小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ブリン・ターフェル 東京・春・音楽祭(3/28)

2019-03-30 22:19:43 | クラシック音楽
東京・春・音楽祭のワーグナー『さまよえるオランダ人』に出演するバス・バリトンのブリン・ターフェルが、オペラ公演の一週間前に東京文化会館の小ホールでリサイタルを開いた。オペラを聴き始めて以来、ずっと彼のファンだったが、CDや映像で見聞きするだけで生の姿を見るのは初めて。10数年ぶりの来日だという。当日の同じ時間に大ホールでムーティの『リゴレット』のレクチャーがあったせいか、本来ならチケット争奪戦も起こりかねないリサイタルに空席があった(直前にチケットを購入させていただいたお陰で、貴重な音楽を聴くことができた)。25歳以下の廉価チケットもあったようだが、これを聴き逃したファンはもう本当にオペラを聴きに行くしかない。

ステージに現れたターフェルは堂々として、大自然の緑と風を全身にまとっていた。丸めたハンカチをボールのようにピアノに向かって投げ、いたずら坊主のような顔をした。ピアニストのナターリア・カチュコヴァは細身で黒いスパンコールのドレスを着ており、ターフェルの大きな体が余計デラックスに見える。
アイアランドの「海への情熱」から、あのカリスマ的なバスバリトンが空間を埋め尽くし、全身が震えた。間抜けなことを言うようだが、録音より遥かにいいのだ。あの素晴らしい巨漢の中を息が嵐のように渦巻いて、世にも神秘的な歌声となって唇から放たれる。温かみがあって、なおかつ爽やかなのだ。「こんな見事な声は聴いたことがない…」と思った。アイアランドの3曲では、英詩のアクセントが特徴的で、ドイツ語のように子音が強調され、これはロンドン在住のジャーナリスト後藤菜穂子さんによるとウェールズ人話者に特有の発音なのだという。
続くクィルターも英国人作曲家だが、初めて聴く曲ばかり。ターフェルは歌声と同じ声で聴衆に感謝の言葉を述べ、厳しかった自分の声楽教師のエピソードなどを楽しげに語った。歌っても喋っても有難い声で舞い上がってしまう。本物のスターであり、素晴らしい役者だ。イベールの「4つのドン・キホーテの歌」では瀟洒なフランス語のディクションで客席を魅了し、たった4つの曲でドン・キホーテの出発から死までのストーリーを芝居付きで歌いつくした。
シューベルトも3曲。「シルヴィアに」を歌いだす前に「私はシルヴィアが好き!」と愛嬌たっぷりに語り「酒宴の歌」「セレナード」とともに披露。とにかくいくらでも声があるという雰囲気で、余力がすごい。微塵も枯れることのない大海原のような歌声が朗々とあふれ出し、その魔法に魅了されるばかり。同時に、歌曲の中にすべてのドラマがあることを感じさせ、口元をぴくっと動かしたり、目を大きく開いたり、眉をぴくつかせたりして歌に秘められた暗示を強調する。将来オペラ歌手になりたい学生たちは、このリサイタルを聴いておくべきだったと思う。一流の歌手が備えるべき「すべて」があった。

クィルターが再び歌われ、W.S.グウィン・ウィリアムス、オーウェン・ウィリアムズ、ブリテン、コープランドと続く。ターフェルのディスコグラフィーを見ると、オペラ以上に英国の伝承歌やフォークソングの録音が多いが、久々の来日の一日だけのリサイタルでも、彼が最も大切にしている英国の音楽を聴かせてくれたのだ。地元ウェールズでは自分の音楽祭(ファイノル・フェスティヴァル)を主催していることも紹介し、初夏のシーズンに始まる自分の音楽祭がいかに魅力的かを伝えた。後半のイギリスの歌からは、古い遺跡や地平線まで続くじゃがいも畑、兵隊たちの傷の痛みや、農民たちの不安や寒さや飢えが声から伝わってくるようだった。「なつかしきウェールズの小さな家」では歌手自身のルーツのへの愛、自然の中での祈り、神への感謝、人間の誇り高さ…が歌詞の節々から感じられた。
ターフェルは音楽家一家の出身ではなく、農家の生まれだということを読んだことがある。そこから声楽を学び、「一回のレッスンで新しい曲を4曲もマスターしなければならない」厳しい教師に付き、オペラデビューを果たして世界的スターになった。舞台にいるのは、ヴォータンでありヨカナーンであり、つねに自分自身でいるブリン・ターフェルで、圧倒的な声はブレないルーツへの愛があってこそのものだった。

アンコールは素晴らしかった。「この歌はたったふたつのフレーズからできているんだよ」とシューベルトの「晩礼節のためのための連祷」を歌い、次は威勢よく台詞を語り始めたかと思ったら、そのままミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の「もしも金持ちだったなら」を歌い始めた。まさかの三回目のアンコールでは「ようやくオペラを歌うよ!」とムソルグスキー「アウエルバッハの酒場でのメフィストフェレスの歌~蚤の歌」を熱唱…悪役の歌ばかりを集めたCD『BAD BOYS』の中にも収録されている曲だが、見事な「ピーーッッ」という口笛もターフェル自身のテクニックだったのだ…と惚れ惚れ。しかし、喝采の中でホイッスルを隠していたという種明かしもし、どこまでもお茶目なのだ。
超一流の芸術家であるとはこういうことなのか…休憩時間にCDが飛ぶように売れたので大サービスだったのか、終演後には予告されていなかったサイン会も行われ、そこでも全く疲れを見せずに百面相をしてみせた彼には、ただただ脱帽だった。






読響×カンブルラン 3月公演

2019-03-25 21:51:19 | クラシック音楽
シルヴァン・カンブルランの読響常任指揮者としての最終シーズンのラストとなったこの3月、都内の3つの会場で催された4つのコンサートすべてを聴いた。グランド・フィナーレの感傷にひたる余裕もないほど、どの公演もエキサイティングで、楽員全員が本気でカンブルランとの最後の仕事に打ちこんでいるのが伝わってきた。マエストロとの9年に感謝を示すかのように二人のコンマスが並び、どの会場でも一曲が終わるごとに熱い喝采が湧きおこった。イベールとドビュッシーのフランス・プロを聴いたのはもう20日ほど前のことになると思うと不思議な気分になるが、この一連の「カンブルラン・フィナーレ」(?)は初日から凄かった。
イベール「寄港地」では幻想的で透明感のあるハイセンスなサウンドがサントリーホールに広がり、エキゾティックな芳香がオーケストラから立ち上がった。弦がいっせいに目覚めるようになめらかな旋律を奏で、ハープが重なり、オケのすべての音が爆発的に鳴りだすくだりで鳥肌が立った。「カンブルランの音楽は、狂気に近い香りだ」と直感的に思った。天才調香師のように、音という香りのエレメンツを組み合わせて、永遠につながる一瞬を毎秒ごとに爆発させる。イベール「フルート協奏曲」ではサラ・ルヴィオンが魅惑的なソロを奏で、「真夏の夜の夢」妖精パックの踊りを思わせる面白くて蠱惑的なメロディを奏でた。カンブルランの背中も踊るような動きをしている。カンブルランが教えてくれたことのひとつが、この「音楽における軽やかさの価値」だった。軽薄さとも違う、深刻さや重々しさを超えて舞い上がっていく音楽の至上の美、幻のような透明な艶やかさ、音楽の中のシルフィードの存在を、カンブルランはいつも示していた。
ドビュッシー(ツェンダー編)「前奏曲集」(日本初演)は面白い編曲で、「帆」「パックの踊り」「風変りなラヴィーヌ将軍」「雪の上の足跡」「アナカプリの丘」の五曲が選ばれている。各パートの絶妙な連携が見事で、ユーモラスな木管の表情と黛敏郎「金閣寺」を思わせる(!?)ノスタルジックなオーケストレーションが特徴的だった。最後の最後まで面白い作品を見つけてくるカンブルランと、マエストロのやりたいことは何でも分かっている読響が微笑ましい。ところどころエキセントリックな編曲で、ドビュッシーの中のグロテスクな一面も感じさせた。
 この夜の最後に演奏された「交響詩『海』」は、カンブルラン&読響サウンドの極致ともいえる審美的な響きで、高遠で輝かしく、ミステリアスな暗示に満ちた壮麗な音の絵だった。カンブルラン・サウンドには神が宿っている…とこの9年の間に何度も思ったが、彼自身がどこか陽気な古代の神のような人である。雲の上が退屈で、人間とお祭り騒ぎをやりに天界から降りてきた人なのではないかと思ってしまうのだ。黄金の牛や牧神パーン、ヴィーナスの竪琴や雨に変身したジュピターがプラネタリウムの星座のようにホールの天井で回転しているようだった。神の世界は人間の世界とこんなにも近いのか…手を伸ばせば触れられる金色の雲の塊を感じた。2018年に演奏されたラヴェルの「ラ・ヴァルス」と同様の、ミステリアスな退廃感も同時に伝わってきた。現代作曲家ハースの奇妙な「静物」のあとに、あの伝説の「ラ・ヴァルス」は演奏されたのだが、カンブルランは何度も「ラ・ヴァルス」をリクエストされていながら、あの並びでなければ演奏しないと主張していたそうだ。
「海」があまりに凄い出来栄えだったのでぼうっとしてしまったが、あの夜のカンブルランは確かに涙ぐんでいた。あんな音楽を最後に読響と作ってしまったのだから無理はない。思わずもらい泣きしそうになってしまった。

シェーンベルク「グレの歌」は、3/14に一日だけサントリーホールで上演され、この日のために東京春祭でもおなじみのロバート・ディーン=スミス、レイチェル・ニコルズ、クラウディア・マーンケ、ディートリヒ・ヘンシェル、ユルゲン・ザッヒャーがソリストとして登板した。合唱は新国立劇場合唱団。『トリスタンとイゾルデ』『アッシジの聖フランチェスコ』で鍛え上げたカンブルランと読響の実力が発揮され、ディーン・スミスを筆頭に歌手たちの歌唱も卓越していた。中でも、出番は少ないが強烈な印象を残したのが森鳩役のクラウディア・マーンケで、読響との『トリスタン…』ではブランゲーネ役で出ていたらしいが、記憶から飛んでいた。空に五重の虹の橋がかかったような新国立劇場合唱団の演奏が素晴らしい。「ヴァイオリン協奏曲」のような不毛で自閉的な作品も書いていたシェーンベルクだが、もっとこのような曲を書いていれば好きになれたのに…と思う。物語は完全には把握できなかったが、美酒のようなオーケストラと歌手、合唱に酔い痴れた夜だった。ワーグナーオペラに似た余韻が残った。

3/19には紀尾井ホールで特別演奏会『果てなき音楽の旅』が行われ、こちらは後半のみ聴くことができた。紀尾井でカンブルラン…という最後に飛び切りフレッシュな組み合わせで、ここでなぜカンブルランが今までたくさんの現代音楽を演奏してきたかがわかったような気がした。現代音楽は、現代美術と同じようにフレームからはみ出していくアートで、そこには自由とユーモアがあり、未知の人間性の可能性がある。これまでも、カンブルランがやってくれるのなら現代音楽も聴きたいと思っていた。五臓六腑で反応できるものがあったからだ。同じ一音だけをオーケストラがリレーのようにつないでいくシェルシ『4つの小品』では、笑いが止まらなかった。耳鳴り、ホワイトノイズ、蚊がぶんぶん飛ぶ音をオケが必死で鳴らしている。譜面に正確にやっているのだろう。最後の音は、大河ドラマのように大げさに鳴るが、それもたったひとつの音なのだ。それよりもさらに面白いのがグリゼー『音響空間』から「バルシエル」で、18分あるこの曲の最後で、あらゆる楽器が「楽器の用途から外れる」落ち着きのない様々な音を鳴らし、指揮者は赤い布で汗をふき、スポットライトを浴びたシンバルは最後の一音を鳴らしそうな恰好をしたまま、鳴らさずに照明が落ちるのである。そうか…これがカンブルランがやりたかった「現代音楽」か!教養あるお客さんたちのスタンディング・オベーションもまた感動的だった。

カンブルランが読響のシェフ就任した2010年、私はまだそれほど多くの在京オケのコンサートを聴いておらず、オーケストラについて何か書くライターになるとも思っていなかった。読響の公演にほぼすべて出かけるようになったのも、全部きっかけはカンブルランである。2008年のパリ国立オペラの初来日公演(!)でカンブルランが振ったデュカスの『アリアーヌと青ひげ』に心酔し、あの素敵な指揮者が日本に頻繁にやってくるなんて、なんて嬉しいことだろうと思った。それからの9年は、一瞬のことだった。
中には、オケと難しい状態なのではないかと心配してしまう演奏会もあった。特に古楽的なアプローチでずんずん速度を増していくベートーヴェンや、きっちり四角四面に作っていくハイドン、あっさりしすぎのマーラー7番には違和感を覚えないこともなかった。しかし、それにもすべて意味があった。

最終公演は東京芸術劇場での二日間だったが、23日のほうを聴いた。二階席には高円宮妃久子殿下がお出ましになられた。
ベルリオーズ『歌劇〈ベアトリスとベネディクト序曲〉』て聴こえたのは、あの謹厳なハイドンの和声感だった。新しい境地に進んでも、またゼロに戻ってバレエの基礎ポジションから始めるようなカンブルランの頑なさ(?)が、この序曲で大輪の花になって咲いていたのだ。なぜベルリオーズの中にハイドンがいると思ってしまったのか…陽気なバレエ音楽のようにも聴こえるチャーミングな曲である。
ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』では、ピエール=ロラン・エマールが厳密で古典的な、完璧この上ないソロを弾いた。鍵盤を凝視するように見つめ、指揮台のカンブルランのほうもしっかりと見ながら哲学者のような面持ちで弾いていた。謹厳でクリアなタッチが、三楽章のロンド~アダージョでめくるめくロマンティックな響きに変化した。一瞬のことだが、妖艶な芳香があふれ出し、この曲の輪郭を保たせているものの影の力を見たような気がした。人間性もまた、陰と陽の表裏一体なのだ。
ベルリオーズ『幻想交響曲』は壮大な「オケとの総おさらい」で、9年間のさまざまな瞬間が脳裏に蘇った。カンブルランと読響の公演はトータルで9割近く聴いてきたと思うが、「もっと果てしなく、もっと大きく」発展してきたこの組み合わせには、最初から決められた到達点などなかった。リハーサルを見学するチャンスは一度もなかったが、演奏会で聞くマエストロのやり方は生真面目で、さらに高く遠くへと飛ぶために、何度も何度も「いろは」からのおさらいをやってきたはずなのだ。
ベルリオーズは『トロイア人』のような狂気じみた巨大なオペラを書き、現実より虚構の素晴らしさに魅了され、女優だった妻の「普通の姿」に失望した。『幻想交響曲』はそんな作曲家が書いたファンタジーの結晶で、現世で聴くことができる優美と恐怖が詰まっている。「舞踏会」は今まで聴いたどの演奏よりも美しく、「断頭台への行進」と「ワルプルギスの夜の夢」は恐ろしかった。
 カーテンコールはやまず、オケが引けた後もマエストロは二回も呼び出された。「今日は少年みたいな顔をしているな…」毎回、走っては指揮台にぴょんと乗り、勢いよく降り始める姿を見るのが楽しみだった。私は本当にカンブランの大ファンだったのだ。時間とは一体何だろう…9年間は春の嵐のようだった。