつの奇跡だったのかも知れない。王のような父、雷親父のような父…春雷のように訪れて帰っていく「お父さんたち」との再会を、待ちわびるばかりである。

                                  Ⓒ山口敦


東京・春・音楽祭 モーツァルト《レクイエム》(4/11)

2021-04-12 10:19:27 | クラシック音楽

『パルジファル』『ラ・ボエーム』などオペラの目玉公演の他、計画されていたコンサートとリサイタルの多くがコロナの影響で中止となった2021年の東京春祭。そんな中で開催された「合唱の芸術シリーズvol.8 モーツァルト《レクイエム》」は逆境の中にあってこそ真価を見せる芸術の力を証明する演奏会だった。

前半のシューベルト『交響曲第4番ハ短調《悲劇的》』から指揮者のただならぬ存在感に瞠目した。この一日のコンサートのために来日を果たしたシュテファン・ショルテスは、1949年生まれのベテランだが、指揮をする後ろ姿は20代の若者のように反骨精神に溢れ、ウィーン世紀末の表現主義の絵画のように歪んでいる。エゴン・シーレのデッサンのようなのだ。シューベルトの4番から、今まで聴いたことのない死の香りが感じられた。1楽章は天国への階段をせわしなく駆け上っていく運動のよう。ぶるぶると大柄な手を揮わせて、細かく拍節をとっている。強弱の付け方も繊細だが、全体としてあの身振りが何を引き出していたのか、客席からは分からなかった。

このタイプの芸術家は、芸術をすることなど何の重苦でもないのだ。ただ生きていることのほうが辛い。苦吟する背中を見て、直観的に思った。枝のような腕は天国へと届きつつあるが、ひとつの楽章が終わるたびに投げやりといっていいほど乱暴な仕草でだらりと放り出される。「この世界では誰もが死刑囚だ」と言っているようだった。それなのに、音楽はひどく天上的なのだ。都響とは2011年に共演している(?)らしいが、マエストロの心の裏側までも読むような読むようなコンマスの矢部達哉さんのリードが流石だった。

シューベルトの「私はこの世のものではないような気がする」という言葉が好きだ。自己愛すれすれのような言葉だが、ピアノの即興曲を聴いていてもシンフォニーを聴いていても、「それは、そうだっただろうな」と思う。肉体がある、というリアリティとは別のところに、もうひとつ自己の本質がある。それが天国なのかどうかは分からないが、この世界でないことは確かなのだ。モーツァルトもそうした感覚を持っていた。

ウィーンという土地がそのような霊気を放っている場所なのだろう。ショルテスは何とウィーン少年合唱団出身なのだそうだ。2008年の来住千保美さんのルポによると、当時支配人のポストについていたエッセン・アールト・ムジークテアターが最優秀オペラ劇場に選ばれ、同年の最優秀指揮者にも選出されている。ベーム、カラヤンの助手を務めていた経歴、「オペラ支配人としてのノウハウ」はゲッツ・フリードリヒから学び(!)、あのベルリン・コーミッシェ・オーパーの面白い『魔笛』を演出したバリー・コスキーを早くから起用していたことなども記されている。指揮をする姿を見て「この人はとんでもないタカ派なのではないか」と思っていた予想は少なからず当たった。

後半のモーツァルト『レクイエム』は、生粋の「劇場の人」であったショルテスの面目躍如たる演奏で、ソリストと合唱の出来栄えも素晴らしかった。前述の来住さんの原稿によると、ショルテスは「オーケストラメンバーの嫌う分奏を徹底して行う」人で「決して好かれるタイプの指揮者ではない」そうだが、都響とのリハーサルはどのようなものだったのだろうか。勝手な思い込みだが、このレクイエムのすべてがショルテスの書いた書物のようで、演奏は指揮者が主役の映画のようだった。あまりに濃い。エゴや音楽の私物化ではなく、このように音楽とつながりあっている人がいることに驚いた。それは一種の「病」のようでもあった。

東京オペラシンガーズは全編にわたって高い水準のパフォーマンスを披露し、特に「ラクリモサ」での霧のような表現力は卓越していた。この状況で、準備も苦労が多かっただろう。合唱指揮は田中祐子さん。カーテンコールではショルテスも大満足の表情だった。ソプラノ天羽明恵さん、メゾ・ソプラノ金子美香さん、テノール西村悟さん、バリトン大西宇宙さんというスター・ソリストが並んだのも豪華なことだった。大西さんのバスの表現は驚異的で、ある種の殺気をもって音楽を引き締める。貴重な質感をもつ数少ない歌手だと改めて認識した。

反抗的な若者の背中を見せたショルテスは、横向きになると背中が曲がっていて、見る位置によって印象が全く違う。色々な意味で「この世的でない」余韻を残していった。2015年の新国の「ばらの騎士」でも色々な逸話があるマエストロらしい。その公演も観ているはずなのだが、個人的にはショルテスを初めて発見したコンサートとなった。心の傷口を思い切り押し広げて塩を塗り付けたような、思い切り好みのレクイエムだった。あまりいい表現ではないかも知れないが、自分もまた「この世のものではない」寄る辺なさをもつ聴き手として、生きるための救いや癒しを音楽に求めている。そうした願いに本質的に応えてくれるのが、このような演奏会なのだ。

都響は上野で聴くと別格の表情を見せる、ということも改めて実感した。近所なので何となくサントリーで聴くことが多かったが…この日も冴えた響きで、世界最高のオーケストラの「格」を聴かせてくれた。


新日本フィル×尾高忠明(4/8) 

2021-04-10 01:20:58 | クラシック音楽

マーラー交響曲第4番の印象が一気に塗り替えられた印象的な演奏会だった。サントリーホール2階RB席はステージ上手に近く、コントラバスの妖艶な音がよく響いてきた。尾高先生のマーラーは一度もハズレだと思ったことはない。いつも心が大きく揺さぶられる。4番は牧歌的で楽園的で「天国へ昇天していくこどもの心」を表徴している、というイメージが覆り、もっと成熟したマーラーの愛の音楽だと思った。親しみやすいどころか、作曲家の内奥の狂おしい熱と渇望感が猛っている、熱い火のような音楽に感じられたのだ。

ちょうど二日前にカーチュン・ウォンが振るマーラー10番のアダージョを聴いていた。精神的にも肉体的にも抜け殻になった晩年近くのマーラーが、いまわの際の叫びと狂おしい生への未練を封じ込めた曲で、ひきつった悲鳴のようでありながら、醜さより美しさが勝ち、これこそが人間のすべてだと思わせる。10番で直截的に描かれる破滅のストーリーは、妻アルマとの出会に端緒を発しているようで、「アルマ以前」からもマーラーの音楽に潜在していた。カーチュンは10番アダージョの前に、番号のない「交響詩 葬送」を演奏し、始まりと終わりは円環になっていたことを伝えてきた。

マラ4は最近都響も大野さんと名演を聴かせたが、新日本フィルも凄味があった。このオーケストラの技術の高さ、コンマスが導く合奏のセンスの良さには格別のものがある。特にここ2年程は、このオケでしか聴けない名匠のすごい芸を立て続けに聴かせてもらった。崔さんは本当に素晴らしいコンサート・マスターだと思う。2楽章では2挺のヴァイオリンを弾き分け、精緻で妖しい音を聴かせてくれた。

3楽章の「やすらぎに満ちて」のアダージョが、ひどく官能的だった。サントリーから帰宅してからバーンスタインやアバド、ハイティンクの演奏も改めて聴いてみたが、尾高さんほどの濃い色気はなかった。この夜の演奏を聴いて初めて感じた感触で、柔らかい手で包み込まれるような安心感もある。チェロの精妙さは筆舌に尽くしがたく、バスとの重なり合いも非常にデリケートなのだ。これはマーラーの心であり、マーラーの愛だ、と思うと、何と魅力的で素敵な男性なのだろうと思った。

芳香を放つバラのように咲き、魔法をかける3楽章は、何かを待っている。音楽の美しさに等しい、別の世界からやってくるもうひとつの美しさを待っているのだ。霊感が完全なものになるために、この世界には自分と等しい別の美があるはずだ…そんな予感に溢れていた。弦の優しさは、マーラーの当てずっぽうな憧れではなく「これこそが私自身の精神だ」と語りかけてくるようで、そこにアルマのような若くて美しい知性ある女性がやってくるのは当然のことだった。イメージは現実化する。美しい音楽は美しい女を引き寄せた。

10番のアダージョで突然の天変地異によって曲がひっくり返る件が、4番にも似た形で出て来る。すぐに心がいっぱいいっぱいになるので、どこかで唐突に「ぶっ壊れる」ことがマーラーの曲のシステムなのだ。

尾高さんは冷静にも見えたが、3楽章ではかなり覆いかぶさっていた箇所もあった。どういうリハーサルだったのか、音楽の中の高貴さ、詩情、崇高美、喜怒哀楽を超えた浄化の表現が卓越していた。オーケストラは音で光を表現できるほぼ唯一の手段だと思う。3楽章の終わりで見える光のめざましさに、言葉を失った。

マーラーの音楽は恐れを知らないほど自由だ。神経質で超過敏な精神が、自分をまったく変えてしまうほどのインパクトを待ち構えて、すべてを押し開いて待っている。危険な美が近づいてきて、予想していなかった毒を放って自分を破滅させても、実はそれこそが待ち望んでいたことなのだ。マーラーにとっては「自分を搔き乱してくれる未知のもの」こそが霊感の源で、霊感の枯れた芸術家ほど可哀想なものはない。自分の小さな心が壊れてもいい、愛を押し広げたとき、どんな破滅が起こるのか知りたい…5番の前の4番のシンフォニーには、そんな期待が詰まっているように聴こえた。

先月の都響のマーラー4番とは、全く違って聴こえたことにも驚いた。新日本フィルのプレイヤーは、正しい意味で芝居がかっていて、表情に富み味付けが濃く、一人ひとりがオペラ歌手のようでもあった。マーラー自身がオペラ指揮者であり、感情面で芝居がかったところのある人だった。そこで、やはり違う新しい物語が見えた。「この先、作曲家は自分の心の美に相応しい者と結びつき、その毒に殺される」その物語の序章としての4番に聴こえた。

4楽章ではソプラノ歌手の砂川涼子さんが、天国へ昇天していく子供の無邪気な心を歌った。子供っぽく歌ってはいけない子供の歌なのだが、砂川さんは「これ以外にはない」と思われる、悲哀と無常観を込めた声で歌われた。華やかさもあるが、何よりも深かった。歌詞の子供への同情と、マーラーへの同情、女性から与えられる小さきものたちへの強い愛が胸に響いた。こうした歌唱は、歌手自身の普段の生き方が出るのだろう。感動的だった。

作曲家の心に美がなければ、現実の美を引き寄せることは出来ない。現実の美は不確実性が高く、時々ひどい毒をもっている。作曲家に沈潜する美とは「才能」だ。才能がなければ苦痛もないが、作品も生まれない。ヴィスコンティが描いた『ヴェニスに死す』の主人公は、芸術家の正しすぎる姿だった。

アルマ・マーラー

 

 

 

 


奇跡のメルヘン 新国『夜鳴きうぐいす/イオランタ』(4/6)

2021-04-08 12:15:47 | クラシック音楽

新国のダブルビルはロシアオペラの『夜鳴きうぐいす』(ストラヴィンスキー)と『イオランタ』(チャイコフスキー)。初日に続く二回目の公演(4/6)を鑑賞した。初日もこんなに凄い舞台だったのだろうか? 新国のステージから溢れ出すパワー、歌手たちの渾身の演技、スタイリッシュな演出、オケピからふんだんに飛び出してくる宝石のようなサウンドに驚いた。ピットでは一体何が起こっていたのか…二つとも、この劇場で聴く初めての音ばかりで、高関健さんと東フィルが醸し出す魔法の響きにただただ陶酔した。

演出・美術・衣裳はアテネ生まれの演出家ヤニス・コッコスによるもので、今回のオール・リモート演出においては、演出家側と日本側の時間帯が合うのが夜だったため、通常とは異なる夜間の時間帯にリハーサルが行われ、演出家のほうでもどんどん新しいアイデアが湧き出すため、毎日変化に富んだハードスケジュールの稽古だったと聞く。『夜鳴きうぐいす』は、歌手がパペットを持って水の中で歌うルバージュ演出が印象深いが、コッコスは新国の最新のテクニカルを縦横無尽に使い、「日本むかし話」を思わせる冒頭の背景から奇想天外なヴィジュアルを次々と見せてくれた。電飾の記号のような鳥、立体的に重ね合わされる波の描写、中国の人々の伝統的で奇抜なファッション、京劇を思わせるバレエダンサーたちの活躍、ディアギレフのような人物…一瞬たりとも目を瞑ってはいられなかった。新国のステージでは、青と黄色と赤がいつも鮮やかなのだ。照明と美術のほか、アレキサンダー・マックィーンの生前のコレクションを思わせる衣裳にもこの3色が印象的に使われ、目を楽しませてくれた。

夜鳴きうぐいすの三宅理恵さんの高音は鮮やかで、歌詞のないヴォカリーズの旋律を耳で追っていると、歌手の中でどのように記憶されている音なのか不思議に思われた。見事なうぐいすだった。ストラヴィンスキーは初期において復調を採用し、シェーンベルクを筆頭とするウィーン前衛派の高踏的なスタイルに反抗していたが、「旋律が命をもつ」ことに深い探求を行っていたのだと改めて思った。

世俗の者たちとは違う、異なる世界からの使者はつねに鳥なのだ。中国の皇帝役の吉川健一さんは、老いたフィリポ二世のように夜鳴きうぐいすを手中に入れて健康と若さを取り戻そうとする。うぐいすは「捉えられない官能性」の表徴であるようにも思えた。サロメは見事な踊りを見せて、ヘロデ王にヨカナーンの首を求めるが、うぐいすは皇帝から何も求めようとせず、飛び立っていく。本当に美しいと思うものを、人は手の中に閉じ込められない。

ストラヴィンスキー・オペラの後半からは演出家のアイデアが爆発し、巨大な「ムンクの叫び」そっくりの人形が空を覆い、「千と千尋…」を彷彿させる人形も舞台をのし歩く。ロシアの不思議物語は、日本と何かが地続きだ。「日本からの使者」も面白い装束で登場する。3人の使者のうち2人の使者がユニゾンで歌う不気味な歌は、モーツァルト『魔笛』の二人の武士が火と水の責め苦について歌う件を思い起こさせた。

演出は最後まで、相当凄かった。日本の新国立劇場で何が出来るか知っており、客席の最後列より奥行きのある舞台(客席より広い舞台)、照明・美術スタッフの完璧さ、夢を形にする執念を信じていた。子供のイマジネーションが大人の力で叶えられているのだから、起爆力がある。これは子供にも見て欲しいオペラだが、リアルなお化けたちの姿は本当に恐ろしく、夢に出てきそうで怖すぎるかも知れない。漁師役の伊藤達人さん、死神の山下牧子さん、一目で志村さんだと分かった(!)僧侶役の志村文彦さんも好演だった。

東フィルはプレトニョフとの数々の共演で鍛えられてきたのか、ストラヴィンスキーの描く世界観をよく表し、オケの底力を感じた。高関さんの指揮にも、迷いがなかった。後半のチャイコフスキーでは、圧縮されたピアニシモというのか、真剣で演劇的な弦の合奏が、最小の音に閉じ込められるような表現があり、なんという音なのだろうかと驚かされた。チャイコフスキーの本質を感じた。

『イオランタ』は演出的には前半のストラヴィンスキーよりも静的だが、音楽の深さをより伝えてきた。イオランタ役の大隅智佳子さんは、盲目の役なのに急な階段を降りて来る場面が多く、歌唱も見事だが演劇的な集中力も素晴らしい。METライブビューイングで見たネトレプコもそうだったが、イオランタ役には歌手をのめり込ませる何かがあるのかも知れない。大隅さんのロシア語の歌唱は圧倒的で、ロシアの魂の強さがあった。目が見えないイオランタを愛し、光に導くヴォデモン伯爵を演じた内山信吾さんは、苛酷なパートを粘り強く歌い、ヴェリズモ的な強靭さを求めるチャイコフスキーの旋律を見事に歌い切った。チャイコフスキーが内山さんを応援しているのだ…と思う箇所が何度かあり、胸が熱くなった。

『イオランタ』はメルヘンの体裁をとった、脱メルヘンの話である。装置も、盲目のイオランタがいる「小さな世界」がどれほど限定された世界であるかを、電飾の枠線で強調する。見事なルネ王を演じた妻屋秀和さんは、娘の目のためなら命を奪われてもいい、と圧巻の独唱を聴かせた後、外部からの侵入者に対しては血も涙もない罵倒をする。「内側を守りたい者が、外側に対して行ういびつさ」を、チャイコフスキーは容赦なく表す。メルヘンは「外の思考」と溶け合わなければならない。

チャイコフスキーがイオランタに向ける同情は音楽のすべてに満ち満ちていて、冒頭の女性たちのやりとりなどは『エフゲニー・オネーギン』も思わせたが…愛情が強すぎると思った。チャイコフスキーの最大の不幸は、書きかけの『エフゲニー・オネーギン』のタチヤーナを愛しすぎて、才能のない歌手の卵の女性からのラブレターに同情して結婚してしまったことだった。愛と憐憫の区別がつかない。鳥が飼い主を愛して、自分を人間だと思ってしまうように、相手と自分の区別がつかなくなる。
そういう宿命を背負った魂からしか、生まれえない芸術の美がある。高関さんと東フィルの音楽は、悲愴よりもオネーギンよりも「イオランタ」に作曲家の本質が閉じ込められていると感じさせた。

苛酷な目の手術に耐えたイオランタが最後、生まれて初めての光を見るシーンでは、ピットに存在しないはずのオルガンの音が聴こえるようだった。ロシア正教ふうのエンディングは、チャイコフスキーが望んでいたものなのか、当時のロシア政府からの要請なのかは分からないが、力強く崇高だった。愛することになりふり構わぬ人間の姿に感動し、ロシアの魂は途轍もない重力と引き換えに、空へ昇天していくものだな…と思った。これはフランス人にもイタリア人にも真似が出来ない。ロシア人が書いた音楽なのだった。

新国で観たオペラの中でも、ベストの感動作だった。一瞬たりとも瞬きできない莫大な熱量の上演で、できればもう一度見たい。公演はあと二回。8日と11日。

(『夜鳴きうぐいす』ヤニス・コッコスの舞台スケッチ HPより)

 

 

 


都響×下野竜也(3/25) 無と創造の間

2021-04-02 08:37:29 | クラシック音楽

18時の開演に遅刻し、一曲目ドビュッシー『交響組曲《春》』はモニターで鑑賞。そろそろ桜の季節というのに、上野の東京文化会館の敷地内はほぼ人影がなく、静まり返った建物の中に入ると何人かのお客さんがモニターの前に集まっている。3/25はドビュッシーの命日でもあったが、隠れた名曲を壁越しに聴いた。ピアノ連弾はモニターではあまり聴こえず(残念)、管弦楽のホールトーンスケールの陽光のような響きが次々と空間に放たれていく様子が聴こえた。おかしな譬えだが、ドビュッシーの音楽には、露天風呂に裸で飛び込んでいくような解放感を感じることがある。この2楽章からなる『春』という曲も、窮屈な衣服を脱いで自然の官能性と一体化するような、ヌーディズム的な反骨精神を感じさせた。

下野さんには恩がある。初めてインタビューした指揮者で、読響の正指揮者から首席客演指揮者に代わるときに取材させていただき、ドヴォルザークの魅力について、「マーラー派とブルックナー派がいるとしたら、僕はブルックナー派」というようなことを語ってくださった。業界の楽しい裏話などできず、音楽の話しか出来ないつまらないライターにも、親切に詳しく対応していただいた。そのときのやりとりは詳しく覚えている。「ブルックナーは肉を食べているとき、油のついた手で他人に握手を求めるような人だった」野性的というのか、行儀がよくないというのか、人から好かれる術を知らないというのか…指揮者が語るブルックナーの印象はとても興味深かった。

ホールの中で聴いたプログラム2曲目が、スクロヴァチェフスキ編曲のブルックナー『アダージョ(弦楽五重奏曲ヘ長調WABより第3楽章』だったので、「僕はブルックナー派」という指揮者の言葉が思い出された。優しくて平和で、朝のように無垢な音楽で、コンサート・マスターの矢部さんの美音がダイヤモンドのように輝いた。

東京文化会館のアコースティックが、素晴らしかった。この日は、別の催しに行かれた評論家の方が多かったのか、二階席も一階席も空席が多く、そのぶん音が澄み切って聴こえた。音楽家と指揮者のやりたいことが率直に伝わってくる音響で、ブルックナーのパルジファルのような無辜の精神、修道士のような信仰心の中で夢見られた天国が、音の絵のように見えた。

後半のブラームスの『交響曲第1番 ハ短調』は荘重で厳密なはじまり方だった。こういう音楽の始まりを任されている仕事なのだから、指揮者という仕事には簡単に手を出すべきではない…と直観的に思った。プロは地獄の道を歩いている。下野さんの振った数々の難しい現代オペラ、現代音楽のことも思い出された。

交響曲の第1番とは、そもそも作曲家にとってどういうものなのか、考えさせられた。ブラームスの1番はなぜこんな不安を掻き立てる不穏な始まり方なのか。冒頭部分だけで何百回もアイデアを反古にし、五線譜を丸め、しつこく書き直した痕跡を感じる。交響曲1番とは、「自分はこのような気持ちで生まれた」という確認であり、ゼロから「在ること」への跳躍で、安易な楽観を許さない。ワーグナーはハ長調の交響曲を19歳のとき書いたあと交響曲を書かなかったし、リストは表題付きの交響詩は書いたが番号付きの「交響曲第1番」は書かなかった。ラフマニノフは1番の初演が失敗してノイローゼになった。最初の交響曲にはそうした意味合いがあり、特にロマン派以降は、単に若い頃に書いた最初の曲、ということとは別の重さがある。マーラー巨人の冒頭の不吉さなども思い出した。

同時に、2021年春に聴いた読響ヤマカズの魔法のような3つのブログラムのことも思い出していた。すべての曲が奇跡のように成功していた歴史に残る連続コンサートで、山田和樹さんがなぜ欧州であんなにも求められているのかが改めて理解できた。山田さんの指揮はヨーロッパが蓄積してきた文化の「重さ」の受け身をとっている、驚異的で奇跡的な発見だと思う。イデアや神、「在る」ことからの囚われといったものから、自由な場所で、価値を作っている。中心だと思われていたものが中心には存在せず、中心にあるのは空隙だ、という新しい正統派のアプローチがある。

下野さんの指揮はそれと全く対蹠的なやり方に思われた。独音楽のど真ん中に切り込み、固定された価値の実体に突き進んでいくブラームスで、切っ先鋭く、すべてが正確で、古典的な正統派の闘いであった。山田さんも下野さんも天才なのだ。音楽の現場に生きていない、板に乗っていない素人耳にはどうしてこういう音楽が創造できるのか神秘的というよりほかない。二人の指揮は全く違っていて、それぞれが驚異的で果てしない。

ブラ1の荘重さが、作曲家の苦痛と難産の切なさを伝えてきた。ブラームスの理想主義、たった一人の女性とその娘しか愛することの出来なかった我儘、頑固さと狭量さ、膨大な過去の歴史とともに生きたいという貪欲さの結晶が、この交響曲であると思った。
ブラームスの交響曲が魂の逆境の表現なのだ。生まれたかも知れないし、生まれなかったかも知れない…そんな際どいスリルも孕んでいる。創造する人が自殺や鬱に飲み込まれてしまう理由がわかる。

都響のレスポンスは徹頭徹尾冴えていて、指揮者の無意識までを読み込む緻密で卓越した音楽だった。アテネの哲学堂での対話のような3楽章からフィナーレに移行したとき、指揮者が「ここだ」と言わんばかりに、劇的かつ弁証法的な解決を行った。ゼロから創造への橋渡しが終了し、3楽章まではシリアスで神妙な表現だったのが、フィナーレで別の事柄が爆発した。2021年の「今」と「未来」が一気に訪れたような人類の混乱と苦痛、その後に来る祝祭が、指揮者の采配によって表されたのだ。この4楽章の間、ずっと呆然としていた。指揮者はこのように交響曲に魂を吹き込むことが出来る。地獄から天国への転換を見せられた心地がした。2020年の始めに、グバイドゥーリナの『ペスト流行時の酒宴』という曲を読響と演奏した下野さんの、都響との預言的なブラームスだった。

ゼロから1を築こうとしたら、何事も苦しい。子供は大人の真似をして育つ。それでは嫌だ、というところから何か創造は始まる予感がある。先に何も見えないが、批評をしたい自分にとって、東京文化会館の2階席で聴いたこの演奏会は貴重なものだった。