東京・春・音楽祭のワーグナー『さまよえるオランダ人』に出演するバス・バリトンのブリン・ターフェルが、オペラ公演の一週間前に東京文化会館の小ホールでリサイタルを開いた。オペラを聴き始めて以来、ずっと彼のファンだったが、CDや映像で見聞きするだけで生の姿を見るのは初めて。10数年ぶりの来日だという。当日の同じ時間に大ホールでムーティの『リゴレット』のレクチャーがあったせいか、本来ならチケット争奪戦も起こりかねないリサイタルに空席があった(直前にチケットを購入させていただいたお陰で、貴重な音楽を聴くことができた)。25歳以下の廉価チケットもあったようだが、これを聴き逃したファンはもう本当にオペラを聴きに行くしかない。
ステージに現れたターフェルは堂々として、大自然の緑と風を全身にまとっていた。丸めたハンカチをボールのようにピアノに向かって投げ、いたずら坊主のような顔をした。ピアニストのナターリア・カチュコヴァは細身で黒いスパンコールのドレスを着ており、ターフェルの大きな体が余計デラックスに見える。
アイアランドの「海への情熱」から、あのカリスマ的なバスバリトンが空間を埋め尽くし、全身が震えた。間抜けなことを言うようだが、録音より遥かにいいのだ。あの素晴らしい巨漢の中を息が嵐のように渦巻いて、世にも神秘的な歌声となって唇から放たれる。温かみがあって、なおかつ爽やかなのだ。「こんな見事な声は聴いたことがない…」と思った。アイアランドの3曲では、英詩のアクセントが特徴的で、ドイツ語のように子音が強調され、これはロンドン在住のジャーナリスト後藤菜穂子さんによるとウェールズ人話者に特有の発音なのだという。
続くクィルターも英国人作曲家だが、初めて聴く曲ばかり。ターフェルは歌声と同じ声で聴衆に感謝の言葉を述べ、厳しかった自分の声楽教師のエピソードなどを楽しげに語った。歌っても喋っても有難い声で舞い上がってしまう。本物のスターであり、素晴らしい役者だ。イベールの「4つのドン・キホーテの歌」では瀟洒なフランス語のディクションで客席を魅了し、たった4つの曲でドン・キホーテの出発から死までのストーリーを芝居付きで歌いつくした。
シューベルトも3曲。「シルヴィアに」を歌いだす前に「私はシルヴィアが好き!」と愛嬌たっぷりに語り「酒宴の歌」「セレナード」とともに披露。とにかくいくらでも声があるという雰囲気で、余力がすごい。微塵も枯れることのない大海原のような歌声が朗々とあふれ出し、その魔法に魅了されるばかり。同時に、歌曲の中にすべてのドラマがあることを感じさせ、口元をぴくっと動かしたり、目を大きく開いたり、眉をぴくつかせたりして歌に秘められた暗示を強調する。将来オペラ歌手になりたい学生たちは、このリサイタルを聴いておくべきだったと思う。一流の歌手が備えるべき「すべて」があった。
クィルターが再び歌われ、W.S.グウィン・ウィリアムス、オーウェン・ウィリアムズ、ブリテン、コープランドと続く。ターフェルのディスコグラフィーを見ると、オペラ以上に英国の伝承歌やフォークソングの録音が多いが、久々の来日の一日だけのリサイタルでも、彼が最も大切にしている英国の音楽を聴かせてくれたのだ。地元ウェールズでは自分の音楽祭(ファイノル・フェスティヴァル)を主催していることも紹介し、初夏のシーズンに始まる自分の音楽祭がいかに魅力的かを伝えた。後半のイギリスの歌からは、古い遺跡や地平線まで続くじゃがいも畑、兵隊たちの傷の痛みや、農民たちの不安や寒さや飢えが声から伝わってくるようだった。「なつかしきウェールズの小さな家」では歌手自身のルーツのへの愛、自然の中での祈り、神への感謝、人間の誇り高さ…が歌詞の節々から感じられた。
ターフェルは音楽家一家の出身ではなく、農家の生まれだということを読んだことがある。そこから声楽を学び、「一回のレッスンで新しい曲を4曲もマスターしなければならない」厳しい教師に付き、オペラデビューを果たして世界的スターになった。舞台にいるのは、ヴォータンでありヨカナーンであり、つねに自分自身でいるブリン・ターフェルで、圧倒的な声はブレないルーツへの愛があってこそのものだった。
アンコールは素晴らしかった。「この歌はたったふたつのフレーズからできているんだよ」とシューベルトの「晩礼節のためのための連祷」を歌い、次は威勢よく台詞を語り始めたかと思ったら、そのままミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の「もしも金持ちだったなら」を歌い始めた。まさかの三回目のアンコールでは「ようやくオペラを歌うよ!」とムソルグスキー「アウエルバッハの酒場でのメフィストフェレスの歌~蚤の歌」を熱唱…悪役の歌ばかりを集めたCD『BAD BOYS』の中にも収録されている曲だが、見事な「ピーーッッ」という口笛もターフェル自身のテクニックだったのだ…と惚れ惚れ。しかし、喝采の中でホイッスルを隠していたという種明かしもし、どこまでもお茶目なのだ。
超一流の芸術家であるとはこういうことなのか…休憩時間にCDが飛ぶように売れたので大サービスだったのか、終演後には予告されていなかったサイン会も行われ、そこでも全く疲れを見せずに百面相をしてみせた彼には、ただただ脱帽だった。
ステージに現れたターフェルは堂々として、大自然の緑と風を全身にまとっていた。丸めたハンカチをボールのようにピアノに向かって投げ、いたずら坊主のような顔をした。ピアニストのナターリア・カチュコヴァは細身で黒いスパンコールのドレスを着ており、ターフェルの大きな体が余計デラックスに見える。
アイアランドの「海への情熱」から、あのカリスマ的なバスバリトンが空間を埋め尽くし、全身が震えた。間抜けなことを言うようだが、録音より遥かにいいのだ。あの素晴らしい巨漢の中を息が嵐のように渦巻いて、世にも神秘的な歌声となって唇から放たれる。温かみがあって、なおかつ爽やかなのだ。「こんな見事な声は聴いたことがない…」と思った。アイアランドの3曲では、英詩のアクセントが特徴的で、ドイツ語のように子音が強調され、これはロンドン在住のジャーナリスト後藤菜穂子さんによるとウェールズ人話者に特有の発音なのだという。
続くクィルターも英国人作曲家だが、初めて聴く曲ばかり。ターフェルは歌声と同じ声で聴衆に感謝の言葉を述べ、厳しかった自分の声楽教師のエピソードなどを楽しげに語った。歌っても喋っても有難い声で舞い上がってしまう。本物のスターであり、素晴らしい役者だ。イベールの「4つのドン・キホーテの歌」では瀟洒なフランス語のディクションで客席を魅了し、たった4つの曲でドン・キホーテの出発から死までのストーリーを芝居付きで歌いつくした。
シューベルトも3曲。「シルヴィアに」を歌いだす前に「私はシルヴィアが好き!」と愛嬌たっぷりに語り「酒宴の歌」「セレナード」とともに披露。とにかくいくらでも声があるという雰囲気で、余力がすごい。微塵も枯れることのない大海原のような歌声が朗々とあふれ出し、その魔法に魅了されるばかり。同時に、歌曲の中にすべてのドラマがあることを感じさせ、口元をぴくっと動かしたり、目を大きく開いたり、眉をぴくつかせたりして歌に秘められた暗示を強調する。将来オペラ歌手になりたい学生たちは、このリサイタルを聴いておくべきだったと思う。一流の歌手が備えるべき「すべて」があった。
クィルターが再び歌われ、W.S.グウィン・ウィリアムス、オーウェン・ウィリアムズ、ブリテン、コープランドと続く。ターフェルのディスコグラフィーを見ると、オペラ以上に英国の伝承歌やフォークソングの録音が多いが、久々の来日の一日だけのリサイタルでも、彼が最も大切にしている英国の音楽を聴かせてくれたのだ。地元ウェールズでは自分の音楽祭(ファイノル・フェスティヴァル)を主催していることも紹介し、初夏のシーズンに始まる自分の音楽祭がいかに魅力的かを伝えた。後半のイギリスの歌からは、古い遺跡や地平線まで続くじゃがいも畑、兵隊たちの傷の痛みや、農民たちの不安や寒さや飢えが声から伝わってくるようだった。「なつかしきウェールズの小さな家」では歌手自身のルーツのへの愛、自然の中での祈り、神への感謝、人間の誇り高さ…が歌詞の節々から感じられた。
ターフェルは音楽家一家の出身ではなく、農家の生まれだということを読んだことがある。そこから声楽を学び、「一回のレッスンで新しい曲を4曲もマスターしなければならない」厳しい教師に付き、オペラデビューを果たして世界的スターになった。舞台にいるのは、ヴォータンでありヨカナーンであり、つねに自分自身でいるブリン・ターフェルで、圧倒的な声はブレないルーツへの愛があってこそのものだった。
アンコールは素晴らしかった。「この歌はたったふたつのフレーズからできているんだよ」とシューベルトの「晩礼節のためのための連祷」を歌い、次は威勢よく台詞を語り始めたかと思ったら、そのままミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の「もしも金持ちだったなら」を歌い始めた。まさかの三回目のアンコールでは「ようやくオペラを歌うよ!」とムソルグスキー「アウエルバッハの酒場でのメフィストフェレスの歌~蚤の歌」を熱唱…悪役の歌ばかりを集めたCD『BAD BOYS』の中にも収録されている曲だが、見事な「ピーーッッ」という口笛もターフェル自身のテクニックだったのだ…と惚れ惚れ。しかし、喝采の中でホイッスルを隠していたという種明かしもし、どこまでもお茶目なのだ。
超一流の芸術家であるとはこういうことなのか…休憩時間にCDが飛ぶように売れたので大サービスだったのか、終演後には予告されていなかったサイン会も行われ、そこでも全く疲れを見せずに百面相をしてみせた彼には、ただただ脱帽だった。