小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

パリ・オペラ座バレエ団『ジゼル』(2/27)

2020-02-28 10:26:41 | バレエ

110名のダンサーが来日したパリ・オペラ座バレエ団『ジゼル』の初日(2/27)を観る。ジゼルはドロテ・ジルベール、アルブレヒトはマチュー・ガニオ、ヒラリオンはオドリック・ベザール、ミルタはオニール八菜。ピットにはベンジャミン・シュワルツ指揮・東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。幕が開いた瞬間、アレクサンドル・ブノワの伝説的な装置に圧倒された。樹木に埋め尽くされた田園風景は写実的であると同時に舞台の魔力を感じさせるもので、パリ・オペラ座のダンサーたちの優美なダンスを引き立てた。拍手で迎えられたジゼル役のドロテ・ジルベールにはおだやかな威厳が漂う。平均年齢25歳のオペラ座ダンサーの中ではベテランになってしまったが、一度に引退してしまった感のある一世代上のエトワールたちに負けないカリスマ性があり、私生活の充実(一女の母)もあり、今がまさに満開の花盛りという雰囲気だ。1幕からジゼルの悲劇性を細やかな仕草で表現し、恋に夢中な乙女のお茶目さも見せてくれた。

 アルブレヒト役のマチュー・ガニオは、ガラ公演などで来日はしていたものの、前回のオペラ座の来日公演は怪我で降板していたため、この日の舞台は多くの観客から待ち望まれていた。20歳でエトワールとなり、22歳でアルブレヒトを踊り、この3月で36歳(1984年生まれ)となるが、初めてガニオを観た日の感動が再び蘇った。どこから観ても絵のように美しく、完璧な姿をしている。エトワールになるのは早かったが、怪我も多く、過去にはスランプと感じさせる演技も観てきた。正直すぎて不器用な性格が、時折自信のなさとして踊りにも出ていたが、この日のアルブレヒトはその謙虚な性格がすべてプラスの方向に成就していた。最も感動したのは着地の優雅さで、長身のダンサーがあそこまで厳密にコントロールするのは大変なことだろう。ジゼルを奪おうとするヒラリオンを凝視する瞳は、それまでとは別人のもののようで、前方席で見たため迫力に驚いた。ガニオにとって舞台こそが生きる場所なのだ。

コールド・バレエの美しさは天上的で、構成もかなり凝っている。パリオペラ座のこの改定版の初演は1998年だが、ロマンティック・バレエの「古式ゆかしき」風味を保ちつつ、現代的に技術のレベルを上げたと思われる箇所もあり、スポットライトが当たらない群舞シーンのラストにリフトが加わるなど粋な「匠の技」が盛り込まれていた。衣装デザインもブノワによるものだが、動きとともに芥子の花のようにひらめくコスチュームは夢のような美しさで、一流の素材を使っていることが伺えた。美術、衣装、照明…しかし、なんといってもすぐそこにいるダンサーの存在が有難かった。人が花のようであり、城のようであった。踊り手の脈拍の鼓動が伝わってきて、同じ空間にいることが幸福に感じられた。

一瞬で狂気に見舞われるジゼルの乱舞と死は、いかにもバレエ的だ。熟練したドロテのジゼルは矛盾なくその物語的な飛躍を表現した。「ラ・シルフィード」にも通じるロマンティック・バレエの文体は独特で、小説の論理性から解き放たれた夢のロジックから構成されている。プログラムには、バレエ台本作家のテオフィル・ゴーティエについての資料的な寄稿(クレマン・デシー氏による)があり大変詳しいが、これを読み『ジゼル』は御伽噺のようでいて、厳密なバレエ文体によって書かれた記念碑的アートだと実感した。アダンの音楽もまた、改定を繰り返して完成したものだが、チャイコフスキーに比べて凡庸な印象のあったオーケストレーションが、この公演では埃を吹き払った新鮮なものに聴こえたのだ。心理的にも舞踊的にも、本当によく書かれている。指揮のベンジャミン・シュワルツは米国出身で、サンフランシスコ交響楽団の常任指揮者も務めた人だが、ガルニエでもピットに入っているのだろうか? 贅沢な音楽だった。

2幕では、ミルタを踊ったオニール八菜さんが会場に深い静寂をもたらした。古典的なバレリーナの美しいシルエットで肩のラインも素晴らしく、「結婚前に亡くなってしまった乙女たちの霊」であるウィリを率いて無表情で踊る様子は、謹厳な修道院長のようだった。まったく体重を感じさせないポワントは妖精そのもので、ダンサーの日頃からのストイックな鍛錬と精神性の高さを思った。観客がミルタに視線を集中している時間は長く、オペラで言う長大なアリアを歌っている状態なのだが、全く緊張が途切れない。『ジゼル』では5公演ともオニール八菜さんがミルタを踊る。この役の「至芸」を観ることが出来る観客は幸福だ。

亡霊となったジゼルの、すべての表情を消した内観のみの演技は改めて素晴らしい。森に迷い込んだ男を「死ぬまで踊らせる」ウィリたちの怨念と、無表情なまま深い愛をアルブレヒトに注ぎ生者の世界へ送り返すジゼルのコントラストは、「白いバレエ」の世界でしか描けない。「そこにいるのに、いない」ジゼルと虚しい踊りを踊るアルブレヒトも見事だった。ダンサーは生まれながらの心を隠すことなど出来るのだろうか? マチュー・ガニオの優しさは、人間としての底なしの寛大さを表現する。現実では、バリアがなさすぎて生きるのがつらいダンサーかも知れない。

パリ・オペラ座バレエの初日は万雷の拍手とスタンディングオベーションによって幕を開けたが、新型コロナウィルスの影響で多くの公演が中止となる中での招聘元の英断だった。NBSは先日の「アリーナ・コジョカル・ドリーム・プロジェクト2020」でも、座長のコジョカルの怪我による出演者・演目の変更という逆境を乗り切っている。世界中から急遽スター・ダンサーを招聘し、主役のコジョカルの出演がわずかとなる中で公演を成功させる手腕は、プロの招聘元のものだった。現在の壊滅的な自粛ムードは、2011年の震災後の相次ぐオペラの出演者キャンセルを彷彿させるが、今回はウイルスという目に見えないもの・正確に実体が掴めないものが原因であり、影響力の規模も世界的だ。人間は過去から学ぶ。2011年、日本のクラシック・オペラ・バレエの招聘公演は絶滅するのではないかと思われたとき、民間の招聘企業は逆境の中で多くのことを成し遂げた。

 どんなことも、相手がいて成立する。110名のダンサーを踊らせる決断をした芸術監督のオレリー・デュポン、パリ・オペラ座総裁のステファン・リスナーにも敬意を表する。現段階ではナイーヴな議論になることは承知だが、この来日公演が正しかったことは歴史が証明すると確信している。逆境にあるとき人間が頼るべきは、自らの誇りと直観である。

政府のガイドラインのもと中止となった多くの公演を非難する意見では勿論ない。パリ・オペラ座バレエ団来日公演にあたっては、感染予防についての細かな項目が書かれたプリントが配布され、入り口では赤外線サーモグラフィーが設置されていた。ホールの換気にも配慮がなされ、普段より空気は清澄に感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 


闘うオペラ 東京二期会『椿姫』(新制作)

2020-02-21 00:32:49 | オペラ

二期会の『椿姫』の初日(2/19)を東京文化会館で観る。指揮は世界中の一流オペラハウスに次々と登場している若き鬼才ジャコモ・サグリパンティ、新制作の演出は宝塚歌劇団で活躍する演出家・原田諒さん。ヴィオレッタ大村博美さん、アルフレード城宏憲さん、ジェルモン今井俊輔さん。オーケストラは都響。

最も強く印象に残ったのは、指揮者がこの作品で見せたトータルな世界観だった。歌手もオケも合唱もすべて指揮者の緻密な設計図の中に納まっていて、矛盾したところが全くない。圧政的…というのとも違う。古いようで新しい、21世紀の指揮者が現れたのだと思った。

第1幕への前奏曲から、都響の弦が際立った音を出した。まさに散りゆく花、崩れた花芯と壊れた花びらを思わせる、弱弱しく哀れっぽい詩的な音だった。これから繰り広げられるヒロインの悲劇にこれほど相応しい序奏はない。ほつれた感じのヴァイオリンの響きが「過ぎ去りし昔むかしの物語」を語っているようで、移ろいゆく音の面影が走馬灯のように巡り、古びた鏡台に置かれた白粉の香りを薫らせた。
そこから一気に、ヴィオレッタのサロンの喧騒がはじまる。木管が、わざと垢抜けない音で舞踏会に集まった人々のドタドタした雰囲気を醸し出す。音量は大きく、指揮者の指示でてきぱきとテンポを切り替え、勢いよく合唱とソロを乗せていく。チェロの室内楽的な音も、大正ロマン的な(?)レトロムードに満ちていて、この場で起こっていることがすべて「モダンではない」時代遅れなことであると音楽が暗示しているようであった。

 ヴィオレッタ大村博美さんはおおらかな美声で、前田文子さんデザインの白い贅沢なドレスがよく似合っている。ヘアメイクも絵や写真で見る19世紀のクルティザンヌそっくり。1幕でヴィオレッタが歌う歌は針の筵だ。「花から花へ」を歌い切ったところでアレルギーで卒倒してしまう歌手もいるし、歌唱崩壊を恐れて危険なパッセージを安全運転に変えて歌う歌手もいる。大村さんは書かれた音符に敬意を表し、ひとつともこぼさずに勇敢に歌われていた。
アルフレード役の城さんは、ゲネプロから珍しく抑え気味の歌唱だったが、本番では恋する青年貴族のうぶな心を清らかに歌った。サグリパンティは『椿姫』をヴェルディの中でも「ベルカント的」と位置付けているので、それに応えようとすると、感情過多な声や勢いだけの声は出せなくなる。今回のアルフレードは、まるでモーツァルトの延長線上にあるかのような贅肉のない歌唱で、外連味が全く感じられないストイックで透明な声だった。

『椿姫』はどの様式で演奏されるべきか、という選択は指揮者の采配に任せられているのだろう。哲学者のミシェル・セールは『椿姫』を「ヴェリズモ第一作」と名付けていた。サグリパンティは、40代のヴェルディ作品をヴェリズモ的な劇的表現から遥か彼方に置き、ベッリーニと並列させる。彼がトークで語っていた「ジェルモンが歌うバナルな旋律は、当時の古い社会を象徴している」という指摘は面白かった。オケはこのバナルな~垢抜けない凡庸な音をわざと出し、乾いた音や錆びた音、バラエティに富んだアンティークな音を出す。しかしなぜか全体としてその響きはとても新鮮で、斬新でさえあった。

一幕では、オケの音ひとつひとつにサグリパンティの強力なポリシーが埋め込まれていて、正直オケばかり聞いてしまいそうになった。歌手の声量よりオケが大きく聴こえて「煩く」感じられた瞬間もあった。それも含め、指揮者にとっては恐らく計算済みのことなのだ。「オペラのすべてを、自分の理念で動かし完成させる」という、巨匠的な理想を彼は持っている。それを過激なまでに突出させることで、出世街道を驀進しているのだ。

オケが歌手の伴奏ではなく、強い主張を持ったもうひとつの独立した生き物になってしまったとき、歌手は歌手で自分の身を守らなければならなくなるのではないだろうか。調和しているというより、それぞれが闘っていた。大村さんも城さんも、大切な自分の声を守りながら闘っていたし、ジェルモンの今井さんは侍のように闘っていた。今井さんはゲネプロのときから堂々とした美声だったが、本番ではさらにパワーを増し、あの雷神のような圧倒的な声に完全に会場は魅了された。私も心の中で「ジェルモンは、サグリパンティに勝利した(!)」と拍手してしまったほどだ。指揮者が「垢抜けないつまらない歌」と語った「プロヴァンスの海と陸」は、このオペラのハイライトといっていい出来栄えだったのである。

 サグリパンティのような強靭なイデアリストは久々に現れたような気がする。若いオペラ指揮者は皆才気にあふれているが、この人は驚くほど透徹した知性の持ち主で、同時にかなり変わっている。イタリア伝統主義者を自称しつつ、やり方が際立ってアグレッシヴでバンキッシュなのだ。スコアから様式を厳密にあぶり出し、自分にとってのプロトタイプを創る。そこには演劇性もすべて含まれていて、演出家の出番はほとんどないほどだ。

原田諒さんの演出は、ローマ歌劇場の来日公演でも上演されたソフィア・コッポラ演出の『椿姫』を彷彿させた。オーソドックスで衣裳が美しく(コッポラ版の衣装はヴァレンティノ・ガラヴァーニだった)、全体的に古めかしい優美さが勝っている。理念が強い指揮者にとって、あまり物語をいじらない演出家は都合がいい。
 その点でベストなマッチングのプロダクションではあったが、棒立ち正面向きで歌うジェルモンの退屈な演技は我慢できるとして、2幕2場から天井につけられた丸い鏡は、なくてもよかった。45度の傾斜をつけられた鏡は床のさまざまな様子を万華鏡のように映し出すが…オリジナルは92年にデザインされたチェコの作家Josef Svobodaのアイデアで、著作権が切れたのか最近では「椿姫」といえば判で押したように鏡が登場する。
宮本亞門演出から新しくなったのだから、新演出はもっと「闘う演出」であってもよかった。アイデアが新しすぎたとしても、再演のたびに新鮮な表情を見せる演出というものもある。初演がピークで、再演の段階で既に古びた感じになってしまうタイプの演出にならないよう、鏡は使わないで欲しかったのだ。

 メインキャストの歌手の高潔な「闘い」と、指揮者の完全装備に応えた都響の実力にはオペラの明るい未来が見えた。都響とサグリパンティは、仲良しムードではなかったと思うが、新鮮で意義深い共演をしたと思うし、他のヴェルディ作品やプッチーニ作品でも共演してほしい。ルスティオーニとは別のケミカルが生まれると確信する。指揮者とオケのマッチングに関しては、二期会のやることは毎回外れがないのにも驚いた。22.23日にも公演が行われる。




METライブビューイング『蝶々夫人』

2020-02-13 16:23:23 | オペラ

METライブビューイング『蝶々夫人』を東劇で鑑賞。もう上映が終わってしまうが、アンソニー・ミンゲラ演出の2006年のプロダクションをMETが上演し続けてくれることが改めて有難いと思った。蝶々さんを、日中友好記念オペラ『アイーダ』にも出演したホイ・ヘー、ドミンゴが降板したシャープレスをショスタコーヴィチ『鼻』などで活躍したパウロ・ジョットが歌い、ピンカートンも直前の交代劇でロール・デビューとなるブルース・スレッジが演じた。

「蝶々夫人」はあらゆる意味で「誤解」のオペラだ。作品の価値も演出も膨大な誤解に見舞われて、今でもまだ正当な価値を認められていない。初演からして盛大な野次が飛び、失敗作の烙印を押された。あらゆるオペラの中で好きなものを3つ挙げるとしたら、迷わずトスカ、ボエーム、蝶々さんの3つを選ぶが、スコアの重厚さにおいてトスカに勝るものはないと思いつつ、ライトモティーフの使い方はボエームと蝶々さんこそが超越的だと確信する。蝶々さんには小さくて可愛らしいメロディがいくつも登場するが、それがいつしか大海原のような巨大な音楽に発展する。

 このオペラでは、初演当時(ライブビューイング開始からまもなくして上演された)から文楽の人形が蝶々さんの息子を演じることが話題だったが、人形たちはスズキ登場のシーンから顔を出していて、料理人やその他の使用人たちも人形が演じている。間奏曲では人形のバタフライがバレエダンサーのピンカートンと二人で踊る。
スズキの着物はピンクと黄緑のバーコード模様で、帯も着物と同じ柄という「まちがった」姿。仲人のゴローも雛人形の五人囃子のような衣裳で、着物というものを「西洋人が観た東洋人」の誤解のシンボルとして使っている。日本人の演出家は、鬼の首をとったかのようにスズキに作務衣を着せたりするが、映画監督のミンゲラが衣装を厳密に扱わないわけがない。スズキは後半で振袖のようなデザインの着物を着て出てくる。すべては意図的なのだ。

 ゴローもスズキも神官も西洋人なので、東洋系のホイ・ヘーが孤独な蝶々さんを演じることはヴィジュアル的にも意味があった。底力のある強い声が魅力的な歌手だが、大村博美さんや中嶋彰子さんのバタフライを知っていると演劇的に物足りないと思ってしまう個所もある。それでも、スタミナが要求される過酷な役を果敢に歌い、特に息子役の人形が登場してからの歌には熱がこもっていた。

ピンカートンのスレッジは終始緊張していたが、演技は真剣でピッチもよく、最後まで立派だった。ピンカートンをマフィアのボスみたいに描く演出家もいるが、本当は生真面目な凡人なのだ。人間として経験が足りていない。このオペラを好きになりはじめた頃、蝶々さんが長崎の丘を上って登場する旋律が何よりお気に入りだったが、「あれでもない、これでもない、これよ!」と転調を繰り返すメロディは、その前のピンカートンとシャープレスのやり取りでも相似形が描かれている。「この初めての感情が自分でもよくわからないのだ」という若者の狼狽をプッチーニは調整の定まらない旋律で表現するのだが、それは粋がった風来坊のものでも女たらしのものでもなく、うぶな未熟者の歌なのだ。

 心優しいシャープレスや献身的なスズキ、好色なヤマドリや抜け目ないゴローを含め、『蝶々夫人』には悪役が一人もいない。なのになぜ世界で一番悲惨なオペラなのかというと、それはやはり「誤解」のオペラだからだ。ミンゲラはそれを人形で表現する。「人形のように可愛い…!」と蝶々さんを抱きしめたピンカートンに対して「人形に、心がないとでもお思いか」と問い詰め、日本の文楽のアートをそこに置く。幕間インタビューでは子役の人形を操る3人の人形師が登場し、中腰で操るため腰がやられるのか、休憩ギリギリまでストレッチをしていた。

 初演当時の稽古の映像が見られたのも有難かった。亡くなったマルチェッロ・ジョルダーニがピンカートンを演じている。ミンゲラはこの2年後に54歳で亡くなったが、映像で見ると若々しい情熱に溢れていて、まだまだオペラを作りたかったはずだと思わずにはいられない。アカデミー賞を受賞した『イングリッシュ・ペイシェント』では、戦地で兵士の誰かが一瞬「冷たい手を…」のひとふしを歌う場面がある。戦火とプッチーニは不思議なミスマッチだった。

 指揮のピエール・ジョルジョ・モランディは急遽変更となった歌手を気遣うような指揮で、音楽そのものを牽引していく感じではなく、3幕のスズキ、シャープレス、ピンカートンの三重唱もあっさりとしていて、あまり理念は感じられなかった。管もMETとは思えないような音を時々出していた。このオペラの主役はあくまで演出なのだ。ホイ・ヘーが感情を爆発させるラストでは、彼女が音楽を作り上げていた。「蝶々夫人」の漢字が背景に描かれるラストまで、感動的だった。

 西洋と東洋の溝、人形に心がないという誤解、などと色々挙げてはみるが、一幕のあの巨大な愛の二重唱では、ピンカートンが蝶々さんを人形だなどと思っていたとは信じがたい。紛れもない愛の賛歌で、宇宙的な規模のデュエットだ。このオペラにはいくつもの神秘が隠されている。後から登場するケイトが、善良そうで退屈な女性であることも含め、ミンゲラは「男は本物の愛の瞬間を忘れようとする習性がある」ということを伝えているようだ。これまでの短い人生の中で、いくつもの無念を抱えてきた15歳の女性にとって、愛に身をゆだねることは新しく生まれ変わることだった。そんな核爆発のような想いと一体化して、愛を経験する男性は幸福なのだが、それほど激しい愛をもつ女性を妻にするのは難しい。究極の愛とは、忘却する愛のこと…ミンゲラはそこまで見据えていたと思う。

 

 

 

 


新国立劇場『セビリアの理髪師』

2020-02-11 18:00:13 | オペラ

現在上演中の新国『セビリアの理髪師』の初日(2/6)を観た。ロッシーニ・オペラ・フェスティバルで活躍する歌手たちが出演する文字通りのドリーム・キャスト公演で、ロジーナ脇園彩さん、アルマヴィーヴァ伯爵ルネ・バルベラ、バルトロのパオロ・ボルドーニャ、フィガロのフローリアン・センペイ、ドン・バジリオのマルコ・スポッティらが息ぴったりのアンサンブルを聴かせた。指揮はアントネッロ・アッレマンディ、オーケストラは東響。

 ヨーゼフ・E・ケップリンガー演出の回転するドールハウス(?)のプロダクションは何度か新国で観ているが、毎回面白く、特に今回は役者がよすぎたので最初から最後まで笑いっぱなしだった。オペラグラスを覗くと小道具までおかしい。ロジーナの思春期の女の子の部屋のようなインテリア、ヒトデのような形をした赤いチェア、バルトロの書斎(?)の救急箱みたいなものやスケルトンも笑える。あまりに笑いすぎて「自分は仕事をしているのか? それとも遊んでいるのだろうか?」と自問してしまった。稽古は見学していないが、準備の段階から素晴らしい空気感があったのだろう。それにしてもよく回る装置で、ソリストも合唱も運動神経がよくなければ務まらないと思った。子役のチビッコたちが可愛らしく、この演出では一番小さい子がたくさん演技をしなければならないが、今回もきびきびとよく動いていた。

 脇園彩さんは深くゆったりとした豊かな美声で、細かいアジリタもすべてど真ん中の音程に当てて歌っていた。オーラがイタリア人的で、曖昧さがなく、そこにいるだけで鮮やかな輪郭を見せてくれる。ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルでもこの栄えあるロジーナ役を歌われているが、聴衆を魅了する声で、歌わないときにも体力を温存したりせずエアーボクシングをしたりキックをしたりして「お転婆なロジーナ」を演じていた。ロジーナの後見人バルトロを演じたバリトンのパオロ・ボルドーニャがまた凄い役者で、日本語で便せんの枚数を数えたり、小刻みなギャグを絶妙のタイミングで醸し出したり、月並みではない面白さを連発した。バルトロは見栄えのしない老人役だが、実物のボルドーニャはお腹も出ておらず若々しい美男子で、若い頃のティム・カリー(『ロッキー・ホラー・ショウ』のフランケン博士)を思い出した。全員に尋常でない歌唱力を求めるオペラだが、今やこれくらいの演技力もなければ一流と呼ばれないのかも知れない。フランス人バリトンのセンペイが演じるフィガロも大活躍で、バルベラのアルマヴィーヴァ、スポッティのドン・バジリオも存在感があった。みんな軽々と歌っていて、一幕のぶっ続けの100分間が魔法のように過ぎていった。

ロッシーニは本当に変装が好きな作曲家だな、と思うオペラでもあった。アルマヴィーヴァはバルトロの邸宅に入り込むために酔った兵士(この演出では警官のような扮装)に変身したり、音楽教師ドン・バジリオの弟子になりすましたりするが、この「変身して忍び込む」という行為は、男性が修道女に化ける「オリー伯爵」でも過激な形で繰り返され、面白おかしいだけでなく何か「神業」的なものを感じさせる。ユピテルがダナエの寝室に侵入するため、金色の雨に変身したという神話を思い出すのだ。2013年にボローニャを訪れたとき、ロッシーニ博物館で見たロッシーニのかつらも思い出した。ステッキなどの日用品と共に、部分的に薄毛をかくすタイプの着け毛がさりげなく置いてあり、それはまさにロッシーニの抜け殻のようだった。毎朝、あのカツラをつけて満足気に鏡に微笑みかけていたロッシーニを想像した。

全員が意味のあるような、ないような内容を天才的な歌唱力で歌い、最後は神となって天上に吸い込まれていく…というのは『ランスへの旅』で毎回起こることだが、『セビリアの理髪師』も似た話に思えた。ストーリーの中に教訓的なものが感じられない。説教臭くもなければ、誰かに悲劇的な役割があるわけでもなく、ここまでドライなのは見事だ。『フィガロの結婚』でさえ、伯爵夫人(ロジーナの未来)には一抹の悲哀を感じずにはいられないが、『セビリアの理髪師』にはそういう陰影は感じられない。二幕で後見人のバルトロがいたぶられている間、この役に少しばかり同情してみようかとも思ったが、音楽がそのように出来ていないことに気づいた。非常に人間臭いものを扱っていながら、歌手たちは最終的に「神」になる。三角定規を置いたような装飾音をいくつもいくつも歌い、その結果全員が神話の世界の存在になっていく。あるいは、最初から神が人間に「変装」していたのかも知れない。ギャグの嵐を浴びせかけて神のいたずらを描くとは頭がくらくらする。ロッシーニは本当に人を食った作曲家だ。

アッレマンディの指揮は機知に富み、先日の『ラ・ボエーム』に続いて東響が絶妙で新鮮なサウンドを提供した。涙溢れる『ボエーム』を聴いたのはつい一週間前のことだったが、二作連続でレパートリー作品の有難さを実感した。勇敢でユーモラスな歌手たちの眩しい歌を浴びて、自分の人生はどこか間違っていたのではないかとも思った。「人生で恐れていたことは、実際にはほとんど起こらない。死に際に一番後悔するのは、思うように人生を生きなかったことだ」という誰かの言葉がずっと心にひっかかっていた。しかしそんなことさえも「出来ないことはやりたくないと思って当然だ。思うように生きられなくたって、人生は人生だ」と思う。悲観的な考えそのものが、無駄なのだ。ロッシーニの劇中の歌のタイトルを借りるなら「無駄な用心」だ。陽気な神々の歌に酔い、七色の照明の残像を瞼にチカチカさせながら、笑顔で劇場を後にした。

 

 


都響×フランソワ=グザヴィエ・ロト(2/2)

2020-02-04 06:05:44 | クラシック音楽

ロトと都響の待望の2度目の共演。2/2のサントリーホールでの一日目を聴いた。前半はラモー オペラ=バレ『優雅なインドの国々』組曲とルベル バレエ音楽『四大元素』が演奏され、都響が古楽オーケストラさながらの典雅なサウンドを奏でた。ラモーもルベルもリュリの次の時代の作曲家だが、鈴の着いた不思議な形の打楽器(マエストロ持ち込み?)を見ると、映画『王は踊る』の冒頭で指揮棒を自分の足に突き刺して死んでしまった哀れなリュリを思い出す。ルベル『四大元素』では、冒頭の不協和音に驚かされた。ロトはずっと指揮棒なしだったが、大袈裟な動きは全くなく、鋭く電撃的なサウンドも最小限の動作で引き出す。『優雅なインドの国々』はソプラノのパトリシア・プティボンやダニエル・ドゥ・ニースが登場するDVDを一時期よく見ていたので親しみがあったが、『四大元素』は見るのも聴くのも初めてで、シンプルな拍節の中に奇妙に反抗的な世界観が封じ込められているのが新鮮だった。いずれの曲も細密画のように細かい弦楽器が美しく、都響のうまさを改めて実感した。

後半のラヴェル『ダフニスとクロエ』は組曲版ではなくバレエ版の全曲。これを前回聴いたのは2017年のパリ・オペラ座バレエの来日公演だったが、ピットに入っていたのがロトの生徒であるマキシム・パスカルだった。この「名演」はミルピエの振付よりも大きな話題になっていた感があったが…弟子を育てた師匠の音楽は、果たして凄いものであった。名演続きの都響のコンサートの中でも、記念碑的な名演だった。

ロトを初めて生演奏で聴いたのは2015年の読響の定期で、そのときからこの指揮者が独特の空間感覚を持っているという印象を抱いていた。読響とはブーレーズ『ノタシオン』より第1.7.4.3.2番、ベルク ヴァイオリン協奏曲『ある天使の思い出に』、ハイドン『十字架上のキリストの7つの言葉』(管弦楽版)という非常に変わったプログラムだったが、ロトの創り出す音像は垂直的で、カテドラルの窓から差し込む光のような縦長の空間を思い起こさせた。これは水平に広がる空間に親しんできた日本人的な感覚とは異質の、非常に西洋的なものだ。そこに強烈に神聖なるものを感じた。以来、ロトの音楽に夢中になり、彼が創設したレ・シエクルや、当時音楽監督を務めていたバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団の録音を買い求めて聴いた。レ・シエクルのサン=サーンスのオルガン付き交響曲はオルガニストである父上のダニエル・ロトとの共演で、この録音でも見事な「カテドラル式の縦型の音像」を再体験したのだ。

都響との『ダフニスとクロエ』でも、巨大な空間を体験した。音楽という現象自体が空気の振動なので、空間的であるのは当たり前なのだが、「空気が作る一瞬の建築物」としてのオーケストラをこれほどまで鮮やかに感じたのは稀なことだった。各パートは最小限の音から最大限の音まで、信じがたい精巧さと繊細さで表現するが、すべての音が自然の擬音を超えたピュアで厳密な音だった。内側から膨らんだ音像は、半透明の巨大な構築物になり、ありとあらゆる色彩に変化した。それがすべて、外側から見た空間ではなく、内側から経験する「室内」(あるいは胎内)のような空間に感じられたのが興味深かった。

指揮をしているロトの姿は、時折修行僧のようにも見えた。陽気にも陰気にも見える不思議な人物で、現世では解消しがたい業を背負っている魂にも見える。音楽を聴けば、大変な努力家で、刻苦勉励を重ねて音楽を分析してきた人だということが伝わってくる。しかしながら、音楽は謹厳さよりも楽しさ、重々しさよりも軽やかさが勝っている。イタリア語のレッジェーロ、フランス語ではレジェ、空気のごとき軽やかさがあり、『四大元素』とつなげるなら「風」の要素を強く感じさせるのだ。ロトがフルート奏者出身であり、「呼吸」を操る楽器で修練を積んだ音楽家だからなのかも知れない。『ダフニスとクロエ』では、誰よりもフルートのソロ・パートが見事であったが、長い長い呼吸感を要するシークエンスではマエストロから特別のアドバイスがあったのではないか…と想像してしまった。奇跡のフルートだった。

ラヴェルは危険な作曲家である…と今年一番に聴いたエリアス・グランディの『ボレロ』から思っていたが、『ダフニス…』はさらに際どく、聴き手は現世的な意識から一瞬で神秘的な意識へシフトしてしまう。奔放で無秩序なのではなく、厳密な秩序があるから神秘的なのかも知れない。ロト都響の共演では、初めて「ラヴェルの宗教性」というものを感じた。ブルックナーと対極の方法で、ラヴェルは独自の宗教性を表現している。神はみずからの内側にある…という真実を、五線譜に書かれた墨で証明しているのだ。

コンサートマスター矢部達哉さん率いる都響は、ゲスト指揮者に対してつねにフェアで、指揮者が十分な準備をして来なければ「ありのままの姿」を鏡のように映し出しす。ロトの知性にも都響はニュートラルに反応し、それが巨大で貴重なものであったことを演奏で返した。マエストロもこのオーケストラのエレガンスには舌を巻いたのではないか。合唱は栗友会合唱団。出来れば翌日の上野でも聴きたかった。一期一会の奇跡的な名演だった。