110名のダンサーが来日したパリ・オペラ座バレエ団『ジゼル』の初日(2/27)を観る。ジゼルはドロテ・ジルベール、アルブレヒトはマチュー・ガニオ、ヒラリオンはオドリック・ベザール、ミルタはオニール八菜。ピットにはベンジャミン・シュワルツ指揮・東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。幕が開いた瞬間、アレクサンドル・ブノワの伝説的な装置に圧倒された。樹木に埋め尽くされた田園風景は写実的であると同時に舞台の魔力を感じさせるもので、パリ・オペラ座のダンサーたちの優美なダンスを引き立てた。拍手で迎えられたジゼル役のドロテ・ジルベールにはおだやかな威厳が漂う。平均年齢25歳のオペラ座ダンサーの中ではベテランになってしまったが、一度に引退してしまった感のある一世代上のエトワールたちに負けないカリスマ性があり、私生活の充実(一女の母)もあり、今がまさに満開の花盛りという雰囲気だ。1幕からジゼルの悲劇性を細やかな仕草で表現し、恋に夢中な乙女のお茶目さも見せてくれた。
アルブレヒト役のマチュー・ガニオは、ガラ公演などで来日はしていたものの、前回のオペラ座の来日公演は怪我で降板していたため、この日の舞台は多くの観客から待ち望まれていた。20歳でエトワールとなり、22歳でアルブレヒトを踊り、この3月で36歳(1984年生まれ)となるが、初めてガニオを観た日の感動が再び蘇った。どこから観ても絵のように美しく、完璧な姿をしている。エトワールになるのは早かったが、怪我も多く、過去にはスランプと感じさせる演技も観てきた。正直すぎて不器用な性格が、時折自信のなさとして踊りにも出ていたが、この日のアルブレヒトはその謙虚な性格がすべてプラスの方向に成就していた。最も感動したのは着地の優雅さで、長身のダンサーがあそこまで厳密にコントロールするのは大変なことだろう。ジゼルを奪おうとするヒラリオンを凝視する瞳は、それまでとは別人のもののようで、前方席で見たため迫力に驚いた。ガニオにとって舞台こそが生きる場所なのだ。
コールド・バレエの美しさは天上的で、構成もかなり凝っている。パリオペラ座のこの改定版の初演は1998年だが、ロマンティック・バレエの「古式ゆかしき」風味を保ちつつ、現代的に技術のレベルを上げたと思われる箇所もあり、スポットライトが当たらない群舞シーンのラストにリフトが加わるなど粋な「匠の技」が盛り込まれていた。衣装デザインもブノワによるものだが、動きとともに芥子の花のようにひらめくコスチュームは夢のような美しさで、一流の素材を使っていることが伺えた。美術、衣装、照明…しかし、なんといってもすぐそこにいるダンサーの存在が有難かった。人が花のようであり、城のようであった。踊り手の脈拍の鼓動が伝わってきて、同じ空間にいることが幸福に感じられた。
一瞬で狂気に見舞われるジゼルの乱舞と死は、いかにもバレエ的だ。熟練したドロテのジゼルは矛盾なくその物語的な飛躍を表現した。「ラ・シルフィード」にも通じるロマンティック・バレエの文体は独特で、小説の論理性から解き放たれた夢のロジックから構成されている。プログラムには、バレエ台本作家のテオフィル・ゴーティエについての資料的な寄稿(クレマン・デシー氏による)があり大変詳しいが、これを読み『ジゼル』は御伽噺のようでいて、厳密なバレエ文体によって書かれた記念碑的アートだと実感した。アダンの音楽もまた、改定を繰り返して完成したものだが、チャイコフスキーに比べて凡庸な印象のあったオーケストレーションが、この公演では埃を吹き払った新鮮なものに聴こえたのだ。心理的にも舞踊的にも、本当によく書かれている。指揮のベンジャミン・シュワルツは米国出身で、サンフランシスコ交響楽団の常任指揮者も務めた人だが、ガルニエでもピットに入っているのだろうか? 贅沢な音楽だった。
2幕では、ミルタを踊ったオニール八菜さんが会場に深い静寂をもたらした。古典的なバレリーナの美しいシルエットで肩のラインも素晴らしく、「結婚前に亡くなってしまった乙女たちの霊」であるウィリを率いて無表情で踊る様子は、謹厳な修道院長のようだった。まったく体重を感じさせないポワントは妖精そのもので、ダンサーの日頃からのストイックな鍛錬と精神性の高さを思った。観客がミルタに視線を集中している時間は長く、オペラで言う長大なアリアを歌っている状態なのだが、全く緊張が途切れない。『ジゼル』では5公演ともオニール八菜さんがミルタを踊る。この役の「至芸」を観ることが出来る観客は幸福だ。
亡霊となったジゼルの、すべての表情を消した内観のみの演技は改めて素晴らしい。森に迷い込んだ男を「死ぬまで踊らせる」ウィリたちの怨念と、無表情なまま深い愛をアルブレヒトに注ぎ生者の世界へ送り返すジゼルのコントラストは、「白いバレエ」の世界でしか描けない。「そこにいるのに、いない」ジゼルと虚しい踊りを踊るアルブレヒトも見事だった。ダンサーは生まれながらの心を隠すことなど出来るのだろうか? マチュー・ガニオの優しさは、人間としての底なしの寛大さを表現する。現実では、バリアがなさすぎて生きるのがつらいダンサーかも知れない。
パリ・オペラ座バレエの初日は万雷の拍手とスタンディングオベーションによって幕を開けたが、新型コロナウィルスの影響で多くの公演が中止となる中での招聘元の英断だった。NBSは先日の「アリーナ・コジョカル・ドリーム・プロジェクト2020」でも、座長のコジョカルの怪我による出演者・演目の変更という逆境を乗り切っている。世界中から急遽スター・ダンサーを招聘し、主役のコジョカルの出演がわずかとなる中で公演を成功させる手腕は、プロの招聘元のものだった。現在の壊滅的な自粛ムードは、2011年の震災後の相次ぐオペラの出演者キャンセルを彷彿させるが、今回はウイルスという目に見えないもの・正確に実体が掴めないものが原因であり、影響力の規模も世界的だ。人間は過去から学ぶ。2011年、日本のクラシック・オペラ・バレエの招聘公演は絶滅するのではないかと思われたとき、民間の招聘企業は逆境の中で多くのことを成し遂げた。
どんなことも、相手がいて成立する。110名のダンサーを踊らせる決断をした芸術監督のオレリー・デュポン、パリ・オペラ座総裁のステファン・リスナーにも敬意を表する。現段階ではナイーヴな議論になることは承知だが、この来日公演が正しかったことは歴史が証明すると確信している。逆境にあるとき人間が頼るべきは、自らの誇りと直観である。
政府のガイドラインのもと中止となった多くの公演を非難する意見では勿論ない。パリ・オペラ座バレエ団来日公演にあたっては、感染予防についての細かな項目が書かれたプリントが配布され、入り口では赤外線サーモグラフィーが設置されていた。ホールの換気にも配慮がなされ、普段より空気は清澄に感じられた。